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満州からの逃避行

     夏季 上富良野町光町二丁目一番三八号
     冬季 茨城県土浦市下高津一の四の一七の五〇一
菅野 祥孝 昭和八年三月一二日(七十四才)

はじめに

私が満州で体験した戦時中から戦後にかけての出来事を「郷土をさぐる」に載せ、後世に語り継ぎたいとの依頼を頂いた。
昭和二十年に日本の敗戦で終結した太平洋戦争からすでに六一年が経過しています。
あの満州大陸の地に肉親の屍[かばね]を埋め、中国人に愛児をくれたり、未亡人となって中国人と再婚したり、実に悲しい出来事を思うと胸が痛みます。
私の定かでない記憶の中からその満州での話の一部分を進めて行きたいと思います。

時代の背景

私たちの住む上富良野は、明治三十年の入植に始まる。
その頃、朝鮮進出を図る日本と清国とが対立し日清戦争(明治二七〜二八年)が起こった。
帝政ロシアはすでに全長七四〇〇キロメートルのシベリア鉄道を開通させ、一八九六年(明治二九年)に満州里[まんちゅり]と綏芬河[すいふんが]を結ぶ東清鉄道本線、一八九八年(明治三一年)吟爾賓[はるぴん]と旅順を結ぶ東清鉄道南満州支線の敷設権を手に入れ、大連市旅順の不凍港を押さえ、日本を伺う勢いで恐ろしい環境に変化していた。
日露戦争(明治三七〜三八年)では日本とロシアが満州・朝鮮の支配権をめぐって争われ、日本が勝利した。
昭和六年九月十八日の柳条湖[りゅうじょうこ]事件を契機として日本の関東軍による満州の侵略戦争が始まった。軍は政府の方針を無視して昭和七年一月二八日、反日運動高まる上海に軍隊を進め満州全土を占領。昭和七年、満州事変後、関東軍は清朝最後の溥儀[ふぎ]を執政にたて日本の傀儡[かいらい]国家政権として満州国を誕生させた。
昭和九年、溥儀は皇帝に推戴[すいたい]、満州国年号は康徳に改元された。
昭和十二年には、中国北京市の南西郊の蘆溝橋[ろこうきょう]で起こった事件をきっかけに、戦火はさらに拡大。歴史が次々と変わる中で我々は翻弄されていく。

ある出会い

一九三四年(昭和九年)に北海道上砂川に生まれ、現在ジャーナリストで北海道新聞編集委員をつとめる傍らノンフィクション作品を発表している合田一道さんは「満州開拓団二七万人死の逃避行」と言う本を昭和五三年に発表した。
当時上富良野町農協職員の松田徳三さんから「菅野さんが満州で体験した事に似通った事が書かれている。私が持つより」と、戴いた。
何行も読まないうちに当時の事が思い起こされ、涙が止まらず、読むことが出来なかった。
本棚に飾ってあるので背表紙だけを只漠然と見ていた。
そうこうしている内に、平成十六年、「土の館」が北海道遺産に選定された。
その遺産選定審査員のお一人に小説家の合田一道さんが選任されていた。
「土の館」には、沖縄から稚内まで御縁の深い農業経営者の畑の土を、深さ一bまで採取した断層を二七点展示し、更に上富良野十勝岳の泥流は深さ四b日本一の大きな断層にして「土の館」階段の真正面に展示している。

写真省略 全国各地の土の断層(土の館内)

