郷土をさぐる会トップページ     第19号目次

来(こ)し方九十年、思いつくままに(上)

岩田 賀平 明治四十三年十二月十日生(九十一歳)


はじめに


成田きんさんが、百歳の誕生日の感想を聞かれ、百年は短かったと答えたそうだが、たしかにそうかも知れない。
私どもは偶然にも(必然性があった筈だが)宇宙船地球号に生を享けたのだが、私は、その人類の母なる地球の、四十六億年前の誕生からの経過を反芻してみたい気持ちにかられる。
そもそも誕生から十何倍年か経った頃、今の様な地球になる過程で、先ず地殻が形成されるが、温度の低下に伴って表面に大気や海水が生じたことが、生命の起源とされる。(オバーリンの生命の起源による)
以来生物は変異、淘汰、進化を繰り返して、およそ今から五百万年前になって、直立歩行の猿人が現われ、木や石や骨角などで道具を考え、火も使うようになった。更に原人、次の旧人(ネアンデルタール)から現代人の新人(ホモ・サピエンス)に枝分かれしたのが、この五百万年中の最後の僅か十五万年前だとされている。
歴史時代
気が遠くなるような話はさておき、今から大約(おおよそ)五千年前、エジプトを始めメソポタミアやインダス、そして中国が四大文明を築き上げたが、何れも大河の広大な流域に原始的農業が行われるようになったことが、文明発祥をもたらしたのである。
日本についてみれば、今から約二千年前の弥生時代、稲作や金属文化が大陸の人達によってもたらされたのが、実質的な日本文化の幕明けとされている。因みに日本の人口増加の推移をみると、縄文草創期(九千年前)は二〜三万人と想定されるのに対し、弥生時代には六十万人に、奈良時代(千二、三百年前)になると五百万人になっている。
またミレニアムに因んで千年前はどうか。ヨーロッパでは神聖ローマ時代に当り、日本では平安時代紫式部の源氏物語の頃であり、また北海道では擦文文化期に当るから、私どもには千年と云うのは随分昔のことに思われるのである。
下って新大陸の発見は約五百年前、米国の独立は二百二十余年前のこと。ヨーロッパに産業革命が起って、工業と経済が確立され始めたのは、僅かに二百三十年前のことである。
富良野開拓の曙と、我が家の入植
フラノの原始林や、未踏の原野に初めて和人が足跡を印したのは安政五年(一八五九年)、今から百四十二年前のこと、幕末の探検家松浦武四郎が、アイヌの人達を案内役に、チクベツブト(旭川)から美瑛を過ぎ、江幌完別川の東側丘陵を南進、フラノ川を渡り日の出付近を通過して、東中倍本のカラ川に沿って登り、十勝越えしたのを以て嚆矢とする。
そして村の開拓の第一歩は明治三十年。富良野原野を区域とする戸長役場が三十二年六月、西一線北二十六号の民家で、戸長と筆生二名で執務が開始された。鉄道が旭川から下富良野まで開通したのは三十三年八月だから、本格的入植は三十四年以降だったようだ(滝川・下富良野間の開通は大正二年十一月)。
我が家の祖父作右ヱ門・天保十二年(一八四一年)生、祖母つる・嘉永二年(一八四九年)生、父長作・明治十八年(一八八五年)生、母よし・二十二年生れが、富山県から移住して来たのが三十八年、私が第二子長男として生れたのが四十三年(一九一〇年)、東九線北十九号で、向い隣りの丸山つるさんに産婆をお願いしたそうである。
私の知る開墾時代の生活
開墾農家の経営は、普通畑の耕作の他に開墾と云う過重労働と、何年かの再墾畑となるまでの作物の減収と云う大きな負担がかかる。当時は開墾補助金や融資などの制度もなく、ひたすら自力で過重労働と貧困生活に耐えなければならなかった。だから部落の中にも開墾に挫折して夜逃げと云う悲劇も起ったりした。
このような時代ではあったが、我が家では四十五年、それまで存置されていた風防林(二十九年の殖民区画設定の際、道路用地と風防林用地は殖民区画から除外されていた)が開放され始めたのを機に、荒地に入植開墾することにした。私はその開墾時代の最中に物心がついたのであった。
幼い私が夜中にふと目が覚めた。父母の姿がない。たった一枚のガラス窓が真っ赤だ。春先の夜、風の静まるのを見計らって、伐木跡地の火入れと分かっていても、淋しさと恐ろしさで寝つかれなかったことを思い出す。
当時の我が家は馬小屋と一つ屋根、井戸は素掘りで地上部だけ板で囲ったもの、地下水位が高いので、長柄のひしゃくで容易に水は汲めた。風呂は箱形の木枠の底に鉄板を張ったもので、外風呂であった。便所も素掘りで板二枚が並行して渡され、上から一筋の縄が下げられ、それにつかまって用をたす。新聞紙もないので(部落内で新聞をとったのは一軒あるかなし)、わらを五寸位に切って尻をふく(感じの悪かったこと今も忘れない)。けれども夏には蕗の菓の半乾きが重宝した。
また冬には、どこの家でも夜小便に起きるために、土間に小便桶をおいていた。真冬ともなれば大便が凍って塔になるので、鍼(まさかり)で度々叩き落すのである。それが春先き雪どけには、井戸と同じ水位になってダブダブ、非衛生この上ないが、上層水は移動しないから大丈夫だと言うことにしていた。それが夏ともなれば蝿の発生源、岨虫がウヨウヨ盛り上がるのである。
