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故「清野達氏」の足跡を辿って

上富良野町本町五丁目 中村有秀 昭和十二年十一月二十八日生(七十五歳)

はじめに
 平成九年、上富良野町開基百年事業の一つとして「かみふらの開拓記念館」が、当町の開拓の鍬が下ろされた草分地区に建設されました。
 開拓記念館は、大正十五年の十勝岳爆発時の村長であった『吉田貞次郎氏』旧家を一部移設されたのでした。
 その時、吉田家及び次女ていさんと結婚された夫の清野達氏の数々の遺品・書籍等があり、町として必要な品々は開拓記念館・郷土館・公民館に収蔵され、適時に展示されておりました。
 町としての収蔵後、真鍋美勝氏(西町在住)と筆者が清野ていさんに呼ばれて、残りの物品・書籍等の処分を依頼されました。
 その中で、清野達氏の蔵書の多いのに驚くと共に、その蔵書の一冊、一冊に購入年月日・購入場所が達筆で几帳面に表紙裏に端書[はしがき]されていました。

  掲載省略:写真「長男彬氏の結婚式に上京した折の清野夫妻(昭和44年5月7日)」

 書籍の端書から職業軍人として、今は中国である北支・南支、ロシア領土である樺太、南方の仏印地域の戦地にと最前線を転戦された地が判ります。この度、吉田貞次郎元村長の次女である「清野てい」さんのご逝去に、郷土をさぐる誌第三十号に吉田雅明氏(札幌市)と冨田満子さん(上富良野町)からの寄稿がありましたので、清野ていさんと共に支えあって来た「清野達氏」の七十一歳の生涯の足跡を辿って記することにしました。
一、新潟県北蒲原郡赤谷村にて生れ育つ
 清野達氏は、明治四十四年五月七日に新潟県北蒲原郡赤谷大字上赤谷にて、父・勘左ヱ門氏、母・シンさんの三男二女の次男として生れる。
 大正十五年三月、赤谷尋常小学校高等科を卒業し昭和六年三月、新潟県立新発田[しばた]中学校を卒業。
  〈赤谷村〉
 新潟県の北部、新発田市南東部の地区で、昭和三十年に新発田市と編入合併。
 新発田市内を西流する加治川上流の谷と段丘面にあるかつての鉱山、宿場集落であった。
 鉱山は天明年間に雲母を産出、明治二十年代は三菱が経営。明治三十二年から官営八幡製鉄の直営第一号の鉱山となり赤鉄鉱を産出した。
 昭和十四年から日鉄工業が経営し、第二次世界大戦時には粗鉱乾量一〇万トン以上、鉄鉱石を一〇万トン弱を産出していたが、昭和四十三年に閉山された。
 上赤谷は会津へ行く赤谷街道(会津街道)の宿場町であって、その景観を残している。山神社の赤谷どんづき裸祭りは二月中旬に行われる。
二、陸軍士官学校予科に入校
 新潟県立新発田中学校を卒業した「清野達氏」は、皇国日本の護持のため、将来は将校となる若い青年としての修養に励み、基礎的学術科を身につけて、立派な指揮官となる訓練を受けたく、陸軍士官学校予科の召集試験の難関を突破し、昭和六年四月一日入校す。
 昭和八年三月十八日、陸軍士官学校予科を卒業し、士官候補生として歩兵第二十五聨隊(札幌)に配属。
 昭和八年三月二十六日に歩兵上等兵、昭和八年五月二十六日に歩兵伍長、昭和八年七月二十六日に歩兵軍曹に昇進。
  〈陸軍士官学校予科〉
 兵科士官候補生となる生徒を教育する学校で生徒は陸軍幼年学校を卒業した者と、召集試験に合格した者で、毎年一回入校させ、修学期間は二年であった。
 生徒の教育は、訓練・学科・技術・術科教育であり、その教育綱領は教育総監が定めた。
三、陸軍士官学校本科に入学