小説家は見識が違います。特に上富良野泥流断層をご覧になり、北海道開拓の歴史を読み取られたのだそうである。
我等上富良野町開拓の歴史は三浦綾子さんの「泥流地帯」で紹介され、北海道文学賞を貰った吉田十四雄さんは、十勝開拓の歴史を明治三九年から昭和三二年まで描いた「人間の土地」八巻物を出版しており、開拓の苦労が忍ばれる。
この小説の様に、北海道開拓の歴史は過労と飢餓の歴史であり、遠大な希望と不屈の精神力で今日の理想郷の基を築いたドラマである。私達の祖父母もそうであったと思うと声を出して泣いてしまった。
今こうして毎日を過ごす事が出来るのもあの先人の人々のあの努力があってこの豊かで平和な上富良野が出来たのである。
その様な事を後世に伝える為に平成四年「土の館」を建設しました。
三浦綾子さんは「泥流地帯」を著す為に上富良野を調査された。その時三浦さんを案内されたのが合田一道さんで北海道新聞旭川支局に勤めて居られた。
「泥流地帯」と切っても切れない関係の人が元村長の吉田貞次郎さん。父豊治が工場を満州に移したいと一番先に相談した方が吉田村長さんであった。移駐に強い賛同を示され、氏が国会議員となられた時には吉林の工場も視察に来られた数少ない上富良野の方である。
よく考えて見ると、私が満州から帰国。松田徳三さんから「私が持っているより菅野さんが」と戴いた本。「土の館」建設。遺産選定審査員になっていた合田一道さん等。それらが全部一つの輪になって繋がっていると思われる。運命とは案外そう言うものなのかも知れない。
そんな風に考えて改めて合田一道さんの著書「満州開拓団二七万人・死の逃避行」を一部始終読み直してみた。今度は全文しっかりと読んだ。著書には敗戦後の悲惨な満州開拓団の事実が書いてあるが誰も訴える人もいない。
最近北朝鮮に拉致された方を国をあげて訴えている。当然だと思う。しかし北朝鮮は「戦時中に朝鮮人を日本に強制運行した国が今更何を言っている」と言う態度でいる。
戦後六十年たった今でも、国は諸々の事を知らないふりしているだけである。誰も責任をとらない。
これが現実だと知っておく必要があり、生きて行く事は、きれい事ではなく実に醜い事だらけと言う事である。
私の父は明治二七年に宮城県中津山村(現桃生町)で兄四人姉一人弟一人の五男として生まれた。
上富良野には明治三九年六月に開拓農民として先に渡道した次兄の入植先清富に父母と共に移住した。
その上富良野で鍛冶屋に丁稚六年、お礼奉公一年して北見に職人として開業資金を調達。しかし、病気になって開業資金も無くなってしまった。
上富良野ではマルイチ幾久屋商店が明治三二年に開業している。上富良野で第一号のスーパーマーケット。
写真を見ますと色々な物を売っている。薬や食糧品衣料品。畜力プラウが七台も八台もならんでおり、北海道は当時から馬で開拓していたものと想像出来る。
マルイチ幾久屋商店は時代と共に薬局、金物店、食料品店、呉服店の専門店としてそれぞれが栄えて行った。
父は上富良野で知人より開業資金を調達して斧、鍬、山林道具の製作とプラウ修理を主体とする小さな鍛冶屋を開業したのが大正六年。
昭和の初期にはスガノ式炭素焼プラウを製造、販売するようになり、当時役場で農事担当の本間庄吉さん(後に五代目助役)等の御尽力を戴いて、性能比較審査の出品を繰り返し、五寸深耕、八寸深耕(二十四cmの作土を耕す)スガノ式プラウが北海道推奨農具として活躍する迄になっていた。父は意気盛んに仕事をしていたと思われる。

国の移民計画

日本は人口が増え特に府県は分家するにも分け与える土地も無い。
軍部は満州国支配の基礎を作り、また対ソ連戦に備えるねらいもあり,当時の内閣広田弘毅は府県農家の二、三男対策としてブラジル、満州、樺太等に植民地政策を唱え大量移民を計画した。
満蒙開拓団少年義勇軍は、兵力不足をカバーする為に十六才から十九才の男子が開拓団少年義勇兵として昭和十二年に組織され、三年間、開拓と建国の精神を学び訓練を受け、やがて開拓団移民の中核となった。
昭和十二年から本格的な移民が始まった。満州への「開拓移民推進計画」は、一回目十万戸。次が二十万戸。三十万戸。四十万戸の四期あわせて百万戸。北海道の人口に匹敵する五百万人を送り込み、一戸の面積が十町歩。合計で壱千万町歩。これを二十年で達成させる計画を樹立した。
「五族協和」を唱え、大和民族、満州民族、朝鮮民族、蒙古民族、支那民族の共存共栄を主張し、「大東亜共栄圏」をスローガンとした満州建国の精神を日本人に植え付けた。
このようにしていつの間にか壱千万町歩を日本の土地として没収する計画だ。土地を奪われた中国人は当然恨みに思う。匪賊[ひぞく]となって襲いかかる。それを押さえ込むのは関東軍であった。

