郷土をさぐる会トップページ     第24号目次

故 岩崎きくゑ(旧長澤)大正二年三月二十日生(満九十三歳)の半生記
十勝岳大爆発、山津波に遭遇して

上富良野町東六線北十九号
岩崎治男 昭和十六年四月七日生(六十五歳)

石川県より北海道へ

大正十五年、今年の冬はいつになく舞雪(降雪)の量が多い。山は、雪解けが遅れている様である。
しかし、一週間程前から不気味な灰色の雲が空一面を覆い、来る日も来る日もシトシトと雨が降り続いている。
十勝岳は、どんよりとしたモヤで見る事が出来ない。何か、東の山の方で山鳴りが聞こえてくる、雷の響きの様でもある。
私達家族は
   父・長澤勇次郎 当時三十五歳
   母・長澤カズ 当時三十三歳
   長女・長澤メツイ 明治四十年七月十四日生十三歳 後に森田英松(明治三十七年九月十二日生)と結婚
   次女・長澤テル 明治四十三年八月五日生十〇歳 後に瀬川松太郎(明治四十二年生)と結婚
   三女・長澤きくゑ 大正二年三月二十日生八歳 後に岩崎與一(明治四十四年十一月二日生)と結婚
   四女・長澤ツヨノ 大正六年三月二十四日生四歳 後に本田茂(大正二年九月五日生)と結婚
このように、女ばかりの四人姉妹である。


私、きくゑ(当時八歳)の一家は、石川県羽咋郡北志雄村字所司原と言う山合いの山村集落で分家したが、北陸の狭い農地では家族六人の食いぶちは賄えなかった。
子供の頃、家の前の街道の庭には大きな柿の木があり、柿の実を取って食べた。
大正七年、父母は土地の広い北海道移住を決意、石川県より小さな船で、同じ北海道での未来を夢見て、同胞と共に海を渡って来たのである。小型の船ゆえ津軽海峡の波は荒く、船酔いする者も多く、やっとの思いで函館港に接岸上陸した。
私の父勇次郎は、北志雄村字所司原では何代も続いている農家、長澤家の次男坊である。勇次郎は父長澤源次郎、母さとの二男として、北志雄村の山合いの集落で生まれた。
勇次郎の妻カズは、富山県氷見郡熊毛村字論田、荒屋権右ェ門の娘である。カズは、富山県氷見郡熊毛村より県境を越え、石川県羽咋郡北志雄村字所司原の長澤勇次郎の元へ、縁あって嫁いできた。熊毛村と志雄村とは、県こそ違え、ふた山ほど沢を越えればすぐの集落であり、先祖代々付き合いも広く親戚も多い。
勇次郎とカズは、結婚後長澤の本家、兄長澤久太郎の家で、野良仕事を手伝っていた。
明治四十年七月二十七日、長澤久太郎方より僅かの農地を貰い受け、分家した。僅かの土地では、家族を養えんと判断した勇次郎夫婦は、未知の土地北海道行きを決行した。大正七年五月九日の事である。
頼りは、先に北海道へ渡った勇次郎の弟、達次郎の声がかりであり、富良野原野の目的地めがけ、列車と徒歩でたどり着いたのである。
弟長澤達次郎とその妻イトは、歌志内より下富良野(現在の富良野市)を通り、上富良野村字中富良野東中東六線北十七号で、いくらかの土地を手に入れ、先駆者として農業を営んでいた。
私達家族も、達次郎の隣に住宅と土地を借り、住まいを始めた。住宅とは名ばかりの小屋で、長柾葺きの屋根、壁板は雨・風をしのぐ程度である。冬になると吹雪が壁の隙間から吹き込み、寝ているふとんは真っ白である。
真冬のしばれの厳しい夜は零下四十度近くになり、寝間はストーブも無くすごく寒い。着ている掛け布団の襟は、吐く息で真っ白になり、布団の襟元もパリパリに凍っている。
私達姉妹は、掛け布団を頭からスッポリかぶり、寒さをしのぎ寝たが、手足がひゃっこくて、中々寝つかれない。姉妹四人は、薪のオキコタツに四方から足を突っ込み、少しでもあったまる様にして寝た。
家の外を歩くとき、ゴム靴などは無かった。父勇次郎と叔父達次郎は、稲ワラを小ズチで叩いて打ち、しなやかにしてツマゴやワラジ、ゾウリなど、皆の履き物を編んだ。
稲ワラ細工は、雨降りは背中に着る雨除け藁ミノ、赤ん坊を入れる藁イズコ、炊きだて御飯が冷えぬ様めしをオヒツに入れて置く、藁わっぱ等ひまを見つけて造っていた。神社の鳥居に飾る太くて大きいしめ縄から、お正月などに玄関の前に飾る細いしめ縄まで、大小さまざまな稲ワラ細工を器用に造って、日常品として用いていた。
父母と姉達は、達次郎叔父の野良仕事の手伝いをした。
この地は、泥炭土壌の為ホウレン草は育たず、囲炉裏の薪の灰を散き、中性土に変え、作土つくりをしていた。そうして、何でも作れる土地にするのだ。
父は暇を見つけて木の抜根を起こし、荒地を耕して農地を拡げた。まだ、国から払い下げられた土地は開墾の途中で、あちこちに原始林が残っている。
付近は沼地帯で、柳や谷地ダモの木、笹やイタドリが生い茂っている。

   写真省略 大正7年渡道した頃の住宅と馬小屋(カヤぶき)

私は木綿カスリの着物で、東中七線北十八号(元の尾岸家、現尾岸孝雄町長旧宅向かい)に在った東中尋常小学校へ通い始めた。
学校通いは、いとこで二つ歳下の長澤ハナと一緒である。ハナちゃんは、キンシャの品物の良い着物を着ていた。私も着たかったが、内地から移住して来たばかりで、姉妹の多い貧しい我が家ではとうてい無理であった。
履いている下駄の鼻緒が切れるため、下駄を着物の懐ろに入れて裸足で通った。春はたんぽぽの花や茎で、腕輪・首輪を作ったり、相手が手に持ってたんぽぽ切りなど、道草をしながらである。
冬は綾とり、糸とりをして遊んだ。男の子は石投げや石蹴り、棒っこでチャンバラごっこをしていた。男子女子一緒になって、隠れん坊、陣取りやケンケンパー、小物に細ひもを付け、ホッピキなどをして遊んだ。
長澤達次郎叔父の家には、長女トク、長男達次、次女ハナの三兄妹がいた。ハナちゃんの家には、乳の出るヤギが一頭いて、乳を貰って飲んでいた。
直径三尺も有る木の根株が有り、ここで腰をおろしいっぷくしての、学校の行き帰りであった。教本は無く帳面、鉛筆がわずかあっただけである。
この学校は後に火災で焼失し、生徒名簿も、確かな記録は無くなったと聞いている。

塩の買い出しと、創成尋常小学校

父勇次郎は、塩の買出しに旭川へ出かけた。往復全行程は歩きである。
母カズは夜中に起きメシを炊き、にぎりめしを作り、ホウの木の葉に包む。
父は夜明けを待って、それをリックサックに入れて背負い、サラシ手ぬぐいで頭にねじり鉢巻をし、足はタカジョウ靴にキャ半を巻き足早に歩いた。
約十里(四十キロ)の道のりを、昼頃までに旭川に着き、塩・玉砂糖・魚の煮干し等を買い出し、リュックサックに詰め込み、道中草わらでいっぷくしながら夜中まで掛かかって帰って来た。
父勇次郎が求めた叔父達次郎の隣りの土地は、小作地であり借り住まいであった。
水稲の種は、たこ足式モミ播き器や猫の足式モミ播き器(たこ足式より足が短い)に依る実播きで、反収は5俵位いであったと聞いている。
小作料の年貢は米で納めたが、高い年貢であった為家計は苦しかった。米の取れ高の半分の量を、小作の年貢賃として地主へ納めた。
二年でこの地をあとにして、新天地上富良野村字草分、西三線北二十七号吉田清二さん(現在のフラノーブル・マツオ)の裏手の農地に小作人として入植し、農業を始めた。
この地で、大正九年四月弐日、空知郡上富良野村字上富良野西三線北二十七号への転籍届けを上富良野村役場へ提出した。
石川県を出発して二年間は、上富良野地域で居場所を転々としたので、役場に転籍届けを出していなかった。
江幌方面より流れて来る江幌完別川の支流は、米作りに適した土地である。ここは肥沃な土壌で、良い米が取れた。
私は、草分の創成尋常小学校へ転校、六年生を終え、校長先生より卒業証書を頂いた。
大正十四年三月二十一日、第二十四回卒業生二十三名の名簿を、卒業記念写真より記した。
同級生は、長澤きくゑ 吉田千里 館大觀之輔 松浦幸坂 伊藤忠司 稲垣ゆき 多湖言行 白井チエ子 富田シズエ 及川長太郎 東明フジエ 後藤康隆 廣川儀一 井上榮 岡サノ 猪飼ヨシ 山田喜作 青柳秋見 村井弘 田村友太郎 金子恵子 島田コナギ 佐々木正一 以上二十三名
級長で総代は、廣川儀一さんが務めていた。
隣り近所は伊藤さん、高士さん、大角さん、川喜田さんがあり、何せ物の乏しい時であり、日常生活用品の貸し借りをしながら和やかな暮らしをし始めた。
私達、長澤一家が住みついた土地は西の山の下を流れる江幌完別川の支流で、土も肥えていてうまい米や五升芋、なっ葉が取れた。
上富良野市街への日用品・生活品の買出しや、草分尋常小学校への行き来もわりかし近く、便利のよい所に陣取ったと、娘たち四人と、おとっつぁん、おっかさんは喜び合っていた。
あくる年に、我が家の田畑、建物が、全部泥流で埋没するとは、誰も予想する由も無かった。
ここの場所で腰を落ち着け、「永遠の安住の地にしよう」と、おとっつぁんは家の皆にいっていた。