冬のことでもう一つ、土間が凍ってつるつるになる、戸外から急に家に入ると、瞳孔が反応するまで真っ暗で何も見えない。私はうっかり下駄が辷って転び、後頭部を打って一時気を失ったことがあった。
屋内の様子
家の入口を入ると土間、間仕切もなく居間。居間は床板に筵敷き、居間の奥半分の左側は座敷で、私が一緒に寝た祖母の寝室(私は小六年まで祖母と寝たおばあさんっ子)、右側は父母と他の兄弟たちの寝所、筵の下にわら二三寸が敷かれてあった。また、従兄(いとこ)が手伝いに来たことがあったが、部屋がないので馬小屋の屋根裏に頭が支(つか)える狭い窮屈な小部屋を作ったりした。
囲炉裏(いろり)は土間から居間の中程まで切りこみ、燃料は六〜七尺の丸太薪の先端に小割の焚付けと、がんび(白樺)の皮にマッチで点火(がんびの大木の皮は三尺以上の幅に剥ぎ家屋の壁に使ったりした)。鎖(くさり)の吊り鉤(かぎ)に下げられた、つるのついた鉄鍋の尻に合わせ、燃えただけ次々薪をおし進める。暖をとるには炉縁から深さ一尺位の炉の周りの狭い板に膝(ひざ)立てする。母や子供は股引(ももひき)をはかないから、脛(すね)には赤い火紋がつくのであった。
焚火は顔は熱いが背中が寒いからつい火箸でつつくと火の粉が舞い上がる。屋根裏からは無数に下がっている長い煤(すす)に火がつき、あわや大事になるところを、駆けつけてくれた隣家の柴山さんに辛うじて消し止めて貰ったこともあった。また囲炉裏は煙いのも欠点で、そのためか赤目や目くされの子供をよく見かけた。囲炉裏は夜の明りの助けにもなった。
暗くなると石油ランプ、居間以外はカンテラ、納屋や馬小屋、屋外は提灯(ちょうちん)が使われた。
少し話は戻るが台所について。麦わら囲いに副って土間から居間にかけて流し台と水桶、それに板が二〜三段に吊り下げた棚。思い出すのは、子供の手が届かない高さに玉砂糖の入った紙袋が目についていた。姉と相談、何かを台にして目的達成した一件と、どこから入ったか大きな蛇、青大将が流し場ににょろにょろ、腰を抜かさんばかり吃(びっ)くり仰天(ぎょうてん)の一駒もあった。
また放し飼いの鶏は遠慮なく居間に入ってくる。おばあさんが大声でホーホーと追うのだが、逃げ際(ぎわ)に一発、脱糞のおき土産(みやげ)には腹が立つ。でも卵を産むから憎(にく)めない。それに卵を産み落した途端、コツコツコツコツ、コケーコッコツと教えてくれるから有難い。そして巣に一個だけ残しておくと、決った巣で産むようになる。夏も暑い季節、卵を産む数が目立って減ったので変だと気にしてたら、突然納屋の隅から親鳥がピーピーと数羽の雛(ひな)を伴って現われる。
丁度第一次世界大戦で、農家は豆成金で潤(うるお)った者があり、市街地の人口も徐々に増え、卵買いの人が来るようになった。卵が売れて一番喜んだのは母だった。一個四銭か五銭でも、母にとっては初めての小便銭の収入源である。以後鶏を増やして、放し飼いは畑の作物を荒すので鶏小屋も作った。屑穀物や屑いも、南瓜、残飯など煮て餌作りに精を出す。可愛い子供達にシャツの一枚づつ、足袋の一足でも買ってやりたい親心を満足させてくれるものであった。
ここで育児用「いづこ」について触れると、父母は幼児を「いづこ」に入れて、帯や紐で縛って畑に出かける。私も「いづこ」に入れられたが這い出して、わら囲いと床板のすき聞から床下に落ちて冷たくなっていたのを、訪ねて来た大谷の伯父に助けて貰ったのだと聞かされた。
開墾の頃の衛生状態
就学前の子供達は、夏は素足素裸で遊びまわり、足も洗わず家に飛び込むなど、まるで原始人の子供達みたいに。
子供はよく熱を出す。或は腹痛(はらいた)、麻疹(はしか)、百日咳にもかかったが、めったに病院には行かない。(村には医者一人)越中富山の置き薬で済ますか、さもなければ隣近所の知恵を借りる。高熱には、みみずが特効。打身にはメリケン粉(小麦粉のこと)を酢でねって紙や布で貼りつける。腹痛には臍の両側にお灸。効き目はてき面だったが、跡が化膿してシャツにくっつき困ったこともあった。また腹痛は回虫の仕業のことも多く、虫下し薬セメン円をのむと、翌朝五寸以上もあるのが、便と一しょに出て驚くのであった。また切り傷や鉄瓶の熱湯、囲炉裏の飛び火、或は湯たんぽなどでの火傷(やけど)も多かったが膏薬(こうやく)位で治(なお)りがおそく、顔や手足にケロイドのひどい子供が沢山いた。
また子供達は着替えもなく、着たきり雀(すずめ)で不潔になりがち、そのせいでか皮ふ病も多かった。頭には白(しら)クモ、ガンベ、顔面にはクサと云う吹き出物、それに耳だれ、手にはヒゼン、秋の寒さの頃になるとシモヤケ、アカギレ、大人の場合など切れ口に、貝殻に詰まった軟膏を火箸で溶かし込む荒治療が普通だった。
