郷土をさぐる会トップページ     第27号目次

ふらの原野開拓の歩み(その四)

上富良野町錦町 野尻巳知雄
  昭和十二年三月三十一日生(七十三歳)

一、初代長官岩村通俊の方針
 前号では「国有未開地貸付台帳」を基に、ふらの原野への入植状況について書いたが、貸付申請した大資本家のほとんどは書類による申請のみで、実際にはふらの原野に足を踏み入れることはなかった。実際の開拓当時の状況についてどうだったのだろうか、そのことについて、他の資料を参考に解明してみたいと思う。
 北海道への移住が盛んになってきたのは、明治十九年に岩村通俊が北海道庁の初代長官に赴任し、「植民地選定法」(明治十八年三月公布)による政策を実行したことから始まった。
 演説では、『全道殖民に適すべき土地を選定し、その原野、山沢の幅員、土性地質の大略、樹木の積量、草木の種類、河川の深浅、魚類の有無、飲料水の良否、山河の向背、寒温の常変、水陸運輸の便否等に至まで、精工検定調査し……因って、調査員を派遣し、五ヵ年を期して、全道植民地を予定するを待つべし。』と、その大綱を示した。植民地選定の調査により、北海道内陸部の現況が明らかになったことから、移住民が入植地を選定しやすくなり、開拓の鍬は沿岸部から次第に内陸部へと移っていったのである。

  掲載省略 写真 岩村通俊男爵肖像御料局長時代(岩村家蔵)

 次に特筆すべきは「北海道土地払下規則」を改正したことである。
 旧規則では、未開地を希望者に売却すると同時に土地の所有権も移し、開墾はその後一定期間内に着手することとなっており、期間内に着手しない場合は、返納を命ずることとなっていた。しかし、すでに所有権を移した土地は、開墾に着手しなくても、返納させることは事実上困難なことであり、中には一部分を開墾しただけで着手の口実を作り、大部分の土地は放置され、地価の値上がりを待つ者もおり、未開地の開拓は一向に進まなかった。
 新しい規則では土地の即売を廃止して開墾希望者が土地を選定し、願書に起業方法書、土地略図をそえて、十万坪までは(明治二十七年以降は三万坪まで)郡区役所へ、十万坪以上は(明治二十七年以降は三万坪以上)郡区役所を経て道庁に直接出願すると、郡区役所でこれを審査し、方法確実と認めた者は実地を踏査して決定し、その期間無償貸与して完成を見た上で売払い所有権を与えることとした。
 旭川近郊の町村や美瑛の小野農場、旭農場(小林農場)などはこの方法で入植した者が多いが、ふらの原野でこの方法により入植した痕跡は見当たらないのは、明治二十六年に旭川から美瑛川支流の辺別川まで付けられた仮設道路が、その後中断されたままになっていて、ふらの原野までの交通の便が非常に悪かったことが原因と思われる。
二、区画測設の基準
 明治二十二年に、奈良県十津川難民を受け入れるために行われた植民地の区画測量は、植民地の選定と平行して全道で実施されることとなり、明治二十九年五月二十九日に「殖民地撰定区画施設規程」が設けられて、この事業が秩序あるものとなった。その概要をみると、
 [1] 区画の区域は一村を単位として行われ、原野を単位としない。
 [2] 一村当たり三百戸及至五百戸の農家を考えた。
 [3] 境界は自然の山川、予定道路線によるものとした。
 [4] 区画に当たっては、直角方法(碁盤の目区画)を用い、基線道路か予定の道路にしたがった。
 [5] 区画は大・中・小の三種とし、小区画は間口百間、奥行五百五十間、地籍一万五千坪とし、これを一戸当たりの面積とした。中区画は小区画六区画で、方三百間×三百間、地籍九万坪。大区画は中区画九区画で、方九百間×九百間、地籍八十一万坪である。また、区画はすべて道路に面していなければならないとした。
 [6] 公の道路は中区画毎に設け、周囲に四間または六間の道路敷地をとり、幹線道路・排水道路は八間、県道は十二間、国道は十二間の敷地をとった。
 [7] 区画地の位置は何線何号何番地として表し、線の北または東を奇数とし、南または西を偶数とした。
 [8] 区画設定には予定存置を設けた。
  ア 道路または排水敷地幅四間乃至十間。
  イ 保存林、風防林、風致林、水源涵養林に区別し、風防林は少なくとも千八百間毎に適切に存置する。
  ウ 市街地は三百戸乃至千戸分を取り、一戸分間口六間奥行十四間、八十四坪とする。
  エ 官公署及共有地は一万五千坪以内。
  オ 学校・病院敷地は学校三千坪、病院千五百坪。
  カ 神社・寺院敷地は各千坪。
  キ 公園遊園地敷地は坪数適宜。
  ク 墓地・火葬場は一村一箇所一万五千坪以内外。
  ケ 薪炭材及草刈場は一戸分に付き三千坪以内で一万二千坪まで。
  コ 県道は左右に六間、排水・並木敷地は徐地する。