農耕馬の導入

大正十五年、田の開墾が始まった。
か細い農耕馬を一頭、馬喰(ばくろう)さんから伴堵(ばんど‥仲介料)により手に入れた。
この頃、馬を手に入れるには馬喰が家に来て、売り主買い主の手の上に座布団を掛け、五本の指を使い、サインのやり取りで座布団の下で値段を決めるのである。
馬の値が決まると、皆でシャン、シャン、シャンと手打ちをする。薪ストーブの廻りで、どぶろく酒を茶碗に酌み、決め酒を呑み、伴堵賃をやって引っ張ってきた馬を置いて、心良く帰って行くのである。
買い入れた馬は、山からの木材の運搬、店への日用品の買い出し、ミカン箱に米のすり糠を入れ、割れない様に卵をいれて、養鶏所(中富良野村芦田幼雛所)へ有性卵を届けたり、お寺(西中、教覚寺)への秋穂初米を届けたり等、馬車や馬ソリを引いて働いた。
檀家でないが、地本寺でお世話に成るので、東中倍本東十線北十九号、専妙寺(住職長尾乗教)にも秋初穂米を供えた。
馬の導入は百性の重要な労力であり、家族の手足として、こんな重宝な物は初めてと皆で喜んだ。愛馬が来た夜はぼたもちを作り、家族が集まり、親戚を呼んでお祝いをした。春、プラオ(プラウ)で水田を耕し、ハローで土を砕だき、ムシロを切って水戸口に当て、ようやく灌漑溝より田へ水を引いた。
今年は、冬場より東の方で山鳴りがしていた。腹の底まで響く様な、何とも言えない低く不気味な音である。又、小さく肌に感じる地震がちょくちょく有った。
不気味な山鳴りは、日増しに強く成って来た。一週間程前から雨が降り続き、遠くの方で山鳴りがしている、何か起こらなければ良いがと、話し合っていた。
我が家は、父以外女ばかりの為、西側隣りの高士仁左衛門さんより、息子さんの勇次郎さんに手伝いの手間を貰っていた。高士さんの農耕馬は体格がでかく頑丈で、馬鍬を引いての代かきは、はかどっていた。高士仁左衛門、妻よしの間には、五男二女(清吉、勇次郎、キクエ、キミエ、政一、茂雄、武雄)がいた。高士一家は、三重県より移住した三重団体の一族である。
しかし、高士仁左衛門さんは上富良野に来る途中、西神楽旭農場で「辺別で一作して」と、思った様だ。目的地の上富良野に行っても、作物の種が無ければ百姓は出来んと考えたのである。
仁左衛門は、この土地で「種子を作ってからにしよう」と言って、滞在した。
若い男(息子四人)の働き手があり、西神楽で良質な土壌の農地を借り受け、ソバの種を蒔いた。
ソバは六月に種を蒔き、わりかし短い期間で九月には収穫出来る。夏作の絶好の作物である。荒地を切り開いた真新しい土地は、ソバの作付けに適し、大量のソバが収穫できた。
三重団体の皆より一年遅れの次の年、穫れたソバを上富良野に持ち込み、自分の畑にソバ種として蒔いたのである。
一年先に上富良野に到着、楡の木の下で一夜を明かして入植した連中は、荒れ地を切り開き、畑を作った。連中は蒔く種が無く、考えあぐんでいる。
高士仁左衛門は、ソバ種を皆に配り、大きな収入を得た。仁左衛門はソバで当て、農地を買い求め、四人の息子達を次々と分家させて行ったのである。
更に、農地を拡げて大地主となり、上富良野村の村会議員の要職等をこなした。
家の父勇次郎は、農耕馬に代かき用馬鍬を引かせ、田んぼ均しをしながら時どき畦に腰を休め、不安そうに十勝岳の方に目を向けていた。
勇次郎は、「何か不気味な、予感がする」とつぶやいていた。
鈍よりとした渋い灰色の雲が垂れ下がり、シトシト小雨が降り続いている。確か、午後四時頃だったと思う。
末っ子のツヨノは、まだ小さかった。創成小学校から帰り、田んぼの隅っこに置いてある野台子(手で移動式、子供を入れて置く子守り小屋)で、一人で綾とりをして遊んでいた。
私たちも、あぜ塗りぐわで田の畦ぬりをしていたが、腹が減ってきた頃であった。
東の山懐ころで、突然、腹の底をつん裂く様な大爆音がした。
大変だ、十勝岳が怒った、雪解けの遅れたこの春、十勝峰は深雪で真白である。
山が爆発したようだ。山津波が来る。
爆風と溶岩で溶けた雪解け水は、山腹の溜め池を呑み込み、日新の沢を駆け下りた濁流は、山津波となって原野一面を襲った。
父勇次郎が、きわだった大声で叫んだ、「早く西の山え逃げろ。」誰が言うともなく、「山津波だ、早く逃げろ、逃げれ」田や畑で野良仕事をしていた者達は、西の山めがけ一斉に走りだした。
おとっつぁんは、馬の引く代かき用の馬鍬を胴引きごと外した。馬の背ずり道具は付けたままだ。
父は、裸足で馬の口輪の綱を引き、急ぎ足で西の山へ向かった。
お手伝いに来てくれていた、隣りの高士さんのあんさんは若い人なので、さっさと裸馬に乗り、西の山へ逃げたもようだ。

十勝岳大正15年の大爆発

私達、四人姉妹とモンペ履きのおっかさんも、西の山へ向かう。途中まで来たおっかさんが、突然引き返す。
メツイ姉が「どうした」と叫ぶ。
母カズは「仏壇にあげましてある、阿弥陀様を持って来る。」引き返した母は、家のハンコ(印鑑)と僅かな金額の通帳、阿弥陀様の巻物を着物の懐ころに入れ、両手で押さえ、再度西山に向かって走って来る。
姉のメツイ、テルと私きくゑは、花がすりのうわっぱりにかっぽう前掛け、腕ぬき、モンペといった仕事着のまま、いちもく散で西の山目がけて走った。
末っ子で、私より四つ年下、一番小さいツヨノも、姉達に負けじと走っている。
山津波が、押し寄せて来ている。
太くて長い何百本もの丸太ん棒が、枝や根っ株のまま縦ん棒になって、雪解け水と共に、もの凄い縦渦となって迫って来る。
おっかさんは、慌わてて走った為息が途切れたのか、足取りが遅くなった。
山津波は間もなく、おっかさんを呑みこもうとしている。
どうにか、山に辿り付いた四人の娘達、必死で「おっかさん、早く、はやく」、「山津波にさらわれる、早く、はやく」と叫んだ。
津波が山にぶつかるのと、同時と言っても過言で無い程の近差で、やっとの所でおっかさんカズは山に辿り着き、難を逃れた。
畑の丘に辿り着いたおとっつあん、おっかさんは、危険を承知で持って来た阿弥陀様の巻き物を広げ、両手を合わせて拝んでいた。山にぶつかった津波は東の方へ去り、また少し低い波となり、幾度となく訪れた。
家族皆、命だけは助かったのである。命拾いとはこの事であり、不幸中の幸いとはこの事である。
あとで聞いた事であるが、十勝岳大爆発で泥流が発生、濁流となって人家をなぎ倒し、ヌッカクシフラノ川、鉄道の線路を越え、一瞬にして農地を悪酸性土壌に変貌させた。
人の命も奪い、多数の死傷者が出たのであった。
門信寺、明憲寺のぐるりには、犠牲となった遺体が並び、身元探しでごった返しだった。
山に辿り着いた私達は、その夜は西山の畑の、えん麦殻のニオの間で体を寄せ合い、寒さをしのぎ、一夜を過ごした。
夜明けと共に悪夢を見る光景に、ただ、呆然とするだけだ。誰も、言葉にならないらしく、寂しく泥沼と化した草分原野を見つめるだけである。
父勇次郎はポッリと言った。「わしらは、どんな災難にあおうと、生き抜かんといかんのじゃ」と。

避難生活

ここから、過酷な避難生活の始まりである。
大正十五年頃の北海道は、開拓のさ中冷害が続き、どこの家も皆貧しかった。
汗して取れた収穫物は、屑を集めて家族で食べ、良い穀物は全部出荷しお金にかえた。
西山の畑地帯の人は皆親切である。私達、親子六人を泊めてくれ、食事を出してくれた。
食材は麦メシや中長豆メシ、五升芋メシで有り、カイベツ(キャベツ)汁、五升芋の味噌汁、ソバ、アワなども飯台にでた。
小麦等は、石臼で粉にして、イナキビ団子、うどん、そば等、米の無い時代であり、主食としていた。
フキやウド、ワラビ、キノコの塩漬けなども出して食べさせてくれた。
甘い物は無く、甜菜(ビート)を包丁で輪切りにして台鍋でゆっくり煮詰め、料理に使い、糖分を補給していた。
納豆造りは、稲わらの筒に茹でた大豆をいれ、堆肥の中に入れてムシロで包み、発酵させて作るのである。稲わらより出る酵母菌と、堆肥より発散する適温の熱により、粘りの良い美味しいわら筒納豆が出きた。
私達は十勝岳爆発の災難に追われ、山に逃れ、農家に泊めてもらった。
農家では、出してくれる食事に父と母は、茶碗に箸をつける真似をするだけである。四人の娘達に食べさせたくて、おとっつぁん、おっかさんは何も食べずに、皆と一諸に「ご馳走さん」をするのである。
やがて飽きられ、途方にくれ、西山の少し奥地の民家へと宿を変え、飲まず食わず着のみ着のままでの避難生活が続いた。
姉達は、それぞれ農家の野良仕事や子守りに、奉公人として雇われていった。
粗食に耐えながらの暮らしであったが、どこの家庭も子沢山であった。私も子守りとして、見しらぬ家で子供の世話をし、辛抱した。
当時、上富良野の畑では、亜麻が栽培されていた。麻糸や麻袋、綱、網、繊維などを造る製麻工場が本町に在り、会社の長屋(社宅)が立ち並んでいた。亜麻会社の長屋は、上富良野劇場の裏手にあった。
村の計らいで、この製麻工場の長屋が、避難住宅として与えられた。周りは皆、十勝岳爆発に依る被災者達である。
村の救援の手は差し延べてくれては居るものの、食べ物不足、着る物不足で、世知辛らく乏しい生活だった。
亜麻は、軍需作物として重要となり、畑作地帯では、反別を割り当てて作付けしていた。製麻工場は、十勝岳爆発後に閉鎖したと聞いている。
草分の水田地帯同様、長澤家の田んぼも泥流に依り、肥沃な良田は泥沼化した。
泥流で、我が家の周りに蓄積された汚泥は、三尺以上あった。硫黄水で酸性土壌に化し、作物の作れる状況には無くなった。
山の爆発、人命だけは助かったが、恐怖と不安感はぬぐえんかった。
逃避行から何日か経って、流木の丸太の上を添い歩き、足を外すとドブに吸い込まれる。やっとの思いで、泥流で埋もれた我が家にたどり着いた。
仏壇、たんす、戸棚等は、半分ぐらい泥土に埋まり、悲惨な状況である。泥土の中から、大正十四年三月(爆発の前の年)創成小学校の卒業記念写真が出てきた。私は、きれいな水で写真を洗い、大切に保管している。
しかし、物資不足のさ中、皆、夢中で泥土をどかし、衣類などを取り出した。多くの物はしみだらけだったが、洗濯して仕事着として役だてた。掘り起こしたタンスは、渡道して来て最初に手に入れた家具なので、大切に使用している。
きくゑの労苦の証として、泥土の中から堀り起こした仏具や阿弥陀様の掛け軸、ランプ、安全燈、火鉢、焼きアイロン、置きコタツ、飯台、立ち板、ゼンマイ時計、ゼン巻式蓄音器などを、今なお仕まっている。ノコ、マサカリ、サッテ、トビ、がん太、刃尾呂、カンジキ、背負いこ、動力として使った水車変動車、俵編み器、産俵編み型、足踏み縄編み機、緬羊の毛を摘む紡毛機、粉をひく石臼、餅つきウス、キネも有る。岩崎(旧長澤)家の家宝として、大切に保管している。
きくゑが被災で避難した実際の体験、教訓により、今も家の者達が守っている事がある。
家族、皆が就寝の時は、非常時の持ち出しに備え、着る物をたたみ、財布、印鑑、通帳、壊中電燈等を枕もとに揃えて置く事が、習慣と成っている。
その後、吉田貞次郎村長の指揮の復興が始まった。
裕福な家は農地を捨て、帯広方面や他の村へ移り、農地を確保し農業を続けた。
西隣りだった高士仁左衛門さんも、一家揃って十勝の上士幌へ仮引越しをしたようだ。
私の家は小作農家で有ったので、泥流で埋もれた土地に見切りをつけ、数箇所移転をくりかえし、米作り農業を続けた。