この他にも民間療法で、肩こり、高血圧には、仙台衆の隣りのおばあさんが内地から取り寄せた蛭(ひる)に血を吸い取らせる方法を教えてくれた。蛭が血を吸いぼんぽんに膨(ふく)らんだところで、円いガラスの吸い玉の中をマッチをすって温め、火が消えた瞬間、蛭の吸った傷口に当て血を吸いこますのである。(一回に一合位)次には呪(まじな)い、占(うらな)いの類(たぐい)。私の家には「三千書」と云う古文書があった(今も私の手許にある)。祖父作右ヱ門が若い頃、古本屋で手に入れたそうで、和紙に漢字と変体仮名のもの。
「註」 作右ヱ門の生家は代々孫右ヱ門(まごも)どんと言い、旧家で村の子供達に文字を教えていた。
私には解読困難だが、卦(け 六十四卦)易占(えきせん)、干支(かんし)、方位、生れ月、人相(九面)手相が基本のようで、父の代になってからも、よろず相談みたいに希望者の求めに応じていた。例えば尋(たず)ね人、捜(さが)し馬、吉凶(きっきょう)、男女の相性、建築物の方位、諸行事の日取りなど。
ところが、溺れる者は藁をも掴むの思いか、門違(かどちが)いの病気のことまで持ち込まれるのであった。
次に特に怖れられた病気について触れると、第一に肺病がある。不治の病(やまい)、亡国病と恐れられた肺結核は慢性病で、全身が衰弱して痩(やせ)細り肌色はどす青黒く、絶望のうちに灯火(ともしび)が燃え尽きるように息絶えて逝く。しかも年も若く秀才型、将来を嘱望されながら、たおれることが多かったように思われた。
腸チフス。私が小学五年の時、父が腸チフスに罹った。役場は隔離病舎に収容すると言ったが、父は入れば死ぬに決ってると頑強に拒否、結局自家の納屋を改造して隔離病舎に代えた。私どもは登校が禁止となった。それで専ら忙しい母を助ける農作業に精を出した。長期欠席で成績の落ちるのは止むを得なかったのである。
らい病(ハンセン病)。確証ではないが噂さ話はあった。親類にでも病人の噂があると先ず縁談など不成立、そこで世間の噂さから逃れるため、見知らぬ地に移り住むのであった。
天然痘。痘瘡(ほうそう)は大昔には大流行したらしいが、種痘が実施されたので絶滅した。それでも癌瘡が治った跡が異様な痘痕面(あばたづら)になった年輩者をよく見受けたのであった。(世界では一九七〇年代に絶滅宣言)
いずれにしても、民間治療で手に負えない重症と思われると、矢張り病院へと云うことになる。季節によって馬車も馬橇もきかない時は、戸板で急造担架、最少四人の人手を頼んで搬送したのである。
こんなことも、いくら貧乏だからと云って、医者にも診(み)せないで死んだんでは、世間体が悪いとの考えも多分にあったようである。
なお私は小さい時から虚弱体質で親達に心配をかけたようだが、それでも初めて医者にかかったのは十四才。学校で先生が教室で、岩田のようなのが肺病になりやすい、の言葉に私は強いショックを受けたが、それが的中した。体がだるい、こわい、手伝った農作業の疲れかと思ったが、やっぱり変だ。この時は親達も真剣に考えて病院へ行かせてくれた。
結果は乾性肋膜炎、肺結核の始まりとなった。
次に病気以外の外寄生虫。夏には蚤(のみ)、ピンピン挑ねるのを、逃がさじと押えるのに懸命になる。虱(しらみ)は年中絶えることがない。時には家族総動員で虱退治となる。寄生虫ではないが夏の日中は虻(あぶ)。夜には蚊(か)に悩まされた。人間は蚊帳(かや)の中だが農家の大切な馬が、無防備で食われ放題なのはかわいそうであった。
ここで汚(きたな)い話で恐れ入るが、私は幼い頃、父母の後を追って畑に行き、よく野糞(のぐそ)をした。すると蝿(はえ)が飛んできて白い岨(うじ)を産みつけ、それがすぐに動き出す。ところがポチ(飼い犬)が来て、好物にありついたかのように、ペロリと片付けてくれたのである。
部落を訪ねる人達
道行く人影も疎らな部落に姿を見せる、一番親めるのは郵便さん。大きな肩かけ鞄(かばん)一杯の郵便物、(更に首から小包も)手を大きく振って、しかもテクテク歩き。ほんとうに御苦労様。我が家で一休み、煙管(きせる)に刻み煙草をつめて一服。祖母は文盲(もんもう)、内地からの手紙を読んで貰って喜ぶ。それに差出す手紙を頼むことも再々あった。
いさば屋。(東堂さん)天秤棒(てんびんぼう)を肩に、二つの竹かごに十貫匁を越す重い鮮魚、ひょいひょいと調子を取れば軽くなると言ったが。ところで我が家は常連客、留守でも無断で土間に、たらいなど伏せて置いて行く。畑から戻った父は大の魚好きなので、大変満足の様子。
越中の薬屋さん。(我が家には置き薬の袋が十個もあった。毎年入替えに廻って来る。何段かの重ね行李に薬を詰め、紺の大風呂敷に包んで背負って歩く。越中辨の話かけ上手な薬屋さんに、同郷の祖母は話がはずむ。そして子供達は四角の紙の風船のお土産を貰うのを楽しみにした。
いかけ屋。鍋、釜のひび割れを「しろめ」(銅と亜鉛の合金)を溶かしこんで修理する。私達は物珍しく面白く覗きこんだ。