 昭和八年三月十八日、陸軍士官学校予科を卒業し、歩兵第二十五連隊に士官候補生として配属されたが、五ヶ月後の昭和八年九月一日に陸軍士官学校本科生徒として入学。
 昭和十年六月二十九日、陸軍士官学校本科を第四十七期生(歩兵一八九名・騎兵二一名・野砲兵三八名・重砲兵二三名・工兵二四名・輜重兵一三名)の合計三〇二名と共に卒業し、歩兵第二十五聨隊(札幌)に見習士官として復帰す。
 陸軍士官学校本科第四十七期の同期には、満州皇帝の愛新覚羅溥儀の弟「愛新覚羅溥傑」が、自衛隊富士学校第九代校長山口立陸将(昭和四十四〜四十六年)がおられると、生前に長男・彬さんに語っていた。
 昭和十年七月六日に歩兵曹長、昭和十年九月二十七日に歩兵少尉を任ぜられ、補歩兵第二十五聨隊付となる。
  〈陸軍士官学校〉
 陸軍兵科将校となる士官候補生を教育する学校で、修学期間は約二年。
本校の教育は、訓育と学科および術科教育に分かれ、特に将校としての徳操を養い、識能を高めることが重視された。
四、陸軍戸山学校に甲種学生として入校
 昭和十二年二月一日、陸軍戸山学校に甲種学生として入校し、昭和十二年八月二日に同校を卒業。
 昭和十二年八月二日、陸軍歩兵中尉に任ぜられる。
  〈陸軍戸山学校〉
 明治六年、旧尾張候の下屋敷跡に兵学寮戸山出張所を開設し、上・下士官の訓練が始まりで、翌年二月に「陸軍戸山学校」と改称、陸軍省直隷となる。その後、時代に即応した変遷があった。
 大正十四年四月の陸軍戸山学校令により、本校は教育総監に隷し、学生に体操・剣術・ラッパ譜等訓練をなし、かつ各教育課目の調査・研究・試験をする所と定められた。
 学生は甲種学生(各兵科の中・少尉・下士官)が体操・剣術等の訓練、乙種学生(各隊のラッパ長)はラッパ譜の訓練、軍楽生徒は軍楽部を志願する者から選抜し教育した。
五、北支那派遣の動員下命あり
 昭和十二年八月十四日、第七師団に北支那派遣の動員下命があり、清野中尉は第二十七聨隊(旭川)野戦瓦斯[ガス]第六小隊長に命ぜられる。
 昭和十二年九月五日、北支派遣のため神戸港を出帆す。昭和十二年九月十日、北支の新河港に上陸し、昭和十二年九月十三日に豊台着。
 昭和十二年十一月中旬より、中支那方面軍の南京攻略作戦により、第七師団派遣隊は昭和十二年十二月、中支派遣のため大連港を出帆し、上海に上陸す。昭和十二年十二月、南京攻略作戦に参加。昭和十三年二月、蚌埠付近の作戦参加。
 昭和十三年五月、徐州会戦に参加。昭和十三年八月、漢口攻略戦に参加と、最前線の戦闘が続いた。昭和十四年八月一日、陸軍歩兵太尉に任ぜられる。昭和十四年八月、漠湘作戦に参加。

  掲載省略:図「書籍の端書」
六、歩兵第二十五聨隊「チチハル」
 昭和十四年十二月一日、歩兵第二十五聨隊第一機関銃中隊長を被仰。北支国境警備のため、昭和十四年十二月十八日、武昌を出発、昭和十四年十二月二十日、チチハル着。
 昭和十五年一月十一日、国境警備のためハンダガイに到着し、緊迫下での国境警備の任を担う。
 昭和十五年七月二十七日、国境警備の交替のためハンダガイを出発し、同年七月二十九日にチチハルに帰還す。
 昭和十五年九月十五日、勅命第五八〇号により陸軍大尉に任ぜられる。
七、歩兵第二十五聨隊の帰還命令
 満州派遣第七師団への帰還命令により、清野大尉が所属する歩兵第二十五聨隊は、昭和十五年九月十八日にチチハルを出発し、同年九月二十一日に大連港を出帆。
 昭和十五年十月二日に小樽港に上陸し、同日札幌の原隊に帰還した。
 昭和十五年十月十日、部隊編成改変により、清野大尉は歩兵第二十五聨隊第八中隊長を命ぜられる。