姓が、長澤より、岩崎へ

昭和九年春、山部村十六線長澤源三郎さん(勇次郎のいとこ)の世話で、縁あって岩崎與一ときくゑは結婚した。
與一は、義父岩崎左太郎に育てられた。訳あって母ハルの弟で、島ノ下の伯父宮崎重太郎家より門出し、長澤家へ婿入りした。
主人となった與一と、妻となったきくゑは、島ノ下宮崎の伯父の所へ挨拶がてら里帰りをした。
朝早く起き、足早に歩いて中富良野村の原野を横ぎって、西の山の方へ少ずつ登って行く。富良野村市街の西、清水山の上で、二人はナラの木のでかい切り株にどっかと腰を降ろし、いっぷくする。
與一ときくえは、緑豊かな富良野盆地を、縦横に走る防風林のそよ風に浸りながら、二人きりの安らぎのひと時だ。富良野原野を一望し、與一は誰に言うともなくつぶやいた。
「この広い原野で、わずかでも良いから、本当の俺達名義の農地(田んぼ)と、家(住宅)を持ちたい」と。
すぐ、我に(本心)に返った與一は立ち上がり、さっさと島ノ下目がけて歩きだした。
途中、島ノ下駅の手前辺りの空知川に、昭和四年に開設したと言われる渡船場がある。渡し舟が出かかっている「私達も、乗せて下さい」と、大声で船頭さんを呼びとめた。
船頭さんは、すぐに引き返し、心良く私達夫婦を乗せて、向こう岸に渡してくれた。私が舟に乗るのは、内地石川県より北海道へ渡って来た、連絡船乗船の時以来である。船の大きさは断然違うが、懐かしく思えた。
渡し舟を降りた私達は、徒歩でみゆき荘温泉旅館の前を通り、與一の伯父で島ノ下の百姓宮崎重太郎の家に着いた。
宮崎家では御馳走を出してくれ、心よくもてなして呉れた。
この時の、清水山での夫與一のつぶやき、農地と家がその後の私達の生涯の目標として、頑張ってこられたのだと思う。
昭和九年、夫與一が婿入りし、岩崎を名乗りたいと言う希望で、姓が長澤より岩崎にする戸籍届けを、村役場に提出したのである。
私のおとっつぁん、おっかさんは、與一が婿に入った事は歓迎したが、名義が岩崎に改変されたのは喜んではいなかった。
内地より代々続いて来た「長澤の姓が消えてしまう」といって、悲しんでいた。
夫の母、ハルの実家宮崎家は子多くさんで、與一と同じ年のいとこ宮崎和三郎がいた。
與一は、お互い体格の良かった和三郎と、相撲をとったり、萬持ち(米俵持ち上げごっこ)をして、競い会っていた。
当時、力持ちは米俵二俵(三十二貫、百二十キログラム)を縛って、一気に持ち上げ、肩へ背負い上げたと言う。
又、宮崎の山手、南側を流れる空知川で、魚すくいや川泳ぎをして遊んでいた。
私きくゑが、岩崎與一と結婚した昭和九年は、富原部落東三線北二十三号、黄田大工(現、黄田建設)の南側を流れる、イタドリ草の茂った幌辺内川の傍に在った。與一は、ここで隣りの早坂謙治(後に、中富良野西中基線北十八号)さんと友達になった。
時が過ぎて、早坂の娘さん冨美ちゃんが年ごろになった時、今井謙吾と言う婿さんをお世話し、私達夫婦が仲人役を務め喜ばれた。
この土地で、長女智恵子が生まれた。赤ん坊(智恵子)の世話は、もっぱらおっかさんに任せて、朝の夜明けから夕方暗くなるまで、與一、きくゑと妹のツヨノは、野良仕事である。田んぼの草はヒエ、ハコベ、三角草、夜這い草、豚の毛、牛の毛、シカの角まで、あらゆる水草が生えるのである。
田の土を両手の指先でかき混ぜ、田の草取りをするので、指の爪は減って血が赤くにじみ出てくる程である。
水口田には、くわイモを植え、副食の食べ物として貴重がられていた。

陸軍兵の夫、與一に面会

昭和十二年、郵送の赤紙で、兵隊の召集令状が来た。
與一は、先に兵隊検査で甲種合格していたので、出兵の覚悟は出来て居たようだった。だが、家の働き手間が取られる事を心配していた。
何の前触れもなく赤紙が郵送で届けられたが、天皇陛下の召集令状なので従うしかない。日本陸軍、旭川第七師団に配属されて、厳しい戦争訓練を受けた。
その後、帰宅が許され、百姓仕事に精をだしていた。
二度目の召集は昭和十二年、函館の陸軍銃砲部隊に配属である。
私きくゑは、数え歳二歳の智恵子を帯で背負い、かく巻きを着て、夫與一陸軍兵に逢いに出かける。
弁当は、ニンジンやゴボウを削ってご飯といっしょに炊き込み、味の良い五目御飯のおにぎりを作り持った。甘い物好きの與一陸軍兵へのおみやげは、あずきを煮て作ったぼたもちである。
石炭をくべて走る、蒸気機関の旅客列車に乗り、上富良野駅より出発した。旭川で函館本線に乗りかえ、日本陸軍函館銃砲部隊へ、夫に面会に行った。夫與一は、何時戦死するか分からぬ、国の戦士である。
與一は、私達母娘を函館市街へ連れて行ってくれ、棒二森屋百貨店で、当時としてはふん発して、高価で大きな日本人形を、智恵子に買ってくれた。智恵子は、「ありがとう、うれしい」と大変喜んでいたのを覚えている。
與一は日本軍隊として、青森を中心に東北地方を点々とし、北の守りに従軍した。
函館山に大砲を人力で引き上げ、要塞で五稜郭や、函館港を見下ろし、任務に就いている時、終戦が告げられた。
戦地では、実弾の下を擦り抜ける様な激しい戦闘も無く、五体満足で帰還した事に、私も家族も安堵した。餅米を磨ぎ、薪釜にセイロをのせて赤飯を蒸かし、仏壇に供え、夫與一の帰りを皆で喜びあった。
この家から、末妹のツヨノが嫁に出、島津の畑作農家本田茂一の息子茂と結婚した。確か、昭和十三年の冬の季節であった。きついシバレで、野原の木々には、樹氷が銀色にキラキラときらめく、厳寒の時期である。
上富良野村役場の前を通り、国鉄の線路を越え、墓地に通じる涙橋(現、上富良野橋)を渡って明憲寺を過ぎると、すぐに妹ツヨノの嫁ぎ先本田茂一、妻オトの家に着いた。
花嫁用の馬橇箱には湯たんぽを入れて、膝には毛布をかけ、暖かくして嫁入り道具用との二頭の馬橇を連ねて、身内が一緒に付いて行った。馬そりのハナに鈴をつけ、ご祝儀にふさわしいシャンシャン馬橇である。
本田さんは大家で、大変豪勢なもてなしをしてくれた。また、立派な結婚祝いの引き出物をちょうだい致し、丁寧な挨拶をして帰って来た。
本田家は百姓のかたわら、当時の商豪マルイチの馬搬による運搬業を請負い、稼いでいたので裕福であった。
姑さんは厳格な人で、礼儀作法から家の家風など、しつけのやかましい方であった。
お茶の湯を沸かす鉄瓶に、少しのホコリも許さない。いつも茶器は、ピカピカに磨いていた。
妹ツヨノは、長澤に里帰りのたんびにメソメソと泣いて帰っていった。よほどの厳しさに、あずましくなく辛かったのだと思う。
ツヨノと茂さんには、三男一女(健祐、邦光、宏行、淑子)の子宝に恵まれていた。
義弟茂さんは、軍隊に召集になり出兵、戦地で足を負傷、両足を切断し、大変な災難を背負う事となった。
体格の良かった夫與一は、負傷者となった茂さんを、登別温泉まで旅客列車で送った。
登別温泉には傷痍軍人療養所があり、駅の乗降連絡階段を茂さんを背中に負ぶって、やっとのことで届けた。
しかし、気丈な茂さんは、ツヨノと松葉杖の二人三脚で、子供達を立派に育て生きぬいた。後に、傷痍軍人と認定されて、政府厚生省より軍人恩給を受けていた様でした。
岩崎(旧、長澤)が、次に移転した所は、同じ富原地区東六線北二十三号、畑中さん、早坂さん、神田正雄さんに挟まれた場所だった。
当時、家の建っているこの場所は中土地だったので、馬車がやっと通れる位いで、貧乏草の生えたデコボコ道しかなかった。土地は広かったが、水田の雑草がひどく、草の少ない東中へ移る事にした。