ラオ屋と傘(からかさ)直し屋。煙管(きせる)の火皿と吸口とを接続する竹管をラオと言い、一番傷み易い部分なので、ラオ屋の来るのを心待ちする人もいた。傘直しは、折れた骨を取りかえてくれる。修理出来るものはすべて修理が肝心な時代。(後年ゴム靴が出たら、ゴム靴直しも)
研屋(とぎや)。鋏(はさみ)バリカンなどの研屋。特に昔のバリカンは不良品で切れ味悪く、散発の都度痛い目にあったから、研屋が来るのを心待ちした。
時計修理。唯一の目覚時計なのに、不良品が多く故障し勝ち。修理屋さんは、分解、組み立てを繰り返して時間稼ぎ? 泊り込むことになるが、修繕料を少し安くしたと言って立ち去る。
密造酒取締官の来訪。貧乏人の酒好きは、高い清酒(酒一升と一日の出面賃が同じ位)ばかり飲めず罪の意識もなく、濁酒(どぶろく)造りに走ったのだ。取締は二人組で巡回して来た。我が家では濁酒造りが下手で造らなかったので安心していた。
雑穀屋の買子(かいこ)。関連する収穫作業、豆落しを少し詳しく述べる。豆は唐棹(からさお)で脱穀するが、その場所を庭と言った。父は早朝空模様を眺め、さあ今日こそ終日好日和と見定めたら、その段取から大忙し。筵(むしろ)百枚以上、唐箕(とうみ)、唐棹、豆?(とおし)、馬と土橇、昼飯、そして子供達も一緒に連れて行く。畑に筵を広げ、乾いた豆鳰(にお)を土橇で運んで、うすく均一にしたら、父と母が向い合って交互に唐棹を打ち下す。父の気合の掛け声も出る、トントン、トントン。私が小一学年の時、小さな唐棹を作ってくれたが、相手の姉と調子が合わず駄目。代りに落し殻の鳰の上で踏み込み役、この方が高いので余程面白かった。
夕陽も西山に傾く頃一区切りつけて、豆?(まめとおし)、ザッザッ、ザッザッ。次は唐箕がけ、ザァーツ、ザァーツ、きれいになった豆が落口から出て来る。
こんな風景は部落の彼方此方から繰り広がる。一鍬一鍬から始まった労苦が稔った悦びと、満足感を裡に秘めた澄みきった秋空は開拓地の風物詩である。私が小一学年頃の事だが八十何年経った今もなお、鮮明に耳に響き目に映る。
子供心に意識した世界
家の表方向の山からお目様がのぼる、不思議な立ち昇る噴煙、裏側の山に日が沈む。原野のど真ん中の家から、見渡せる視界の範囲が世界だと思っていた。知恵がつくに従って、あの山の向こうに何があるのだろうか、疑問や興味がわき、行って見たいと思ったものだ。
富良野原野で始めて本格的に通じた道路は、国道(旧十勝国道、斜線道路、今の旭中線)と東一線道路(現二三七号線)だけで、あとは中富良野から下富良野に亘る三千町歩は、流れる川が尻無川と言って沼のような泥炭地。大正八年秋、大排水溝が完成してからし漸く各線の道路も通じ、原野の開墾も本格的に進んだ。その頃の春先は毎夜のように火入れが行われ、南の空が真赤に染まった。
原野を横切る号道路も、半分位のものは形だけで、川には橋もなく半身不随道路であった。
私の知る道路の実態。夏は長く伸びた野草と潅木で両側の視界はゼロ、路の中程に馬車の轍(わだち)の踏と真ん中の馬と人の足跡が、草のない黒い三本の線となる。人通りの少ない道の子供の独り歩きが淋しかった思い出がある。
特に今の東中の溜池のところは一段低い谷地、風防林でもあり原始の暗い森の中を南側に大きく迂回していて、熊も出るので小走りで通り抜けては、ほっとした記憶がある。
また国道以外は砂利も敷かないので、秋になると雨模様の天候と雑穀の搬出時期が重なって悪路に一変する。馬車の車軸受け(かぶらと言った)近くまで底なしにぬかることがある。手頃な丸太木を敷くのだが、馬の足も深くぬかって座り込むこともある。仲間の馬車追い達の手を借りても駄目となれば、俵物を降ろし空馬車にして、漸く脱出となるのだ。
小学一・二年生の頃
通学のいでたち。夏は木綿一重着物に下駄履き、冬は綿入れの着物に、わら沓、頭にはネル布を斜め二つ折りした三角帽子、寒い日には上からマント(ゆったりした外套(がいとう))を着た。勉強道具は風呂敷包みにして背負う。頭髪は男の子はバリカンで坊主刈りの者もあった。バリカンのない家の子は、握り鋏で段々刈りの者もあった。それに男の子の大方は、青ばなたらしで(チリ紙なんか全くない)着物の袖でふくので、両袖は肩のあたりまで硬く黒光りしていた。
私は大正六年の入学、学用品は石盤に石筆、読み方(国語)は国定第二期明治四十三年の「ハタ、タコ、コマ」読本。書き方(習字)には、水書き草紙と言って、水筆でツルツル半紙に繰り返して習字したら、乾かしてまた使う。最後に一枚だけ墨をすって半紙に清書するのである。
次は運動会の思い出。前の日私は心うきうきで梅干しを買いに行った。赤い梅干しの入った焼きお握りが、運動会の楽しいお弁当であったからである。
それと徒競走のスタートの合図には村田銃(猟銃)、薬莢(やっきょう)を詰めた弾帯(だんたい)を腰に乗馬ズボンのいでたち、用意ドン、あまりに大きな音に、一瞬立ちすくむのであった。
ここで一寸つけ加えたいこと。それは左隣家の岩瀬さん方で、六、七才の女の子が、子守として住みこんでいた。たまたま私が遊びに行った時、おじさんが何事か大声で叱りつけていた。