  掲載省略 地図 存置された風防林と4間・6間・8間と道路幅を規定した区画図
  掲載省略 地図 市街地予定存置図

 区画測量が終わると、次のような標木が立てられた。
[1] 起点線直径一尺長さ四尺の標識を地中に埋設した。
[2] 路線及大区画見出標幅三寸〜四寸、長さ八尺で地下二尺埋設。
[3] 小区画及道路排水幅標幅二寸五分長さ一尺五寸、地下一尺埋設。
[4] 風防林ほか徐地境界標幅三寸五分長さ五尺、地下二尺埋設。
[5] 中心標五寸角長さ五尺、地下二尺埋設。
[6] 区画番地標幅長、長さ五尺、地下二尺埋設。

 これらの方法によって二万五千分の一の殖民地区画図が刊行されて、土地処分が行われ、開拓が進行して行った。
 区画測量の標識については、「かみふ物語」(川田金七談昭五十四)で実際に目視していることを話している。
三、風防林と道路の位置
 これらの規程をふらの原野区画図と照合すると、風防林は北十五号と十六号の中間と、十九号と二十号の中間、二十三号と二十四号の中間、二十八号と二十九号の中間に幅百間をとり、西の山際から東の山際まで夫々東西に設けている。南北では東二線と三線の中間に北二号から北二十四号の中間まで設けており、東六線と七線の中間は南三線から北二十一号の山際までの区間に作られ、現上富良野町区域内でも二百町歩に達している。
道路を見てみると、東西線では六間幅の道路は、北十五号、十八号、二十一号、二十四号、二十七号、三十号道路で、残り道路北十六号、十七号、十九号、二十号、二十二号、二十三号、二十五号、二十六号、二十八号、二十九号、三十一号道路は四間幅となっている。
一方の南北線では、幹線道路の基線道路と九線道路は、幅員が八間幅となっており、六間道路は東六線道路、三線道路、三線道路で、あとの東一線道路、二線、四線、五線、七線、八線、一線、二線、四線道路は四間道路となっている。また、市街地から東中までの幹線道路は、県道「十勝道路」として計画されていたので、幅員は十二間となっている。

  掲載省略 地図 沼地であった未測量地域
四、沼地の未測量と基点位置
 また、「フラヌ原野区画図その一」を見ると、図面では線引きがされているが「未測区画地」として残されている箇所がある。
 その位置は、東三線北十八号から東九線北二十三号までの区間で、面積は中区画二十一区画約一百八十九万坪である。この場所はデボツナイ川とホロベツナイ川が流れ込んでいた沼地で、排水をしないと
 人が入れないような状態であったため、測量が困難な地帯であったことが起因しているようである。地図には、測量の基点も記されているが、その場所は東八線道路と北十八号道路の接点でなおかつ斜線道路との接点の四箇所に、測設基点の印が付けられている。フラヌ原野全体の測設基点は、明治二十年に柳本通義が行ったフラヌ原野殖民地選定事業のときに、フラノ川を仮基点として基線道路、東〇号道路を決めているが、東中に基点を設けたことは、斜線道路が十勝道路の幹線道路であったことがその要因と思われる。
五、上富良野駅は三十号付近に計画されていた
 フラヌ原野の区画測量の原図は現在、北海道開拓記念館に保管されている。
その原図には、未開地、公共用存置地、駅予定地などはオレンジ色が施されて色分けで区分されている。また、番地、小区画の面積などは朱色で書き込まれており、付記欄は其の後の変更や水車用水路などの許可事項が、朱色または墨で書かれている。
 原図「フラヌ原野区画図」四葉附鉄道線変更図の付記欄には、鉄道線の駅の位置変更による地籍の変化について、備考欄に「藍線内ハ線路変更ト共ニ区画地籍ニ移動ヲ生セルヲ以ッテ状関係部分ニ対スル原図ハ別ニ調整シアリ依テ地籍ニ関スル調ベハ勿論線路ニ関スル事モ仝図ニ依ルヲ要ス」と書かれており、駅付近の市街地予定区域を朱色で描かれている。

  掲載省略 地図 北30号附近に予定されていた上富良野駅と市街存置予定図

 このことからも、最初の鉄道計画では、三重団体が入植した草分地区に駅の計画があったことが、明らかになっているが、今までこのような計画が分からなかったのは、印刷された区画図だけに頼って原図を見なかったことにあったのではないかと思われるが、これは色分けされた原図と、付記欄に小さく書かれた記録を見ないと分からないことで、原図の存在を確認できなかったためと考えられる。いづれにしても、上富良野駅が草分地区に計画されていたことは、驚きといわざるを得ない事実である。
六、区画測量の監督に内田瀞が復職
 ふらの原野の区画測量事業は、明治二十七年に道庁の植民地選定事業の監督官を非免となっていた内田瀞が、二十九年四月に(前監督官の柳本通義が台湾府に転勤となったため)復職を求められ、測量事業の監督官を務めることとなった。しかし、実際の測量には殖民課技師小野政衛、島敷恵、永田安太郎、平尾嘉太郎、村岡逓雄、佐藤誠之助によって行われた。(測量助手には技師一人につき六人のアイヌ夫が雇われている。)

