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かみふの小母様・「清野てい」さんに感謝をこめて

札幌市  吉田 雅明

「清野てい」さんの出自
 「清野てい」さんは、生涯上富良野を愛し、生涯上富良野に住むことにこだわった女性です。一級村制の初代村長、「吉田貞次郎」の二女として大正八年に上富良野草分で誕生しました。
 筆者は、吉田貞次郎の弟の孫で昭和二十四年上富良野町で出生しましたが、三歳のとき家族と共に他市へ転居しました。私は、「清野てい」さんを『かみふの小母さん』と言って親しんできましたが、平成二十四年三月二十七日に九十四歳でご逝去されましたので、これまでの多くの活躍を讃えるために投稿させて頂きました。
 「清野てい」さんの実家吉田家は平安時代中期には宇多源氏の佐々木氏に属し、今の滋賀県で「吉田」姓を名乗った士族であり、鎌倉時代初期には伊勢の北畠氏の家臣となったのち、室町時代中期の信長の伊勢侵攻のあとは今の津市にある真宗高田派本山専修寺の寺侍となり、江戸時代後期まで津藩の藩士をしていたと伝わり、廃藩後は三重県津市で米穀商を営んでいました。
 吉田家の上富良野入植は、明治三十三年で「清野てい」さんの祖父の吉田家十一代「貞吉」で、妻と四男三女の九人で三重団体に加わり、農業をしながら戸長役場の総代や二級村々議と創生小学校学務委員などの役職に付いたが、気候温暖な地から厳しい環境での生活と、日頃の不慣れな開墾作業のため入植して七年目の五十六歳で病没しました。
「清野てい」さんの父・「吉田貞次郎」の略歴
 父、「吉田貞次郎」は明治十八年三重県で出生し十六歳で入植し、二十歳のとき第七師団に志願入隊し中尉となり帰郷したあと、二十二歳の時に家督を継いだ。村では帝国在郷軍人会分会長や草分土功組合長および上富良野農会長等を歴任し、大正八年(三十五歳)から昭和十年(五十一歳)まで一級村制の村長を勤めた。
 この上富良野において忘れられない出来事は、大正の十勝岳泥流災害であり、その復旧と復興の陣頭指揮を執ったのが、「清野てい」さんの父「吉田貞次郎」です。
筆者・吉田雅明
 私の祖父「吉之輔」は十五歳のときに入植し、魚菜市場や商業組合の役員を務めつつ、大正六年から現在のJAの所で、丸三・吉田商店という雑貨商と後に駅前近くで洋裁学校を営んでいました。
 祖父は、先祖が門跡寺院に勤めていた事を誇りとして、自らも菩提寺専誠寺の檀家総代を務め、二度にわたる本堂の焼失に於いては、再建の陣頭に立っていたと聞いております。
 しかし、戦時下の物資不足により商店を閉じ洋裁学校は残し、妻と子息夫婦と孫四人を連れ昭和二十六年漁業の町紋別市に転居し、水産加工業を営みましたが漁獲量の減少や天候不順が続き五年ほどで廃業し、祖父は念願だった先祖の地を再び踏むことも無く七十歳で亡くなり、父も紋別市の職員をし四人の子供が独立したのを見極め昭和五十二年に六十六歳で逝去しました。
 四人兄弟の末子の私は、昭和二十四年に西三線北三〇号で出生しましたが、上富良野での記憶は殆んど無く、母の母乳が出ないため自宅で飼っていた山羊の乳で育ったと、祖母から聞いたことを憶えています。昭和四十二年に紋別市を離れ東京で夜間大学に通い、電機メーカーに就職し平成十九年の定年まで主に札幌で勤務していました。
 定年後は、我家に伝わる過去帳や系図を基に、三重県・滋賀県・上富良野町を訪ね先祖の足跡を辿り、その功績を書に残すことを趣味としていましたが、その著作途中に於いて先祖に関する多くの情報を頂いていた、「清野てい」小母様を亡くしたことは痛恨の極みであります。