この子は学校にも行けず子守奉公、背負った赤ん坊が泣き止まないと、二人で一緒に泣いてしまうのだ。この他、その頃の高学年(五、六年)の生徒は、家業手助けのための欠席は普通のこと。また小さい弟や妹を子守がてらに、学校に同伴することもあった。
ついでのことだが、ある日祖母が真白い御飯を炊いてくれた。うまい、うまい。漬け物も汁もいらない、おいしさは今も甦る。ところが米の飯の味を覚えた私の口は、以後特に冷えた麦御飯(押麦、平麦もなく、丸麦のせいでもある)がまずくなってしまった。
尤も、それからは混ぜる米の割合が多くなった。
祖母は御飯が炊き上がると、先ず白い部分を選んで御仏飯に、次に私のお茶碗に、それからまんべんなく混ぜる習慣になった。(第四子までに男一人で、おばあさんっ子になっていたから)
貧困生活の中にも心安らぐ
いかに貧乏暮らしでも、一番心に安らぎを覚えるのは、やはり何時も自然と共にあることであったようだ。
家では数羽の鶏を放し飼いしていた。雄鳥(おんどり)は毎朝暗いうちから一番鶏(どり)。負けじとあちら、こちらと鳴き競う。それを合図に人間も一日の幕明けとなる。
「註」余談だが父は鶏を捌(さば)くのを得意としていた。不意の訪問客をもてなすのに、手っ取り早く鶏の一羽が犠牲となる。父は先ず、生血(いきち)を皿に受け、正油をたらして一気に呑む。私も飲まされる。血は直ぐ固まって血腥(なまぐさ)い、生温い、吐き出したくなるのを我慢して息を止めて呑み込むと、すぐ水で口を漱(すす)ぐ。弱い体には一番いいんだと言われて、その気になって。
そして臓物も肺と腸以外捨てるとこなし、肉を外した他は骨と一処にして、出刃包丁でよく叩くと、肉と同じように食べられるのだ。
閑話休題
春には雪解けを待ちかねたように、ひばりが大空高く舞い上がって囀(さえず)る。私は子供心に卵か雛がいる巣の在りかに興味があった。親ひばりは地上から二、三十米飛び上がってから鳴き始める。(巣からは飛ばない)忙しく羽搏(はばた)きながら徐々に上空へ。声する方向に目をやらないと姿が確められない高さに。そして帰るには上空で鳴き止めると、一気に地上に降下するが、十数米も歩いて巣に戻るのは、子を守る母性本能からであろうか。
毎年決ったように、豆蒔き時期を教えてくれた郭公も季節の鳥として懐かしいのであるが、最近その鳴き声が少なくなった。
夏空にはゆっくり大きく弧を描く大鷹の雄姿。また、うだるような暑さの昼下がり、バッタ、キリギリスの羽搏きは、静寂の中でしか聞かれない音。空一杯にスイスイと飛ぶトンボの群れ、正に野鳥や昆虫達の天国であり、平和な自然の営みなのである。
もう一つ特に印象深く忘れ難いのは、真夏の夕立ちに先立って、灰色の大空狭しとばかり、無数の大形なアマツバメが高く低く、併も高速で縦横無尽に乱舞する態は、実に壮観であったことである。
それがどうしたことか、すっかり姿を消してしまった。生態系の破壊に起因したとしか考えられず残念でならない。もう取返しはつかない。
昔の衣服、風習のあれこれ
農家の作業衣など。男は下着六尺褌(ふんどし)シャツ、上衣は、うんさい織の筒袖の短着(みじかもん)に細帯、(冬は綿入れ)寒さに応じ上に袖無(そでなし)も着る。足には股引に足巻(ゲートル)開墾足袋、頭は手拭の頬かむり。これらは大方母の手作り、夜なべ仕事に根気よく、古ぎれを厚く(三、四分)重ねて、こまかく堅く刺縫いし、底裏に一枚、部厚く白い布地(織名は思い出せず)を当て、甲の方は木綿の刺子、紐を付けて開墾足袋の仕上がりであった。
女は腰巻(サラシ、冬はネル)襦袢、着物は長着に前かけ、左隣の仙台衆の人からもんぺを教えられ、その保温、足の動作、虫除けに役立つなど、勝れた開墾生活には欠かせない衣料となった。この他、ツカミゴテ(肘から手の甲を布で覆う)、編笠、三角帽子(風呂敷で)雨天には男女とも、ばんどり(蓑)が用いられた。農作業以外、行事の際には父は羽織、袴、外出には二重マントとなる。母は、よそ行き前の準備には鏡に向って自分で髪を結い上げた。丸髷か何髷か知らないが見違えるように、うまいもんだなあと感心した。
防寒具。男は軍隊の払下げの外套。女は角巻(六尺四方、厚地で高価だ)。履物は男は馬追い、山稼ぎなど外出につまご(素足に赤ケットを巻いてはく)、女はコール天足袋に深沓(わら)、正装の時は爪皮下駄。この他日常に、ぞうり(玉萄泰の桿のも)つっかけ(わら)なども作って使った。
長持ち。座敷と言う名のつく祖母の部屋、壁際の右に手製の仏壇、左に長持がおかれていた。(箪笥はなかった)錠をかけるが、私の興味は鍵(かぎ)に紐で結んであった「天保通寶」(楕円形の八厘銭)。祖母の死後、長持は処分したが天保銭は大事に保管した。
それがきっかけで、寛永通寶の一厘と二厘銭、文久通寶一厘五毛、二十一波、一朱銀、一分銀も沢山蒐集した。それが残念にも戦争で供出してしまった。