満州開拓団

満州開拓団は最初は府県が中心で進められた。しかし府県の農業は、鍬を担いだ人力農法。
現地の満州人の農業はすでに馬で作業をこなしており府県の農業より進んでいた。鍬での開拓では太刀打ちできない。気象条件も違う。収量もとれない。その内に土地を現地の人に逆に貸し付け、ピンハネをする者も出て来た。これを「袴農業」と言うそうだ。この行為が問題になった。
そこで、満州の農業開拓も馬を中心として耕す事から種播、除草、収穫まで一貫した畜力作業体系所謂[いわゆる]北海道農業を推進する事になった。
成功に万全を期する為に開拓団の単位に一戸、北海道から篤農家約三百戸を現地指導実践代表として送り込む事に決定。それに応えフロンテア精神で参加した方々は最後はみんな家族を失い、或いは集団自決しているのが実態です。実にむごい話であります。
父は、「上富良野から農機具を送ったのでは時間も費用もかさむ。国から現地で農機具の製造をしてほしい」との要請を受けて、昭和十五年、工場を満州に移転する事を決意した。
翌年の昭和十六年、私はこの時八才。国民学校初等科三年生の二学期の始め私達家族も満州に行くことになった。

満州での生活

私が満州に行って驚いたのは、満州鉄道という会社があり、レベルの高い生活をしていた。建築物全てが煉瓦造りになっていて窓は二重ガラス。地下には子供が立って歩ける大きななトンネルにパイプが巡らされ、全戸スチームで集中暖房の生活。
寒い満州ですでに水洗トイレを使用していた。こちらはくみ取り式である。
散髪も今と同じ様に座って散髪して洗髪している。上富良野の洗髪は、場所を移してポンプで水をかけてジャブジャブ頭を洗う。
スケートも革靴をはいて滑っていた。
パンは代用パンしか知らなかったが、白い帽子をかぶった職人が現在と同じ形のパンを作り売られていた。
吉林市には日本人の小学校が朝日、陽明と二校あり、他に中学校、女学校が各一校の合計四校あった。
いずれも大きな煙突が築かれ、レンガ建物全体が完全暖房。水洗トイレであった。
上富良野ではオルガンの伴奏で皆で唱うのが音楽と思っていた。それがピアノで和音の「ドミソ」。目がパチクリです。
中国語は必修科目でした。先生は中国人の女性。
すその割れた中国服を着込んでそれはきれいな先生でした。
おとぎの国に行ったのかと思う程生活が違う。今でも懐かしく思い出します。
父は満州国吉林市昌邑区同昌町二〇七番地に日満政府の指定移駐工場として合資会社菅野農機具製作所を起こし、プラウの他デスクハロー、カルチベーター、砕土器、作条器、水稲直播機等を製造した。
鉄工団地になっていて、工場も住宅も赤レンガ造り。隣は関東軍にスキーを一括納める工場。その向隣は下駄を作っている工場。後方隣の横尾農機具製作所は美瑛出身の横尾綾三郎氏が社長を務めている工場。美瑛では横尾式脱穀機を製造、吉林では全満州移駐工場二十二社へ農機具木柄部分を引き受け生産していた。他に日本酒を造る工場、馬車馬そりを造る工場、製粉工場などがあった。
家を建てるには先ず塀を作り、その中に材料を持ち込み造る。二四時間番人もいる。そうしないとどんな品物も盗難にあって無くなってしまうのだ。日本では考えられない事である。
満州国年号康徳十一年(昭和十九年)、母の実家三枝光三郎(母の長兄)宛の手紙から、全満州移駐工場二十二社の隊長格として元気で食糧増産に働いている事も伺える。
父は満州に造った菅野農機具製作所で雇った現地の人に対し、いつもすべての事に平等公正に扱っていた。偏見や差別のある中、長女リリーが現地で結婚式を挙げた時は、会社で働いている人達全員を招待した。父のこの平等公正の心が後述する吉林で起きた暴動の中を無事脱出する事へとつながっていく。
敗戦の年、私は吉林中学校一年生となり、松花河対岸の学校まで四キロを徒歩で通った。

