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「私の戦争体験記」から抜粋
奇跡の生還『キスカ島の激戦』(上)
―穂積部隊・根本部隊―

佐藤 光玉 (美馬牛在住)
大正九年五月十五日生(八十一歳)

大東亜戦争に突入

昭和十六年十二月八日、日本帝国海軍艦隊はハワイ諸島のアメリカ海軍基地に電撃作戦を仕掛けて宣戦し、大東亜戦争に突入した。
当時の大本営発表は「破竹の勢い」と報じていた。

シンガポール陥落
昭和十七年二月十一日、紀元節に、マレー半島に侵攻中の山下泰文軍司令官は、シンガポールの英国軍司令官に降伏を勧告、遂にこれを受諾させシンガポールの占領となる。
その時は全国民が日の丸の小旗を手に、老いも若きも戦勝を祝して町の中を練り歩き、夜は提灯行列が行われた。
召集令状受取る
そんな状況の昭和十七年五月九日、召集令状を受取る。遂に私の出番が来た。多くの村民に送られ、勇躍軍都旭川に向かう。
北部第二部隊(旭川歩兵第二十六連隊)に入隊し、動員編成部隊に編入、北海支隊独立歩兵第三〇一大隊(穂積部隊)第一中隊(根本隊)に配属された。(私達召集兵は昭和十三年・十四年・十五年徴集の現役兵の部隊である。)
部隊出動の軍装検査
私達は冬服着用、防寒服携行で練兵場にて軍装検査を行う。「また北方かな?」、隣の北部第四部隊(旭川歩兵第二十八聯隊)の一木部隊は我々とは対象的に夏服着用である。
《運命もまた然りで、アッツ・キスカ島の奇跡の撤収で生還出来た我々に対し、ミッドウェイ作戦の失敗、ガタルカナルの救援作戦にて軍旗を焼き一木部隊長は戦死し、部隊も全滅した。》
部隊出発行先不明
二、三週間して、穂積部隊は出発となったが、行先については誰一人知る者はいない。上級幹部は知っていたであろう。宇佐見中尉は当時、穂積部隊の第四中隊長であったので知っていたと思う。
夜中に営門を出た部隊は、宮下通りまで行軍して貨物集積場から列車に乗込み静かに出発した。何時間か走った後、真夜中に列車は止まった。暗くて周囲も分らないが磯の香りがして海岸であることを知る。誰からともなく『ここは厚岸だ!』という話し声がする。
夜も更けて東の空が白くなり、外に出てみると目の前は海である。裏山には今が盛りと桜が咲き誇り、五月末日本列島最後の桜前線である。
輸送船「衣笠丸」に乗船
私達の乗船した輸送船「衣笠丸」(八千四百トン)は、南方作戦でジャワ島の上陸作戦に赫々たる武勲をたてた船長以下乗組員が乗船しており、当時の最優秀船であった。
船には穂積部隊の本隊の他に配属部隊の独立工兵一個中隊、憲兵隊二人、陸軍報道班員・カメラマンなど、総勢千百四十三名が乗船した。
弾薬、糧株を満載して行先は樺太か?千島か?、皆で想像する。やがて出港のドラが鳴る、地平線には太陽も輝いてすがすがしい朝であった。
アリューシャン列島作戦・アッツ島攻略
乗船してから幾日か過ぎた頃、各中隊の将校、下士官、兵が私達第一中隊のハッチに乗込んできた。
何事かと思ったら部隊長が姿を現して、初めて作戦の要旨が伝達される。
『我が部隊の任務は海軍部隊との共同作戦を取り、西部アリューシャン列島攻略のためアッツ島上陸、海軍部隊はキスカ島に上陸を敢行する』と大きな声で作戦行動が発表され、一同は驚く。陸軍の私達はアッツ島、海軍陸戦隊はキスカ島に同時刻上陸する事を知る。
