ついに解けた「東海林」の謎
札幌市厚別南二―十三―二 東海林 勲
昭和十六年三月十九日生(六十一歳)
平成十三年八月二十日、東海林千代之助さんが亡くなられました。
上富良野町明憲寺での葬儀には私も出席しましたが、親族など多数出席のもとでしめやかに執り行われました。
千代之助さんは、明治三十四年(西暦一九〇一年)生れですから享年一〇一歳、満百歳です。
戦争と革命の二〇世紀といわれた最初の年からこの百年を、きっちり生き切った数少ない一人でした。
我が国は、戦後の混乱期から高度経済成長期を経て現在ではアメリカにつぐ経済大国になりましたが、これまでの厳しく苦しい時代を、先進国に追いつけ追い越せの中で、千代之助さんも一生懸命に働いてこられました。
葬儀の司会者は、故人を『とうかいりんちよのすけ』と紹介しました。
喪主である長男も『とうかいりん』と呼ばれました。それ以外の「東海林」の親族は、『しょうじ』と紹介されました。
故人には三人の弟がおりましたが、同じ「東海林」で『とうかいりん』と『しょうじ』とに読み方が分かれますので、事情を知らない方々は疑問に思われたかもしれません。
千代之助の父親は、和助といい明治四十一年山形県東郷村(現在の東根市)から上富良野村島津に移住してこられましたが、東郷村では「東海林」という名字の人が多いそうで『とうかいりん』と読まれています。
私が中学生のとき、父に兄弟で名字の読み方が違うのはなぜかと聞いたことがあります。
父は、昭和十年に上京し日本通運に就職しました。会社や地域では「東海林」を『とうかいりん』と読む人はいなく、本人が訂正しても『しょうじ』と呼ばれていました。
当時は、東海林太郎の「赤城の子守り歌」や「国境の町」が爆発的なヒットで知名度が高かったこともあり、そのまま『しょうじ』を使っておりました。
昭和二十年の東京空襲で家が焼かれたため、上富良野村への転勤で、久しぶりに故郷に戻ってきました。
地域には親戚や知人が多くいましたので『とうかいりん』に戻すことは可能だったはずですが、そのまま『しょうじ』を使っておりました。
父のすぐ下の弟は、上富良野町農業協同組合の在職中に亡くなっておりますが、町外に住んだことがなかったためでしょうか『とうかいりん』でした。
一番下の弟は、上富良野村にいたときは『とうかいりん』だったのですが、昭和二十年に砂川市の会社に就職したため、父と同じような経緯で『しょうじ』となっています。
四人兄弟で二人は『とうかいりん』と読み、他の二人は成長過程の地域的な関係で『しょうじ』と読み方が変わってきましたが、名字の読み方がこのように変化する例は、他にもあったのでしょうが、自らのこととなりますと、どうも不自然といいますか、納得がいかないのであります。
ハローページ二〇〇一年版の札幌は、札幌地方北部と札幌地方南部の二冊になっていますが、これを見ますと「東海林」を『しょうじ』と読ませる電話番号は一七八軒、『とうかいりん』は一三軒でした。
東京都の二三区全区版で『しょうじ』と読ませる番号は二七六軒、『とうかいりん』は三三軒でした。
ハローページには『しょうじ』と読ませる名が多く載っています。
札幌地方北部には、東海林のほかに小路八軒、正司二軒、庄子三〇軒、庄司一六二軒、所司一軒、昌子二軒、荘司二五軒、勝二二軒、障子三軒と一〇種類の名字があります。
札幌地方南部版には、ここにあげたほかに東海枝一軒、正治二軒が載っていますので、合せて一二種類となります。
東京全区版には、小路三三軒、正司一七軒、正示一軒、正治五軒、正路一二軒、生子二軒、生司二軒、庄子一〇三軒、庄司七一八軒、昌子五軒、東海枝三軒、東海林二七六軒、政司三軒、荘子三軒、荘司一一八軒、将司二軒、勝二二軒、勝治四軒、の一八種類が載っていますから、札幌の所司と合せて一九種類となります。
ハローページの掲載率は約四〇%といわれていますし、全国的にはこれ以外に違った名字があるのかもしれませんので、まだまだ『しょうじ』の種類が増える可能性があります。