  掲載省略:地図「満州全図」
八、「吉田てい」さんと結婚
 昭和十二年九月から昭和十五年九月までの三年間、北支・中支の最前線での激しい戦闘から帰還直後に、吉田ていさんとの結婚が待っていました。
 「かみふらの女性史」(平成十年三月発刊)に、清野ていさんが次の様に記しています。
 『昭和十五年十一月、清野達と結婚し、夫は陸軍士官学校を卒業した軍人だったので樺太に行き、二年半程暮していたが転勤が決まり、昭和十七年八月に上富良野に帰って来た。』
 結婚した時、清野達氏は二十九歳、ていさんは二十一歳でした。
 昭和十五年十月二日、札幌に帰還し、同年十一月に結婚、直後の同年十一月十二日には、所属する歩兵第二十五聨隊が樺太の国境警備に小樽港を出帆した。
 新婚の清野夫妻にとっては、本当に慌ただしい日々であったことでしょう。
九、樺太・上敷香に移駐
 第七師団の本隊が満州から帰還後、歩兵第二十八聨隊(旭川)を樺太に転属させる予定であったが、部隊編成改変実施により七師団(旭川)に三個連隊残置した方が、その後の指揮統率上の観点から、満州から帰還早々の札幌歩兵第二十五聨隊が、樺太混成旅団の指揮下に入ることになった。
 昭和十五年十一月十二日、小樽港を出帆した歩兵第二十五聨隊は、同年十一月十四日に樺太の大泊港に上陸し、同年十一月十五日に上敷香に移駐した。

  掲載省略:地図「樺太全図」
  掲載省略:写真「歩兵第25聨隊が上敷香兵営で軍旗祭(昭和15年11月16日)」
十、歩兵第二十五聨隊・日露の国境警備に
 上敷香のある敷香町(現在はポロナイスク)は、樺太(サハリン)の中部にあり、オホーツク海の多来加湾に面する港町で、昭和十六年度の統計では、戸数五七八〇戸、人口は三〇、三一〇人となっていた。
 上敷香は敷香町中心から二〇娃の地にあって、気屯・古屯を通じて日露国境までは八〇娃の距離である。
 日露国境は、日露戦争終了後に日本とロシアとの間で、北緯五十度の線を国境と定めた。
 両国協同により、森林帯を五〇m幅で伐採し一線を画し、要所ごとに国境碑として標識石が建てられた。日本側には菊の紋章、ロシア側は双頭の鷲が刻まれている。(このレプリカが、旭川北鎮館に展示されています。
  〈国境をめぐる事件〉
 女優・岡田嘉子、樺太の国境を越えロシアへ昭和十三年一月三日、当時の舞台と映画の人気女優であった「岡田嘉子」と、舞台演出家の「杉本良吉」が樺太の国境を突破し、ソ連領内に駆け込んだ事件。
 昭和十二年十二月二十七日、上野発青森行の列車に乗り、十二月末には富良野の清水旅館に宿泊(続富良野こぼれ話より)、十二月三十一日に国境に近い敷香に到着。昭和十三年一月三日、午後四時頃に警官の案内で国境視察に向い、突然に馬橇から飛び降り、二人は夕暮れのソ連領内に達した。
 清野達大尉が、昭和十六年十月一日に歩兵第二十五聨隊、聨隊副官に任ぜられる。
 清野達氏の蔵書の中で、表紙の裏に端書きされた文で、昭和十六年・昭和十七年の一部を紹介しますが、新婚時の思いと共に南方戦線の戦況が記されている。
  ○武者小路實篤著 「人間雑話」
  ○ニコール・スミス著 「ビルマ・ロード」
  ○福本義亮著 「吉田松陰之最後」

