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里仁の有線ラジオ共同聴取事業

上富良野町西九線北三十四号 高橋博男
 大正十五年八月十日生(八十歳)

はじめに

忘却の彼方に、遠く昭和二十三年ころの青年団事業として行った、里仁の有線ラジオ共同聴取事業について記録を残してはと先輩に勧められ、青春時代を想い起こしながらまとめて見た。

戦後もの不足の中、青年団立ち上がる

昭和二十年八月十五日の敗戦によるショックも冷めやらぬ時代背景の中で、四十数戸の農家が、馬を頼りに食糧増産に励む毎日であった。里仁部落は電気の恩恵もなく、夜になると町市街地(当時は村)の電灯の明かりを、遠くから羨望視していた。そのころ、里仁伝統の夜学会も、ランプの灯の下で九月末ころから定期的に行っており、先輩らが海外から復員してきて、日本の将来を論じ合っていた。
ラジオ共同聴取事業への取り組み
そんな中、当然のごとく青年団活動の使命感で、先ず「郷土を明るくする」を事業目標にしたが、電化を図るには当時では無理であり、ラジオの共同聴取事業はできるだろうと、私は知る限りの情報を集め、団に提案した。
町内で既に共同聴取施設を実施している東中七部落(床鍋正則代表)の成功例を紹介した。幸いに当地区に知る人もおり、事業委員会を組織して実施することになった。ただ、部落内に配電されている家の協力が前提なので、津郷農事組合内に数戸あった中で、町のスキー指導員で活躍の村上隆則さんに懇願し、親機の管理委託をすることの快諾を得て、親機の発注と資材の準備が進められた。
この頃は、まだ物資不足の時代だったが、親機は市街の阿部金物店横の奈良電気店で、高性能の九球スーパーラジオ・出力十ワット一台と外線、碍子[がいし]など資材を発注。外線を張るのに必要な支柱は、径十二センチ以上で長さ四メートル、地形により九十〜四十メートルのスパンに耐える支柱を、各戸で用意してもらった。各戸に取り付ける小型スピーカーは、できるだけ青年団員の手で行った。
本放送開始と障害の除去
工期は昭和二十三年十一月末に、先進地のモデルに学び、順調に進められた。点検も終わり試験放送の結果、音声その他は期待通りの成果だったが、一部に富良野線の鉄道専用電話と混合することが解り、団員が総出で改善に手間取るというハプニングがあった。原因は、沼崎地区に行く鉄道横断する線であった。上部は越せないので、踏切り横の幅二メートル位のガードの中を通した外線にあり、この部分を被覆線に替えて解決した。この間美馬牛駅長の好意により、テスト実験も行った。
その後、村上さんの適切な管理運営で、長い冬を楽しく過ごしたことは言うまでもない。住民会を始め各種団体の広報伝達が、有線放送で行える便利さがブームとなり、昭和二十六年、全町に有線網が整備されて、本機が公民館に設置され、全町放送が行われるようになり、地域は支局となって運営された。
テレビ時代の到来と有線放送の衰退
昭和三十年代に入り、有線放送に農村集団電話が取り付けられて、農家各戸が自由に話す事が出来るようになったが、時代は日進月歩復興のときで、電力事情も好転し、僻地でも電化が進んで、三種の神器(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)をはじめ、自由に文化を選択できるライフスタイルに変貌した。有線放送用の支柱も、機械化農業の支障となり、配線も腐食するなど、更新期に廃止の運命になるわけですが、わずか数年余りといえ、戦後不況の中、農業の振興発展と青年団や各種団体活動の育成、振興に果たした役割は、多大のものがあったと言える。

機関誌   2007年 3月31日印刷
郷土をさぐる(第24号)   2007年 4月 1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一