郷土をさぐる会トップページ     第24号目次

各地で活躍している郷土の人達
北の大地に育まれて 「十勝岳に生かされた青春」

東京都練馬区東大泉 齋藤 哲哉 (注:「哲」本字は「吉」を3つ。「哲」で代字)
昭和八年五月二日生(七十三歳)

はじめに

私は昭和二十七年三月、十八歳の時に富良野高校を卒業、その翌月には東京の大学へ進学した。昭和三十一年春に卒業、東京でのサラリーマン生活が始まった。
やがて所帯を持ち子供達も成長、私は大阪や福岡への単身赴任生活など、企業戦士としてひたむきに歩んだ。都会のストレスに傷つく人は多いが、私にはストレス逃避の心象風景が拡がる。
瞑想できるコーナーで座を組めば、私の脳裏には北海道の大自然が浮かぶことだ。青空に噴煙たなびく十勝岳がクローズアップされ、ついで上富の緑の丘陵へと思いは駆け巡る。集中力の高まりと共に、いつしか北の大地に包み込まれるような錯覚の虜となる。気分は高まり、心豊かな静謐[せいひつ]の世界へ引きずり込まれる。僅かな時間で、やすらぎは魂を癒す。
この簡単なストレス解消法のお蔭で、生かされてきた今の私である。
そんな感謝の思いを込めて、年に一度は十勝岳を眺望する丘にたたずみ頭[こうべ]を垂れる。
過ぎし日々は茫洋とした記憶の彼方へと流れ、やがて留める術[すベ]もなく失せる。私は与えられた執筆の機会に、断片的に去来する往時を偲び、自身の備忘録としてここに留めることをお許し頂きたい。
戦後の数年間を中心に私の過去を喚起し、時代を共有された皆様には共感を、戦後生まれの方にはご両親の生きざまを偲んで頂ければと願っている。

小学校入学後に国民学校へ

私は昭和八年五月に士別市温根別町で生まれた。
父は中国の古典から文字を引用し「哲哉[てつや]〜フォントが無いので「哲」を代字とする」と名付けた。誕生の当日は暦の上で吉事が三つ重なり「哲」の古宇から命名したと、ずっと後に父から教えられた。
この難字を判読できる方は少ないが、何年か前の新聞記事中より九州の大学教授に同名の方を見つけ、旧知のように感じたものだ。この名前のお蔭で初対面の方とも文字談義に花が咲き、お蔭で多くの方にテッちゃんと愛されてきた。
四歳の春、父は現・名寄市中名寄小学校の校長に赴任となり、家財を積んだ馬橇に乗せられて、雪道を長時間揺られた記憶がおぼろげに浮かんでくる。
校舎に隣接した住宅は学校のグランドに面しており、幼いうちから小学生に仲間入りして遊んでいた。
昭和十五年春に小学校へ入学したが、緊迫した国際情勢下、翌年の四月から国民学校に変更された。
そして、この年の十二月に太平洋戦争が始まった。
小学校の昼食はご飯に梅干一個の日の丸弁当で、食前には「戦地の兵隊さん有り難う、農家の皆さん有り難うございます」と声を揃[そろ]え合掌し、一粒残さず頂いた。
やがて食糧難はこの地にまで波及、ご飯には芋と粟[あわ]、コウリャンなどの割合が増えて、米は僅かとなり常に飢餓状態。友達と川で魚や貝を取って川原で焼いて食べたり、イタドリの茎や、スカンポをかじったり、食用になるものはなんでも口にした。
五、六年生は、勉強よりも兵役で働き手がいない農家の、農作業を応援する援農が中心となった。学校から援農に向かう道では鍬を肩に隊列を組み、軍歌を大声で合唱するものの、帰路にはさすがに疲れ果て、軍歌もとぎれとぎれになった。
辛かった援農作業で唯一の楽しみは昼食の時間、農家から振舞われる白いご飯のお握りと沢庵が最高の喜びであった。何しろ当時の我々は、欠食児童と呼ばれるほどに、三食のご飯に有りつけない文字通りの餓鬼童だったのだ。
春先の日ざしに雪の表面が融け、明け方の寒さで凍る堅雪の朝は、道のない山野を自由に歩きまわれる楽しい時季であった。体重の軽い子供達にとっては、積雪の表面はあたかも舗装された道のようである。
この堅雪の朝、先生より「軍の要請により樹液を採取に行く」との指示で、五、六年生は数名のグループ単位に分かれ山中へ入った。イタヤ楓[かえで]の幹から採取した樹液を、持参した酒の空き瓶に入れ、校庭に仮設した大きな窯で煮詰め、メープルシロップの状態で供出した。先生からは「軍用機の燃料用」との説明だが、小学生にはなぜか理解できなかった。