  掲載省略:写真「陸軍大尉時代の清野達氏」
十一、清野家・吉田家に二重の喜び
 昭和十五年十一月に結婚された清野夫妻に、昭和十七年三月二十二日、長男・彬さんが樺太上敷香町あきらで誕生され、清野家・吉田家は大きな喜びとなる。
 昭和十七年四月三十日、ていさんの父・吉田貞次郎氏が、第二十一回衆議院議員総選挙で当選され、上富良野村の初めての国会議員の誕生でした。吉田貞次郎氏にとって、孫・彬さんの誕生と、自身の国会議員当選は二重の喜びであった。
十二、清野大尉、フィリピン島へ転属
 昭和十七年八月一日、フィリピン島にあるサマール島カトバロガソに駐留の、歩兵第六十二聨隊第三大隊長に被仰される。
 昭和十七年八月七日、国境と厳寒の地での一年八ヶ月の隊務、その間、新婚生活と長男・彬さんの誕生と思い出のある地、樺太上敷香を出発す。
 フィリピンの南方戦線が緊迫する戦地に、幼子を伴っての赴任は無理と考え、妻・ていさん、長男・彬さんは上富良野の父母の許にお願いし、単身赴任した。
 昭和十七年八月十九日に神戸港を出帆し、昭和十七年九月五日にマニラ港に上陸す。昭和十七年十二月一日、陸軍少佐に任ぜられる。昭和十七年十二月五日、仏印転進のためマニラ港出帆。
 昭和十七年十二月十一日、仏印サイゴン港上陸。
 昭和十八年二月、北部仏印、ヴメンエン警備。
 昭和十八年五月、ハノイ警備。
 昭和十九年一月、千葉県下志津陸軍飛行学校付に命を受け、昭和十九年一月十五日、ハノイ出発。同年
二月六日にサイゴン出発し台北を経由して、同年二月八日に下志津飛行学校に到着す。