掲載省略 写真 内田瀞(明治38年3月撮影)
(註)内田瀞の非職について色々な書見では内田瀞は、二十六年に道庁から一方的に非免をいいわたされたことになっているが、二十六年に元組合華族農場を解放後、菊亭脩季(ゆきすえ)から義兄森源三(札幌農学校長)が入手した未墾地五十町歩を譲り受け、開墾に当たるために瀞から辞職を申し入れていたのを、部長と長官に留められ、当分は在職のままで農場経営に当たることになっていた。しかし、農場経営に専念するためにはどうしても掛け持ちは無理であることから、二十七年十月に非免を受け入れてもらい、道庁を非職(休職)している。(昭和六十年に妹背牛町旧内田農場倉庫から発見された内田瀞の日記その他の資料より)
 ところで、フラヌ原野の殖民地区画測設の時期であるが、どの資料を見ても明治二十九年と記述されており、その通りであることは「フラヌ原野区画測設図其の一」に、《明治二十九年三月二十八日初刷北海道庁印刷人北海石版所》と印刷されていることから、二十九年三月二十八日以前に測設されていたことは明白であるが、解らないのは二十九年十二月二十五日付で出された道庁の「フラヌ原野の貸下げ告示」による次の文章である。《フラヌ原野の内、大地積を不日(幾日もたたないこと)解除し、本年度中に区画割りに着手し、明春を待って貸下げを為す》(道庁告示第二二〇号)の文章である。
 この文章からは、二十九年の暮の十二月二十五日に、「二十九年度中(三十年三月まで)に区画測量に着手して三十年春を待って貸付をする」ようにも解釈することができる。
 また、明治三十年三月九日付の北海道毎日新聞に掲載された「北海道協会報告」第一号で、その内容は《「本年貸下げるべき土地状況」本原野は空知川の上流にある一大原野にして……(中略)総面積は三千二百六十一万七百五十坪(上フラヌ原野、中フラヌ原野、下フラヌ原野の合計面積)にして、内樹林地千三百三十三万三十五坪、草原地千二百六十二万千坪、その他は泥炭地なり「ケナチヤウシ」に跨(またが)り札幌農学校学田地千万坪あり、而(しか)して今春本原野を区画し貸下げラルルニ付き、将来愈々(いよいよ)開墾の暁には実に一大農村を現すべし》と書かれている。ここでも、「フラヌ原野は三十年春に区画測量して、貸下げをする予定である」とあるが、測量は二十九年に実施され、それを図面化して区画割を確定したのが三十年であると解釈するのが正しいのかも知れない。
 とかく、むかしの記述を現在の解釈にそのまま当てはめると、大きな間違いが生じる憂いがある。
七、最初の入地者
 二十九年になると、隣まちの美瑛原野で貸下げの申請受付が始まり、今まで無人であったふらの原野にも、「近くフラヌ原野も開放されそうだ」とのうわさが広がり、開拓をめざして移住しようとする人々が、貸下げ予定の未開地を下見に訪れる者が多くみられる様になってきた。
 明治二十九年にふらの原野に調査に訪れたり、入植した人々を残された資料から見てみると、草分神社へ明治三十五年十月十六日に奉納された木簡では、伊藤喜太郎が一家四名で「明治三十年九月三十日岩見沢から秋に中富良野に移住して一年余」と記しているので、二十九年秋に入地したものと思われる。
 また、三重団体では総代の田中常次郎が、秋に下見に訪れているが、同じ村の川邊三蔵が、奉納木簡に「二十九年八月二十五日本道探検に出張」と記述していることから、田中常次郎と共に訪れたのではないかと考えられる。
 註田中常次郎は、三十年四月に田村栄次郎、久野伝兵衛、高田治郎吉、川田七五郎、吉澤源七、川辺三蔵、服部代次郎の八名と共に、旭川を廻り先発隊として上富良野へ下見に来ている。
 この外にも、中フラヌ原野東八線北十二号には上村夘之助が単独で入地しており、下フラヌ原野では中村千幹が下見に来たとの記述が関係の市町村史等に紹介されている。明治三十年に貸付の申請を出している関係者の中にも、資料は残されていないが現地の下見に訪れている者も少なくなかったのではないだろうか。
八、最初の入植者三重団体について
 富良野原野の開拓には、三重団体がその礎(いしずえ)になっていたが、三重団体の人達がどのような過程でフラヌ原野の開拓先駆者となったかについて調べてみたい。
 北海道への団体移住は、明治二十五年十二月に定められた「団体移住に関する要領」によって始まった。最初の頃は東北や北陸地方の雪国からの移住者が大半を占めていた。
三重県からの移住は二十六年からであり、そのほとんどがリーダーであった板垣贇夫(ヨシオ)によって進められている。