掲載省略:写真「大正中期から昭和初期の丸三・吉田商店(前列左より父・祖父母)」
「清野てい」さんの泥流災害体験談
 大正十五年五月二十四日、この日尋常小学校二年で八歳の「てい」は、雨のために運動会の練習が中止となり自宅に居た。山の方からゴーゴーと轟音がするので母が様子を見に出たところ、線路の向う側から倒壊した家や絡まりあった倒木が泥の海となって流れてくるのを発見し、『大変だー!』と皆に向かって叫んだ。それを聴いた祖母が外を見て『逃げよー!』と叫んだので、みんな大慌てで、「てい」は家に来ていた左官屋さんに背負われ、妹は母が背負い兄は左官職人さんと田圃の中を山のほうへ逃げたのだが、六十七歳の祖母は足が弱いので一人走りやすい畦道を逃げて行ったが、『覚悟せー!』と言う叫び声をあげたのを最後にその姿を確認することは出来なかったという。
 祖母を見失った後、足を泥に何度も取られながら逃げ回っていると暫らくして泥流が治まったので、倒壊を免れた空家に這い上がり落着きを取り戻したが、「てい」と妹は体の震えが止まらず、その晩は母に抱かれながら一夜を過ごしたという。翌日は救助隊が助けに来てくれ、子供は下駄箱に乗せられ二時間かけて線路まで運ばれ、救助の方が泥で汚れた服を着替えさせてくれたので、皆で市街地に住んでいる伯父の家に避難したという。
 この叔父と言うのが筆者の祖父で、現在の農協のあるところで雑貨商を営んでいました。
「清野てい」さんの父「貞次郎」の泥流災害復旧
 上富良野村長の「吉田貞次郎」は、母の弔いもそこそこにして泥流が治まった直後から、役場の職員や災害を免れた村民と一体となり、不眠不休で怪我人の救助や復旧を成遂げました。
 復旧の後は復興である。一面泥土の海と化した田を、先祖が拓いた畑を元の肥沃な美田にすべく、全村民の合意を得て関係機関を説得し、昭和二年四月に復興の方針や予算が決定したので、苦難の大事業が開始されたのである。苦節十年と世に言うが、鉱毒の除去や客土や施肥を何度も何度も繰り返すことにより、一反当り三俵の収穫が得られるようになり事業開始から八年目の、昭和八年には見事に復興の日を見たのであります。
 上富良野町史には、上富良野は「田中常次郎」によって開拓され、「吉田貞次郎」によって復興されたのであると夫々の偉業が記されています。
 昭和十年に「吉田貞次郎」は村長を退き、各種団体の要職を歴任し、昭和十七年には衆議院議員に当選し文部委員を務めたが、敗戦後の公職追放により個人吉田貞次郎となり、帰郷後は自宅で農作業などしながら自伝の書などを記そうとしていたが病に侵され、病床にて辞世の漢詩を詠み、昭和二十三年六十三歳で永眠しました。
「清野てい」さんの決意
 「清野てい」さんは父が村長を退いた昭和十年には十六歳になっていました。
 女学校卒業後は実家で習い事や農業を手伝って暮していたが、昭和十五年二十二歳のとき「清野達」さんと結婚しました。
 ご主人は陸軍士官学校出身の少佐で昭和十七年赴任先の樺太で長男を出生したあと帰郷したが太平洋戦争で戦地に行き、戦後暫らく抑留されたが昭和二十二年に復員し、上富良野で親子水入らずの生活を取り戻しました。
 父を亡くしたとき「清野てい」さんは三十歳。長兄は大手乳業会社へ、次兄は農業関連団体へ、長姉は教員の元へ嫁し、次妹は国会議員の元に嫁したので、草分の実家には実母一人が残されてしまい、これを機に「清野てい」さんは夫と子息の四人で実家で暮すことに決めたのです。
 この当時の生活は、山羊・豚・鶏・緬羊などの家畜を飼い七歳の子息が山羊の乳を搾ったり、鶏の世話をしたりと手伝い、三十九歳の夫は豚を育てたり緬羊の毛を刈ったり、田畠でイモ・大豆・トウキビなどの野菜を作ってくれたという。
 「てい」さんと母は、家事と農業をしながら緬羊の毛を紡ぎ家族のセーターや靴下を編んだり、大豆を煮ては納豆を作ったりしていた。当時の食事は、イモ・粟・?や麦入りのご飯で、暫らくして白米が食べられるようになった時の味は、今でも忘れられないと子息が当誌二十七号で当時を語っています。
戦後の貧しい生活であったが、子息が中学校に入った昭和二十三年頃には夫が陸上自衛隊の技官として入隊したので、今までよりは安定した生活が得られた。
 昭和三十五年子息は東京の大学へ進学しそのまま独立定住し、実母は高齢になったため東京の長兄の元へ転居した。「清野てい」さんは、定年退職した夫と二人っきりの生活となったが、その夫も昭和五十七年に七十一歳で亡くなり、奇しくも同年に実母も九十二歳で永眠しました。
暫らく平穏な生活を送っていたが、親愛なる母と夫を立て続けに亡くした「清野てい」さんは当時を思い出し、移りゆく時の流れに無常を感じたという。この年「清野てい」さん六十三歳でした。
 上富良野で一人になってしまい、東京に住む子息から同居を勧められるが、祖父が拓き父が復興した過去三十年にわたる粒々辛苦の結晶であるこの地を去るには余りにも忍び難く、生涯をかけこの地を守り、終の棲家とする事を密かに心に誓ったものと思われる。この事からして「清野てい」さんが一生上富良野に住むことを決意し、一生上富良野に住むことに拘ったことが理解できるのです。