  掲載省略:写真「フィリピン赴任前に彬さん5ヶ月(昭和17年8月)」
  掲載省略:写真「フィリピン赴任前に吉田貞次郎家の皆様と」
  掲載省略:地図「太平洋戦争の戦場」
十三、第三十五教育飛行隊長に被仰
 昭和十九年八月七日、ジャワ島にある第三十五教育飛行隊長に被仰され、同年八月三十一日に福岡県雁の巣飛行場を出発。同年九月一日、ジャワ島ジャカルタに着き、第三十五教育飛行隊長の任務に。
 昭和二十年一月二十二日、シンガポールの第五十五航空師団司令部兵器部部員として被仰され、昭和二十年二月三日、飛行機でジャカルタ出発し、同日にシンガポール(昭南)に着く。南方戦線が日一日と戦況悪化の中で、日本国の防衛線死守のため懸命に奮闘していた。
十四、戦争終結と復員
 昭和二十年八月十五日正午、戦争終結の詔書が放送され、戦争終結し終戦となる。
 清野少佐は、シンガポール(昭南)にて終戦を迎え、昭和二十年十一月二十一日にシンガポール港を出帆、同日にレンバン島に着き、連合国軍の収容所に収容される。
 昭和二十一年五月二十三日、日本へ帰国のためレンバン島を出帆し、同年五月三十一日広島県大竹港に上陸し故国の土を踏む。
十五、復員後の清野達氏は
 昭和二十一年六月一日復員。当時、家族は上富良野に在住のため、先ず妻のていさんに無事に帰国の第一報を送り、上富良野へ帰る途中に新潟県赤谷村に眠る両親の墓前にお参りして帰国報告し、兄妹に元気な顔を見せた。昭和二十一年六月十二日に上富良野に無事帰郷し、父母、妻ていさん、四歳に成長された長男・彬さんと喜びの再会をされた。
 その後は、父母、ていさんの指導を受けながら馴れない農業に従事されていた。
 清野達氏が残された多くの蔵書の中に、土壌検査と肥料関係及び気象統計等の書物とメモがあり、清野氏の学究的な人柄が感じられると共に、農業に打ち込む姿勢が見られました。
十六、防衛庁技官として勤務
 昭和二十五年六月二十五日、朝鮮戦争が勃発し、マッカーサーは吉田首相宛書簡で、国家警察予備隊(七万五千人)の創設の指令があり、同年八月十日に警察予備隊令が交付され、即日に施行された。昭和二十六年三月一日、警察予備隊の旧軍人に対する特別募集が開始された。
 その時、清野達氏の周囲の人々や、陸軍士官学校の先輩、同期、後輩から、警察予備隊への勧めがあったが、心中に期する事があってか入隊を断っていた。
 昭和三十一年十月一日、防衛庁技官として、北海道地区補給所近文台弾薬支処に勤務し、技術科長となる。
その後、上富良野駐屯地多田弾薬支処技術科長を経て、昭和四十年一月一日、上富良野駐屯地業務隊管理科長となり、昭和四十六年三月三十一日に防衛庁技官としての十五年六ヶ月間の勤務を終えて退職される。
十七、陸士出身の上級幹部との出会い
 陸軍士官学校第四十七期(歩兵)として昭和十年六月に卒業。昭和二十年八月十五日終戦時には陸軍少佐として、シンガポール在の第五十五航空師団司令部兵器部部員であった。
 技官として技術科長、管理科長を経た十四年六ヶ月間、自衛隊上級幹部が来庁された際に、陸軍士官学校卒業の先輩、同期、後輩の関係で、親しみを込めて面会に訪れ、旧交を暖め歓談されたことが、当時の同僚が語ってくれました。清野氏は旧軍時代の戦地での思いや、戦友や陸軍士官学校同窓の消息等について話し合いされた事でしょう。
 陸軍士官学校・陸軍大学出身者が、自衛隊の歴代主要幹部を占めて、今日の自衛隊の大きな力になっていました。歴代主要幹部の関係分は次の通りです。
○北部方面総監(陸将)
 第一代  中野敏夫氏(東京帝国大学)
 第二代  岸本重一氏(陸士34期・陸大46期)
 第三代  松谷誠氏(陸士35期・陸大43期)
 第四代  高山信武氏(陸士39期・陸大47期)
 第五代  宮崎舜市氏(陸士40期・陸大51期)
 第六代  塚本政登士氏(陸士42期・陸大53期)
 第七代  廣瀬榮一氏(陸士43期・陸大52期)
 第八代  橋本正勝氏(陸士45期・陸大53期)
 第九代  齋藤春義氏(陸士48期・陸大56期)
 第十代  舞 敏方氏(陸士50期・陸大57期)

◇富士学校長(陸将)
 第一代  杉田一次氏(陸士37期・陸大44期)
 第二代  新宮陽太氏(陸士38期・陸大47期)
 第三代  宮崎舜市氏(陸士40期・陸大51期)
 第四代  安崎 操氏(陸士40期・陸大50期)
 第五代  廣瀬榮一氏(陸士43期・陸大52期)
 第六代  塚本政登士氏(陸士42期・陸大53期)
 第七代  菅谷義夫氏(陸士43期・陸大52期)
 第八代  碇井準三氏(陸士44期・陸大54期)
 第九代  山口立氏(陸士47期・陸大58期)
   ※山口 立学校長(在任 昭和44年〜昭和46年)は、清野 達氏と
    陸士47期の同期の仲であった。
 第十代 田畑良一氏(陸士48期・陸大57期)

