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祖父、大場惣吉を語り継ぐ

上富良野町東四線北二五号 大場惣蔵(六十七歳)

祖父、大場惣吉の五十回忌法要
 私の祖父である大場惣吉は、宮城県栗原郡大澤村(現在築館町)に生まれ、昭和三十五年、七七歳の時開拓地として拓いた富原でその生涯を終えた。
 私は、それから五十年の歳月を経た平成二十一年八月三十日の命日に、祖父大場惣吉を偲ぶ五十回忌法要を営んだ。
 この法要を営むに当たり親類縁者に祖父、惣吉の開拓者としての苦労話を私が小、中学生の頃、祖父や姉などから直接聞いたり、出生地である宮城県より除籍謄本を取り寄せ調査。出来るだけ正確に紹介することが、孫としての私の務めと思い、法要の挨拶代わりに祖父、大場惣吉について述べた。
 ◆ ◆ ◆
 後日、親戚の一人がこの法要の模様を友人で里仁地区に住む菅野稔さんに話され、興味を持たれた菅野稔さんが直接、私の所へ来て「郷土をさぐるに原稿を掲載させて頂きたい」との事でしたので内容を紹介させて頂きます。
べべルイ地区への開拓
 私の祖父、大場惣吉は明治十七年四月三日に父大場永十朗、母サノの六男二女の四男として宮城県栗原郡玉津村字大津字八津大沢弐拾番地で出生した。
 男兄弟は長男栄蔵(現在孫、宮城県栗原郡在住)を筆頭に、次男永七(大友家の婿養子となり、孫の公二は日の出に在住)。三男茂吉(現在孫、宮城県栗原郡在住)。四男惣吉(私の祖父)五男栄助(子息元一は上富良野町新町在住)六男末次郎(所在不明)がいる。
 惣吉は十六歳のとき、同じ姓の農家へ下男奉公に出されたそうですが二十四歳になった時、「このような事をいつまでしていても一握りの土も自分の物にならない」と考え、北海道開拓者になろうと決心した。
 翌年明治四十二年一月菅原タネヨと結婚し、三月に北海道比布村で開拓者として生活していた叔父に当る増子さんを頼りに渡道し、叔父を手伝いながら開拓地を探した。
 翌明治四十三年八月十日、長女が生まれ名前をソデヨと付けた。明治四十四年二月やっと開墾許可が下り富良野村べべルイ地区へ入植。始めて自分の土地を持つことが出来た。しかしこの土地は大変困難な石原で、道具もろくにない自分の力では開墾がほとんど進まず、食べ物や、種物、鋸(のこぎり)、鉞(まさかり)、鉈(なた)などを買う金もない。仕方なく富良野線付帯工事の鉄道工夫として働き現金収入を得て食いつなぎ、開墾は妻のタネヨに任せざるを得なかった。
 鉄道工事が出来ない雨降りや冬場は、木を切り出して良い物は換金し、曲った所や枝などを焚き物として暖をとった。
 翌年、僅か開墾した土地にイナキビの種を蒔いてもなかなか芽が出ず、じっと土を観ていると土の下から水の流れる音が聞こえて来た。
 これでは地温が上がらず、折角種を蒔いても芽が出ないと悟り、途方に暮れる毎日で、「汽車賃が有れば家族で何度、内地に帰りたいと思ったことか」と、この時代の開拓のつらさをそれとなく私に話したことが幾度もあった。
 明治四十五年五月二十日に長男が生まれ惣一と名付けた。喜びも束の間、この地で三才になる長女ソデヨを亡くし、「ろくに医者にも診せてやれなかった」と悔やんでいた。
 大正三年頃には開墾地も少しづつ広がり、作物もイモ、裸麦、イナキビ、そば等が収穫できるように成ったが、地温の上がらない土地に嫌気を感じ他の土地を探す事を考えた。この年十一月には次女が生まれ名前をユキヨと名付けた。
島津地区へ移転
 大正四年五月、この地に見切りをつけ、島津地区(西二線北二十号)へ入植し開墾に精をだした。
 この土地は石も無く開墾が楽で畑がどんどん広がり、そばを蒔き、秋にはたくさんのそばが収穫できた。翌年には裸麦、イモ、イナキビ、そば、などが収穫でき、秋にはやっと馬を買うことが出来た。
 大正六年三月には次男定二が生まれた。最初の子供を亡くした反省から祖母タネヨさんの妹を子守に頼み子育てに気をつけた。
 五月のある日、時岡農場に入植していた弟の栄助が、「兄貴、イモの種、無いか?」と訪ねて来た。「おまえも秋に種イモを残して置いただろうと」聞くと栄助は、「カカァの奴、腹へった、腹へった、と子供達が泣くものだから、芋を食べさせているうち食用芋が無くなり、種芋にも手を付け、見るとほとんど無くなっていた」とのことである。「馬鹿者、種芋まで食べる者があるか」と叱ったそうです。
 この時代、家族全員の腹を満たすことは、大変であった。
 大正七年にはこの土地のほか、島津農場の小作地(西二線北二十三号)を借り受けた。
 島津農場のこの土地には水田も半分くらいあり、米が収穫出来るのが一番嬉しかったと聞いている。
 大正九年十一月には三男多司見が生まれ、この年、住宅も二十号から二十三号に移り住んだ。
 子供達も大正十一年には三女ヨシエが生まれたが、大正十四年に三歳の時に病死した。
 同年四女ツネが生まれた。
 土地も良くなり、米、裸麦、豌豆、イモなどを作付け、所得も大きく増えたが、大正十五年五月二十四日、十勝岳の大爆発で溶岩が土石流となり雪解け水も手伝い大きな泥流被害となったことは町史でも紹介されている通りである。我が家でも大きな被害では無いものの用水路は跡形も無くなり、用水に漬けて置いた種籾も全て流され、この年の稲作は皆無に等しく、元の姿の農地と元の収量に戻るのに二〜三年はかかったと聞いている。
 昭和三年には子供達も本格的に手伝う様になり、発動機、脱穀機を買い脱穀作業の能率をあげるばかりではなく、他人に頼まれれば出掛けて行く様になった。
 当時、発動機や脱穀機を持っている農家は少ないため、島津地区ばかりでなく西二線から東五線の富原地区までも請け負うようになって行った。
富原地区へ移転
 昭和四年には泥流などの心配のない日の出方面や、富原方面の土地を探し歩き、現在地の東四線北二十五号に二戸分十町歩を求めた。
 当時、半分位が未開墾地で値段が安い事と、五反(五十アール)ほどの水田があり、自分の家で食べる位の米は自分で作りたいと思ったことがこの土地の気に入った理由であった。しかし、先立つお金がないため、島津農場の小作の権利を他人に売るしかなく、近所に住んでいた杉本さんの口利きで跡地を引き受けてくれる人を紹介していただき、値段を決め、手付け金の支払日なども決めたそうです。しかし期日になっても支払が無い為、受取に行くと、「金はない暫く待ってほしい」の繰り返しでなかなかお金を払ってもらえなかったとの事である。
 この年五女キミ子が生まれた。
 翌昭和五年二月、島津から富原へ引越しを開始。八人家族と農道具、家財道具を運び終えたのが二月二十八日で、その日を入植記念日として昭和三十八年十月記念碑を建立、祖先の苦労を偲ぶと供に感謝の日にしている。
 昭和五年は特に雪解けが早く三月始めから開墾作業が出来たが、ベベルイ地区ほどではないものの石が多く二十号の開墾の十倍くらいの時間が掛ったと聞いている。この土地は肥沃な黒土で何を作付けしても良く育ち収量も高かった様であった。
 島津にある二十号の土地と併せて富原の土地を耕作して三年が過ぎた頃、山林の売り物が近所にあり二十号の土地を売り五町歩の山林を買い、南斜面の二町歩余りを開墾し、当時高値で取引されていた除虫菊を作ろうと考え、昭和九年除虫菊の苗を作り植えた。