写真省略 中名寄小学校と住宅(昭和15年撮影)

疎開の人たち

忘れられないのは、本土から疎開って、中名寄地区には主に東京の板橋区民が疎開して来た。当初は、教室や公民館に分泊されたが、やがて長屋型式のバラック住宅での生活が始まった。
終戦近くの頃には、小学校のクラスも二倍位に膨張し賑やかになった。親しめない環境に戸惑いも多くあった筈だが、今のようにイジメもなく、現地の子たちと同化し仲良く通学していた。
自給自足の当時、家庭で使う固形石鹸は魚油と苛性ソーダを混ぜて作り、生臭い大変な代物だったことなど、妙なことを記憶している。不自由な暮らしの中で、慣れない農作業に精出す疎開された方々の懸命に生きる姿を見るにつけ、小学生の私にも戦争がもたらす悲惨さは身に沁みた。

終戦の頃

昭和二十年の終戦を境に、無秩序な動きは一気に表面化した。終戦の八月十五日は抜けるような青空で、北国には珍しいほどの猛暑だった。外出先から戻った父は、「間もなく玉音放送が始まる」と家族を集めた。微弱な電波のためかラジオから流れる声は、時に低く時に高く波打ち、その上にひどい雑音のため、放送内容はよく聴きとれなかった。放送が終わり父はポツリと、「耐え難きを耐え忍び難きを忍び太平を開かん」との仰せだから、国民を激励されたのだと……。
間もなく、近くの人たちが集まり、不明瞭な放送の内容を話し合ったが、中には「米英支ソに対し共同宣言を受諾する」と聞こえたから戦争は終わったのだ、と言う者もいた。結局のところ、玉音放送では確かなことは判らなかったが、その日の夕方には終戦の事実が周知された。
翌十六日にはさまざまな情報や噂が流れ、町中は不安に怯[おび]えた。「北海道は釧路から留萌に至る境界線で分断され、北部地域はソ連の占領地になる」とか、「ソ連兵は乱暴だから、女性は男装するか山に逃げるか」などと、町中は浮き足立っていた。
二十日頃になると、この分割の話しは単なるデマではなく、「ソ連首相スターリンがアメリカ大統領トルーマンに提案した書簡内容である」と報じられた。その後、トルーマンは即座に拒否し、北海道分割案は危機一髪のところで食い止められ、何はともあれ安堵の空気が拡がった。
終戦は六年生の夏休み中だったが、中学受験を半年後に控えていた私にとっての関心は、もっぱら受験対策の補習授業の成り行きなのだ。

二人の兄の復員

終戦の翌日からは、帰還する復員兵と、大きな荷物を持った買出し客の姿が目立つようになった。先行きの状況がどうなるのか判らないため、大人たちの顔は一様に暗かった。その上、戦時中に学徒動員で召集された二人の兄からは、何の情報もなく消息は不明。
長兄は横須賀の海兵団、次兄は鹿児島の陸軍特攻隊知覧基地で、それぞれ終戦を迎えた筈だが、二人からの音信は途絶えたままであった。家の中は不安な毎日で落ち着かず、やがて事故か戦死かと悲壮感が漂いはじめた。
ところが九月も下旬になったある日、何の前触れもなく兄二人はそろって我が家の玄関に立った。
憔悴[しょうすい]しきった二人を迎え、家中は歓喜の声で沸きかえった。兄弟は青函連絡船へ乗船する人々で大混乱の青森駅構内にて、奇しくも劇的な出会いがあり、二人揃って感動の生還となった。

