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「吹上温泉の変遷」に寄せて

長井 禧武 (元役場職員九十八歳)

(長井禧武の手紙から抜粋)
今回ご送付くださいました「吹上温泉の変遷」の原稿を拝読させて頂きました。飛澤病院のことにつきましては、亡父の病等で私がまだ小学校時代からよくご厄介になった事を覚えておりますが、原稿に有りましたように、先生は馬が大変お好きで居られました。
これは、昔は自動車等も無く遠い道はもっばら乗馬であった関係と思いますが、遂には競走馬にも関心を持たれ、その馬の名を当時極東オリンピックのフィリピンの短距離選手で、優勝ばかりしていた「カロン」と言う選手の名を採って競走馬に「カロン」と命名し、中々速い馬であったことを覚えております。
先生が本業の他に十勝岳の観光にあれほど熱心であったとは知りませんでした。
飛澤病院には、患者としてのみでなく健康な時でも青春真っ盛りな時代の事ですから、お嬢さん、看護婦さん、近所の若い人達で夜、患者の居ない診察室でよく歌留多取りに興じたものです。
辰己さんのこともよく存じておりますが、あの方は初めは病院で専ら薬剤の仕事を担当しておられ、年齢も二十八・九歳位だったと思いますが、短距離が非常に速く、当時村中でこの人に勝てる者は無く、市街地の青年団の代表選手として、青年団の陸上競技ではいつも東中と優勝を争ったものです。
全道陸上競技大会の予選で上川支庁管内大会にも、上富良野村代表として出場された事もありました。
吹上温泉に行かれてからは、役場に来た名士の案内や接待等で大変お世話頂いたものです。
辰己さんの奥さんは、北海道に来られても中々秋田訛りが抜けず、いつも秋田弁でよく話される方でした。
原稿で十勝岳爆発災害時に平山鉱業所から三十数人が温泉に避難して来たと有りましたが、私はその事は知りませんで、今まで全員死亡かと思っていました。
私は爆発三日目に平山鉱業所跡まで様子を見に行ったのですが、その時は吹上温泉には寄らなかった様に思います。また、その時に誰々と同行したか思い出せませんが、多分消防組の人達でなかったかと思います。
余談になりますが、私が役場に在職中のことですが、今でも不思議な現象だったと思うような出来事に遭いました。
それは爆発災害時の事ですが、私は一般的な世間話として《水死人の場合で身内のものが来ると、死人は鼻血を出す》と聞かされたことが有りましたが、当時私はそんな霊界のような話は全く信用しない方でした。
災害当時、泥流に流され水死体で発見されたが、身元のわからない遺体は一時役場の裏口の方に寝かせて、身内が来るのを待っていました。偶々、中年の女性の方が来て行方不明の身内を探して遺体を確かめていたところ、身内と判りましたが、その遺体の鼻から赤い血がにじみ出て来たではありませんか、これには私もすっかり驚き、なんと言う不思議な事かと今でも思っております。或いは只の偶然の出来事かも知れませんが、そんな出来事がありました。

中  略

原稿につきましては、私から何も申しあげる事はございませんが、今後何か私が知っている事があれば、お答えいたします。
                              平成十三年六月二十二日

機関誌 郷土をさぐる(第19号)
2002年3月31日印刷  2002年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