にわとりと除虫菊栽培

夜明けと共に、雄鶏がコケコッコーと大きな声で、元気よく朝を告げる。
百姓を天職として張り切っている者達は、一斉に夜明けの早起きをして、野良仕事にとりかかる。
鶏を、何羽か街道(家のぐるりの空き地)に放し飼いにし、生んだ卵は唯一の栄養源として生卵、湯で卵、卵焼き、卵酒(風邪薬)として重宝がられた。
鶏は、雪が解け、新芽が顔を出したばかりの作物をクチバシでつついたり、足で蹴散らして、家の者を困らせた。
数年間飼ったひね鶏は、つぶして肉にする。肉は、カレーライス、五目めし、うどん、ソバの具や出汁として、大変、重宝がられた。めったに肉が手に入らない為、家族皆が揃い、鍋を囲み、舌ずつみをうって、「うまいなあ」と言って喜んで食った。
雌鶏は、自分で産んだ卵を二十一日間大切にお腹の下で抱き、あたため続け、卵が孵化しひよこが誕生する。
誕生した雛は、親鶏に餌の食べ方を教わりながら、良い卵を産む鶏に成長していく。こうして、鶏は絶えること無く、飼い続けられたのである。
水田の傍ら、六線二十二号の行き止まり(小丹枝さんの、北側の裏山)の傾斜な畑を求め、除虫菊を一町程つくった。除虫菊は七月ごろ、畑一面白一色の花が咲き、香りもよく良い眺めだった。
山の下に、綺麗な水の湧き出る池がある。除虫菊の草取り仕事で、喉が渇き「冷たい水が飲みたい」と、すぐに水を飲めるので都合がよかった。
除虫菊は、花の開花期に適期刈り取りをして、ムシロの上で乾す。乾燥した除虫菊は、干場で扱ぎ、落とした菊の花をカマスに入れて出荷した。菊の花は、殺虫剤に加工されてノミ、シラミ退治に、唯一の殺虫剤として世間に広く使用された。茎は、蚊取り線香の原料として用いられていた。除虫菊の売り上げ代は、夏場のわりの良い小使い稼ぎである。その後、化学薬品の出現により、価額が低下し、除虫菊の栽培は消滅した。

東中に定住

昭和十六年春、現在地東中の水田の中心部、東六線北十九号に定住した。
東中に来てからも馬車に乗り、通い作で除虫菊作りは続いた。除虫菊畑は傾斜地でも育ち、一度苗を植えれば何年も連作出きる利点があり、種を蒔く手間がはぶけた。
この年四月七日、長男治男が生まれた、夫與一二十九歳、私きくゑ二十七歳の時である。北海道移住、三代目の後とり(後継者)が出き、おとっつぁん、おっかさんは喜んだ。三年後、昭和十九年、次女節子誕生、二十二年、二男充男が生まれ、子供四人となった。治男が生まれた昭和十六年は、日本軍のハワイ真珠湾攻撃が火種となり、太平洋戦争が勃発した。
東中小学校校庭には、御影石の立派な奉安殿が建立された。奉安殿の中には、天皇陛下の勅語が納められている。
昭和二十年、敵国アメリカ軍の攻撃が、日増しに激しさを増してきた。いつ、空襲が起こるか分からない。
夫與一は、家の屋敷の風よけに植えてあるトウヒの木の陰にスコップで土を掘り、防空壕を作った。掘った穴の上に、はさ木を並べ、ワラを掛け、土をのせ、小さい木を植えて敵の飛行機から見えない様にした。出来上がった防空壕の中には、一斗樽に入った飲み水が置いてある。
グラマン戦闘機が、低空で飛ぶようになって来た。
治男と幼い節子は、「怖い、おっかない」と言って、手をつないで防空頭巾をかぶり、フライパンで炒った大豆の保存食を入れた救急袋を肩に背負い、防空壕に逃げこんだ。
上の娘智恵子は、東中の小学校に行っている。確か、智恵子たち生徒は、学校の校庭に在る縦穴の防空壕に逃げ込んで居るものと思われる。
遠くの方で、空襲警報の半鐘の鐘が鳴っている。
南の方、富良野市街で真っ黒い煙が立ち昇った。
富良野駅、国鉄の機関庫が、グラマン爆撃機の爆弾投下を受けた。空襲の攻撃に依り、機関庫の建物や機関車が焼けて大きな被害をこうむった。
まもなく、昭和二十年八月十五日、天皇陛下の降伏宣言で終戦を迎えた。
日本は終戦により、アメリカの侵略とマッカーサー元帥の指揮の元、戦争あとの復興が進められた。
昭和二十四年春四月、長男治男が上富良野村立東中小学校へ入学した。黒の学生帽子と学生服は、新調して着せた。ランドセルは、姉智恵子のお下がりである。私は母親として、着物、羽織で入学式に出かけた。
教室と先生が足りない為、八十人の新入生が一教室ですし詰め教育だ。
保育所の無かった時代、治男は六つ年上の姉、智恵子の学校通いに、にぎりめしを持って子守代わりに付いて行っていた。その為か、カタカナ、ひらがなの読み書きを覚えていた。
担任の国井先生が、「八十名総代、岩崎治男」と読むと、全員一斉に立つ。
一年生の修了式では、息子治男が総代として登壇し、全員の通知箋を受け取って席に戻る。皆、治男に合わせていっせいに椅子に座り、卒業式の晴れ舞台を終了した。
めん羊を数頭、飼う事にした。戦後の物資不足の折、毛糸や衣類の足しに羊毛を取る為、我が家ではめん羊を飼った。一年飼って春五月、体全体に伸びているめん羊の毛を毛刈りバサミで刈り取る。丸はだかと成り、軽くなったひつじ達は、メーメーと飛び跳ねてはしゃいでいた。毛は、金ブラシですいて、足踏みの紡毛機で毛糸にして、靴下、手袋、セエターなどを編んで利用した。
農協取り扱いの北防繊維の羊毛加工へ出す為、集荷に来た職員に預ける。
最初は、襟巻き、かく巻きに加工した。又、生地を加工し、男の三つ揃い背広、女のオーバーや、スカート、ズボンなどを仕立てて、外出着として着用した。このひつじ達は、ナイロン製品の出現に依り、役目を終え消滅していった。
わが家の筋向かいに、私の姉夫婦、瀬川松太郎とテルが農業を営んでいる。瀬川家は、四男四女(みつ子、君子、信市、孝作、美男、末子、雅雄、良子)の子宝に恵まれて十人と言う大家族だ。
米作りの傍ら、以前はカイコ(蚕)を飼ってマュ(繭)を生産していた。
畦草や、土手のふち草を利用して牛を飼育し、牛乳を絞って出荷していた。
食肉用にアヒルを飼ったり、池を掘り地下水を引き鯉も養っていた。大勢の子供達を育てる為、思考錯誤を重ねていた様であった。
次に、瀬川松太郎が飼いだしたのは肉豚だった。私達夫婦は、昭和三十五年より義兄、瀬川松太郎(次姉、テルの夫)の世話も有り、馬小屋、鶏小屋を利用し、豚飼い(養豚)を始めた。豚の種付け(交配)は、日の出、澤田国雄養豚に頼んだ。
多い時は豚百二十頭で、子取り豚(繁殖豚)を十頭飼育し、毎月十頭ほどを肉豚に仕上げ、西崎清畜産に出荷した。豚を大きな籠に入れ、二人で両方からよいしょといっきに持ち上げ、棒バカリで目方を計った。
代金は、西崎さんが腹の胴巻きよりお金を取り出し、現金を手渡しで支払ってくれた。豚はトラックで運ばれ、屠殺場で肉に裁いて加工され店屋で売られる。
サガリ(体の脇腹、内側にある腹膜)は、料って食べる手立てが充分でなく、貰って来て少さく切りカレーライスに入れて食った。家庭では、肉は普段高値で口に入りずらく、サガリ入りカレーライスを皆んなで「うまい、うまい」と言って食べた。
日本国内は、食料増産の時代だったので、肉豚は儲けが有り家計費の助けとなった。
当時、農産物の収入は、農機具代金、規模拡大の土地購入資金支払いで精いっぱいである。副業としての豚飼いは、私達の老齢化に伴い、昭和六十年頃で終止符となった。

学制改革、男女共学始まる

昭和二十二年四月からは、六・三・三・四の新学制により、全国の小学校、中学校で義務教育が始まった。このため旧制中学校の私達は富良野高校併設の中学生となり、三年生を終えると自動的に富良野高校に進学する経過措置となった。
男女共学も当初は大いに戸惑った。「男女七歳にして席を同じゅうせず」といわれた戦前の教育が一転して男女共学となり、中学生と女学生が同室での勉強とは夢のようだった。準備期間は長引いたが、旧制中学から転換された高校校舎には、私達が高校二年の春に女学生を迎え入れて、旧制富良野女学校校舎は新制中学校に変わった。私たちの多感な年ごろに始まったこの学制改革は、思えば学業に専念しにくい時代でもあった。