三家族十七名の共同生活

終戦と共に外地からの引揚げが一斉に始まった。
八月下旬には樺太(現在のサハリン)から、父の兄一家と母の兄一家の二家族十人が引揚げ、私たちの住む住宅に着の身着のままで転がり込んできた。
わが家は両親と兄弟五人の七人家族。そこに引揚げの十人が加わり、合計十七人の共同生活が始まった。洗面もトイレも入浴も、行列が日常茶飯事。大勢の世話に明け暮れる母の疲労は子供だった私の目にも痛々しく、手助けできることは肩を揉んであげること位が精一杯。このような大家族状態が一年半も続いた中から体得したことは、「自分のことは自分で済ます」という自立心であった。

旧制中学校へ入学

昭和二十一年二月に旧制名寄中学校を受験、首尾よく合格はしたが、中学校までは約八キロの道のり。通学には木炭が動力源のバスを利用するものの、坂道の登りで乗客は一旦下車し、男性客はバスの後押し。木炭バスの走行時間は不定で、登校時に間に合わない日も多く、従って、夏は自転車、冬にはもっぱら歩くかスキーだった。この体験が健脚を培[つちか]ってくれたと思う。
雪道は山から切り出した木材を製材所に運搬する馬橇の列。脚が太くたくましいドサンコと呼ぶ馬は、一抱えもあるような長い数本の丸太を、トレーラーのように先端と後部に分かれたバチという橇の上に乗せて引いた。長距離通学の私は、スキー走行に疲れると、ストックリングを馬橇に引っ掛け、楽チンを決めこんだものだ。
憧れの中学校も、終戦後初の新入生にとっては荒廃した学園である。まず授業の始めに教科書内容の大半を、検閲により墨汁で塗り潰す作業。このため、教科書を読んでもほとんどは意味不明であった。
終業時の校門脇には、着古した軍服姿の復員兵の先輩達が陣取り、新入生は次々と呼びつけられ、「女学校に通っている姉ちゃんは居るか。ちゃんと答えろ」などと理不尽な質問、返答が気に入らないと「歯を噛み締めろ!」と往復ビンタの制裁を受けた。
戦時中の規律正しい中学生の姿に憧れ、期待をもって入学したが、無秩序で混乱する中学校の状況に失望、勉強の意欲も失われがちとなった。

上富良野駅への道

昭和二十二年、中学二年の春、父の転勤に伴い上富良野村創成小学校校長住宅に居住することになった。この新たな生活の場は、大正十五年五月の十勝岳大爆発による被害の中心地帯だけに、父は私に被災記録を読ませ地域への理解を促した。
目前に聳[そび]える十勝岳の威容と噴煙には、確かに畏敬を感じた。やがて転校先は富良野中学二年生へ転入と決まり、上富良野駅と富良野駅間を汽車で通学することになった。住宅から上富良野駅へは、徒歩で二十五分位の道程だったと思う。母は毎朝五時に起き、私の朝食と弁当を作り六時に起こす。洗面で寝ぼけを覚ました私は、朝食を慌ただしくとり、六時半には家を出て七時の富良野行きに飛び乗るのが日課である。
街灯も無い冬の帰り道は、五時を過ぎる頃には真っ暗で、寂しさの余りいつも小走りだった。町並みは駅から二百メートルも歩いた処で終わり、その先は行き交う人も少なく、畑の中の砂利道は、遠く先まで続いていた。駅を出て十五分も歩くと、道は左へカーブ、その先の橋を渡ってからは十分位で住宅に着くことができた。
十勝岳を眺めつつ家と駅を往復した朝夕の道は、終生忘れられない道となった。十勝岳連峰が朝日を浴びて輝く時はこちらの心も晴れやか、夕日に染まる十勝岳を仰いでは時にロマンチックな思いに浸ったものだ。十勝岳連峰を仰ぎ見て過ごした青春の五年間は、山との対話の日々でもあった。