  掲載省略 写真 入植記念碑
  掲載省略 図  「ふるさと上富良野」より昭和11年頃の富原の一部
                  (定二は昭和17年分家)
繁栄
 その年十二月、私道を行き来する村上和蔵さんと知り合い、酒を酌み交わす仲となって、長男の惣一に村上さんの娘リクさんを嫁に頂くことになった。
 次女のユキヨの縁談もまとまり、惣一の結婚した翌日に村上家の長男善次郎さんの嫁となった。
 昭和十一年には、島津農場が小作人に農地解放される事となり、自作農維持資金も創設された。惣吉が耕作していた土地の小作人に、毎年代金の支払を求めたそうですが金利どころか元金の一円も払ってもらえず、「自作農維資金の適用は今、耕作している者に権利がある」と結局農地の紹介者でもあった杉本さんらに説得され、悔し涙で島津農場の土地払い下げを認めたそうである。
 この年、長年の夢であった住宅を、黄田大工の黄田嘉平に頼み完成させた。材木も百石余りを使い白壁づくりの珍しい家は近所で立派と評判であり、祖父の自慢でもあった。
 孫も十年に長女クニ子、十二年に次女リエ子が生まれた。昭和十三年には、まだ早いが売り物のあるうちにと、次男定二の分家用地として東三線北二十五号に五町歩を買い、馬も三頭に増えた。
 昭和十五年十六年には二頭の馬を軍馬として旭川の第七師団の練兵場へ連れて行くことが出来、家の誉れと喜んだ様である。
 昭和十六年太平洋戦争が始まると三男多司見に兵隊の召集令状が来て旭川の第七師団に入隊することになり、これも家の誉れと喜び送り出したそうです。
 昭和十七年九月次男の定二に村上さんの長女スヱコさんとの縁談が成立して結婚させ、隣に分家させることができた。
 十八年一月定二にも兵隊の召集令状が来て旭川第七師団に入隊。昭和十八年になると戦局も次第に日本に不利な条件となり、更に増強せざるをえない状況になった。
 我が家では孫も十五年六月に三女ミチ子が生まれた。
 十八年三月には私が産まれ、待望の長男と言うことからその場に居合わせた村上和蔵さんと酒盛りとなり、祖父同士の名前の一字である大場惣吉の惣と村上和蔵の蔵をとり、惣蔵とその日のうちに名前が決められたと聞いている。この年、分家定二の所にも長女幸子が生まれている。十月には家に残っていた長男惣一にも召集令状が郵送され、旭川第七師団に入隊した。息子全員がお国の為にお役に立って家の誉れになると喜んで送り出している。

