郷土をさぐる会トップページ     第27号目次

白銀荘から見た噴火の状況

  和田宗只 昭和九年五月十五日生(享年五十七歳)

 当時、小生は寝ていて家内に二十二時三十分に起こされました。というのは二十二時十五分頃犬二匹が吠えたので、常時高山植物の密採に悩まされているので、植物密採と思って犬の吠える外を見た。外はうす明るい風の無い静かな夜であった。
 家内は家の前(十勝岳)の方に白樺のように白い木のようなものが見えたので、こんな所に白樺があったかと疑問をもったがよくわからない。飛行機の飛ぶ音とシューシューというような音を一緒にしたようななんとも説明の出来かねる音がわずかにしていたので、そのまま窓から十分位見ていた。その頃になってようやく新噴火が強くなったのに気付き、小生を起こしにかかったが、「盗採はどこだ」とかいってなかなか起きてくれなかったので、家内はその間に自分自身の身支度をしながら、なお小生を起こす。
 小生が起きたのは、二十二時三十分でその時は鳥(ツバメかハヤブサという鳥)の飛ぶような音、車のニュートロで山道を下る時の音を一度にしたような音がして、家内が十五分の時気付いた時よりやや大きかったとのことである。
 二十二時三十分、小生は自分の身支度をし、家内はたまたま白銀荘に宿泊していた女三名、男一名を起こしに行く。その間、身支度をすました小生は、町の営林署上富良野担当区を事業電話で呼んだが、夜分の事とでなかなか出ず、途中の十勝岳造林合宿所で電話に出てくれたので、町の担当区を呼んでくれるようにお願いした。この時かなり大きい爆発音を聞き、強い振動を感じる。この時刻は二十二時四十三分で、家内に起こされた宿泊者の言うのには火柱を二十二時四十二分に見たと言っていた。小生は電話にかかっていたので火柱は見ず、家内は子供の支度をしていたので、爆発、振動、稲妻、火柱と、ほとんど同時に見聞きしたが、時計は見てないので時間は分からないとのこと。それに家の中にいたので(山の方のカーテンはとっていたが)、火柱か、稲妻かよくわからぬが、火柱というよりその時は稲妻であるらしいと言っている。
 町の電話がなかなか出ないので小生は外に出て噴火の様子を見た。四十六分、噴煙はほとんど真直ぐ黒々と立っていたが、やや西の方に傾きつつあるようだった。四十七分、煙は又すぐ昇る。この間、何度か稲妻を見たが時間は不明。音はドーンドーンというような耳に痛く感じるような音であった。この時、火柱を見た。二十三時、町で電話に出てくれたので、その後は電話にかかりきりで時間的なことはわからない。尚、小生の時計は、三十日午前五時のNHKのラジオ時報に対して誤差三十秒以下と記憶している。

  掲載省略 写真 昭和36年頃の白銀荘と勝岳荘

 尚、八月六日上富良野の会田氏(会田氏は会田温泉の所有者で十勝岳については昔からよく知っておられる方)が来訪、三十日朝の第二回目爆発直後から、その日一日写した八ミリ(カラー)を見せてもらいました。画面が暗くてよくわかりませんが、一つ目に付いたのは黒煙を噴き上げている火口から、山麓に向って、白煙を上げながらサーッと何かが流れ出るのが一度だけ写っておりました。流れた距離は、画面から切れて写っておりませんので、よくわかりませんが、あまり長くないようでした。
 会田氏の話の中から、気のついた点を列挙します。
一、地震のあったあと(日付不詳五月三十一日の有感地震かと思われる)三つの火口(安政、大正、昭和)から出る煙が一時黒くなった。
二、六月二十九日、夕刻の噴煙は普通ではなかった。状況…噴煙の色は、いつもと同じ白色だが、型がいつものように団塊の大きい煙ではなく、爆発後と同じように、キメの細かい噴煙が重なり合って出る状態で、勿論、爆発後の規模とは比べものにならない。しかし、型としては無理に押し出された煙であり、爆発が近いと思った。
三、六月三十日、大爆発のあと噴煙の状況を観察していたが、火口は現在の三つがいつも噴いたのではなく、噴出している火は始終移動していた。つまり、一〜二の火口から強い噴煙がしばらく続くと、噴出物のため穴がうまり噴煙が弱まる。すると別の所に、噴煙の強い穴が出来、その中に又つぶれるというようになって、噴煙のつよい処は移動していた。
 又、磯部硫黄の塩田、佐藤両氏から、下記のようなことを聞きました。
イ、一週間ほど前から、大正火口内でいつもと違う臭いがしていた。自分だけかと思い同僚に聞いてみたら、「そういえばちがうようだな」といっていた。(佐藤氏)
ロ、六月二十九日、丸山上の(大正火口)新亀裂を調べに行ったら、ガスにまかれた。この時クシャミが出て止まらなかった。以前は煙にまかれてもクシャミの出ることはなかった。何か新しいガスが出ていたのではないかと思った。その時塩素の検知管を持っていなかったので、翌日調べるつもりでいた。(塩田氏)