写真省略 上富創成小学校校長住宅(昭和27年撮影)

汽車通学の思い出

当時は電力不足のためか頻繁に停電し、どこの家庭も石油ランプと蝋燭[ろうそく]が常備品で、ススで汚れるランプのガラス(ホヤ)磨きは、私に割当てられた家事手伝いのひとつ。
通学列車の蒸気機関車は熱量不足のためかたびたび途中停車し、座席は硬く冷たい板張りだった。車内は大きな荷物をもった買出しの人と軍服姿の復員兵でいつも満員のため、私たち汽車通学生は洗面室かデッキが定位置だ。男女別学の頃には、中学生と女学生は顔を見合わせるだけでほのぼのとし、不自由な時代だがみんなの表情は明るく活気に満ちていた。
上級生からは肝試しに似た危険な指導も受けた。
積雪の多い日、汽車が徐行区間に入ると着ているマントを翼のように拡げ、デッキから雪の上に飛び降りた。ある夏の日の帰校時、富良野駅に向かう汽車通学の数名は、新鋭のD51型蒸気機関車の話題で盛り上がった。そのうち、急坂の狩勝峠を三重連で力強く上るD51[デコイチ]を見ようと意気投合、即実行とばかりに帰路とは反対側の列車に乗り込んだ。峠の徐行区間で飛び降りた一行は、話題のD51の勇姿に見とれて大満足。だが帰りの列車内で検札を受けた私たちは、文字通り無一文の無賃乗車。事情を聞き終えた車掌さん、やおら懐から財布をとり出し、「今後は決して無賃乗車はしないこと。この小遣い銭で何か食べ物を買いなさい」と。私たちは温情溢れる態度に接し、涙が止まらなかった。
この事件以降、私たちは自らの非行を深く反省、決して同じ過ちを繰り返すことはなかった。車掌さんへの感謝の思いはいつまでも鮮明で、北風と太陽のたとえ話のように、温かな包容力に勝るものは無いと、自らも心がけるようになった。

写真省略 上富良野より富良野高校へ通学の一同と(昭和25年撮影)
写真省略 通学定期券(昭和26年12月)

学制改革、男女共学始まる

昭和二十二年四月からは、六・三・三・四の新学制により、全国の小学校、中学校で義務教育が始まった。このため旧制中学校の私達は富良野高校併設の中学生となり、三年生を終えると自動的に富良野高校に進学する経過措置となった。
男女共学も当初は大いに戸惑った。「男女七歳にして席を同じゅうせず」といわれた戦前の教育が一転して男女共学となり、中学生と女学生が同室での勉強とは夢のようだった。準備期間は長引いたが、旧制中学から転換された高校校舎には、私達が高校二年の春に女学生を迎え入れて、旧制富良野女学校校舎は新制中学校に変わった。私たちの多感な年ごろに始まったこの学制改革は、思えば学業に専念しにくい時代でもあった。

名物先生と青春逍遥歌

富良野高校を卒業した仲間が集まると、誰からともなく柳井和助先生のことが話題に上る。京都帝大を終えてさらに東京帝大に学んだ柳井先生は、その後は樺太にて教育に専念された。終戦の引揚げにより、昭和二十三年から富良野高校で英語を教えられたが、わずか二年後に五十六歳で急逝された。
深遠な知識を背景に、教科書から話題は発展して哲学から文学論などへと、薀蓄[うんちく]を傾けた先生の講義に魅了された生徒達からは、名物先生として慕われた。誰もが目標を失っていた戦後の混乱期に、旧制高校の寮歌を教え、青春の活きかたを啓蒙するなど、短期間に生徒達へ与えた影響は計り知れないものがあった。
先生は富良野高校に赴任の一年後、次の「富高青春逍遥[しょうよう]歌」を自ら作詞・作曲された。