おはぐろ。平安の上流婦人から起ったそうだが、民間にも流行し、祖母の年代までその名残りがあった。丁度アイヌ族のメノコ(婦人)が、口の両側にカイゼル髭に似た入れ墨をする風習があったが、祖母や祖母の年代に広く歯を「おはぐろ」で黒く染める慣しがあった。おばあさんは歯が丈夫になると言っていたが、昔は歯医者の制度もなく、考えてみるとその為に健康にも、延いては寿命にも影響が少なくなかったと思う。ついでに、おはぐろの正体を確めてみたら、御歯黒は五倍子(ふし)の粉と鉄漿(かね)の液で作るとある。
会席膳と酒盛り。冠婚葬祭用と言っても、貧乏人には不相応な輪島塗の漆器、椀膳一式揃えて二十人前位が大抵の家で備えられていた。(貸し借りもあったが)本当に必要なのは、新年宴会が戸毎に行われたからである。「呼ばれ」と言った。開拓者にとって唯一のぜい沢と言うもの。それには理由もあった。北海道と言う新天地での開墾と言う自然との闘いは、未知、未体験、三軒寄れば文珠の知恵、発明、発見、工夫、手間がえを手段として、教えられたり教えたり。親類は兄弟、隣人は出身県を問わず親類同然の付き合い。それに年から年中、何一つとして楽しみ事もないから、一年に一度感謝の意味をこめて正月のお呼ばれとなる。正月二十日過ぎまで一日おき、(時に続くことも)子供達も仲間に入れて楽しい一日を過ごす。この機会には過ぎし一年の成果の反省と来る年の期待、希望がふくらむ、正に開拓文化の創造の源泉でもあったのだ。
「註」兎に角、男は酒飲みが増えたようだ。私の日誌に、祖母のお葬式前後数日間に使った酒は二斗八升とある。その頃の習慣の一端が窺えると言うものである。
大正末期から昭和初期
大正十五年の十勝岳爆発。私が当時見聞した範囲に限って述べてみたい。爆発の二ヶ月前の三月、隣の青島さんが、硫黄山(十勝岳)に火が見えたと言ったが、よもや爆発の前兆なんて、万一爆発しても噴煙は直感するが、まさか泥流なんて、村中の人達は夢にも思ってなかったことだ。
当日は朝から雨天で、我が家では田んぼには出ず、納屋で鰊粕砕き(臼と杵で)作業をしていた。
午後四時頃、山の方でごうごうと地響きの音、何の音だろう、雨で増水した川の流れる音かと行ってみたがその気配もない、不思議だ。そのうちに音する方向が左に移り、次第に低くなっておさまったのであった。ところがその晩暗くなって、爆発の泥流で三重団体が流されたそうだと知らされた。
翌朝現場を見るまで、泥流のほんとうの事が判らなかったのだ。山藤病院の前に板囲がしてあり隙間から覗き見すると、収容された泥まみれの遺体が何十人か並ぶ。ところが同じ覗き見していた一人が、警備員に「あの何番目の死体が動いている、確めてほしい」と申出たのである。身内の者にすれば、若しや生きててくれればの思いからの錯覚なのだ。
父は当時行政部長だったので、救援出勤について部内の人達の動員協力とその指揮の任に当ったが、その時の役場からの依頼のはがき一校は今も残している。
大爆発の後も小爆発は何年間に亘って、おそらく百回にもなったろうが、最後の小爆発は、私の日記には昭和四年二月十一日朝となっている。
爆発で二番目に大きく、人的被害のあったのは、九月八日である。晴天の午後四時半、この爆発は私の目測で、噴煙が山の高さの七、八倍位に見えた。
十月になって、瀬棚の鈴木さんから便りがあって、この時登山した同僚の熊谷六郎、大津甚之丞の二人が行方不明になったことを知った。この人達は熊谷一郎夫妻のグループで、宮林の下刈り作業のため瀬棚から出稼ぎしていたのであった。この一行が、仕事の都合か私の家で泊り込んで数日、水田の除草作業をして頂いたことがある縁があったのだ。
なお二人の遺族からのはがき二通、今も保存している。
「註」 十勝岳爆発災害志には、瀬棚村の二人の青年が行方不明になったとあるが、氏名は記載されていない。(従って町史にも記録がない)
昔は子沢山で大家族。私の兄弟は十人生れ、八人が育ったが、最大家族になった時には、父母、子供に手伝人、奉公人と総勢十三人にもなった。食欲の秋と収穫作業の重労働が重なるから、一日に米六升づつ食べた。(赤ん坊を除くと一人五合平均)副食が粗末のせいか、ご飯で満腹になっても食欲は満たされないものである。
ついでに、私の知る限りの子宝の女王は、倍本部落の池上のお母さん。十六才で結婚、十七才で第一子、それから二十三才まで七年間に七人産んで、あとは途切れながら十人の合計十七人。一度も産婆さんの世話になったことなしと言う。尤も体が頑丈で十五才から、百斤俵(十六貫)を肩に担いで積み込む馬車追いもしたとのことだが。それでもたった一度失敗したことがあった。八ケ月の身重なのに、小豆俵(十六貫)を担いだ時ブツと音がした。しまったと思ったら、案の定翌日流産。(以上は私が御本人から直接伺った話である)
農家の長男の道。大正十四年東中小学校高等科卒業。父はどう思ったのか早稲田中学講義録を取ってくれた。毎月一冊配本二ケ年で修了と言うもの。三十五科目、延六千六頁に及ぶ。家業に従事しながらでは目を通す時間も取れず、殆ど積ん読(つんどく)の状態。