  掲載省略 写真 會田久左工門氏が白銀荘で撮影した写真の1枚
             (4つの火口から出る噴煙が大噴煙柱となっているのが分かる貴重な1枚)
―和田宗只氏の経歴―(編集委員記)
昭和九年五月十五日 山梨県大月市にて、和田傳造家の三男として出生。
昭和二十七年三月 山梨県大月高校を卒業、家業の織物業に従事。
昭和三十四年 兄姉の居る北海道に渡道。
昭和三十四年四月二十九日 日の出に住む、西山直子さんと結婚。
昭和三十四年十月一日 富良野営林署臨時職員に採用され、林野弘済会の管理する白銀荘管理人となる。退職後、高山植物監視人、住吉住民会会長の要職に就任。
平成三年六月二十五日 享年五十七歳で逝去。

編集後記
 簡易印刷の『十勝硫黄鉱山噴火災害誌』磯部鉱業株式会社技術室(昭和三十七年十一月十五日発行)に、和田宗只氏の体験記が掲載されていることを知り、原文のとおり原稿を起こしました。この体験記は、当時の噴火の状況を近くで見た貴重な経験として伝えるものであり、噴火の経過と現象が詳述されていることから火山研究者などにとって価値のある資料で、「一九六二年(昭和三十七年)十勝岳噴火」に関する研究書・学術書等に引用されています。
 和田宗只氏の体験記の中で、会田久左工門氏に触れているが、白銀荘のそばで大噴煙柱を撮影した会田氏の貴重な写真が、どのような経過をたどったのか撮影者が全く別人の名前で各種の噴火資料等に掲載されている。会田氏の家族によると、これは久左エ門氏の撮影した写真が複写されて流出したようである。また、明らかな誤りと考えられる、会田軍治氏撮影という説明書きの写真もある。昭和三十七年の噴火当時、二十九日深夜に噴火が起こり、三十日の朝、夜が明けるまでに中茶屋付近で交通規制が開始されており、一般人・報道陣など一切十勝岳地域への入山が出来ない状態で、唯一の例外として、建設中の凌雲閣に居た久左工門氏が凌雲閣から白銀荘へ通じる道路を通って、交通規制に会うことなく白銀荘のそばへ行くことが可能であった。しかも、写真を撮る愛用のカメラがあり、八ミリカメラで噴火の状況を映像に収めており、早朝の大噴煙柱を撮影できたのは会田氏以外に不可能と考えることができる。
 昭和四十三年四月二十日、北苑社発行・朝日新聞北海道支社編『火の山』の表紙カバーに噴火の写真があり、説明書きに「カバー写真は、爆発する十勝岳(昭和三十七年六月二十九日朝日新聞社機から撮影)」とある。この写真は、白銀荘の付近から写されたものと推定でき、前十勝岳の斜面と松の木の位置関係から、低い角度のところから写されたにもかかわらず、航空機からの撮影と断り書きがある。しかも、噴火は二十九日に始まっているが、和田氏の手記にあるように夜の十時過ぎのことであり、二十九日にこのように鮮明な日中の写真が撮影できるか疑問が生じる。夜が明けた三十日の早朝、大噴火の噴煙をとらえた映像であり(三十七年の噴火で出来た〇火口、一火口、二火口、三火口のすべてから噴煙が上昇…正午ころまでこの状態が続き徐々に衰退。)、この本が発行されたのは噴火から約六年後で、新聞社の資料として集められたうちの一枚が誤って掲載されたことも考えられる。
 一九九五年六月三十日、株式会社朝日ソノラマ発行・小池省二著『北の火の山』で、昭和三十七年十勝岳噴火に触れており、「六十二年の十勝岳大噴火=六月三十日午前九時、芦別岳上空で朝日新聞社機から」という説明書きの写真がある。本多勝一記者と若林邦三カメラマンが三十日未明、丘珠空港を朝日新聞社機で飛び立ち、撮影したとある。

  掲載省略 写真 北海道防災会議編「十勝岳」に掲載されていた写真、
              会田軍治氏撮影となっている

 この空撮写真は火山学者らに高く評価され、北海道防災会議編『十勝岳』などに転載されていると書かれている。このように、空からの撮影であり、推測であるが立ち入り規制の行われている白銀荘近くの地上から、カメラマンが三十日早朝の大噴煙柱を撮影したことはないと思える。
 昭和四十六年三月発行、北海道防災会議編『十勝岳』には朝日新聞社の空撮写真をはじめ、数多くの図版(写真)が掲載されており。図版U―十二に、「一九六二年六月三十日〇四時、白銀荘からみた噴火。(上富良野町会田軍治氏撮影)」という説明書きの写真が載っている。これは先に紹介したように久左工門氏の誤りと考えられる。
(編集委員 三原康敬記)

機関誌   郷土をさぐる(第27号)
2010年3月31日印刷     2010年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一