  掲載省略 写真 板垣贇夫

 板垣贇夫は、甲州武田家の一門で板垣河守信片の末孫に当たり、津藩主であった藤堂家に仕えていた板垣信因の長男として安政四年十二月に江戸藩邸で生まれ、明治元年四月に伊勢の国安濃郡岩田村に移住した。
 父は彼に教養を身に付けさせるため、同藩の文学者である山田松斎の塾に学ばせた。彼の非凡な学才は師に認められ、明治九年に若干十八歳で三重県師範学校の教師に迎えられた。
 彼の住む岩田村は津市に隣接する農村で、農家の大半は小作農か自作兼小作農で、五反そこそこを耕作する細農であった。彼はこのような農家の苦しい生活の窮状を何とかしなければと思い、明治十一年に師範学校を辞して、勧業局石薬師出張所紅茶伝習所に入り、少ない土地で高い生産をあげられる紅茶の栽培を広めようと考えた。伝習所でも彼の学才と熱心な意欲は群を抜き、短期間で技術を習得して師となり、県下に紅茶栽培を広めるとともに、岐阜、東京へ出荷して販売も進めていった。
 しかし、農民の中には彼の行動は士族の道楽程度にしか理解しないものも多く、真の改革を進めるためには、自らが農民にならなければ解決できないと考え、明治十五年(二十五歳)に一志郡に八町歩の荒地を求めて、自ら営農に当たることにした。
 当時の農民の人々は無学な人が多く、部落民は学識豊かな板垣を頼り、多くの公職を引き受けることになった。(岩田村勧業委員、安濃郡勧業会員、津市準市街議員、三重県精撰米組合取締役、蚕種業組合委員、三重県農業協会評議員)
 農業を営み、農家の抱える問題が即自分の問題となった彼は、痩せた土地に肥料を与え土地改良をしようと、塵芥を集めて堆肥をつくることを考え、農民全員で塵芥清掃組合を設立した。また、農家の生活を改善するために、岩田村農業組合を組織することや、文盲を無くすために夜間学校を設けて自ら教壇に立ち、農家の生活の向上に努めた。
 しかし、農家の二・三男が分家するにも土地が無く、農家の将来の発展に希望を持てない現状を何とか打開するには、新天地を求める以外にないと考えていた。
九、北海道移住への決意
 明治二十五年、北海道の開拓のために団体移住を募集していることを聞き、打開の道を北海道に求めようと、夜学校に通う青年の説得につとめた。
 その頃の北海道はまだ充分知られていなかったので、遠い外国で寒さがきつく、熊や狼が出没する恐ろしいところとの先入観が強かったため、最初は賛同するものはいなかった。しかし、現状の農村では発展の望みのない状態を打破するには、新天地に道を求めなければならないと説く彼の熱意に、心を動かされ賛同する人も次第に増えていった。
 不思議なものでいったん決意すると、人がまだ行っていない北海道へ早く渡り、他人に先駆けて有利な土地を手に入れようと意見が一致し、三十戸の移住団体が結成された。二十六年一月に三重県の認可を受けて、三月に先発者五名で四日市港を出発した。
 道庁に着くと幌内原野お茶ノ水に十戸分五十町歩の貸下げを受け、直ちに小屋がけをして開墾にかかり、残りの二十戸分は同じ原野パンケソーカに、百町歩の仮引渡しを受け、六月に現地の報告と残りの団員を引率するため帰県した。
 この報告はたちまち県内に広まり、各地から団体移住の申込みが増えてきた。
十、田中常次郎単独で渡道する
 安濃郡安東村に住む田中常次郎もその一人であった。常次郎の先代は能所部落の郷士であったが、常次郎は米相場に手を出して失敗し、家運を回復するために北海道に新天地を求めようと、明治二十九年七月に家族の反対をおしきり単独で北海道に渡った。

  掲載省略 写真 田中常次郎

 北海道に着くと、三重団体の団長板垣贇夫の入植地幌向原野を訪ね、団長から二戸分の土地を分けてもらう約束をして帰国した。ところが、北海道で成功している三重団体の様子や、一戸分で五町歩の土地が無料でもらえるということを聞き、われもわれもと同行を願うものが続出して、希望者は三十五戸に膨れ上がった。
 常次郎は、自分個人で移住を考えていたので二戸分の借り受けのみで、みんなの希望を果たすためには、大規模な面積が必要であり、そのためには新たに移住団体を組織しなければならなかった。常次郎は、三重団体の団長板垣贇夫に相談して解決を図ろうと、八月に同じ部落の川邊三蔵と共に渡道することになった。
 常次郎の話を聞いた板垣贇夫は、県民の移住を喜び新たな土地の確保を道庁に働きかけ、百戸分の貸付地を確保することとした。
 贇夫は常次郎に『百戸の移住者を集めるためには県内全域からの移民の募集が必要である。』と告げ、常次郎は仲間の田村栄次郎と津市の水原政次、玉垣村の服部庄助、杉野新三郎等とともに県内全域から広く募集を行うことにした。
 十一月、応募者が百戸を超えるまで集まったので再び渡道すると、板垣団長から「フラヌ原野が近く開放になるらしい」との情報を知らされた。しかし、正式な貸付の受付は年明けになると聞き、貸付地の確保を団長に頼み帰国の途についた。
 三十年三月になって板垣贇夫は、平岸に住む三重県移住者とともにフラヌ原野の踏検に出向き、草分地区に予定存置地、百五十戸分の二百二十五万坪の貸下げを確保して、田中常次郎が率いる三重団体の移住を待つことにした。
十一、三重団体四日市港を出発
 三十年三月二十七日に三重県各地から集まった移住者は、八十三戸、約二百五十名で二十八日に四日市港を出発した。