一 早緑[さみどり]萌えて 陽炎[かげろう]の
  揺らぐ野面[のもせ]に 草藉[くさし]きて
  千種[ちくさ]の花の 香[か]に酔えば
  幸[さち]の女神[めがみ]の 囁きぬ
  いざ青春の血を 灑[そそ]ぎ
  文化の華[はな]に 培[つちか]へよ

二 緑の峡[かひ]に 黎明の
  白雲[しらくも]湧けば 蘆岳[あしだけ]の
  雪渓窃[えう]と 耀[かがよ]ひつ
  空知の川音[かわと] 響[な]り渡る
  見よ大空を 人の界[よ]を
  行方も遥[はる]か 吾が想い

三 黄金[ごがね]の波は 打ちさやぎ
  丘辺[おかべ]の紅葉[もみじ] 炎[かぎろ]ひつ
  十勝の峯の 蒼穹[あおぞら]に
  冲[ひひ]る火柱 仰ぐ時
  星の眸[ひとみ]の 煌[きらめき]きて
  黙示[もくし]は落ちぬ 吾が胸に

四 大雪山の 山脈[やまなみ]や
  肌銀白に 粧[よそお]へば
  六花[りっか]は舞ひて 吹雪哮[ほ]え
  樹氷も躍[おど]り 森ぞ鳴る
  其[そ]を載[き]りて行く 翼[つばさ]あり
  見ずや求道[ぐどう]の 象徴[シンボル]と
  空凍[こほ]れども 吾が胸は
  高[たか]行く理想[おもひ] 燃ゆるかな

富良野の四季を織り込んだこの歌は、旧制高校の寮歌のように格調高く、校内を挙げて愛唱された。
今でもこの歌を口ずさむ時、遥か青春の熱い思いが満ちてくる。

富良野高校校舎の火災

昭和二十四年三月五日の夜、「学校が火事だ」との電話に驚き、上富良野の学友数名と一緒に、約二十キロ先の富良野を目指し、深夜の道をひたすら急いだ。道中では燃える校舎を案じて無我夢中、空腹も疲労も忘れての強行軍だった。夜も白々と明け始める頃に、鎮火後の白煙くすぶる学校へ到着して呆然、校舎中央部分は完全に焼け落ちていた。それでも焼け残った教室と体育館を利用し、不自由ながらも授業は休まず続けられた。

スポーツに明け暮れる

「健全な精神は健全な肉体に宿る」の言葉を私は適当に都合よく解釈し、学業よりもスポーツを優先。
中学三年の時に友人達とラグビーを始めたが、実業団の三井芦別鉱山チームとの練習試合で、頚骨[けいこつ]と肋骨[ろっこつ]を損傷、残念ながらラグビーは断念した。
高校一年から二年はスキー部からの誘いで長距離種目に挑戦、冬季は富良野の野山を滑り走った。この頃、初めて北の峰スキー場が全日本スキー選手権大会の会場となり、私はスキー部のお蔭で読売新聞社取材記者のサポート役を務めることが出来た。
初めて真正面にそびえる十勝岳連峰を畏敬の思いで仰いだ日から三ケ月後の中学二年の時に、山麓のヒュッテ白銀荘を拠点として十勝岳登山を始めた。
昭和二十二年の当時はまだ登山者は少なく、無人の吹上温泉も荒れていた。その後、幾度も登山を続ける中で、山仲間と共に富良野高校山岳部を創設。大雪山系縦走を実現するための準備に入った。
高校三年の昭和二六年七月二十一日早朝、いよいよ縦走の開始。十勝岳〜美瑛岳〜トムラウシ岳〜白雲岳〜旭岳等の主峰を経て、一週間後に層雲峡へゴールする行程。戦争中は登山する者は少なかったのか、登山道も道標も失せて、陸軍測量部発行の不完全な五万分の一地図だけが頼りの大雪山系縦走だ。
北海道新聞は出発の前日、「夏の大雪に挑む富良野高校生ら二十一日出発」の見出しで予定ルートを掲載、その後、八月四日付の社会面に「夏の十勝岳を征服」と写真入りで報道した。
このような活動を通し、私は上富良野に住んだ五年間に、十勝岳へは通算して二十七回の登頂を数えた。多くの体験を与えられた上富良野、富良野の青春時代は、ひ弱だった私の精神と肉体に大きな力と勇気を与えてくれた。