◇自衛隊上富良野駐屯地司令(一佐)
 第一代  鳴川勝氏(陸士41期)
 第二代  小林敬四郎氏(海兵58期)
 第三代  中村正人氏(陸士46期)
 第四代  佐賀勝郎氏(陸士準47期)
 第五代  高杉恭自氏(陸士49期・陸大58期)
 第六代  曲 寿郎氏(陸士50期・陸大58期)
 第七代  市来陸紀氏(陸士51期・陸大60期)
 第八代  西依嘉彦氏(陸士51期)
 第九代  田中 潔氏(陸士55期)
 第十代  大松和三郎氏(陸士57期)
 第十一代 佐藤久美氏(陸士58期)
 第十二代 宗雪美敏氏(陸士59期)
 第十三代 一色敏郎氏(陸航士60期)
 第十四代 矢野龍男氏(9U)(陸士65期相当)
 第十五代 森野安弘氏(防大1期)
十八、読書家「清野達氏」の書籍
 清野達氏経歴書の趣味の欄に「特になし、強いてあげれば駄本を読みあさること位」と記してありますが、筆者が平成九年に清野ていさんから処分を依頼された書籍は相当数ありました。
 清野達氏は、本の一冊一冊に購入年月日、購入地、所感が表紙の裏面に端書[はしがき]として記載されているのに驚くと共に、清野達氏の几帳面さが伺えられました。
 戦前の書籍で端書が記載されているものを、次の様に表にしましたので、ご一読ください。
籍一覧表 (発行年月日欄○の中で、数字は発行印刷番で、「初」は初判本です)
番号 書籍名 著者 出版社 発行年月 書籍への端書内容
1 日本精神研究 大川周明 文録社 昭7・10・20�A 昭和八年冬季休暇の為帰省の折清野 達
2 建武中興の本義 平泉 登 至文堂 昭9・9・18�B 昭和九年十二月歩兵第二十五聯隊 清野 達
3 陸軍戸山学校剣術教育/参考 編纂陸軍戸山学校 川流堂 昭12・1・12 歩兵第二十五聯隊清野少尉
4 佐久間象山 寺門咲平 大峰書房 昭5・4・20�A 昭和十一年三月清野 達
5 國史概観 黒板勝美 吉川弘文館 昭11・5・25初 昭和十一年七月札幌にて清野 達
6 人と自然 山本實彦 改造社 昭12・5・20初 昭和十二年五月二十三日東京にて  清野
7 晩來抄 川田 順 第一書房 昭12・9・20初 盟友 福田中尉より贈らる昭和十三年三月二十二日安徽省鳳陽にて清野 達
8 赤色ルート踏破記 スゥェン・ヘディン高山洋吉訳 育生社 昭14・4・20�A 昭和十四年六月十四日漠口にて清野 達
9 新 蒙古風土記 フォーバス高山洋吉訳 育生社 昭13・10・20初 昭和十四年六月二十一日漠口にて  清野 達
10 蘭州・西安・寧夏支那西北辺彊視察記 長江池田孝訳 朝日新聞社 昭14・1・13�A 昭和十四年七月七日於漠口  清野 達
11 黄塵 上田 廣 改造社 昭13・11・7初 昭和十四年七月八目事変二周年記念日  清野 達
12 支那及び支那人 村上知行 中央公論社 昭13・6・1初 昭和十四年七月二十一日漠口にて  清野 達
13 支那風土記 米内山庸夫 改造社 昭14・7・18初 二五九九年八月六日ホンコンにて清野 達
14 幾山川 若山牧水 第一書房 昭14・3・18�B 二五九九年十月二十六日  清野 達
15 花と兵隊 火野葦平 改造社 昭14・8・11初 昭和十四年十月二十六日漠口陥落一周年記念日に於 漠口清野 達
16 父・母の書 伊福部敬子 教材社 昭14・11・20初 昭和十四年十二月二十三日於チチハル
17 蒙古風俗誌 FA・ラルソン高山洋吉訳 改造社 昭14・11・16初 昭和十四年十二月二十三日於 チチハル
18 歌集波濤 斉藤 瀏 人文書院 昭14・12・1�D 昭和十五年三月二日清野
19 印度旅行 モォリス・デコブラ原 百代訳 山雅房 昭15・1・20初 昭和十五年五月六日於チチハル  清野 達
20 随筆・きもの 長谷川時雨 実業之日本社 昭15・1・20�J 昭和十五年五月六日於チチハル  清野 達
21 生々流轉 岡中かの子 改造社 昭15・5・9�O 昭和十五年七月二十九日於 チチハル  清野 達
22 巡禮 島崎藤村 岩波書房 昭15・3・20�A 昭和十五年七月二十九日前線警備を終えて帰途の折に 清野
23 悪童記 斉藤 瀏 三省堂 昭15・6・10初 昭和十五年八月七日於 チチハル  清野 達
24 親鸞 地の巻 吉川英治 大日本雄辯会講談社 昭15・2・10�P 昭和十五年九月十二日於 チチハル  清野
25 歌集 深見草 岡本かの子 改造社 昭15・9・28初 昭和十六年一月八日樺太上敷香  清野 達
26 肉弾は歌ふ 斎藤 瀏 八雲書林 昭14・12・25初 昭和十六年二月九日週番終へて てい子と共に町に出る上敷香 太陽堂にて 清野