  掲載省略 写真 大場家昭和19年(惣吉氏からみて)
  掲載省略 写真 村上家昭和30年(和蔵氏からみて)

 機関銃部隊に配属になった惣一は、十一月に船で樺太に渡り樺太部隊として国境警備に付いた。
銃後の守り
 男手一人となった惣吉も、既に六十歳を超えていたが、ひたすら日本の勝利だけを信じ銑後を守る国民の一人として頑張って食料の増産に励んだ。

  掲載省略 写真 長男惣一昭和20年

 十九年には戦局も更に悪化、沢の中に横穴の大きな防空豪を緊急時に備えて作ってくれた。横には小川も流れ、幼かった私達姉弟は飛行機の音を聞くたび祖母に手を引かれ逃げ込んだのを今でもおぼえている。
 二十年八月十五日、誰もが勝利を信じていた戦いも日本軍の敗戦で終結し八月の下旬には道内の守りについていた二男定二が元気で復員、自分の土地と本家の土地も耕すようになり作業面では楽になってきた。
 しかし、長男惣一と三男多司見の消息が全く分からず、家族全員で無事に帰ってくることを祈り写真に毎日ご飯と水を供えたが、二人の安否については何の情報もないまま不安な毎日でした。
 新聞には毎日のように各地からの引き上げ者名簿が載っており、二十三年の年も過ぎて、翌二十四年六月になり旭川に住んでいた遠藤と名乗る人が馬に乗って我が家にやって来た。
 遠藤さんは上富良野草分に住む遠藤さんの親戚の人だそうで、「上富良野へ、自分がシベリヤから無事に帰ったことを知らせにきて色々なことを話しているうち、富原の大場惣吉さんが二人の息子の安否について聞き歩いていることを知り、もしかして、シベリアの捕虜収容所で一緒に鉄道工事で働いたことのある大場惣一さんではないかと思い、草分の遠藤さんから馬を借り、わざわざ富原まで知らせに来た」とのことでした。
 昼飯を一緒に食べて頂き話を聞くうち間違いなく息子であることを確信し、家族中で涙を流して聞き入り、捕虜として過酷な環境の中での生活実態を知り息子が哀れで成りませんでした。
 更に話によると、昭和二十年の冬は特にひどく、捕虜収容所の中は夜になるとマイナス三十五度位まで下がる事もあり、外と変わらない位しばれ翌朝には何人もの凍死した死体があり、同僚がひきずりだして雪の荒野にスコップで穴を掘り埋めた話や、食料もソ連政府からなかなか届かず、晩飯にうずら豆の煮たものが十六粒しかなかったことなどを聴き、母のタネヨは声を上げて泣いていた。
 年毎に建物も良くなり、食べ物も黒パンが十分とはいえないまでも支給され、まあまあになったことなど詳しく教えていただき、最後に捕虜によるシベリヤ鉄道の工事もほぼ終わり、奥地から順次引き上げがはじまり、列車で港へ向っているなどを話され「大場さんも元気でいたので近いうちに帰国出来ますよ」と言って帰って行かれました。
 遠くからわざわざ知らせに来てくれた遠藤さんに感謝するとともに、大きな期待をもって待つことが出来た。
帰郷
 事実七月のはじめ新聞に引き上げ船の興安丸がソ連のナホトカ港を出港し、舞鶴港に向っているとの記事があり、乗船名簿に北海道関係者として大場惣一の名前を見つけた親戚の者が新聞を片手に駆けつけ、「お宅の兄さんの名前がある」と知らせてくれた。本当に帰ってくると皆で喜び待っていると七月二十七日午後七時四十五分旭川駅に付くことが分かり、親戚の人や家族の者たち七人で迎えに、午後の汽車で旭川へ行き、旭川駅前に在った引き上げ援護局の仮設事務所で時間の来るのを待った。