作戦はアメリカ領土の占拠による米国民に与える精神的な打撃、一木部隊(北部第四部隊)の参加したミッドウェイ攻略作戦を、有利に導くための犠牲的オトリ作戦行動だった。アメリカ軍に日本は暗号電報を傍受解読され、ミッドウェイ作戦の日本海軍連合艦隊の大敗となる。
アッツ島に上陸
昭和十七年六月八日零時十分、上陸開始する。
船上から見るアッツ島は濃霧に包まれて島全体は確認出来ないが、水銀灯のように青白く見えた。二丹田少尉の指揮する先発隊の舟艇は無事接岸、上陸成功の信号・発煙筒が上がる。次々と部隊は上陸し無血敵前上陸敢行である。
島には谷間に雪が深く積もり、船上から見た青白く見えた物は残雪であった。どうやら上陸地点を間違えたようだ、おそらく昔の地図を持っていったのであろう。
濡れた地下足袋で、目的地を探して雪の上を行軍するのも初めてで、今さらながら驚きである。晴天に恵まれていたが、雪の行軍は大変であった。私は体力に自信があったので、分隊の軽機銃を射手に替わって背負ってやった。どうやら目的地を発見したらしく、前進中の部隊から突撃ラッパの響きが聞こえ一同元気が湧く。
海岸が見えて小さなペンキ屋根が並んでいる。これがアリュート族の住宅であった。目指す占領目的地チャチャゴフ湾の部落はここにあったのである。
アッツ島の警備に就く
チャチャゴフを占拠後、直ちに各小隊より元気な若者が歩哨に出された。私も第三小隊の代表で歩哨兵となる。
夜になって冷えてくると、誰からともなく下痢が始まったようで大変であった。火山灰で変色した残雪を口に入れながら歩いたからである。それに軍股も濡れているので腹が冷えたせいである。
トイレも原住民のトイレを利用したが、利用方法が分らず、原住民にひどく叱られた。
今は洋式などと言うが、あの当時は見たこともない、箱に大きな穴があるだけで、小便に行ってもうまく穴に入らず箱の縁に掛けまくる。大便には穴が少々小さすぎて、土足で箱に上がって穴に落とすには技術が必要であった。
原住民は私達の使用した後を水で洗って、そこへ座って用便を足していたので、またこちらも驚く。
申し訳のないことをしていたのだと気付いて、今度は注意して大丈夫だと思ったら、大便をすると小便も出てきて、箱の穴の前に飛び散らして始末におえない。どうやら彼等はニワトリ式らしい。そんな苦労も一日任務を終えて申し送り下番する。
小隊に帰ると幕舎も出来上がり、トイレも日本式の上等なのが出来ていた。
翌日、白衣を着て山の中腹から一斉に突撃し報道班のカメラに収まる。
今日から本船より物資の揚陸作業である。幾日も続いたある日、アメリカ軍の大型海上飛行艇が飛来して、湾内に着水する寸前で逃げてしまう。
敵さん日本軍の上陸に気付かず飛び込んで来たのである。こちらはまた物珍しく、『敵機だ!!』と一斉に小銃まで火蓋を切った。驚いたのは敵機で、島の上空を敵ながら見事にUターンして、海面の彼方に見えなくなった。
寸時、発砲しなかったら生け捕りに出来たと思う。それからは、ときどき上空に偵察機が飛来した。
チャチャゴフ湾の住民
アッツ島には米国人二名、アリュート人四十二人が住んでおり、米国人の二人は老夫婦で、アメリカ海軍退役軍人の夫は気象調査の通信士を勤めており、「日本軍上陸す」の第一報を米国本土に打電、取調べ中に自決死亡する。
妻は教員と看護婦の資格を有するらしく、通信所を学校にアリュート人の子どもの教育に、また医療を施していた。夫と共に自決するも未遂に終わり、東京に送られる。
通信所を穂積部隊の本部とす