27 吉野朝の悲歌 川田 順 第一書房 昭15・12・5初 昭和十六年二月二十一日市瀬大尉陸軍省医務局附内命あり上敷香官舎にて  清野 達
28 獄中の記 斎藤 瀏 東京堂 昭16・3・12 昭和十六年参月拾七日上敷香より出札の折  清野 達
29 短編集 鮨 岡本かの子 改造社 昭16・3・14初 昭和十六年四月十日上敷香にて  清野
30 随筆集 多感 船橋聖一 矢貴書店 昭16・3・21初 昭和十六年五月四日てい子と共に町に出て、片田舎なるいとあやしげはる映画館を見ての帰り、てい子泥にはまり泣きべそをかく
31 ノモンハン戦車殲滅戦記ノロ高地 草葉 榮 鱒書房 昭16・2・15�@ 昭和十六年五月十七日 土曜一日の仕事を柊へての帰るとき上敷香 太陽堂にて  清野
32 人間雑話 武者小路實篤 青年書房 昭16・4・25�B 昭和十六年六月四日朧月夜の影踏みて、てい子と散歩に出てし折上敷香にて  清野
33 櫻史 山田孝雄 櫻書房 昭16・5・9初 昭和十六年六月一日朔北の地 上敷香にて 清野
34 肇國と建武中興の聖栄 山田孝雄 白水社 昭15・10・6初 石橋君より上敷香  清野 達
35 美しき思慕 千家照子 人生社 昭16・9・20初 昭和十六年霜月八日長尾夫人と町に出でし折てい子 太陽堂より  てい子
36 散華抄 岡本かの子 大東出版社 昭16・11・1�A 昭和十六年十一月十五日國境の町 上敷香にて 清野
37 ビルマ・ロード ニコールスミス木川正男訳 文明社 昭16・11・5初 昭和十七年一月二十二日シンガポールの運命正に旦夕に迫るの日、南方赫々の戦果に思いをはせつつ樺太上敷香にて  清野
38 吉田松陰の最期 福本義亮 誠文堂新光社 昭16・3・15�E 皇紀二六〇二年一月二十二日 老英帝国東亜侵略の牙城星港の運命正に危殆に瀕する戦果をききつつ  樺太 上敷香にて
39 恩郷記 高田保馬 文芸春秋社 昭17・1・20�A 昭和十七年三月三日吹雪吹き荒ぶ三月の節句に樺太 上敷香にて
40 霜蟹 高濱虚子 新聾閣 昭17・4・18初 昭和十七年五月二十五日樺太 上敷香にて
41 わが人生と宗教 吉田絃二郎 第一書房 昭17・1・20�O 昭和十七年六月二十三日大隊長学生として千葉歩兵学校に分遣中夜の町を散歩せし折
42 古都の乙女 西條八十 同盟出版社 昭17・6・1初 昭和十八年十月二十九日富良野にて求む
43 満蒙行政瑣談 金井章次 創元社 昭18・4・30初 昭和十八年十二月八日宣戦記念の日 於 ハノイ
44 偶然録 川田 順 湯川弘文社 昭17・11・10初 昭和十九年二月十八日彿印より帰還時、東京−北海道の旅を終え南下の途次 青森驛にて
45 戦争指導の實際 酒井鎬次 改造社 昭18・12・20 昭和十九年二月二十日帰省終了し南下途次 新発田にて 清野
 清野氏が戦時中に読まれた多数の書籍の中で、端書がある四十五冊を掲載しましたが、その中に初版版が二十五冊もあるのに驚きました。
 漢口・チチハル・樺太の上敷香の地で、どの様な方法で出版情報を得て、日本の書籍がその地で販売されていたのか非常に興味を感じました戦後の清野達氏の読書の傾向を見ると、特に多いのは「戦史関係」でした。
 清野氏が関わった戦地として、満州事変史の「第二師団のチチハル」、第二次世界大戦史の「マレー作戦」「沖縄作戦」の各々の頁に朱書と添書があり、当時の作戦への思いがあったことが伺えます。
 子息・彬さんも帰省の時に、読書の好きな父に贈られた本が数冊あり、それにも端書がありました。
十九、退職後は「晴耕雨読」の日々
 昭和四十六年三月三十一日、防衛庁を退職後は、今まで妻のていさんに田圃の耕作や収穫等を全て任していたが、退職後は四季折々の十勝岳を仰ぎ見ながら、妻と共に農業を営み続けていました。
 清野達氏にとっては、まさに「晴耕雨読」の日々でした。又、暇を見ては子息・彬さん夫婦やお孫さんの成長と顔を見に横浜に行くのも、清野達氏・ていさんの老後の大きな楽しみでした。
 「かみふらの女性史」に、ていさんが寄稿された「母なる大地に生きて」の文中に、『平穏な生活の日々であったが、夫が糖尿病を患い旭川医大に二度の入退院を繰り返しながら療養を続けていたが、昭和五十七年に七十一歳で夫は亡くなった。』と記されていました。
 清野達氏が、防衛庁退職後に書かれた経歴書の「健康状態」の欄に次の様に記載されています。
 ― 往年の体力、その片鱗もなく目下、糖尿病の治療中 ―
糖尿病で旭川医大に入院中も、清野氏の読書欲は衰えることもなく、ていさんから筆者に戴いた書籍の中に次の本がありました。