戦況の悪化

満州には七十五万人もの関東軍が駐屯して治安が維持されていると思っていた。
戦況は悪化をたどり、関東軍まで皆、南方の戦線に移動した。そこで在満日本人の男性は二十才から四五才まで緊急補充兵として根こそぎ動員され、留守を守る者は女、子供、老人しかいない状況になっていた。そんな状況の昭和二十年八月九日、ソ連は中立協定を一方的に破棄し、自国の権益を確保する為に満州の国境を侵犯して攻めて来た。
渡満した多くの日本人は入植を侵略と考えず「王道楽土」を夢見て行動していたが、ここにきて立場が変わった。
満州の土地を奪われた中国人は、ソ連軍を中国の解放軍として大歓迎し、日本人に対しては、それまで日本人から抑圧されていたうっぷんを晴らすとしか言いようのない状態で、略奪と暴行を繰り返す事態になった。
この日、日本では長崎に原爆が投下され、八月十五日終戦を迎える。

撫順炭坑の悲劇

朝日新聞に平成十八年十一月三日付、無職の山本京子さん(東京都足立区六十九才)が投稿された記事が載っていた。語り継ぐ戦争と書いてあった。
それは終戦から間もない一九四五年(昭和二十年) 十二月のある夜、突然のことだった。「電気を消せ、早く避難しろ」。窓の外を叫びながら男性が駆け抜けた。
小高い山のふもとから中腹まで、何百軒もの社宅が立ち並ぶ、旧満州(現・中国東北部)撫順の炭鉱街。
私の家族は、日本への引き揚げの日を待っていた。
麓からウォーッと獣のうなり声のような不気味な響きが伝わって来た。無数の黒い人影が、ウンカのごとく、上へ上へと押し寄せてくる。
暗闇の中で、母は手早く三才の弟を背負い、毛布を巻きつけて外へ飛び出した。八才の私はオーバーを手に、やっとのことで探り当てた靴を突っ掛け、母の後を追った。
近所の中国人の農民が暴動を起こしたのだ。あいにくの満月。周りは潅木ばかりで、身を隠すこともままならない。鉄棒を持って追ってきた男たちに、持ち出した毛布も奪い取られた。それでもやっと裏山に逃げ込んだ。
翌朝、穏やかに晴れ渡った冬空の下には、床板も天井板も剥ぎ取られ、れんがの壁だけになった竜巻の後のような社宅街があった。
逃げ遅れた日本人の惨殺死体が、まるでマネキン人形のように、あちこちに転がっていた。

吉林での暴動

昭和二十年八月三十日朝、私が住んだ吉林でも同じ事が起きた。鉞、[まさかり]ヤリを手に持って暴れ出す。
日本人は経験が無いので手持ちのお金さえも隠す術も知らない。逃げる準備の為、行李[こうり]に衣類を入れて天井裏に隠す。暴徒ははしごをかけて外から屋根裏を壊し、いとも簡単に探して略奪する。残った物も子供が持って行く有様だ。
工場と工場の狭い所まで追いつめられた私達はいよいよ死ぬ覚悟を決めた。
そんなところにソ連憲兵がジープに乗って来て空に鉄砲を撃った。ソ連憲兵を連れてきたのは、元関東軍の若い将校の西村さんであった。
彼はソ連憲兵につかまり上半身裸で縛られていた。西村さんはシベリア連行の途中脱走して数日前に菅野に匿って欲しいと駆け込んできた方です。
「この状況ではここは全滅する。俺の命と代替えに恩義のある菅野さんを助けてくれ」とソ連憲兵を連れて来たので暴動は一時的に収まったが、西村さんとそこで別れた。
しかし暴動は収まるはずもなく、それを更に何事もなく収めてくれたのが満州で一緒に働いていた現地社員の人達であった。
夕方、日本の大学を卒業した通訳の陳さん外数人がやってきて、仲間をこれ以上説得出来ないので、何も持たないで脱出して下さいと告げられる。

脱出

父は、社員の家族と会社に逃げ込んできた多くの日本人を集め、「何事かあった時には飲むように」と青酸カリを全員に渡し、炊いたばかりのご飯に青酸カリを混ぜ犬に食べさせた。犬はすぐ死んだ。青酸カリは効くものだと実感した。
夕方、父の豊治を筆頭に着の身着のままで何も持たないで、一列に並んで脱出した。門外に待ちかまえていた暴徒達は私たちと入れ替わる様にすぐ会社内に駆け込んで来た。
すぐに略奪が始まった。満州で築いた家屋財産は一瞬の内に消滅した。
幸い行く道中は何事もなく、二キロ先の吉林神社に逃げ込む事が出来た。社務所には次々同胞が逃げて来た。
翌日から、私達は神社のすぐ斜め前にあった白山会館というダンスホールへ移動。そこで身を寄せ合いながら毎日を過ごした。
そこにもソ連兵が毎日銃を小脇に抱えてやってきて、女を連れて行く。拒否すればマンドリン銃で射殺される。抵抗する手段は無かった。