アメリカ人老婦人を捕虜として一室に置き、歩哨付きでいた。通信所はキスカ島に転進するまで、部隊本部として使用した。
アリュート人は北海道小樽市に終戦まで抑留され、気候風土の違いに悩まされながら、栄養失調等で約半数は死亡した。終戦後、アッツ島はアメリカ軍の軍事基地として立ち入り禁止となり、アリュート人はアッツ島に帰ることも出来ず、アトカ島に帰還させられたと新聞に報道されていた。
アッツ島での中流生活
私達のアッツ島駐留時は大本営直轄部隊であり給与も良く、次々と入る輸送船の物資の揚陸に追われる日々を過ごしていたが、キスカ島の海軍部隊は連日アメリカ軍の飛行機による爆撃を受けている模様であった。
そんな中、アッツ島はまさに天国であった。次第に緑化が進み、気候も快晴の日が多くなり、八月に入るとジュウタンを敷きつめたように、一面に無数の高山植物が可憐な花をつけ、誇らしげに咲き乱れる情景は実に見事なもので、何か別世界に生存しているような錯覚さえ思わせる。一度この現況を見たことのある者以外は、あの北限の孤島にこのような自然の楽園が存在するとは夢にも想像し得ぬ事であろう。
日本の四季と違って、植物が春、夏、秋に花を咲かせ一斉に咲き乱れるのも、この地の特異性であった。
私達の幕舎は海岸に近く、直ぐそばに川があり、色々と生活の用に使用した。顔を洗ったり、食器の洗浄、洗濯、川上に行き水泳もした。秋には、産卵のために清流を遡上する鮭の群れを手掴みで捕獲し、メスの腹を絞りイクラを取り、それを食するのだから止められない。
キスカ島へ転進命令
昭和十七年九月十八日、穂積部隊にキスカ島への転進命令が下る。小さな駆逐艇に乗込みキスカ島に着く。当時、海軍は零式水上戦闘機で十キロ爆弾を二発抱き、アメリカ軍基地に爆撃に出る。
その頃アメリカ軍はアダック島に戦闘機専用の飛行場建設を完了させていた。戦闘機は爆撃機を伴い一基地を飛び立つと、一時間以内に飛んで来て空爆で、これには閉口する。防空壕に入るか蛸壷に入る逃げの一手しか方法なし。戦闘は全て高射砲隊に一任、歩兵隊は避難とその戦果を確認するのみ、海軍航空隊は初めの頃空中戦に挑むも、何せ数が少なく次第にそれを避けるようになる。
冬を迎え三角兵舎を急造
キスカ島も次第に寒さが増してくる。各小隊毎に急きょ沢地を利用して三角兵舎の建設に取り掛かる。
昭和十八年の正月を迎える準備で大変であった。十二月の暮が近づき、千島より輸送船が入港して正月用品等が多数陸揚げされる。揚陸作業は各中隊に数十人の割当があり、私は作業基地に作業員の昼食を運ぶ途中であった。
その時、敵の戦闘機三機が飛来し、激しい機銃掃射で追撃され足元に機銃弾が散乱する。逃げる途中石につまずき転倒する。他の者も皆地形を利用して難を逃れる。あの時石につまずかなければ、最後まで敵機の追撃に会い執拗に追いまくられた事であろう。実に運の強い自分であったと思う。
暮れの二十八日から三十日の夕方まで時ならぬ大雨であった。雨が上がったら寒波の来襲である。それにアリューシャン特有の強い風の大暴風となる。
キスカ島は風は強いが、気温は真冬でも零下十五度程度である。
昭和十八年元旦の朝、宮城遥拝も出来ず兵舎に駆け込む。昨夜の雨で地面はテカテカに凍り、突風は風速四十メートルを超え、旧火山列島のため軽石が飛び散る。生まれて始めての経験であった。
寒い冬が過ぎて北の島も春の訪れとなる。根本隊は山間の高い所に陣を取り対空監視の任務にあたる。