  掲載省略 写真 田中常次郎碑建立記念写真、前列中央(和服)は板垣贇夫
(註)「上富良野誌」は八十三戸、四百八十四人、「北海道開拓秘録」は八十五戸、「伊勢新聞」は四百十一名、「北海道協会報告」は七十二戸、二百三十六人が小樽に着いたとあり、戸数、人数がまちまちである。
 横浜港までは、日本郵船の「敦賀丸」という小型の帆船に乗った。紀州沖を通過中に伊藤李吉氏の妻ハトが男の子を産んだので、みんなは驚き喜んだ。一番喜んだには船長で「長い間船乗りをして、こんなおめでたいことは初めてだ。」といい、「敦賀丸」の船名から「つる」の一字をとって「鶴丸」と命名してくれた。
 横浜では、三日間ほど待たされ「仁川丸」という貨物船で、二千五百トン級の蒸気船に乗り換えた。船が宮城県の金華山沖にさしかかった頃、嵐がやってきて船は木の葉のように波に流されはじめた。
 貨物船のため客室などはなく、みんな甲板の上に莚(むしろ)を敷いて乗船している状態であったので、大波が甲板上までやってくると着物はびしょ濡れになり、いまにも「ぶっちゃがる」(ひっくりかえる)と子どもは泣き叫び、船酔いで嘔吐するものが続出する状態であった。
 いったん嵐を避けて「荻の浜」(石巻市東部)に寄港したときは、九死に一生を得た思いであったという。
 荻の浜では、船旅があまりにも酷(ひど)かったので森川房吉、山本丹治、稲垣銀次の三家族は下船して陸路で北海道へ向かうことにした。
 小樽から歌志内までは汽車で行ったが、屋根もない貨車のため、みぞれまじりの冷たい雨が顔を打ち、煤煙と寒さに耐えての乗車であった。
 歌志内から平岸の三重団体まで徒歩で行き、平岸に一時滞在しながら入植の準備を整え、四月十二日に代表七人が先発隊として空知川を遡(さかのぼ)り、下富良野から西三線二十九号の貸付予定地にたどり着いた。そこにあったニレの木の下で一夜を過ごし、一行は家族を迎える住居の拝み小屋を建てて平岸に戻った。
 家族が富良野原野に入地したのは、五月初旬が最初で十八戸が入植した。その後、開墾の支度を整えながら、少しずつ入植していった。総代の田中常次郎は、五月十五日に平岸を発って、美瑛を経由して十八日に到着している。
十二、入植当時の道路事情と戸数
 ようやくフラヌ原野に開拓者が入地してきた時期の明治三十年・三十一年当時の状況を知る貴重な資料として、草分け神社に奉納された「奉納木簡」があるが、その中で三十年五月二十八日に上富良野草分に入地した斉藤助太郎の記述には、当時の様子が細かに記載してある。