惨状

吉林市は旭川と同じ緯度にあり、私たちは幸いな事に吉林市内まで逃亡できる距離にあったことです。
最も気の毒なのは関東軍に見捨てられたソ連国境に近い都市から離れた開拓団の方々でした。
「日本人は侵略者、武器の持たない侵略者」として理屈抜きで中国人に殺され、集団自決も多かった。
遠い道のりを避難して来る白山会館には、死んだ子供を背負ってくる母親を何人も見た。麻袋が服で裸同然。血だらけ。浮遊病者の様になっている者。
子供を木にしぼりつけて来た親の話。兵隊さんに子供を手榴弾で殺して貰った話。お尻で子供を圧殺した話。山に逃げれば狼がいる。逃げ場所が無いのです。誰もその責任を取る者はいない。みんな知らんぶり。帰国しても問題にもならない。
子を助けるために預けた子供達は、今なお残留孤児として肉親を捜し求めている。自活のため子供をつれて中国人の家庭に入った婦人もいる。その当事者にとっていまだに戦争は終わっていない。謝罪も終わっていないと日中間で未だ揉めている。
成人の男性は路上から拉致されてシベリアに送られた。
国も敗れてしまえば、国の態を為さないのだ。殺人罪も拉致罪もない。同じ国民でも守ってくれない。自分自身を守る事しか生きる術は無いのだ。一人一人都合の良い様に解釈している、これが戦争。人間の社会なのです。
この満州では開拓団、義勇団七万八千五百人。一般邦人九万七千五百人。関東軍将兵五万五千人。合計二十三万人もの日本人が間違いなく犠牲になった。

人民裁判

ソ連が乱入し、日本国が投じた主要施設の殆どがソ連国に撤収された空っぽの満州は、ソ連軍から八路軍毛沢東率いる中国共産党の管理下に移った。
昭和二一年二月、十三才の時に除奸隊[じょかんたい]で住み込みボーイを一人募集していた。そこに私は食べて生きる為に応募し、採用されて働いた。
除奸隊は日本人から受けた戦争前の蛮行を暴き、裁く所として設けられた部門で、暴動の時逃げ込んだ吉林神社社務所が除奸隊の本部である。しかも日本人を「つるしあげ」るのはエセ共産党員の日本人が同胞を裁くのです。気絶したら水をかける等の仕置きもあった。ひどいものです。震えながら泣きながら盗み見た事がある。
私たちを助けてくれた通訳の陳さんは「日本人を助けた事が罪となり文化大革命の人民裁判で処刑された」と聞かされた。

戦後の満州

中国大陸に戦火を広げた日本軍に対し、毛沢東率いる八路軍と蒋介石の国民党軍は手を結んで応戦し、日本軍は完敗。されど必然的に相容れない両軍は中国大陸全土で激突し、再び戦乱に戻る。遼寧[りょうねい]省から吉林省へと国民党軍は八路軍を敗走させ北上進軍して来る。
初夏六月。待望の国民党軍が吉林市を囲む様に流れる松花江対岸まで八路軍を撤退させた。そこから吉林市在満日本人の帰国準備が開始された。
ソ連軍、八路軍、国民党軍いずれも軍票を発行し経済を動かしますが、政権が変わる毎に価値は消えて紙屑になった。お金とは何か?、とても大切な体験であった。