○米内光政(上・下) 阿川弘之著
   昭和年7月日旭川医大病院
○札幌放浪記 更科源藏著
   昭和年8月23日 旭川医大退院の日

 弥生さんは、ていさんの妹で元衆議院副議長・安井吉典氏夫人です。

○娘と私のアホ旅行 佐藤愛子著
   昭和56年2月12日 旭川医大病院

 昭和十五年十一月、ていさんと結婚された清野達氏は、糖尿病の発病で二回の旭川医大病院入院での療養と家族の方の手厚い看護にも拘らず、昭和五十七年三月五日、享年七十一歳で生涯を閉じられました。
 清野達氏とていさんの結婚生活は四十二年間であり、ご夫婦で故・吉田貞次郎家を守り続けてこられたことに心より感謝とお礼を申し上げます

◇故「清野達氏」の生涯を辿って
取材にご協力をいただいた方々

 清野 彬氏  横浜市(清野達氏長男)
 自衛隊上富良野駐屯地広報班
 佐藤 清氏  上富良野町基地調整室長
 大森 明氏  上富良野駐屯地業務隊OB
 蛇岩克己氏  多田弾薬支処OB
 塩飽 弘氏  多田弾薬支処OB
 林 憲二氏  多田弾薬支処OB
 真鍋美勝氏  清野家と親戚
参考文献
 かみふらの女性史 上富良野町女性史をつくる会
 悲憤の樺太 国書刊行会
 旭川第七師団 示村貞夫著
 一億人の昭和史 朝日新聞社
 陸軍士官学校(協力・偕行社) 山崎正男編
 日本陸海軍辞典 新人物往来社
 第二師団のチチハル攻略 陸戦史研究普及会編
 新潟県史 新潟県


機関誌      郷土をさぐる(第30号)
2013年3月31日印刷      2013年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一