  掲載省略 写真 明治35年草分神社に奉納された木簡
「明治二十九年三月二十九日札幌ニ移住、同年四月二十日深川ニ来タリ、同年十二月三十一日永山番外地ニ入リ、明治三十年五月二十八日本村移住者ノ不便ヲ思ヒ、且将来ノ目的ヲ全センタメ来住シ、合掌小屋ヲ建設シ、同月三十日荒物商ヲ開業セリ、其ノ当時、貨物ノ運輸非常ノ不便ニシテ、駄馬ヲ以テ運ビテ商業ヲ営ムニ、道路モ開通無キ処ノミシテ、只刈分道路アルノミ、住民は僅二十戸ニ不満。
明治三十一年初春来漸々移住者及土地実見ノ為メ来野スルモノアリト云ヘドモ、旅店ナキ依リ、宿泊セシ人其ノ後甚多シ、明治三十四年二月二十六日市街地ヘ移リ商業ヲ開営ス。本村商店ノ草分元祖トス。
  徳島県名東郡斎津村大字南斎田浦村九十八番地ノ住人
        斉藤助太郎(二十八年)誌ス
        斉藤助太郎 妻 とみの
                  長女としの」
 これらの記述によると、明治二十九年三月に徳島県から札幌に移住し、翌月の二十日に深川に来て暮れの十二月三十一日に永山番外地に入っている。
 三十年五月二十八日には、草分に入地して合掌小屋(拝み小屋)を建設して荒物商を開業した。
 当時は道路も開通しておらず、刈分け道路(笹を分けてあるだけの道)があるのみで、荷物の運搬も容易でなかったことから、駄馬を使った運搬業を始めた。しかし住民は僅かに二十戸あまりで、商売には不満であった。
 明治三十一年春になってようやく移住者も増え、土地の実見に訪れる者も多くなり、宿泊を求める人も少なくなかった。このため、三十四年二月二十六日に市街地に移転し、旅館と商業を営んだ。これが本村の商店の元祖である。
 また、同じ奉納木簡から三十一年一月二日に移住した島義空の記録によると、
「移住の当時本村は未開であり、旭川より米味噌運搬する商店は(阿)石井支店である斉藤助太郎氏だけである。全村の住民僅か三十戸あまりで不満である。
三十一年の三月から移住してくる者七十有戸に増え、商店も年々建ってきた。本村の道路の開鑿(かいさく)のはじめは、北二十六号道路であり、同時に行われた国道工事(十勝道路と言われた斜線道路と思われる)の見回り、帳簿付け(現場監督のような仕事)に従事した。
米の価格は一升四十五銭、麦一升二十三銭と高い。本村の草分け当時の現況を記す。
明治三十年七月二十五日札幌に移住、同年九月十日富良野に探検に来る、三十一年一月二日本村移住、同年六月十五日愛知県より転籍。
           島 義空
          妻  しげ
          長男 義海
          二男 義勝
          三男 義秀
          弟  義賢
      随従者  倉悌正信」
 島義空氏の記述からは、三十一年一月に移住したときは、戸数は三十戸あまりであったが、三月を過ぎると移住者も増え、七十戸あまりになったという。
十三、入植戸数の矛盾
 富良野村は明治三十年七月一日に奈井江村から独立しているが、斉藤助太郎氏の記述から見ると、上富良野原野には、その頃はまだ二十数戸しか入植していないとある。しかし同じ奉納された木簡に記載されている三重団体の七月までに入植したとされる戸数は、四十三戸(二百二十三名)となっている。(後述)
 この矛盾は、木札に「三十年四月一日当村到着す」と記入している家族が十三戸あり、「かみふ物語」(昭和五十四年刊、十二年丑年会編)に書いている川田金七さんの記録では、三月二十八日に三重県を出港して小樽まで七日間を要しており、小樽に一泊して平岸に翌日到着し、平岸に七〜八日泊まって支度を整え、旭川で一泊して述べ十六〜七日を要して上富良野にたどり着いている。この計算によると上富良野に到着するのは早くても四月十三日以降となる。「四月一日当村到着す」と記入したのは、ひとつの区切りとして四月一日と書いたものであり、実際に上富良野へ到着した日とは関係が無いと考えると、斉藤助太郎氏や島義空氏の書いた二〜三十戸に不満ということも、あながち事実であった可能性も否定できない。
 島義空が記した物価について、当時の他の地域における価格と比較してみる。
十四、米の価格は相場の五倍であった
 米の価格は当時の相場で、一俵の価格が三円三十銭から四円二十銭であった。一升の価格に直すと約十銭である。島義空の書いたふらのでの米の値段は一升四十五銭と記されており、相場の価格と比べると、五倍近い高い価格であることがわかる。
 このことから推測すると、入植当時はほとんど作物が収穫できず、食べ物をすべて買い求めていた入植者には、物価高や交通の不便な状況は非常に苛酷な環境にあり、開拓当時は想像を超える困難な生活を強いられていたことが伺われる。
(註) 富良野村独立までの三重団体の入植世帯は、松井仙松十一名、松井為四郎三名、松井市太郎二名、伊藤松次郎四名、伊藤安太郎四名、伊藤兼治郎三名、内田庄治十名、立松為次郎七名、稲垣銀次四名、遠藤房吉五名、寺前千代松六名、山本丹治六名、須藤源九郎八名、布施庄太郎七名、高田治郎吉七名、山崎仙太郎四名、田村栄蔵三名、伊藤藤蔵四名、高橋藤三郎七名、大畑仙松四名、橋本長七三名、加藤伊之助五名、宮崎駒次郎二名、大西吉松六名、森下仁助四名、坂勘蔵六名、長井文次郎五名、木内小三郎五名、川邊三蔵六名、田村孫左衛門八名、篠原久吉九名、田中常次郎八名、小林清治九名、森川房吉一名、吉澤源七三名、田村栄次郎三名、久野伝兵衛三名、高士仁左エ門五名、田中栄次郎四名、山崎兵次郎五名、斉藤助太郎三名、一色武右ヱ門六名、林安太郎五名、(四十三戸・二百二十三名)
 尚、開拓記念館蔵の三重団体殖民地全図を本誌編集委員の田中正人が現況地図に入植者居住図を調査したものを資料として掲載する。(108〜109頁)
十五、明治三十年の入植者
 明治四十二年十二月に発行された「上富良野誌」では、三十年に入植した者は中富良野の上村夘之助(東八線十二号)と、東二線北二十四号に田中農場を開墾した田中米八と、同じく東六線北十七号に農場を開拓した田中亀八の僅か三戸のみで、あとは大部分が三重団体移住者で、団体員の開墾に成功した