帰国まで

昭和二一年八月十二日、第九移送団に加わり、何とか生き延びて帰国の途に付く事になった。私は日本に帰る事が決まったこの日を生涯忘れる事が出来ない。
しかし、その時も人間はカメレオンみたいに変われるものだと体験した。
吉林駅から貨物列車に乗った。無蓋車だった。転げ落ちたら終わりだ。雨が降ればずぶぬれになる。
度々止まる。止まる度に伝令が来る。運転手は金品、女を要求する。同胞を売ってでも身を守る人。
手を挙げ率先して我が身を挺して同胞を守ろうとする人。子供ながら様々な人間模様を垣間見た。
貨車では老人が多く病気も蔓延する。注射の安楽死も埋葬する時間がない。暗闇に物売りも暴徒も来る。いつも「殺されるのではないか」と言う不安の中を何日か経って、遼寧省西部の都市錦州郊外に鉄線で囲まれた日本人収容所に到着した。
ここも暴動の跡で、床もない煉瓦の壁しかない状況の中でお金のある人は美味しいものを買って食べる等、無い人の差が凄い。
私はボロで身を包み、この惨めな状態を眺めながら引き揚げ船の到着と順番待ちで過ごした。

乗船

昭和二一年八月三十日、吉林駅を離れ十八日目、錦州の収容所から再び無蓋車貨物列車に乗り葫盧[ころ]島駅で下車。歩いて愈々我等の引き揚げ船を見る。ボロボロのリュックを背負い凸凹の鍋を身につけた人達の中には、船が見えると力も抜けて物を捨てる人もいた。捨てないまでも引きずるのが精一杯、栄養失調の人で溢れかえっている。
乗船前に写真や書類は没収され捨てた。「発見されたら全員に迷惑もかかり船も出航させない」と脅される。したがって満州での思い出の品々はほとんど無い。
日本海軍のかくれた要港として使用された葫盧島は錦州市の中心地より四十キロ程南方にあり、そこから貨物船五千トンの引き揚げ船に乗った。
乗船前に用を足す最後のトイレには、お金が一杯捨ててある。深いので拾えない。どうせ捨てる位なら皆を助けられる場面が幾度もあったのにと涙が止まらなかった。それも人間の姿。悲しい事が多い。
それでも船に乗る事が出来たのはまだ幸せな方だ。船中の食事は切手程の小さな乾パン五十個が一人一食の量である。乾パンを割ると中に虫がいる。虫を吹き払って口にした。
味噌汁には味噌はなく、塩汁にサツマイモの茎が浮かんでいた。
出港して間もなく吉林中学同級生の珊[さん]ちゃん(采女珊作[うねめさんさく]=九州出身)の母さんが命尽き死んだ。
お通夜の夜、薩摩芋の団子を仏さんに供えられたがすぐ盗まれた。南京袋に遺体を入れ水葬にした。丸めたトタンの中を思いっきり滑ってストーンと海中に突っ込んでいった。実に悲しいものであった。
珊ちゃんは一人ぼっちになってしまった。船の汽笛も悲しそうに「ボーボー」と泣いた。
同胞を人民裁判で裁いたエセ共産党員も船に紛れ込んで乗っていたが、着港する時には見当らなかった。日本人を拷問したり、自分だけよい思いをしたその党員を許せず、たぶん海の藻屑と消えたのだろう。同胞が同胞をまた裁いたのだ。

帰郷

長崎県佐世保港を目前に上陸出来ず、三九日間船中生活が続きやっと上陸した。
長い距離を汽車にゆられて無事北海道に着いた。
旭川では叔母さんの所に立ち寄りご飯を戴いた。
「体がむくむから良く噛んで食べなさい」と言われたが噛む間もなくスルリとのど元を通っていった。美味しかった。
私の兄良孝は連絡が途絶えたままで、父母と三女の京子、弟の信孝と私の五人家族は旭川から夜の最終列車で帰郷した。京子は衰弱により歩ける状態に無かった。
吉林を発って二ケ月と三日目の昭和二一年十月十四日の事だった。上富良野駅から見渡す郷里の道は子供の時に記憶していたより意外に狭く感じた。
父はすでに船の上で事業計画を立て、帰郷後すぐに母の実家である長兄の三枝光三郎を頼り、「ある時払いの催促なし」でその年の十二月に間口三間奥行き六間の掘っ立て小屋を建てた。建前の翌日には白く雪が積もっていたのが印象に残っている。
父は常に自信をもって先を見つめていた。私は翌年三月迄富良野中学に通ったが、通信教育に切り替えた。
しかし、駒井徹、山本勇、高岡友次郎の同年代の社員が入社して尽力する姿に、私は通信教育をも辞退し父の裸の再開業に共に参加した。
「ここから再び日本中に白いプラウを出すのだ」と、私に言い聞かせる父の背中を毎日見続けた。
母のサツは我が子良孝の無事な生還を祈り、毎日御膳を供えた。その良孝が昭和二四年六月、シベリアから帰国した。その歓びと親孝行は例え様のなく大きなものであった。