  掲載省略:写真「「清野てい」さんが住んでいた実家跡」

「清野てい」さんの奉仕活動
 第二の人生を踏み切った「清野てい」さんは、昼は畑に出て農作物を育て、出来た作物は便り代わりに、各地で活躍する子息や親族に送り、家に居ては趣味の読書や教養番組の聴取を欠かず、まさに晴耕雨読の生活を送っていたのです。
 このような日常を過ごしていると「清野てい」さんの元へ、泥流災害の体験を聞きに市内の小中学校の生徒が課外授業の一環として訪れたり、三重県津市から大学の教授や地元の郷土史研究家が訪れたり、豪雨災害に遭った山口県からは工学研究者が訪れたり、さらに三浦綾子記念文学館のツアーの一行が訪ねてきたりしたので、自宅や町の開拓記念館で何度も講話や講演をしたという。
 上富良野で忘れられないものに小説「泥流地帯」がありますが、この小説を書くに至った経緯は、苦しい開拓と貧困を乗り越えた人々が突然の泥流災害に曹禺するも、復興を信じ懸命に勝ち抜いたことに感銘した三浦綾子さんの夫でクリスチャンの光世さんが、言い出したことに始まるのです。三浦綾子さんは小説を書くにあたり、何度も「清野てい」さん宅を訪れ納得がいくまで取材されたとの事です。
 平成元年「清野てい」さん七十歳。
 平成三年にNHKが防災の日に、【日本列島地下診断】と言う番組を放映したなかで、「清野てい」さんは出演し、十勝岳が大爆発したあと数十分で大泥流が押しよせてきた恐ろしさを語っています。
 平成八年にはTVHで【大正泥流と闘った男】という番組が放映され、日高悟郎の語りで吉田貞次郎の泥流災害から復興までの苦悩をドキュメンタリーふうに創られた番組で、「清野てい」さんはじめ兄(尚典)や妹夫婦(弥生・安井吉典)が出演し、泥流災害の恐怖や父親の苦労を語っています。
 同じこの年、上富良野町開基百年記念事業の一環として発行された、「かみふらの女性史」という本には、自己の生い立ちや半生を振り返る文を寄稿し、執筆活動にも参加されています。
 平成十八年「清野てい」さん八十七歳。この年の五月二十四日の北海道新聞の社会面に、『惨禍の記憶を伝え』と言う記事に泥流災害を語り続けてきた功労者として「清野てい」さんが載ったり、平成二十年十月二十六日の北海道新聞には、『大正泥流の恐怖語る』という記事にも「清野てい」さんが語部として生きてこられたことが掲載されています。
 このように、講話や講演活動と小説執筆への助言や新聞・テレビ報道への出演そして、執筆をとおして上富良野をアピールするための奉仕活動は枚挙に暇がなかったと言っても過言ではないでしょう。

  掲載省略:新聞記事スクラップ「講演をする「清野てい」さん(道新より)」
「清野てい」さんの晩年
 平成二十三年十月「清野てい」さん九十三歳の時、三浦綾子記念文学館が東北大震災の被災地の皆様に本をお送りするため、多くの方から古書を募りその中の小説「泥流地帯」の表紙に「清野てい」さんはサインを依頼されたので、体調の優れないなか施設の自室でサインしているのを拝見しましたが、それが「清野てい」さんの最後の活動になってしまいました。
 「清野てい」さんは一人っきりになられて三十一年間、先祖が残した有形・無形の遺産を心の糧とし日常を送るなか、泥流災害の記憶を地元の子供達や研究者に伝えたり、小説執筆のためのお手伝いをしたり、テレビ番組に出演したり、新聞記事にその活動が掲載されたりしてきましたが、これらの全ての活動は、先祖が拓いた上富良野を愛するがための奉仕活動で、災害を克服した先祖の歴史を風化させないためと、多くの人に上富良野を知って頂くために残りの人生をかけてきたのだと確信いたします。
 このような努力が報われて、「清野てい」さんの実家が開拓記念館として保存されたり、三重団体の功績が評価され、三重県津市と友好都市の契約がなされたものと思います。
 「清野てい」さんが亡くなられる三年ほど前に筆者は吉田家のご先祖のお墓参りに同行させて頂きましたが、十勝岳連峰が一望できる絶好の日和で、その景色を眺めながら「清野てい」さんは、「私は結局この景色が忘れられないので、一生ここに住んだのかもしれませんね」と仰った言葉が印象的でした。
感 謝
 「清野てい」さん。六十三歳から親族の居なくなった上富良野で、上富良野を親と慕い、上富良野を子と思い、たった一人で自身が経験した歴史を語り継いできた方がこの街に居たことを、憶えていて頂きたいために投稿させて頂きました。上富良野町内の各所には、開拓の功績を讃える頌徳碑や十勝岳爆発犠牲者の慰霊碑そして災害復興記念碑などがあり、それらの事象は町史などに詳細に記録されていますので、語り継ぐ事を生涯の責務としてこられた「清野てい」さんのご奉仕に深謝するとともにその意志を継ぎ、上富良野町の皆様のお力をお借りし、今後微力ではありますが大切にお守りすることができればと考えております。
 以上「清野てい」さんの数々の功績を記してきましたが、高齢の「清野てい」さんがここまで活動してこられたのは、三重団体の方々をはじめ上富良野町の有志の皆様や役場と施設の皆様さらに菩提寺専誠寺のご協力の賜物と、親族として心より深く感謝する次第であります。

  掲載省略:写真「「清野てい」さんと筆者」
  掲載省略:「吉田家家系図」

機関誌      郷土をさぐる(第30号)
2013年3月31日印刷      2013年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一