写真省略 北海道新聞掲載記事(昭和26年8月)
写真省略 富良野岳頂上にて(昭和25年撮影)

青春の詩

私の最も好きな詩の一つに、幻の詩人サムエル・ウルマン(AD/一八四〇−一九二四)が人生のロマンを高く掲げた「青春」の詩がある。

青春とは人生のある期間ではなく、
心の持ちかたを言う
薔薇の面差[おもざ]し、紅[くれない]の唇、しなやかな肢体ではなく、たくましい意志、ゆたかな想像力、炎[も]える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
青春とは怯懦[きょうだ]を退ける勇気、安易を振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、二十歳の青年よりも六十歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うとき初めて老いる。
頭[こうべ]を高く上げ希望の波をとらえる限り、
八十歳であろうと人は青春にして己[や]む。

この青春の詩は、いまもなお私の生きる道標[みちしるべ]である。   了

《齋藤哲哉[てつや]氏の略歴》

上富良野小学校で最も思い出深いのは、五年三組の担任の井上ミツ先生とクラスの友達のことです。
八月迄の一学期間だけでしたが、それは素晴らしい出会いでした。すらっと背が高くいつも明るい美人の井上先生、友達では、材木屋の穴田博子さん、おっとりしたお嬢さんの西野目節子さん、頭のいい荻子富士子さん、天然パーマの金子喜榮子さん等々懐かしい顔が浮かんできます。
転校の挨拶に学校へ行った日、校庭の斜面の芝生に座ってクラスの皆さんと一緒に『里の秋』を歌ってお別れしたことは忘れられません。その頃童謡の川田正子、孝子姉妹の歌が広がり始めていたのではないでしょうか。
井上先生は、次々と新しい曲を教えてくださいました。それは熱心に授業に取りいれておられたように思います。それらの歌は当時の私たち子供の心に水が沁み込むように受け入れられ、熱い思いで懸命に歌いました。戦後のまだ物のない時代の大きな贈り物でした。紫のインクを好んでお使いだった先生がお別れにと書いて下さった「川田正子愛唱歌集より」と題した歌集は、今も大切にしてあります。「みてござる」「花かげ」「みかんの花咲く丘」「月の砂漠」などなど、教わった歌の数々が美しい文字で綴られ、紫の色も瑞々[みずみず]しくあの日のままです。

昭和八年五月 士別市温根別にて出生
昭和二一年三月 名寄市中名寄小学校卒業
昭和二四年三月 富良野高等学校併設中学校卒業
昭和二七年三月 富良野高等学校卒業
昭和二七年四月 明治学院大学経済学部入学
昭和三一年三月 同卒業
昭和三一年四月 日本出版販売株式会社入社
昭和五四年六月 同社取締役就任、その後同社常務取締役、同社専務取締役、株式会社教文館専務取締役、株式会社積文館社長等を歴任
平成十八年六月 株式会社エス・ネット 代表取締役、現在に至る。

写真省略 作家・太田治子さん(太宰治の遺児)とNHKチーフアナウンサー山根基世さんと共に(平成16年撮影)

機関誌   2007年 3月31日印刷
郷土をさぐる(第24号)   2007年 4月 1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一