特に英語、数学関係科目は初めから捨てた。それでも一応科目別に仕分けて書棚に整頓したので、今でも私にとっては基礎的智識の源泉、事典の役目を果たしている。
青年訓練所。男子四年制、小学校に併置され、所長職は主事で小学校長が兼務、授業は午前普通学科、午後教練が行われた。私は昭和三年が第一年次の入所。第三年次の時、吉田村長名で、入所以来実践躬行一般の模範に足ると表彰状を頂き光栄に感激したのであった。
第四年次が丁度満二十才で徴兵検査。男にとっては人生の大きな節目の一つ、今の成人式に当る。而も兵役は国民の三大義務でもあった。
村では該当者百数十名、前日に全員集合し汽車で下富良野(現富良野市)へ、旅館で一泊。当日は午前三時に起床、着慣れない羽織袴の身支度で会場へ向う。(大抵はこの日のために新調したが父親から借りた者もいた)
午前六時から検査開始となる。初めに学科試験、終ると、一糸まとわぬ全裸で身体検査。重点は性病、トラホーム(トラコーマのこと)視力には暗室などで厳密に行われた。そして体格検査すべてが完了したのは午後三時。最後に徴兵官肥田大佐の前に一人づつ、結果の宣告を受けるのだ。直立不動の姿勢。お前は長男だが兵隊にとられても家では困らないか、「ハイツ困りません」学科の成績は頗る良好、青訓の出席も大変よい、これからも勉強するように、君は背が足りない、そして細い。第一種乙種合格。「ハイッツ」私は一瞬耳を疑った。どうせ丙種だと思っていたから。(甲種は身長五尺三寸体重十六貢以上が標準と言われるのに、私は五尺一寸に十二貫だから)そして甲種は三十一名約二十%、第一乙種十八名、以下第二乙種、丙種、丁種、戊種までに格付された。
話を戻して私は四ケ年間の出席時数合計一、一二三時間。幸い体調も良く多くの良き友を得たし、学科も教練も気を引締めて努力した甲斐あって、副級長にもなった。(級長は床鍋芳則君)
以上青年訓練所は顧みて楽しく愉快で、実り多き青春時代だったと思っている。
牛を飼い、田畑乳牛混同経営に
我が家では大正十二年、東中部落では初めて乳牛を飼った。(エアーシャー雑種)きっかけは、父が腸チフスを病んだ折、牛乳で救われた思いがしたのと、早く労働力にと当てにした姉と私が病気勝ちだったことに心を痛め、家族全員に牛乳を飲まそうとの考えからだと父は言った。私は小学三年から下校後、姉と二人で田んぼの草とりをさせられた。高一学年からは馬で代かきもした。朝は素足で冷たく畦に飛び上ったこともあったのを思い出す。それでも厭だとは考えない、当時の農家の環境からは、当り前のことと思っていたからだ。
「註」 私は体が小さかったから、何でも人一倍頑張らなきゃの根性が身についたようだ。学校の勉強でも、自習のとき算術の問題が解けないと悔し涙が出てくる。それが解けると独り笑いして、また涙が出てくるのである。
小学校卒業後何年かして、青訓時代職員室に出入りする機会が多くなった際、かつての受持ちの斉藤先生の(三年間教わった)児童個性観察簿を発見した、私のを見た「秀才型ではないが、今日の学業成績を得ているのは、一にも二にも三にも努力の賜である云々」とあった。
我が家の昭和の初期の経営規模は水田五町三反、畑二町五反(他に貸地一町二反あった)、牛もホルスタイン種札幌産と千葉県産を導入、一応当時の用語で有畜農業となった。当時水田はタコ足による直播栽培、問題点は除草作業、七月一杯まで三番草取りが、すべて二本の手、十本の指で掻きむしったり、まぜたりするのだから、広い地面を吾ながら大変な仕事だなぁと思ってた。家族では手に負えない、出面の人も頼む、奉公人も頼んだこともある。
昭和三年、正式に牛乳小売販売の認可も取った。弟達も朝飯前、登校前に手分けして配達。遠方は私が自転車で受け持った(一日延十里にもなった)。
このように年中忙しい我が家であったが、特に思い出に残るのは、母が病気入院し父も付き添った際、労働の主力は私と妹の二人だけ。勿論出面の人も頼みに歩く。牛の世話もと寝る時間も惜しくなる。家の東にカラスの泊り木があった。午前二時半起床の積り、ところがカラスが飛び去って姿が見えないことがある。カラスに負けた、朝寝坊したと自覚したのである。このつらかったことは、後年になっても妹との語り種(ぐさ)になったものだ。
北海道庁種畜場実習生
どうせ牛を飼うなら、もっと勉強したい気持ちがあった。たまたま新聞に道立真駒内種畜場で実習生二十名募集の記事。父も同意してくれて、直ぐ願書を出した。選考が旭川で行われた。道北三管内から二十名集った。試験官は副場長、二名の枠の一名に入って入場決定。昭和七年入場式の相原場長の訓辞、「種畜場では牛・馬・豚・鶏の種類毎の改良繁殖と優秀な種畜の供給をしているが、施設も整い担当者も立派な人材が揃っている。実習生の皆さんは心構え一つで、玄人になって卒業するか、只の人で帰るかが決まる。しつかり勉強して下さい」であった。
