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公職者協議会 第一回復興協議会(俵会議)の俵とは

三原康敬 昭和二十四年九月二十八日生(六十歳)

俵会議
 十勝岳爆発罹災救済会が昭和四年三月二十五日に発行した「十勝岳爆発災害志」の第三章第四節に、
 『公職者協議會
 上富良野村に於ては、被害状況も略々明瞭し、應急處置も亦一段落を告げた六月一日午後三時より、停車場構内山本運送店吹拔き倉庫に於て、村内公職者を招集し、第一回の復興協議會を開催した。當日の出席者は、道廳社會課西田囑託、上川支廳上野事務官、津田二課長、佐崎屬、池田雇、鈴木富良野警察署長、河村上富良野郵便局長、山本北海タイムス旭川支局長、同記者、小樽新聞社小田島記者、同社寫眞班、村内よりは吉田村長、金子助役、朝倉収入役を始め、村會議員十三名、行政部長十一名、同組長十七名、小學校長七名の多數で、各公職者は何れも連日の奮鬪に衣服は泥に塗れた儘で倉庫内の米俵を椅子に代へ、悲壯なる雰圍氣の裡に開會した。(同村では俵會議と稱してゐる)―中略―記念すべき此の會議も午後五時半を以て閉會した。』(原文どおり。)
と書かれている。
 この状況を写した写真が、平成十八年五月二十日から二十八日の間、開催された「十勝岳大正泥流災害八十周年回顧展」に大きく引き伸ばされ展示された。この写真を見て、あることに気が付き、椅子代わりの俵は、米俵なのか疑問が沸いた。どう考えてみても形状が米俵とは思えない、桟俵(さんだわら)のない俵が写っているのである。
 
  掲載省略 写真 大正15年6月1日、開催された公職者協議会第1回復興協議会(俵会議)

 創作と思われるが、巷間伝えられている水戸黄門の逸話に、農家の庭先で米俵に座った水戸黄門が老婆に諭される話がある。公職者協議会の第一回復興協議会では米俵を椅子代わりに腰掛けたのか疑問となり頭を離れない。そこで思い当たることについて調べを進めた。
俵(包装資材)の謎解き
 俵は円柱形で、側面を三つ編みのこも、俵の両端につける桟俵という底面とふたを兼ねたわらを編んで作られた袋状の入れ物で農産物・海産物など輸送する包装資材は俵が用いられている。農作業の開始時期にあたり、農地で肥料に使うことからニシンの粕肥料が日本海側の漁村から輸送され、駅の吹き抜け倉庫に保管されていたものを椅子として用いたと推定し、ニシン漁が盛んであった留萌市の資料館に確認のため形状について調査を依頼した。ニシン粕肥料を輸送した包装資材は大正から昭和にかけ俵が使われていたが、俵(粕俵)は通常の筵より大きくて厚くできている「建筵(たてむしろ)」と呼ばれる専用のものが使用されていて、写真の俵の形状とは異なるという回答をいただいた。
 かつてニシン漁を行っていた親方二名に確認してもらったところ、ニシン製品の出荷用俵としては見たことがなく、縄のかけ方の違いと形状の違いを指摘されたこと、留萌市だけでなく余市町の俵についても問い合わせて調べていただき、余市地方の粕俵も同じく異なることについて教えていただいた。

  掲載省略 写真 ニシン漁場の粕肥料出荷、俵詰め作業
              (余市町教育委員会提供)

 ニシン粕肥料を送った俵と決定的な違いは、俵の胴の部分を締め付けるためにかけられた縄が、ほぼ中央に五、六本あることの指摘をいただいた。
 ニシン粕肥料は二十四貫(約九十キログラム)が入いる俵で四月後半以降、産地から農村地帯へ送られ、臼などを用いて小さく砕かれた後、肥料として農地にまかれた。ニシン粕以外の肥料には、胴ニシン、笹目(エラ蓋の部分)、白子、雑肥等があり、これらは通常の筵で一つの俵に十六貫(約六十キログラム)詰められて送られた。仮にニシン粕用の俵だとしても何か別のものを保管するために転用、もしくは土嚢のようなものに使用されたことも考えられるとのことであった。
 大正十五年噴火の二年前、大正十三年八月発行された「上富良野村の村勢一班」によると、上富良野駅取扱貨物の肥料は、大正十年七五一噸、大正十一年六一五噸、大正十二年四六噸が到着。「十勝岳爆発災害志」の第十一章災害餘録に上富良野駅取扱貨物の肥料は、大正十三年九八六噸、大正十四年一、二〇九噸、大正十五年一、四四八噸の量が到着貨物として取り扱われていたという統計記録がある。

  掲載省略 写真 留萌市の「海のふるさと館」の展示用として再現された
              粕俵(留萌市教育委員会提供)
復旧工事の土俵
 現代では俵とは異なり土嚢となっているが、古来より、土木工法では俵に土とか粘土を詰めた土俵が用いられていた。昭和五十二年に発行された「大正十五年十勝岳大爆発記録写真集」の中に、―瀧川青年団土俵を造り埋立工事の活動―の写真が載っていて、休憩中の工兵隊と思われる兵士が土俵に腰掛けており、泥流被害の復旧工事に使われていたことがうかがえる。しかも、筵を巻いて俵の原型を作った中に土を詰めている人、その後、詰めた土がこぼれないように俵の中間を縛る人が同じ写真に写っている。これは『俵会議』で椅子となっている俵そっくりで、紛れもなく土俵という俵が存在していた。
 このことから、当時、噴火災害の復旧に用いられた土俵が、対策本部として機能していた駅の吹き抜け倉庫にあったとしても不思議ではないと思われ、推定の域を出ないが、粘土などを詰めて災害復旧に使う土俵を『俵会議』で椅子として用いたものであると考えることができる。

掲載省略 写真 瀧川青年団土俵を造り埋立工事の活動

 留萌市教育委員会生涯学習課学芸員高橋勝也氏より多くの参考資料の提供をいただきました。

機関誌   郷土をさぐる(第27号)
2010年3月31日印刷     2010年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一