右記一九種類の中で「東海林」と「東海枝」と除き漢字と読みが一致しております。
「東海林」を『しょうじ』と読むのは、慣用的使い方ですと説明されてもなかなか納得できないのです。
私は、就職試験で面接のとき「東海林」を『しょうじ』と読むのはなぜか、とよく聞かれましたので、なぜそのように読むのかいろいろと調べておりますが、わからないのですと答えておりました。
本来は、『とうかいりん』なのですが、事情あって『しょうじ』と称しているのですといえばよいのかもしれません。しかし、それでは「東海林」をなぜ『しょうじ』と読むのかの説明にならないのです。
漢和辞典を引きますと、「東海林」を『しょうじ』と読むことは載っていますが、なぜそのように読むのかについての説明がありません。
私の子供が小学校へ入学するときのこと、自分の持ち物に名前を付けたいが、「東海林」にかなをふる場合は、どの漢字が『しよう』でどの漢字が『じ』かと聞かれ弱ったことがありました。
道職員になってから、江別市にある北海道自治研究所(現在の自治政策研修センター)で研修を受けているときに、ここの図書室で秋田書店発行太田 亨著「姓氏家系辞書」を見つけました。
この本は、大正九年発行の大変古い本で長年幻の名著といわれ入手困難でありましたが、偶然の出会で発見することができ感激いたしました。
もしやこの中に長年解けずにいた『しょうじ』のいわれが載っているのではないかとさがして、やっと見つけた気持は忘れることができません。
説明文は、昔風の記述でしたのでやっと大意がわかりましたが、もっと易しく書いてあればと思っておりましたところ、昭和四十九年に丹羽基二氏が現代口語に改めたものを「新編姓氏家系辞書」として発行されましたので、その内容を紹介します。
『この氏は、古くから全国に及んでいるが、東北ことに山形、秋田、宮城県には多い。古くは、百済琳聖太子の未裔と称する周防の多々良氏族の東海林丹羽守(多々良弘清)、平城天皇の皇子阿保親王を祖(大江氏の末とも奥州阿部氏の末とも云う)と称する羽前幸生城主の東海林隼人元宗をはじめ、江戸時代にも割合著名武士が多い。
地名としては、山形県寒河江市の東海林澤、東海林平、山形県の東海林山をはじめ、東北地方に散見出来る。
氏は、大陸渡来の林(リン)氏が日本(又は日本の東海地方)に帰着し、日本の林氏という意味で東海林(トウカイリン)と云っていたが、これら林氏の多くは、大陸渡来の承仕師(しょうじし)として、寺院や公家の佛事の雑役などを勤めていたために、いつとはなしにしょうじと呼ばれるようになったものと思う。』
これによりますと承仕師という職名で長く働いているうちに、その人の名字として『しょうじ』と呼ばれるようになったということですから、他の名字を使っている人でも『しょうじ』と呼ばれる可能性があったことを知り納得しました。
しかし、『しょうじ』と称する名字の種類の多さの説明はありませんので、独断ですが明治になって戸籍で名字が必要となったときに、全国的に『しょうじ』の職名を持っていた者がそれぞれに名字を創ったため種類が多くなったのではないかと考えております。
もしそうだとしても、職名との関連が最も密接な「承仕」という名字がないのはなぜか、「東海林」の謎は、またまた大きく、深くなってきました。
東海林 勲(しょうじいさお)のプロフィール
昭和十六年三月十九日生 東京都出身 昭和三十四年 富良野高等学校卒業 昭和三十五年四月から
昭和三十七年三月まで上富良野町役場勤務 昭和三十七年四月から
平成十二年三月まで三十八年間北海道庁に勤務し、主に経済部を担当した 平成十二年六月 社団法人北海道雇用開発協会専務理事に就任し現在に至る
趣味 読書のほか音楽、絵画、写真、映画の鑑賞や古くからのオーディオファン。
住所 札幌市厚別区厚別南二丁目十三―二
機関誌 郷土をさぐる(第19号)
2002年3月31日印刷 2002年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