乳牛の場合、犢(こうし)、育成、搾乳、種牡と候補の各牛舎に製乳所を一ヶ月交代する。午前が現場実習で、午後が全家畜、飼料作物の学科であったが、目的の乳牛以外にも、豚舎で出産や切歯を学んだり、鶏舎では孵卵室で検卵を手伝ったり、病畜牛舎でも素人でもできることを見習ったり、分娩牛舎では、難産があると駆けつけることにした。搾乳は朝三時、宿舎からは二百米程もあったので少しばかりつらかった。
今にして振り返えってみると、七十年の昔だから、トラクターは最強のもので、ベストは無限軌道で三十馬力、インターは四輪二十馬力、ファモールは三輪十五馬力(これは牧草刈には最適だった)など今昔の感一しお。乳牛個体の資質も然りであるが。
実習中には見学もあった。月寒の種羊場、北大農学部第二農場、町村農場、宇都宮牧場、この他日曜を利用して、佐藤自助園、軽川の極東農場にも足を伸ばした。短かい期間だったが、一時も無駄にせず何でも見よう、聞こうと充実した実習生生活だったと思っている。
宇都宮牧場で見習。北海道酪農の先駆者、宇都宮仙太郎氏の講演を聴く機会があった。氏が二十三才の時、明治二十年頃アメリカに渡り、目指すバブスト牧場を訪ねるのに、汽車から降りて何日も徒歩で、夕方行き当りの牧場で一夜の宿を乞い、お礼に翌日お手伝いする。また仕方なく乾牧草の鳰蔭(におかげ)で野宿もした。
牧場の連中は体力もあり、そしてよく働く。畑作業は裸足、刈取直後の牧草地には摺足(すきあし)の要領を覚えた。私は十二貫の体重だったが、白人の彼等に負けずに頑張ったと。結論を要約すると、質実剛健な田舎堅気を大切にしたい。人間の幸福は健康と、良き配偶者を得て良い子供を与えられることである。健康の基は食べ物、粗衣美食をモットーとすることであった。宇都宮家は禁酒禁煙、そして酪農食。
牧場は息子の勤さんが継がれたが、道内では町村農場と共によく名が知られていた。私は種畜場でお世話になった耕作科長の鈴木重光氏の紹介で、牧場に見習に入る。(鈴木氏の息子の北大を出た正男さんも見習いに入場)勤さんもアメリカ仕込み、六尺豊かな偉丈夫(奥さんは、六尺の日本人は片輪と言うが、パパは二分切れるから正常よ)彼方(あちら)でも、白人とは名実共に対等の付き合いが出来たとのこと、そして搾乳の名手とも言われたとか、(英字新聞を取っていた)私は牛の事だけしか分らない人間だと仰しゃるが、実に牛の鑑定には論理明解、まるで牛から生れて来た様な答を出す人だった。産れたばかりの犢を見て、将来どんな成牛に仕上げられるかが分かる。流石(さすが)種牛家(ブリーダー)だ。アメリカのカーネション牧場から連れ帰った牡犢(ぼとく)、ロメオ号は後の名種牛。その子ダイヤモンドマタドーア号も、国内最高値の評価を受けた名牛となった。そして牧場で牡犢が産れると、夕食には祝いの御馳走が出たのであった。
牧場には男子が五乃至十人、女子二人位の見習生が住み込んでいた。見習生には月五円が相場の手当、私は破格の十五円を頂き恐縮した。日常は朝四時搾乳、七時朝食、パン(自家製)、ポテト、オートミル、コーヒー又は牛乳、最初は馴染めず腹の調子を崩したが、慣れると米の飯よりよくなった。尤もクッキングストーブでは、おいしい御飯が出来ないせいもあったけど。
朝食後は、畑、牛舎、製乳所と夫々担当の部門で働いた。牛乳は手動チャーンでバターにして、全国に亘る在留外国人から、多くは仮名書きハガキでの求めに応じ、缶詰めハンダ付けして小包発送。
牧場では、能力検定牛は四回搾乳なので夜は十時、これは勤さんの担当としていた。勤さんはこの他、獣医、削蹄(さくてい)、鍛冶(かじ)の技術にも習熟していて、何でもやるから、(体が大きいので牡牛の削諦など、枠場(わくば)も使わず素手の助手一人でやってのける)、他所(よそ)の牧場からも修理の依頼や、良き相談相手になる等(など)仲間にも存在感が強かった。
尚私の在場中、仙太郎翁の酪農発展に貢献された顕彰の胸像除幕式があった。
「註」隣りの出納農場とは兄弟の関係(琴子夫人は勤さんの姉)で、お互に原料乳を融通し合っていた。因みに出納夫妻はデンマーク仕込み。農場は其の後、酪農義塾に移譲し、出納氏は酪農学園大学教授になられた。
諸研修を終えて。学習、実習の成果は速攻性のものではないが、両親の評価は先ず朝早起きになった、自ら計画して実行する積極性など認めてくれた。自家で繁養中の、ネザーランド、アックランマー号の能力検定(札幌から検定員が来た)を受け、その産犢を種牡牛に育成した。昭和九年、道庁から水田酪農の経済調査を委嘱され、飼養管理一切の所要時間(作業別分単位)、飼料の自他給別給与量と評価、個体別産乳量、そして自家消費と販売の記録は、毎晩暗い安全燈の下で眠い眼をこすりながら一ヶ年で完了報告したが、自分の為にも大いに役立つものであった。
(次号に続く)

機関誌 郷土をさぐる(第19号)
2002年3月31日印刷  2002年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