  掲載省略 写真 後列右より2人目が大場惣吉

 七時半頃には駅横の改札口には各地から出迎えに来た人たちで一杯になり、やがて到着した列車から戦闘帽子にリュックを背負った抑留兵三十人くらいが整列し、出迎えた人たちと手を振り合って本人確認をしていた。私も当時、旭川交番に勤めていた叔父に肩車をしてもらい、生後七ケ月で別れ、小学生になっていた私は、毎日写真で見ていた人に似た人を見つけ、「きっとこの人が父だ」と思った。
 暗くなってきた駅構内で解散式を終へ、帰路に付く者、又は、援護局の事務所に泊まる者に分かれた。私たちはここに泊まることになっていたらしく、
 遅くまで話に花をさかせていた。
 翌朝の汽車で上富良野の駅について見ると、親戚の人や部落の人たちが大勢出迎えてくれた。
 農作業も遅れていては気の毒と二十七日に親戚や近所の人が集まり除虫菊も全部刈り終えてあったとのことです。
 二十八日は親戚の人や部落の人たちで夜遅くまで無事に帰ってきたことを喜び合った。
 十一月には三男多司見も無事に帰宅、その年の大晦日の晩、家族十人を前に祖父は長男惣一に経営を任せる事になった。
 六十六歳まで、フンドシ一つで馬仕事をしていた祖父も本当の意味で安心と安らぎを手にした時期だと思う。子供たちも十九年、四女ツネを嫁入りさせ、二十五年には多司見に嫁をとり分家させ、五女キミ子は嫁いで行った。
未来に向けて
 生活環境も長年の希望であった電気が二十二年の終わりに工事がなされて電灯が付き、ラジオも聞けるようになる等、娯楽にもお金を使える時代になってきた。
 
  掲載省略 写真 惣吉
 
 昭和二十六年六月には内孫で次男の富蔵が生まれた。二十七年春、惣吉は、「昨年生まれた富蔵が大きくなって分家させる時の足しに」と言って、家の周りの空き地に落葉松の苗木を二百六十本くらい植え、下草を刈り育てた成木は、現在も八本が残っており、大きなものは目通りで六十センチにもなっている。
 この様に家の行く末を案じ行動した惣吉ですが、昭和三十年五月六日、長年供に働いた妻タネヨを六十六歳で亡くし、五年後の昭和三十五年八月三十日、七十七歳で妻の後を追う様にして亡くなった。
 ◆ ◆ ◆
 『大場惣吉の没後五十年経ったいま、私は開拓者として生き抜いた祖父の魂を無駄にせず、大場家を継承して行きたいと思っています。
 お集まり頂いた身内の皆様方には何かとお世話に成った事と思います、祖父惣吉に成り代わり厚くお礼申し上げます。本日は誠に有難うございます。』

  掲載省略 大場家系図

機関誌   郷土をさぐる(第27号)
2010年3月31日印刷     2010年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一