小作地より農地解放へ

私達、與一・きくゑ夫婦(長澤家)の子供は、
長女 智恵子 昭和十年九月二十六日生、孫二人・曾孫十人・やしゃ孫四人、後に結婚婿 北川力造 十〇年二月十七日生
長男 治男 十六年四月七日生、孫二人・曾孫三人、嫁丸山マサ子 二十年六月二十八日生
次女 節子 十九年四月二十二日生、孫三人・曾孫四人、婿高士辰雄十五年三月八日生
次男 充男 二十二年七月五日生 子供四人・孫九人・曾孫十七人・やしゃ孫六人、嫁白椛勝子 二十二年十一月十九日生 
合計三十六人の直系血族に至っている。
この土地は、安井農場を管轄、管理していた安井新右ヱ門氏(息子、日本甜菜糖会社勤務、安井敏雄)の持ち物であった。
当時、東中地域、安井忠和氏(今雄、みどり)、森口勝三郎氏(勝、淳子)、磯崎義雄氏(稔、福枝)、佐藤ソメ氏(昇、ツヤ)の農地も安井地主の物であった。
何年か小作の後、戦後の農地解放に依り自作地となった。
この間、石川県羽咋郡志雄村所司原の山合いの小さな集落で分家し、長澤家の屋体骨として頑張って来た母のカズが、昭和十九年六月十九日、六十九歳でこの世を去った。
葬式は、部落の手伝いを貰って行なわれた。
葬儀のお参りはお坊さんを呼び、自宅でとり行われたが、家が狭い為玄関の外にムシロを敷き、板で仮の下駄箱を作って置いた。
遺体を入れるお棺箱(棺桶)は、木工場より板を買って来てカンナをかけ、大工気の有る者が作った。
御棺箱の寸法は縦四、横九の付く数字を使う事と決まっている。その為、遺体の身長に合わせて、たて五尺四寸か五尺九寸、横二尺四寸か二尺九寸という、お棺箱が多く作られていた。
死華花も、女衆の方々のお手伝いの手作りで飾られた。祭壇に飾る生花は、隣り近所の庭の花畑に咲いているのを持ち寄って立てた。
式には、親兄弟身内は、着物の上に黒喪服、白喪服を着て長い行列をつくり、棺桶と薪は馬に乗せ、死華花は参列者が手に持って歩いて、東九線北十五号の墓地の焼き場まで送って行った。
十五号の墓地の焼き場には、背の低い加納坊さん(恩墓焼き)がいた。
加納坊さんはお経をあげて、家族や身内と共に骨を拾って骨壷に入れ、最後の親切なお別れをしてくれた。
次の年昭和二十年三月三日、長澤家の北海道行きを決行した父勇次郎が、七十四歳で亡くなった。メツイ姉を筆頭に、四人姉妹は菊の花を捧げ、悲しみの中、涙をながして永遠の別れをした。
昭和十八年、カズの亡くなる前の年、父勇次郎と母カズは、北見市相ノ内で水田農業を営んでいる長女メツイを訪ねた。森田英松、メツイ夫婦には、五男三女(成章、かよこ、登、正子、かず子、茂次、勇、和義)の子宝にめぐまれた。長女、メツイの夫森田英松は道楽が多く、暇を見つけて鉄砲を持って山で狩をしたり、海で魚釣りをするのが好きだった。
父母が、揃って遊びに出かけるのは久しぶりである。與一は、馬橇で上富良野駅まで送って行った。二人は、旅客列車を旭川駅で乗り換え、石北線に乗って北見駅へ着く。英松さんの長男成章さんが迎えに来ていた。
北見市西相ノ内、国道三十九号線沿いの森田家に着いた。相ノ内は、米作りの北限地帯で、たびたびの冷害、凶作で大変の様だ。森田家では、英松の獲ってきた野ウサギや海の魚でもてなしてくれる。
私の両親は北見の姉の家で、一週間ほどゆっくりと遊んできた。
帰りのお土産に、おいしいタケノコ入り五目めしを、竹筒に入れて持たせてくれた。待っている家族は、珍しいごちそうに舌ずつみを打ちながら、親達から森田家のみやげ話を聞いていた。
北見の森田での遊びに行ったのを最後に、父勇次郎は仲の良かった妻カズの後を追うかの様に、この世を去った。
私きくゑは、夫與一の助けを受け、長澤(現、岩崎)の家系を守って行くと與一と共に心に誓った。
夫與一の冬山造材の山稼ぎや土方人夫作業などに依る副収入に助けられ、コツコツと営農を続けて来ることが出来た。
我が家の自作地は、五町歩を隣りの磯崎義雄さんと二軒で半分ずつ、二戸、二町五反歩である。
戦後の農地解放により、一町八反は自作農地に払い下げになった。残りの農地は、地主の安井さんより年賦払いで買い受けた。
のちに、離農した東六線北二十号高橋兼義氏北側隣りの武田豊稔氏、北十八号鈴木丹治氏の農地を買い求め、少しずつ規模拡大を進めた。
長男治男の内孫息子、昌治、昭和四十三年九月三日誕生する。孫娘、美紀、昭和四十二年一月二十二日誕生した。内曾孫、治斗が、平成十六年三月五日に生まれ岩崎(旧、長澤)家、五代目となって北海道移住した事に安堵している。

ラベンダー栽培とヤジリの出土

耕作面積の少ない我が家では、農地の拡大を考えていた。富原で牛を飼い、営農をしている夫與一の弟、岩崎歳雄の声がかりで、富原第二安井農場の大窪さんが土地を手離し、上富良野の市街へ出ると言う。
早速、農業委員に相談し売買契約をした。土地約三町歩の購入価格は、約二百七十万円だった。
昭和三十年代後半は、馬から耕耘機に大変革の切り替えの時期であった。農地拡大と共に耕耘機を買い、作業の効率をあげた。
続いて、国産ヤンマートラクター(空冷二十馬力)、その後、国産井関トラクター(二十四馬力)を導入、一連プラオで畑耕しをしていた。今までの馬耕から見ると、トラクター耕は、土が深く耕きる。
運転席より後ろを見ると、耕した土の表面に何か光った物が見える。降りて良く見ると、十勝石のヤジリである。川石を削って作った斧も出て来た。ここには、豊富な水の湧き出る湧き水の水源がある。過去に、先住民が住んで居たと言う可能性が有る。
又、アイヌ民族が熊や鹿、キツネやウサギ、鷹や鷲などを求めて、狩りをしながら十勝岳、富良野山麓を山越えし、新得方面へ行き来する途中、中継場所としていた事も考えられる。蝦夷と言われた北海道のど真ん中である富良野盆地には、遠い昔の歴史、足跡が、いろんな形で追想される。
傾斜地でトラクターの入ら無い畑には、ラベンダーを植えた。ラベンダーは、香水や石鹸の香料として、脚光を浴びていた。収穫は、七月中頃から八月にかけ、ラベンダーの花が濃い紫色に咲き誇る時期鎌で刈り取り、カマスに詰めて蒸留工場へ運ぶ。
真夏の炎天下、暑さと身体から出る汗、ラベンダーのきつい匂いでへトへトになる。幸い、すぐ傍に冷たい湧き水が有り、喉をうるおし、一息入れ助かった。
ラベンダーは、花と茎をいっしょに蒸留釜に入れてボイラーで熱を加え、液と水を分離して、高質なラベンダーの原液が作られて、札幌市、曽田香料に引きとられた。
傾斜地の畑を利用した、夏場の農家の収入源として、「これで、皆にお盆の小使いをやれる」と言って喜んで栽培した。