十二戸が記載されている。その外は三十一年以降の入植となっている。(農場の小作人としては何人か入植しているものと思われるが、資料は残されていない)
「草分奉納木簡」と「上富良野誌」に記載されている三十年に入植した三重団体の戸数は、合わせて四十九戸であり、小樽港に着いた七十二戸と陸路をたどった三戸を加えた七十五戸から差し引くと、二十六戸の入地が不明となっている。
「富良野の三重団体」(《殖民地公報》第七十号、大二)によると、「最初の移民は僅か三十二戸に過ぎず。然れども其の後また郷里より単独にて移住せる者二十八戸ありて、合計六十戸二百七十人現住し、外に愛知県移民等十五戸ありて、これに加われり」とあり、三十年以降の移住者を加えても三重団体の移住者は八十戸に満たない戸数である。
十六、中富良野原野団体移住は三十一年
 富良野地方の市町村史を執筆された岸本翠月氏の記録には、中富良野原野に入植した石川団体、福井団体、合力農場は明治三十年入植となっているが、上富良野誌の記録によると、石川団体は久保政吉・久保平兵衛・久保惣太郎等が石川県から明治三十年に渡道して、岩見沢の金子農場で開墾に従事し、三十一年〜三十三年に団体員三十五戸とともに、西中に移住している。
 福井団体は、青山栄松が団体長となり、三十年四月に三十三戸分の貸付地の申請を行い、同年八月十四日に許可を受けて、三十一年四月に一部入植となっているが、「書類に捺印しても期日までに入植したのは大島新松、青山原七、野尻初太郎外数名で、予定の開墾が進まず一時無効の指令を受ける」などと、苦難の様子が記載されている。
 合力農場については、「上富良野史」(昭和四十二年版)に中富良野市街地と福井団体の間にあった農場で、阿部戸助右エ門、渡辺寅吉、西ヶ佐古三の三氏共同経営したので合力と名付けられ、三十戸分の貸付を受けたとあるが、実際には、明治三十年の国有未開地貸付台帳によると、貸付を受けたのは札幌郡対鷹村の渡辺寅吉一人で、三十年四月に十八万九千百坪(約六十三町歩)を申請しており、七月二十八日に許可されていることから、他の二名は福井団体同様に名前のみの申請であったと思われる。
 また、貸付地の一部は三十三年に、幌向原野にいた安藤秀蔵に十五町歩を譲渡しており、三十五年には梶野百蔵外五名に全地を譲渡している。このことから、合力農場が三十年に入植開墾を始めたことを確認することはできないのである。
十七、駄馬運搬と道路工事
 開拓当時の道路らしき道は、刈分け道路(獣道)のみで、生活物資や食料品を買い入れるためには、駄馬に頼る以外に方法は無かったので、斉藤助次郎が駄馬運搬業を始めたのは、開拓者にとって心強い手段であったことと思う。
 富良野原野で最初の仮設道路工事は、二十六号道路と記されているが、これは草分地区と斜線道路を結ぶ道路で、十勝道路が重要な幹線道路として位置づけされていたことと、十勝道路に先がけて着工されたことは、草分に入地した三重団体の家族が、開墾してもまだ作物が収穫出来ず、収入が無いため、苦しい生活を何とか改善しようと、総代の田中常次郎が収入の道を道路工事の使役で補おうと関係官庁に頼み込み、団体員が道路工事に働きに出たことが、早く着工した所以ともいえる。
十八、団体員の離散
 板垣贇夫の木札には、「三十二年十二月にフラヌ原野団体員百二十余戸移住完了」とあるが、実際にはその三分の一余りの戸数が離散している。「上富良野百年史」によると、開拓当初の三十年は霜害に、三十一年は水害に見舞われて収穫は皆無に等しかった。その状況を「北海道」(田中常次郎、大10)には、「移住当初に当たりて諸種の障害醸生(じょうしょう)し、開墾の事業遂行の上に支障を生するや、団体中薄志弱行の徒は帰国又は他へ離散するもの続出して、殆ど収集すべからず」と伝え、また、同じ「北海道」(吉田楠蔵伝)には、「その付近概ね樹林地にして農作物の発育良好ならず、年々収穫少にして一家衣食の料足らず、故を以って六十五戸の団体移住者中、前途を気遣ひ帰国又は他に移転するもの続出し支離滅裂の状、収集すべからず」と伝えている。
 このように、開拓に志をもって入植しても、その困難な状況に打ち勝つことが出来ずに、他に移って小作となったり、帰国してしまう者も少なくなかったことが、移住者の離散に繋がったものと思われる。
十九、富良野村誕生と系図の誤り
 富良野村は、明治三十年七月一日に歌志内村とともに奈江村(明治三十六年八月に砂川村に改称する)から独立して誕生したのであるが、沿線各市町村史に書かれている系図は、滝川村からの分村と書かれており、共通して間違って記載されている。
 その証として、上富良野役場に残っている最初の戸籍である戸主「松井為三郎」の除籍謄本によると、戸籍の本籍欄は「北海道空知郡奈江村字歌志内ゼロバン」と書かれている。横の欄には、「明治三十年六月二十五日三重県志摩郡波切村七百六十五番屋敷ノ二 松井仙吉弟分家」と記載されている。また本籍欄の横には「明治三十年八月六日富良野村第四線百六十七番地に移る」と書き加えられている。
 欄外の上部には「三十年七月十二日に三重県志摩郡波切村七百六十五番屋敷ノ二より転籍」と記載されている。
 また、三重県志摩郡波切村の戸主「松井仙松」の除籍謄本を松井博和氏(札幌在住、詳しくは「かみふらの郷土をさぐる」第二十一号《松井家六代のあゆみ》松井博和著を参考)が、志摩郡大王町(波切村の合併後の町村)から取り寄せた写しによると、最後の頁には、「明治三十二年一月十四日北海道石狩国空知郡歌志内村大字富良野村上フラノ第四線百六十三番地へ転籍届出同月十四日同村戸籍吏三上良知ヨリ届書副本発送同月二十一日受付除籍」との記載がある。
