郷土をさぐる会トップページ     第27号目次

松浦三家の家紋

佐藤 輝雄(八十三歳)

序文
 私は雇用人生おわり近くを悟った。…次の老人社会での楽しみとして、ゴルフをやれる程の身分も金もあるわけじゃなし、愛妻とのパークゴルフは七十歳近くでは照れ臭い。公務員から会社勤めの第二の人生が終りに近いことを自覚して、老後の余生を何に楽しみを求めるかと自問してみた。答えに長い時間は不要だった。と言うのは青年期に、安政五年戊午(ぼご)(一八五八)、松浦武四郎なる武士がアイヌ民族を伴い、旭川から我が町を通り更に十勝岳連峰を越え十勝へ行ったという、極めて冒険的な行為を承知していたからである。
 「本当に越えたとしたら、どこを通って、どのようにして越えて行ったのか?…」、興味は更に膨らむのである。
 数多くの道路の路線計画線選定や測量・工事などを経験してきた体が忘れず、松浦武四郎研究を選ぶことにした。
 決めたのは平成四年(一九九二)の春三月、会社退職が決まった後である。
 ところが松浦武四郎について、勉強をしようにも一冊の関係書籍すら持ってなく、勉強を始めるにしてもどこから手をつけてよいやら皆目わからない。
 まずは北海道の開拓記念館に聞いて見るか。自分ながらの妙案と決めつけ、早速善は急げとばかりに電話を入れた。
 応対に出た相手の方には、「全く歴史に対しては素人の者だが、松浦武四郎について勉強をしたい、手順などを教えて頂けないものか…」と尋ねたところ、「私共より丸瀬布町に秋葉實さんという方が居られる、松浦武四郎の研究については第一人者なのでお願いをしたらいかがか」と教えられた。
 その時の電話の応答者が、学芸部長をしておられた関秀志氏であることが後年に至って分かり、冷や汗三斗の思いで恐縮し無礼の点を詫び致し、お礼を申し上げたものである。
 秋葉氏との出会いは、古い日誌をひもとくと平成四年(一九九二)三月三十日、丸瀬布町郷土館でお会いしていた。秋葉氏のご厚意による手ほどきで松浦武四郎を研究する道へ入ることが出来、こんにちに至っている私である。
 爾来こんにちまで、「戊午トカチ越え」の旭川から新得間の足跡推考には並々ならぬご指導とご尽力を頂戴したことで、武四郎の足跡を推考し終え図面が出来た。
 秋葉氏の学識の広さと、人物としての心の豊かさは衆人の認めるところで、私も人との出会い、つながり、肝に命じて大切にと心掛けている。
 現地調査も終わり、今は日々体調に合わせて遅々とした速度で、残っている各区間毎の実態解説・添付する写真に地点名・推考進行線・地先道路名等の印刷添付・『十勝日誌』に掲載された蝦夷中央高地群山岳名の位置解析の再確認等の記入など、本当の取りまとめはこれからである。
 体調が十分でないので十二分に注意して行っていく所存である。
予備知識
 先ず、武四郎の誕生から七十一歳の終命時までの一生を記録した[「校注簡約松浦武四郎自伝」編集―松浦武四郎研究会・発行者―野沢信一]より、武四郎の歩いた足跡を市版全国版の二十方分の一道路地図本で追跡確認をしたところ、北蝦夷(千島)と樺太・蝦夷地(北海道)の調査とは全く異なる行動が、武四郎が九州で行ったという面白い逸話が残っており、参考になるならないの見解有無は別として、機会があれば後日述べてみたい。
松浦武四郎家に関する家紋の調査
 自分が調査した課題をまとめている時点で、ふと、武四郎のこと故自分の家の家紋は、生家と異なるものにしているのではなかろうかと考えた。日を経るにつれて推理感の思いが強くなる。ついに強い欲望には勝てず、東京都と三重県の両松浦(まつうら)家に、平成十三年(二〇〇一)九月初旬に家紋の要望をしたところ、御両家共快く応じられて早速送ってくれた。
 武四郎家の紋章は私の推察とおり、紋章「梶ノ葉」の葉脈(葉の筋)を本家とは異なるものにしていた。
 長崎県平戸市の松浦家の家紋が存在すれば、松浦三家の家紋がそろうことから、平成二十年十一月二十二日、東京並びに三重の松浦家の家紋を添えて、平戸市に在る、財団法人松浦(まつら)史料博物館・理事長松浦章(まつらあきら)氏当てに、松浦(まつら)家の正しい紋章の要望願いを送付したところ、趣旨を御理解されて、十二月一日付で許可書と家紋が送付されてきた。
 特に添え書きで家紋は弘化二乙(いつし)巳年に、江戸幕府に提出されたものゝ控え図で、正確であるという。

  掲載省略 図 元肥前藩主・伯爵家松浦章家の家紋
  掲載省略 図 松浦武四郎生家の家紋
  掲載省略 図 松浦武四郎家の家紋

 これで松浦三家の家紋がそろい、多くの武四郎研究者に見てもらえることになり喜びを感じる。
 改めて家紋の紋章を見ると、三家三様、それぞれが異なっていた。
 松浦武四郎家の紋章は、私の当初推理どおりに紋章「梶の菓」の葉脈(葉の筋)を本家とは異なるものにしていた。
 平戸松浦(まつら)家は「梶の葉」の模様が緻密に描かれており、このように家紋一つを取り上げても、武四郎の才能が並外れていることが分かる。
 過年、平成十五年三月二十三日。松浦武四郎研究会一行が東京都豊島区駒込に在る、東京都染井霊園の墓に眠る松浦武四郎を訪れ、法名「教光院釈北海居士」に合掌し焼香を終えてから、私は落ち着いて家紋を眺めて驚いた。
 家紋の外枠を含めた紋章は真円ではなく、僅かだが縦長楕円の紋章で仕上げられていた。自分が眠る墓一つでさえ、心憎い程の配慮が生前に既に考慮されていたと察せざるを得なかった。…さすが武四郎…あとは言う言葉を私は失って、会員の方々が立ち去るのも忘れ、墓石を見つめていた。
追記
 この度の松浦(まつうら)家の家紋取りまとめにつきましては、平戸の松浦(まつら)家・三重並びに東京の松浦(まつうら)家の御協力によってできたものと感謝致しており、御三家に対しまして厚くお礼を申しあげます。
 また陰からお力添えを下さいました財団法人松浦史料博物館にお勤めの学芸員、久家孝史(くがたかし)氏に対しましても心からお礼を申し上げ、結びと致します。
 
  掲載省略 往復書簡及び家紋図案
 
 お願い許可なく紋章の使用を禁じます。筆者

機関誌   郷土をさぐる(第27号)
2010年3月31日印刷     2010年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一