子供たちと神社のまつり

百姓を営んで居る者が野良仕事を休めるのは、春祭り、学校の運動会、上富良野神社の例大祭、お盆、秋祭りぐらいのものであった。
長かった北海道の冬も去り、新緑の季節、蕗の薹(フキノトウ)やつくしんぼが見えた。
今日は東中神社の春祭り、土手の縁で、残雪の間から顔を出した新芽のヨモギを手かごに摘む。
新米のモチ米と摘み取ったばかりのヨモギの新芽を杵でモチを付き、仏様と神様にヨモギもちをあげまし(お供え)て豊穣祈願をお祈りする。
甘党揃いの我が家では、ヨモギのあずき餡もちは大好物である。女衆が手で丸めるあとからすぐ、皆の口に入ってしまう。
四月十五日、春祭り恒例の催し、倍本方面十九号の畑で、農耕馬による挽馬(輓馬)競争が行われていた。
中富良野本幸や東中の農民は、雪解けと共に馬にプラオを引かせ、一斉に畑耕しを始める。富良野岳より吹き降ろす春風は、耕こしたばかりの畑の表土を砂ぼこりに変貌させ、土を巻き上げ、挽馬会場を襲う。目を開けて居れない、向こうが見えない程のすさまじい砂あらしである。春風で舞い上がる茶褐色の砂あらしは、東中の春の名物詞と成っていた。
こうした中、優勝旗を賭け、馬の強さを競い合っていた。東中小学校、中学校、合同運動会は、毎年、六月八日に開催する事に決まっていた。会場の校庭の入り口には、落葉の葉でこしらえた歓迎門がある。
青年団の若い衆が前の日に山へ行って、落葉の枝木を馬車で運んで来て、労力奉仕でこしらえた運動会用の通用門である。
内の子供、充男は小学一年、節子は四年、治男は中学一年、東中の学校に通っている。
姉娘、智恵子は家より自転車に乗り、上富良野国鉄駅から汽車で旭川中央洋裁女学校へ裁縫を習いに通っていた。
夜明けと同時に、早起きをした。朝、五時、運動会の合図花火の轟き音だ。学校の校庭で、勇ましい運動会の合図、五段雷の花火が上がった。
運動会会場の校庭には、日の丸の国旗が上がり、掲揚塔より世界の万国旗が三方に飾られ、初夏の風になびいている。
早速、海苔巻き寿し、揚げ寿しを作る。
家で飼っている鶏のたまごをだい鍋でたくさん茹でた。茹でたたまごは割れるので、新聞紙に包んで手提げに入れた。おかずはふきやワラビ、アゲ、天ぷら、コンニャクを煮付け、二段重ねの重箱に入れ風呂敷に包む。お昼弁当の出来上がりである。
東中小学校児童、四百人、中学校生徒、二百人の総勢六百人の大運動会だ。
早く行って良い場所を取らなくてはわが子の競技が見えない。いい場所を取り、ゴザを敷き、お昼は子供達とお重箱を開け弁当を広げた。
見物席の後ろには出店が出ており、運動会しかあらないバナナやチョコレートを買ってやった。野外で食べるおすし弁当は格別であり、「うまい、おいしい」と子供達ははしゃいで食っている。
八月一日、上富良野神社のお祭りだ。私は、夏の涼しい長が着を着きて、草履ばきで末っ子の充男を背負った。
子供達を連れて、砂利道の斜線道路を歩いて上富良野市街へ出かけた。夫與一は野良仕事が忙しく、祭りも休まず家の廻りで稼いでいる。子供達が、市街へ行くのは初めてかも知れない。
一本木(東四線北二十に号角)でいっぷくだ。斜線道路の道中、たくさんの子供ずれがお祭りを見に歩いていく。しばらく歩いて、がんび川(ヌッカクシフラノ川)の橋のたもとで休んだ。がんび川と言うだけ有って、硫黄化の土地に生える白樺の大木とイタドリが覆い茂っている。
まず、上富良野神社拝殿に、鈴を鳴らしてさい銭をあげお参りをする。
神社境内には、お祭り余興の芝居小屋が出ているが、先に見世物小屋の方へ行って見る事にした。見世物や露店が並ぶ会場は、上富良野劇場の方である。
子供達は、喉が渇いたと言う。上富良野小学校の裏手に沼があり、浦島さんの家の所にあるツルベ井戸を見つけた。
子供達は、珍しいツルベ井戸の天ぴんを使い桶を釣り上げ、冷たい水を汲み、変わるがわる飲んでいる。
上富良野劇場を越えた道路ぎわに、足場丸太を組み合わせて立て、ズックのテントを張った見世物小屋が立ち並んでいる。犬の曲芸、ヘビを飲み込む人間ポンプ、生まれながらのオッパイが四つ、足が四本、ろくろく首など、あやしげなのがある。見世物の花形、ブランコサーカスを見ることにした。曲芸師が、ブランコからブランコへ、手放しで渡り歩き、飛び回る。男女が、空中で織り成すすばらしいブランコを使った妙技に、手に汗握る迫力とはこの事だ。その他、オートバイ乗りの曲芸、お化け屋敷など、一度は見たいテント小屋が立ち並んでいた。
露天街を見て廻りかき氷を注文、子供達は「飲み物か食べ物か分からない」と言いながら、初めての味を楽しんでいた。
神社へ戻り、木陰で持っていったスモモの入ったおにぎりとたまご焼きを食べた。
西の山へ日が暮れる頃、おみやげにわたあめを買って、勇んで帰ってきた。
八月十五日、東中の盆踊り大会である。
山手線、東中農協の前の六差路交差点を通行止めにして、丸太でヤグラを組んで若者が盆太鼓を叩く。
「そよろ、そよ風、牧場に町に、吹けば、夜空に、灯が点る」どの子も踊る。子供達は、涼しげなゆかたを着て、下駄ばきで盆踊りが始まる。シャンコ、シャンコ、シャンコ、シャ、シャンコシャン、皆音楽に合わせて楽しく踊る。
子らが、景品を貰ったところで、一般の盆踊りが始まった。ねじり鉢巻で威勢よく盆太鼓を叩く。
東中農業協同組合の揃いのしるし半天を着た東中婦人部が、先頭を切って踊っている。
各部落対抗の仮装盆踊りも加わり、三重の輪に成って、エンヤア、コラヤア、ドッコイ、ジャンジャ、コラヤアと、掛け声も勇ましくなってきた。就職列車で都会へ出て行った者達も里帰りしている。久しぶりに田舎へ帰ってきた人達は、感動して盆踊りを見ている。その内、「俺達も踊らせてくれ」と言って、人垣をかき分け踊りの輪の中に入って行く。見物していたお客も、いつの間にか踊りの輪に入り、四重、五重のにぎわいと成って、東中盆踊り大会は最高潮に達した。
老若男女、心ひとつに成って、楽しい踊りの一日だ。未来に向かって、東中地域の繁栄を、盆踊りを通じ見据えている様だ。
勇ましい盆踊り太鼓の音が消えて、稔りの秋を迎える東中神社の秋まつり、恒例の九月四日と五日にまたがる豊年まつりが来た。
目抜き通りには道路を横断し、高い所にしだれ柳の祭り提灯を吊り下げ、秋祭りの雰囲気を守り立てる。八幡神社の境内にのぼりを立て、鳥居にしめ縄を飾り祭り提灯を下げた。
東中神社拝殿に、上富良野神社の生出宮司を呼んで居る。
住民会役員と部落の代表、氏子総代が集まり、かしわ手を打ち、御詞酒を呑み、清神な参拝を終える。
子供みこしが部落集会場(二十箇所)をトラックを仕立てて廻る。
東中の伝統芸能、清流獅子舞、勇壮な舞いをみせる。夫與一は体格が良く、年齢のわりに体力も有り、獅子舞の獅子頭として主役である。獅子頭を持つ與一は、天狗の磯松正一郎に合わせて、獅子の後尾役田中正留と息の合った舞を披露する。ピイピィ、ピイヒャラ、ピイヒャラ、ドン、笛や、太鼓、鐘の音色に合わせ足取りも軽く舞い、見物客の力強い拍手を戴いている。
清流獅子舞の面々は、
   会 長 中西覚蔵  獅子頭 岩崎與一
   副会長 岩田喜平  後獅子 田中正留
   指 導 辻 甚作  天 狗 磯松正一
   鐘   谷口 実  立て笛 長澤徳次郎
   太 鼓 小柴 清 高野菊次郎  瀬川三郎
   よこ笛 三熊由五郎 高橋重雄 野原清次郎

   写真省略 東中清流獅子舞獅子頭夫の與−、後足(尾)田中正留(昭和50年9月4日・秋祭り東中会館前)

小学校、中学校のグランドでは、トロフィーを賭けて部落対抗、男女混合、ソフトボール大会が、開かれている。
神社境内土俵では、子供相撲が、「ハッケヨィ、ノコッタ」と軍配をあげる。
多彩なお祭り行事に参加する者、お応援する者、大賑わいである。
小学校の校庭には芝居小屋が立ち、夜は常盤麗子一座に依る芝居と舞踊の余興でせわしない秋祭りが終わる。秋祭りが過ぎると涼しい秋風が吹く。
百姓は、春から秋まで、田んぼ、畑で汗を流して働いた。
秋は、農協組合員勘定報告書の行くえが気になる所だ。今年は、農作物の収穫の出来柄から言って、楽しみは大きく、期待できると前向きに皆、力を合わせて頑張る気運が盛り上がる。

十勝岳昭和三十七年の噴火

今年は、年明けから身体に感じる地震が度々あった。
北海道の長い冬から抜けだし、雪が融け、農家は一斉に田んぼや畑の春の開墾が始まった。我が家の春作業、冬に馬橇で運んで置いた堆肥を手にホークを持って撒き、田耕し、ハローかけがいつになく順調に進んだ。水田に水を入れ、馬に依る代掻き整地も終わり、明日より田植えの始まりだ。
夫與一は、タバコを吸っている。冬山の密林より見い出してきた自慢の逸品である。キセルの柄は、コクワの木のつるで作った一尺近い長さの物だった。子供達が言う事を聞かない時、このキセルの柄で頭を叩いて、言う事をきかせてしつけをしていた。
茶の間の薪ストーブより、デレッキで熾っているオキをとりだし、キセルの刻みタバコ(みのり)に、火をつけて言った。
「明日より、田植えを始める。皆、はよう寝て、朝めし前に苗を田んぼに運んどいてくれ。苗は小分けして、ちゃんと舟に並べて畦に置くんだぞ。」今年は例年より早い五月二十一日、息子治男は朝早く起き、田の水を切り、苗植えの型付けをしている。
朝六時三十分、オート三輪車にテントのホロをかけ、荷台に十数人の農協組出面さんが乗って私の家に到着した。
上富良野市街へ嫁いだ娘智恵子も、苗取りの手伝いに来ている。田植えは腕の達者な植え手ばかりで、五反程植えた。家の者達は、「専属出面は、やはりはかどるなあ」と言って感心して喜んでいた。
夕方五時頃、突然田んぼの地面が揺れだした。
田植えの者達は叫んだ、「うわあ、地震だ」その場に立って居られないほどの大きな揺れである。田植え出面は、苗を入れてある小舟につかまり、田の中で腰をおろして揺れの止まるのを待った。かなり長い時間揺れた様に思えた。
田の表面の水は小波が立っている。地震と小波が治まり、廻りを見渡した。朝から植えた稲の首が、全部と言っていい程抜けてしまって横に倒れ、田の水の上に浮いている。中々当たらない出面が来てくれ、調子良く田植えがはかどったと思ったらこの始末である。調子の良い時程、気を付けろとはこの事だ。
次の日から、家族総出でさし苗(補植)である、次女節子も学校をおり、家業を手伝っていた。地震で揺られて浮いた苗を植えて行くのは、最初から植えるより手間がかかった。皆、苗の浮いた田んぼでさし苗の仕事をしながら、この後、「強い地震が、来なければ良いが」と言っていた。だが、身体に感じる地震はしばしば有った。
私きくゑは、「十勝岳で、何か起きる」と大正十五年五月の爆発を思い出し直感していた。
昭和三十七年(一九六二年)六月二十九日、午後十時頃、余り大きな音はしないが低い轟き音がして爆発がおきた。
東中公民館二階で、青年団主催の映画会が催されていた。息子治男も、青年団の現役でお手伝いも兼ねて映画を見に行っていた。
映画の映写機とフィルムは、上富良野市街の日本劇場よりの掛け持ち上映である。
柳さんと言う、ベテラン上映技師の操作だが、使用回数が多い為、一番の見所でフイルムが切れる。
その度に室内の電灯が点き、急に明るくなる為、観客より歓声があがる。
この頃は、食料増産の時代であり、農家の働き手が足りない。内地に手ずるのある世話人が内地へ行き、男女の労務者を募集して来た。
東中へも、秋田県、山形県、宮城県の東北地方より、大勢(約百名)の季節労務者が来ていた。東中農協青壮年連盟が活躍しており、毎月一回の映画鑑賞券を、希望者にさばいていた。内地より遠く離れて、異郷で働く人達にとって、映画は、唯一のお楽しみ娯楽であった。
公民館二階で催される映画は、会場の床が抜ける程いつも大入り満員の盛況であった。
働き手の労務者の人達は、農村家庭へ住み込み、春先より秋仕事の俵編み、さん俵編みまで、農作業を終わらし、雇い主より仕事賃(八ケ月間、男、六万円、女、五万円)を貰う。パーマをかけたり、床屋に行ったり、晴れ着を買って帰り支度ができた。函館桟橋より津軽海峡の連絡船に乗り、八ヶ月ぶりに我が故郷に帰ってゆく。
東中には巡査駐在所が在り、警察の梅原巡査官が駐在していた。
あわてた様に、誰か映画上映中の会場の公民館二階へ上がって来て、とっさに窓を開けた。見ると、警察の制服姿の梅原巡査である。
梅原巡査官は、「十勝岳が爆発したぞ、早く帰れ」と言う。
映画会場に居た者は、皆、東の方を見た。どんよりとした曇天である。真っ赤な炎が火柱と成って、暗がりの空高く昇り、左右に火の玉が散っている様に見える。時おり、火柱が上がっているのが見えた。
何か、不安になってきて、これ以上噴火に馬力がつけば大変な事になる。この様な、不気味な光景を見るのは生まれて初めてである。
噴煙は確かに上がっているのだが、煙の量は空が暗くてはっきりとは分らない。東の山の方から、腹の底まで響く様な低い噴火音がしている。
私きくゑは家族の皆に身仕度をして、大事な物を持って避難の準備をする様に言った。
息子の治男は、ホンダ・ドリーム三百ccのバイクに乗り、三部落会長の南藤夫さん(後の町議会議長)に十勝岳が噴火している事を伝えた。
南さんは寝ていたが、びっくりして起きてきて、部落の有線放送のマイクで「十勝山が、爆発、噴火しています」と伝えた。
この時、治男の乗っていたホンダ・ドリーム三百ccバイク(四十年前のバイク)は、今もエンジンのかかる状態で保管されている。
この晩は、きくゑの大正十五年の十勝岳爆発の体験を生かし、一家で身支度をしたまま寝た。
次の日、夜明け前に起きて十勝岳の爆発の姿を見て驚いた。噴煙が凄い。上空、一面に覆いかぶさる様に、真っ黒い煙が立ち昇っている。北西の風にのり、新得、鹿追方面へ一万二千メートルにも及ぶ高さで噴煙が上がり、火山灰を降らせた。上富良野地帯は、噴火による灰は少量の降下で、農作物被害は最少限で済んだ。
私きくゑは、大正噴火を教訓に山津波に追われ逃げた事を思い出し、今回の噴火もどうなる事かと不安と恐怖でおののいていた。しかし、大事に至らず、天命に感謝している。