写真省略 再開業を後世に伝える労作者記念館(土の館内に展示)

国防

戦に敗れると国が消えた。日本人は元日本人[もとにほんじん]に変わり、家畜の如き扱いを受けるも訴える処が無い。
元日本人とは無国籍であり、逃亡者に変わるのである。更に厳寒期に入り満州の出来事は何れも正視出来ない状態の連続であった。
戦争とは、「民族の欲望なのか怨念を晴らす為なのか、民族の力を示す為なのかわかりませんが、アメーバーの様に目的も手段もグルグルと変わって行く怖いもの」だと思う。
不幸なことに、地球上では今でもイラクやイスラエルを始め戦争を繰り返している。
北朝鮮が最近ミサイルと核兵器を持った。持たれたらどうしょうもないのが現状なのである。
襲いかかってくる災難脅威に対し、理想はどの国も軍備を持たない方が良いのであるが、国防の為には日本も必要最低限は軍備を持たざるを得ないと思う。困った事である。
少々不自由してでも投資を続けて、国は国民や子供を守れる安心出来る環境づくりを是非確立される様お願いしたい。

後世に継承する大地

北海道畑作農業は昭和四十年代に比べても、ビートも麦も反収量が三倍以上になった。命わく土の世界は肥沃土が厚くなり、作物の根圏域もより深く広がればまだまだ収量も品質も上がると思います。お米もこれからでしょう。
石炭は掘り尽くすと閉山に追い込まれます。これは生産ではなく収奪の結果です。
農地は農業人の志で管理されます。収奪ではなく収穫した以上に土中に返し続ける営みなのです。だから土は若人の様に蘇るのです。永遠に死ぬ事のないのが土の世界なのです。土に対して熱意と真心で感謝する時、土は大智を超えて私達の心を受け入れてくれるだろうと農業者に教わりました。農業とは育てる業ですから、考え方もその人も育つのです。
日本国土には石炭・石油・鉄鉱石も天然資源はありませんが、命湧く大地こそが日本国最大の財宝と考えます。儲けの対象でなく、人間の土地として大切にして行く必要を感じます。
それから私は道州制の政治は賛成の立場でいます。上富良野を本社とし、全国各地で働き、ふるさとに納税しそれを大切に正しく使う事にすれば国からの助成金をあまりあてにすることもなく、自主経営行政改革への第一歩になると考えます。
そう言う思いで手段として茨城に工場を建て、本社を郷土上富良野にあえて置き、満州から引き上げてお世話になった上富良野で農業の土に関わる仕事を続けていける幸せを感じています。
先人たちは北海道に移住し、三十年かけて血と汗で築いた上富良野開拓の大地を大正十五年の十勝岳爆発により、一瞬にして硫黄の泥土に覆われ草も生えない不毛の地になるのですが、拓魂に応えんと血の汗を積み上げて現在の沃地に再興させました。
こんな偉大な事を為し遂げた我等郷土の先人の方々が示された真の生き方を学び、それぞれの業[なりわい]を正しく引き継ぎ、先人が築いた上富良野の郷土を誇りに思う事が私達に残された財産だと考えます。

大切な命

余談でありますが最後に教えて頂いた命のお話し。そのお裾分けを申し上げます。
男性が一生で生産する二千五百億匹の精子と、女性の一生で生産する四百個の卵を掛け合わせると百兆になります。
兄弟が二人とすれば五十兆分の一の割合で生まれる訳です。地球上の人間が毎日宝くじ買い、一万日買い続け当選者が一人。その割合が五十兆分の一と言う数です。
一万日と言う数は、一年で三百六十五日。十年で三千六百五十日。二七年四ケ月でようやく一万日ですから生まれた事が奇跡なのです。もう二度と生まれることは叶わないと知るべきです。生まれる事は血肉の争いに勝ち残った一つに対して命が宿ったと言うそうです。
命あるもの全てが戦慄の中で生まれて、家族愛の中で生き続ける。そして必ず死ぬ。この当たり前の事を承知して生きてゆかなければならないのですから。極悪悲惨な戦争で命のやりとりをしてはならないと思うのです。
郷土をさぐる会の催しに感謝し、私の体験が皆様に少しでもお役に立てれば幸せに思います。