 これらの記載から当時の状況を考えると、三十年七月十二日「三重県志摩郡波切村七百六十五番屋敷ノ二」から転籍した時に「北海道空知郡奈江村字歌志内ゼロバン」と新しい戸籍に記載されたのは、七月一日に歌志内村と富良野村が分割して独立してはいたが、そのときはまだ歌志内・富良野村の戸長役場は設置されておらず、(歌志内に歌志内村富良野村の戸長役場が出来たのは三十年七月十五日である)行政事務は奈江村戸長役場で行われていたためと思われる。
 また、富良野村の入植場所を「奈江村字歌志内ゼロバン」との記載は、奈江村の役場吏員が「フラヌ原野はまだ奈江村の一部で字歌志内にある」と思い込んでいたのと、富良野村の原野には、まだ地番が定まっていなかったか、入植地(西四線百六十七番地)の地番を確認できなかったためではないかと推測される。
 本籍欄の横に「富良野村第四線百六十七番地」と記載されているのは、三十年八月六日に富良野村の住所の番地が確定したので、「富良野村第(西の誤り)四線百六十七番地に移る」と書き加えたものでると思料される。
二十、戸籍の表示は「歌志内村大字富良野村上フラノ」
 松井博和氏が三重県大王町から取り寄せた戸籍の最後の頁に記載されている「明治三十二年一月十四日北海道石狩国空知郡歌志内村大字富良野村上フラノ第四線百六十三番地へ転籍届出同月十四日同村戸籍吏三上良知ヨリ届書副本発送同月二十一日受付除籍」の文章は、当時、富良野村が独立したといっても行政の地域が分割されたのみで、発足当時の富良野村にはまだ人口や家屋も少なく、(岩田賀平氏作成の稲作年表によると、明治三十一年の人口は七十一戸、人口は百七十四人、畑面積六町五反歩となっている)市街地の形成も未完成であった。
 このような状況のもとで、戸長役場は歌志内村戸長役場に併設されており、(独立した戸長役場が富良野村に出来たのは、明治三十二年六月二十五日である)「北海道石狩国空知郡歌志内村大字富良野村上フラノ第四線百六十三番地」と歌志内戸長役場が記載したのは、富良野村の独立は行政の区域のみで、実際の行政事務(戸籍の届出など)はすべて歌志内戸長役場で処理されていたために、富良野村独立の認識がまだなかったのではないかと推測される。
二十一、富良野村は奈江村からの系譜
 「上富良野町史」(昭和四十二年刊岸本翠月著)で書いている『富良野村の間違った記憶と沿革』では、「富良野村」はすべてにおいて歌志内村とともに独立し、戸長役場も「組合役場」と記載されているが、「組合役場」の名称が使われた初めは明治三十五年二月二十一日付の「二級町村制の改正」によるものであり、それ以前には使われていない。
 「組合役場」とは、二ヶ以上の町村がお互いにその費用を分担して一ヶ所の戸長役場を設置し、夫々から総代を選出して運営に当たる制度である。(新北海道史第四巻参照)このことから、「歌志内富良野村組合戸長役場」の呼称は有り得ないのである。
 また、富良野村の系譜は、滝川村からの分村となっているが、先の「松井為四郎」の本籍欄に記載されている「空知郡奈江村字歌志内ゼロバン」の表示にあるように、「歌志内」「富良野」も、ともに奈江村からの分村であり、「砂川史」(元奈江村)によっても、「奈江村は、明治二十三年八月七日北海道庁令によって誕生した。区域は現在の砂川市、歌志内市、芦別市、赤平市、上砂川町、奈井江町の大部分に及んでいた。滝川村の南境界は、ペンケウタウスナイ川で、それ以南は、行政区画未定地であった。したがって、現在の砂川市の区域は、滝川村の区域に属していたことはなかった。」と記述している。
 また、上富良野町史で歌志内村と富良野村が誕生したときに、「空知川の北岸の赤平と芦別を歌志内に編入する」との記述があるが、これは、奈江村の戸長役場が一時「滝川村外一ヶ村戸長役場」として、滝川で扱われていた経緯から区分をはっきりさせたものであり、したがって、富良野村が奈江村からの分村であることから、滝川村からの分村という記述は間違っているといわざるを得ない。
 正しくは、「富良野原野の行政区域は滝川村の区域に入っていたが、行政事務の管轄は奈江村に所属していた」と解釈すべきであろう。
PDF版系譜図ダウンロード
参考文献
「新北海道史年表」一九八九年刊北海道編
「新北海道史」昭和四十六年刊北海道編
「柳本通義の生涯」平成七年刊神埜努著
「内田家資料目録」北海道開拓記念館
「中富良野町史」昭和六十一年刊中富良野町史編纂委員会編
「上富良野町史」昭和四十二年刊岸本翠月著
「上富良野百年史」平成十年刊上富良野百年史編纂委員会編
「北海道開拓秘録」昭和三十九年刊若林功著
「北海道開拓秘話」平成十六年刊津田芳夫著
「札幌同窓会報告」明治四十一年刊南鷹次郎著
「北大百年史」昭和五十六年刊北海道大学編
「区画地貸付台帳」明治三十年 大[地積]北海道庁編
「区画地貸付台帳」明治三十年[北海道庁]殖民課
「未開地貸付台帳」明治三十年 大[地積]北海道庁編
「未開地貸付台帳」明治三十一年[北海道庁]殖民課
「区画地貸付台帳」明治二十年以降 中[地積]北海道庁編
「未開地貸付台帳」明治三十二年 大[地積]北海道庁編
「未開地貸付台帳」明治三十二年 小[地積]北海道庁編
「区画地貸付台帳」明治三十二年 大[地積]北海道庁編
「北海道庁公文録」区画地無有償貸付 明治三十四年〜三十六年
「富良野市史」昭和四十三年刊富良野市編
「赤平市史」平成十三年編纂委員会編
「芦別市史」昭和四十九年編纂委員会編
「砂川市史」編纂委員会編
「歌志内市史」昭和三十八年編纂委員会編
「新歌志内市史」平成六年編纂委員会編
「奈井江町史」編纂委員会編
「美瑛町史」昭和三十八年編纂委員会編
「南富良野町史」昭和三十五年編纂委員会編
「おさらっぺ慕情」昭和五十七年鷹栖町郷土誌編集委員会編
「かみふ物語」昭和五十四年上富良野町昭和十二年丑年会編
「稲作年表」岩田賀平著
「上富良野誌」明治四十二年上川管内志編纂会

機関誌   郷土をさぐる(第27号)
2010年3月31日印刷     2010年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一