  写真省略 十勝岳爆発(昭和37年6月29日)

東中公民館を会場とした映画鑑賞で、ある時の出来事で、もう一つ驚いた事がある。
嵐勘十郎の、鞍馬天狗、石原裕次郎と北原三枝の太陽の季節、二本立て映画の上映が終わった。皆、暗い夜道を帰り出した。
二階建ての青年会館を活用した東中診療所、岩切病院がある。この東中診療所を過ぎた辺りだ。大騒ぎが起きた。「誰か、熊に襲われた」。「そんな、馬鹿な」公民館に居残っていた者達は、あっけに取られた。
暗がりの闇の向こうで何か動いているが、かすんで良く見えない。そ知らぬ顔で横を通り過ぎようとした。いきなり真っ黒い生き物が襲いかかってきた。近くの家で、飼っている仔牛が離れて、さ迷って居るのかと思った。何と、親熊である。
手や足を噛まれた人、顔や体をカッチャかれた者、大変な事が起こった。叫び声が、聞こえる。「東中市街に、熊が出た」。江森の母と娘さん、太田のおばさん一人、三好男のアンさん一人、計四名の重軽傷者が出た。
早速岩切病院で、医者による怪我の手当てをした。痛みと傷の血が止まらず、入院した人もいた。
次の日狩人が出て、近くの森に潜んでいた親子熊を射止めた。射止められた大小、二頭の熊は、小学校校庭にはさ木を組んだヤグラに、十字架に縛られて人さらしになって見物ものとされた。メスの親熊は、体長一メートル五十ぐらい、小熊は、一メートルぐらいだった。
この年は冷夏で山のぶどう、こくわ、どんぐり等が実らず、食べ物がなく、親子熊は、腹を減らし人里へ下りて来たものと思われる。その後熊の人家への出没は余りないが、野鹿が多く殖え、農作物への被害が増えている。

  写真省略 昭和34年東中市街に熊が出没

先祖の古郷を訪ねて

富良野盆地では農作物の収穫期も終えた昭和四十七年秋、浄土真宗本願寺派、教覚寺(檀家)のお世話により、本山参拝と私が八歳まで過ごした故郷を訪ねる旅に参加した。
四人の子供たち夫婦は、「お父さん、お母さんの人生に又とないチャンス、お金は私等で出してあげるから是非、行ってお出で」と言ってくれた。
夫與一満六十二歳(猪年生)私きくゑ満六十歳(牛年生)この旅行の費用は、私達夫婦の子供達夫婦が厄年(六十一歳)のお祝いのプレゼントとしてくれた。久しぶりに、夫婦揃っての旅である。
旭川空港、搭乗手つづきを済ませ出発し一路内地へと旅立った。日本の玄関口、羽田空港で乗り換え伊丹空港へと向かった。
京都、伊丹空港へは、高い雲の上を飛ぶ空の楽しさを満喫している。
この慶讃法要参拝団の団長に夫與一が頼まれ、いつも参加者五十名の先頭を、黄色い旅団旗を持って気を使いながら元気に歩いていた。
與一は頑丈な体格で、背丈五尺四寸五分、体重二十貫あった。若い頃は鉄道貨物の台車積み、二十貫(約八十キログラム)の魚かすの俵などを一人で担いで歩き荷上げをした。
又、與一は、戦時中日本陸軍甲兵で、銃砲兵として函館山の要塞へ、重銃砲を人力で引き上げ、外敵の上陸を阻止した実績の持ち主でもある。
京都、伊丹空港より観光バスで本山の運営する宿舎、聞法会館へ着いた。
親鸞聖人、お誕生八百年、立教開宗七百五十年、慶讃法要参拝が西本願寺本堂で取り行われた。
全国より、何万人もの檀家、信者が集まり、信仰、参拝が行われるのは私は初めてであり、人の波に驚いた。
次の日、本堂で手を合わせ朝の御勤めをし、御門主、(本山住職)による私達夫婦揃っておかみそりの儀をしてもらい、有り難く法名を頂いた。その後、宿舎の開法会館へ戻り合掌をして朝食についた。
徒歩で本山参拝、書院拝観、唐門見学をし、念願だった親鸞聖人のお傍に来れた事に感謝しながら、西本願寺にお別れをした。
日本の古都、京都観光では、清水寺、東大寺、平安神官、金閣寺、銀閣寺などを廻った。記念写真を撮り、古い建造物、優美な国宝、歴史に感激した。
京都見学を終え、北陸、越中に向け大型バスに乗り、どんよりとした日本海と海辺の浜松ノ木を眺めながら、滋賀県、福井県を通過し、石川県に入った。
この間、床鍋村と書いた表示板を見つけて、東中に在る床鍋さんの出身地だなと思った。
石川の県道より、地方道の高岡羽咋線沿いから、富山県氷見の県境いに近い山合いの所司原を通った。この地、所司原は、長澤家のお墓の有る所で、おとっつぁん勇次郎が北海道移住を決意して、おっかさんと私達子供四人姉妹を連れ、出発した懐かしいゆかりの土地だ。時間を見て先祖のお墓参りをする事とした。所司原より、深谷への道に入った。道中の山会いの道は狭く、竹や杉林に覆われている。
花弁が、四百五十枚も有る菊サクラで有名な志雄町、善正寺に着いた。教覚寺の本家のお寺、善正寺では、萩山教審住職夫妻が、心良く出迎へてくれた。
建物は古いが、何百年も続く由緒あるお寺で、ランマ、カラカミ戸、柱など、至る所に国宝級の手彫りの彫刻が寺の飾り物として施されている。
寺で、昼食弁当をご馳走に成りながら、善正寺の代々続く歴史の話に花が咲き、短い時間だが楽しく意義ある訪問だった。
善正寺の先代に、教覚と言う偉い住職が居て、立派な説法を説くお坊さんであった。西中教覚寺は渡道して来る時、この教覚と言う名前を有り難く頂いてきた。開寺に当たり、お寺は、浄土真宗、本願寺派、「教覚寺」と名命したという。又、道内、栗山町角田に、教覚寺(萩山教英住職)と言う、親戚筋のお寺が現存して居る事も聞くことが出来た。
今夜は、輪島、和倉温泉で体を癒す。
隣の集落より、所司原に住む母方のいとこ、荒屋すず子さんが尋ねて来てくれた。
すず子さんを車で送って来てくれた息子さんは、地元の学校の校長先生をしていると言う。ホテルのロビーで、懐かしく会話が弾む。
  「よおう遠いとこ、いらして、くれしゃったな」
  「はい、内地の親戚に会いたくて、来ました」
  「みな、達者じゃったかい、みやげもろうて、有り難たじゃったな」
  「はい、おかげ様で、家族、身内、皆元気です」
  「お茶のんで、めしくうて、ゆっくりして、くつろいで、いかっしゃれ」
  「はい、遠慮なく、頂いてまいります、是非、北海道へ、遊びに来て下さい」
懐かしい、越中弁での会話で、つかの間の時が過ぎていった。せわしない短い時間での内地の身内との面会だったが意義がある。
金沢、兼六園を見学し、小松空港を出発し、帰路に就いた。
おかげ様で、京都、本山参拝と、祖先のお墓参りができ、悔いのないありがたい生涯を送る事が出来た。手を合わせ、念仏をあげながら、世に感謝したいと思う。

土の館と土の標本

株式会社スガノ農機の敷地内に、北海道遺産「土の館」が有り、何万年も蓄積されて来た土の標本が有る。
土の館へ入り、二階へ上がる階段正面に展示してある土の断面額は、フラワーランドかみふらの社長伊藤忠氏の圃場より採取し展示している物である。
私達、長澤(現、岩崎)の家族は、大正十五年五月の十勝岳大爆発の時、この土を採取した農地を、小作地では有るが耕していたのである。私達が、十勝岳爆発まで住んでいた土地、地層の標本が、偶然かも知れないが展示されている。
爆発の泥流で、良質な表土が埋没したこの歴史ある農地の断面を、土の館を訪れる度見る事が出来、最高の誇りと感謝の気持ちでいっぱいだ。
更に、東中東六線北十九号の現在地、岩崎家の水田、深さ一メートル二十にも及ぶ地層の標本もあり、比較して見る事が出来る。
土の採取はユンボで土壌を深く堀り、何層にも成っている土の壁にのりを貼り固め、一枚の土の板を作り標本に作る。
穐吉忠彦館長と、稲垣覚館員のアイデアに依る努力の賜物である。
活火山十勝岳が一望出きる小高い丘の上、この施設が北海道遺産に認定された事は、菅野祥孝社長とひろ子夫人の高邁な理解と決断であり、子、孫へと代々、形で残せる貴重な遺産に対し、年老いた私も感謝致している。
館内には、スガノ農機を事務局に、農業経営者の同志、全国よりの集まりであり、交流と研鑽の場である「北海道土を考える会」がある。息子治男は、この会の上富良野部会会長、中央支部幹事を務めていた。現在は、北海道土を考える会上富良野積年会会長を担っている。
又、トラクター博物館には、末永千之氏より譲り受けて使用した、岩崎治男所有の一九六三年導入ヤンマー空冷、YM18馬力国産トラクターを展示してある。農地の耕作には、プラオ、サブソイラー等、古今現在に至るまでスガノ農機のお世話になり、今日の農業経営が成り立っている。