スガノ農機(株)歴代社長

初代社長 菅野 豊治
二代目社長 菅野 良孝
三代目社長 菅野 祥孝
四代目社長 菅野充人

菅野祥孝氏の略歴

昭和八年 上富良野村に生まれる
昭和十六年 満州吉林市に渡満
昭和二一年 上富良野村帰郷
昭和四七年 スガノ農機(株)三代目社長就任
昭和五十年 北海道科学技術奨励賞受賞
昭和五五年 茨城県に工場移転
平成四年 土の館開館
平成十六年 文部科学大臣賞受賞
平成十六年 土の館北海道遺産に認定
平成十七年 スガノ農機(株)社長辞任、相談役就任、土の館名誉館長就任、黄綬褒章受章
平成十八年 紺綬褒章受章

あとがき

今回、私は菅野祥孝氏の講演内容を代筆と言う形で書かせて戴いた。
当初、戦後生まれで、団塊の世代と言われる私が書くことに抵抗感もあり、菅野相談役の思いを伝えるのは困難と辞退したのですが、郷土をさぐる会の事業として会員にも呼びかけ、全員で菅野氏の講演を拝聴し検討する事となりました。その講演は平成十八年十一月四日に開催され、大勢の皆様のご参加を賜り有り難う御座いました。
編集委員の野尻巳知雄氏はスガノ農機に勤務した経験があり、初代社長の豊治氏に「大きい失敗はしても小さな失敗は絶対繰り返すな」と言われている。
「大きい失敗は自分で気付き本人も反省出来る。小さな失敗は当たり前の様になって取り返しがつかなくなる」と教えられたと言う。
今度は再度の執筆依頼を自然に受け止めている自分がありました。郷土をさぐる二十二号に私が記した、土の博物館「土の館」の歴史の続編と思って御一読頂けたら、より理解が深まるものと思います。
取材を続けている内に、町内大町三に在住の向井サトさんが、ご主人一郎さんの体験をまとめた「満州逃げ歩記」(図書館蔵)にも出会いました。
作家で有名な山崎豊子氏、なかにしれい氏も合田一道氏の著書を参考に満州を題材にした小説を書かれている。
私は、学校で戦前戦後の歴史に触れない状況に疑問を持ちながら卒業しました。菅野氏の戦争体験を後世に伝える機会を与えて頂き、若い時に読んだ戦記に関する書物を再読しました。
先の戦争では殺戮[さつりく]、虐殺、暴力行為を命令等の下で平然と実行した日本。語り尽くす事の出来ない、それぞれの悲惨な人生体験があると改めて痛感。平和のありがたさを心から再確認しました。(編集委員 田中正人)
注.菅野祥孝氏の講演を録音し、文章化したので口語体と、文語体が入り交っています。

参考資料

文献類
上富良野町史
上富良野史
郷土をさぐる二二号
朝日新聞 平成十八年十一月三日付け
国語大辞典(新装版) 小学館 1988
人間の土地 一〜八 農山漁村文化協会 吉田十四雄
グラフィックカラー昭和史 研秀出版
昭和と戦争 ユーキャンビデオ
その時歴史が変わった 真珠湾攻撃(前後) NHK
土の館常設展示品案内書 土の館
SUGANO NET スガノ農機株式会社
小説等
死の逃避行 満州開拓団二七万人 合田一道
満州逃げ歩記 近代文藝社 向井一郎
赤い月(上下) 新潮文庫 なかにしれい
大地の子(一〜四) 文春文庫 山崎豊子
戦争と人間(一〜九) 光文社文庫 五味川純平
人間の条件(上中下) 河出文庫 五味川純平
神話の崩壊 文春文庫 五味川純平
慰安婦たちの太平洋戦争 光人社文庫 山田盟子
泥流地帯(続) 新潮文庫 三浦綾子
泥流地の子ら 星雲社 鹿俣政三

写真省略 講演中の菅野氏
写真省略 講演に耳をかたむける郷土をさぐる会員

機関誌   2007年 3月31日印刷
郷土をさぐる(第24号)   2007年 4月 1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一