理想の住宅を夢見て

今の地に入植した時、安井新右エ門氏の屋敷には広い縁側付きでうるし戸、欄間が入り、大きくて広い立派な主家が建っていた。
地主は、近い内に上富良野市街に出るので、この建物を買ってくれといった。小作農家では、この立派な豪邸は到底、手の出せる物でなかった。
おとっつぁんは家族と相談し、山から切り出した材料で新たに家を建てる事にした。
四間の四間、部屋四つ、他に一坪の玄関が有る。居間、流し、床の間、寝間で狭いが。南角に九枚ガラスの明かりとりの出窓を付け、使い良い住み家ができた。風呂場は小川の淵にたて、ブリキバケツで川の水を汲み、木の桶風呂に満タンに張って使った。
安井さんの豪邸は、その後高値で売られて取り壊し、上富良野市街の何処かで建て直したと聞いた。
昭和二十九年、長女智恵子、上富良野役場車両課の北川力造と結納が入った。
昭和三十年春、これを契機に家を建てる事にした。一時物置に仮住まいし、家を取り壊し、後地を整地した。
大工佐藤米蔵建設基礎、山崎建設、ブロック積み青島組(青島節二、五十嵐藤雄)赤川左官、五十嵐建具、荻野電気、日向板金、岩淵畳店、監督は上富良野役場建築課竹谷岩俊係長である。
基礎コンクリート、三角屋根、ブロック建築二階建て、一階三十六坪、二階十八坪、レンガ積みペチカ、レンガ集合煙突、レンガの釜戸、時代に見合った住宅が出来た。
玄関の四つ屋根、門柱は、当時住宅としては珍重がられた。
父母、子供六人が一同に揃って新住宅に住んだのは、長女、智恵子が結婚するまでの、つか間であった。
今まで風呂場が外だったので、ブロック住宅の中で、寒さ知らずで入れることでみな喜んだ子供達は、お手洗いも近くなり、台所とは別に洗面所も付き、便利になって喜んだ。
飲み水のポンプ打ち(ボーリング)は丸太ん棒で、三脚を組み、近所の人の手伝いをもらい作業する。
ロープの先に重りを付け、皆でヨイショ、ヨイショと重りを振り降ろし、地下水が墳出するまで鉄管に八つ目を取り付け、水の層に当たるまで打ち続けるのである。
隣り近所で、手伝いを貰ってポンプ打ちをした人は、岩田喜平、武田豊稔、中西亘、磯崎義雄、佐藤昇、宮原庄一、野原悦蔵、瀬川松太郎達であった。
地下には、きれいな清水が何層にも流れており、うまく水の層に当たると、地上に噴き揚がって来るのである。
鉄管に八つ目を付けて、三十尺(約、九メートル)ほど打った所で地下水が噴出した。
ポンプ打ちのお手伝いさん達と、今吹き出した地下水の蛇口に塩をまいて清めの、お払いをし、清酒をくみかわして出水の喜びを祝いあった。
家の流し場、風呂、脱衣洗面所に、出水を配管をした。
今までの、川からの水汲みの手がはぶけ、お湯を沸かす薪くべも楽になって、大変便利良くなった。
早速、新住宅で智惠子、力造の結婚式、近所親戚を呼び、出立ち振る舞いを行った。
年の過ぎ行くのは早いもので、私きくゑは、八十二歳になった。
平成五年六月十八日午後三時、長年連れ添った最愛の夫與一が、喉頭癌で満八十四歳を一期として、上富良野町立病院でこの世を去った。
この時の葬儀参列者は約七百名の方々で、祭壇は東中会館大ホール、第二会場に與一の遺影を供え、和室にビデオテレビを付けて本葬の模様を放映し、皆様にお参りを頂いた。
夫與一は昭和三十年前後、旧東中農協の理事を務めた経験があり、農協がホクレン、二トン貨物トラックを始めて導入した時だった。
與一の葬儀当時、長男治男は上富良野町農協の監事、二男充男は富良野農協の販売部長にあった。
主な参列者は、北海道農協中央会藤野貞雄会長、富良野農協吉田薫専務理事、岡本一雄代表監事、上富良野町菅野學町長、上富良野農協内村組合長、井村寛専務、伊藤里美代表監事、その他関係する方々にお世話になった。
夫與一と二人三脚で、待望のブロック住宅を建ててから四十年が経っていた。
私達夫婦は、生前孫達の結婚式までに断熱材で熱を逃がさなく、暖かい近代的な家を建てたら良いのだがと話しをしていた。
私は老婆心ながら、思いきって夫で故與一と話していた事を、若い者達に話した。若い者達も、改築か新築か迷っていた時であった。
若い者達は、その子供達、美紀と昌治に相談し、今の宅地内高台に、近代住宅を建てる事に決めた様である。
夫與一の念願が叶い、平成六年七月二十日竣工式を行い、建築に着手した。
この年九月、内孫娘美紀が、札幌ルネサンスホテルに勤める鎌田裕二と、十勝岳温泉カミホロ荘にて結納を交わした。
私きくゑ、満八十二歳を数える歳に成った時である。
年の瀬も押し迫った十二月二十七日、昼夜お湯の温かな二十四時間風呂、ウオッシャー付き、水洗トイレ、無落雪建築の東中に移住し、三回目の新住宅に入る事が出来た。
東側に十勝岳連峰が一望でき、南側は石とオンコの木を主にした庭園が眺められる。
欲に切りが無いのですが、岩崎家(旧、長澤)の為に永年頑張って来た最愛の夫故與一に、明るく、広く、外の眺めの良い新住宅に入れてやりたかっと思う。
ふと、夫を思う時、悔やまれ想い偲ばれながらだが、安住の住まいに手を合わせ、廻りの皆さんに感謝している。
こうして、孫娘美紀は、平成七年二月七日裕二と結婚、新住宅よりの出たちを祝福した。
建築は、上富良野町農協住宅センター、設計・施工高橋建設、田中電気、二木板金、野沢木工、江島塗装、玉島工業、西塚清掃、対馬工業、志賀設備、藤山左官、松井表装、多湖鉄工、中野鉄工、山本木材の協力による。
こうして、内孫美紀の花嫁の門出、内孫昌治と美千代の結婚披露の宴を、新築完成した二世帯住宅で親戚、縁者を招き催す事が出き、家族皆の願望が叶った。
私きくゑの、住み渡って来た住宅を返り見ますと、渡道、入植最初の住み家はカヤ茸寄せ屋根、壁はえん麦殻葺き、掘っ立て小屋の住まい、暖房は部屋の真ん中に囲炉裏を掘ったたきび式、建物に火が付かぬよう細々と暖をとったり、炊事の煮炊きをしていた。
次は、長柾葺き屋根と、人力のマサカリで削ったノウガク材で骨組みを建て、板を重ねて張った壁、隙間には紙を貼って寒さをしのいだ。暖房は薪ストーブで、大変重宝なもので長く続いた。
三度目は、機械柾葺き屋根で、土に稲わらを切って混ぜ、これを練って塗り、板を張った壁、すり糠やオガ屑などを混ぜて燃やせる改良型ストーブも出回っていた。
東中に定住した昭和二十九年、四つ切りトタン屋根と建築ブロック建て、レンガを積み石炭ストーブより、茶の間の壁と床下に煙を廻し、暖を取る温どるペチカ式北方型暖房を、シベリア帰りの青島節二さんに備えてもらい、過酷な北海道の冬も暖かく過ごせる様になった。
四人の子供達は、「ブロックって頑丈であったかくて、外の音も聞こえない」と、大はしゃぎで喜んだ。
二階に三部屋を設けた事に依り、子供達に一人一部屋の個室を与えてやる事ができた。
今日は、長尺トタン無落雪屋根で、断熱板壁、ボイラーに依る床暖房、各部屋集中暖房と、二十四時間いつでも温かく入れるユニット風呂、合併浄化槽に依る水洗トイレ、想像以上に進歩した住宅に入る事が出来た。
人の世の基本とした衣、食、住を全う出来たこと、本当に幸せを感じる。

今日、私きくゑは、大正二年三月二十日生まれ満九十三歳と成りました。
経営は早くに息子夫婦に譲って居りますが、耕作地は自作地、借地合わせて地目水田約十五町歩、山林少々と聞いております。
現在、子供四人(二男二女)、孫九人、曾孫十七人、やしゃ孫六人となり、恵まれております。
私きくゑと、故與一の間で生まれ育った直系血族分身は、総勢合わせて三十六人の子孫と成りました。
十勝岳大噴火の山津波に遭遇してから八十年が経過し、長くて短い喜怒哀楽の人生、人としての幸わせを心の芯から味わいながら、感謝してありがたい日々であります。

あとがき

私は母、きくゑの生涯を、書き綴りの断片をまとめて寄稿しました。しかし、これが活字として発刊される正に直前の、平成一九年三月四日享年九十三才で死去しました。冥福を祈り捧げます。

人の世は
  噴火のごとく 雄々し
 時には、悠々しく 生きるなり


先人の
  労苦しのびて 九十中路
 ひもとく夜の 春雪の音

十勝岳
  熱火の煙り 噴きやまず
 その雄々しさを 知るべと生きむ

                    合掌 岩崎(旧姓長澤)きくゑ 満九十三歳

機関誌   2007年 3月31日印刷
郷土をさぐる(第24号)   2007年 4月 1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一