各中隊毎に陣地を構築し、敵上陸時の攻撃に対する準備をする。その他飛行場の建設、防空壕掘りなど昼夜三交代での作業はまさに土工夫である。
昭和十八年四月頃から南方作戦の戦況は、アメリカ軍の物量を誇る反撃で我が陸・海軍部隊は苦境に立たされ、一部敗退を余儀なくされる。
アッツ島にアメリカ軍上陸
その頃、日毎に敵爆撃機の数も増してきた。山崎部隊がアッツ島に上陸してから何か月か過ぎた頃、キスカ島を爆撃していた米軍機が、島の上空を通過してアッツ島へ盛んに爆撃攻撃を開始するようになった。アッツ島が濃霧のため爆撃不能となった時は、帰途キスカ島に十機位が横一列に並びジュウタン爆撃である、これには少々閉口する。
昭和十八年五月十二日、全島白雪に覆われたアッツ島は数十隻の艦艇、延べ数百機による爆撃機で、地形が原形をとどめぬ程の物凄い艦砲射撃、猛爆撃が加えられ、米軍が上陸を開始した。キスカ島への上陸が先と思っていたが裏をかかれたような気がする。
アッツ島の周囲は敵の軍艦で完全に包囲され、昼夜休むことなく艦砲射撃と空からの爆撃で、山崎部隊は遂に健闘も空しく太平洋戦争初の玉砕地となり、戦傷者の二十七人を除き他の全員が戦死、玉砕する。
時・昭和十八年五月二十九日である。
キスカ島に集中攻撃
アッツ島玉砕後はキスカ島を集中的に攻撃してくる。敵もキスカ島守備の陸海軍部隊は、かなり装備の整った精鋭部隊であると分析しておるらしい。そのためか簡単には上陸してこない様であった。
しかし、我々がキスカ島を撤収した二週間後の八月十五日、アメリカ軍は濃薯の中を三万五千人の大軍で上陸、同士討ちを演じて生き物は犬が三匹だけだったと言う。
毎日の爆撃は益々度を増して、無数の爆弾の穴と赤い岩肌がむき出しに現れるほど地形が変わり、多くの戦友たちが次々と戦死していった。
ケ号作戦(撤収作戦)始まる
昭和十八年七月初め、キスカ島撤退の内命があり、穂積部隊はその準備に入る。苦労して自分の死に場所にと構築した陣地を破壊し、敵の上陸地点の海岸線に地雷を設置する。
連日、重爆撃が行われ、戦闘機等多い時には百機にも及び、夜は艦砲射撃である。
七月七日、愈々内地帰還の夢を抱き、第一日目の行動開始である。敵を欺瞞しての演習を装い、道無き道を散開して行軍、海軍から指定された乗艦地点に向け足並みは軽い、所定の場所で待機し二時間ほど待ったが収容艦隊は入港しない。敵の感知を避けるため完全な無線封鎖を実施しているので、状況は一切不明である。また来た道をすごすごと我が陣地まで引き返す。
第一次「ケ」号作戦が中止となるその日まで、雨の日も風の日も歩き続ける、さすがの現役兵も疲れを感ずる様になり、足の底は誰もがマメだらけである。
キスカ島玉砕を覚悟
収容作戦は中止となり、海上にはアメリカ軍の艦艇が厳重なる警戒のもと、完全なる包囲網を敷いている。空からは偵察機が鵜の目鷹の目で厳しい監視の目を光らせている。キスカ島守備隊は完全に友軍の手の届かぬ《篭の鳥》の状況におかれる。
運良くキスカ島を脱出できてもアッツ島の沖合いを通過しなければならず、潜水艦による魚雷攻撃、飛行機の爆撃など海での恐怖は計り知れない。海で海底の藻屑になるよりは、陸地で腹いっぱい米の飯を食い、有るだけの弾薬を使い敵と白兵戦をやり、玉砕した方がまだましだと思ったことは事実である。
しかし日本軍の貧弱な装備に比べ優秀な科学兵器を装備し、物量による激しい爆撃を行い、数倍の兵力を持って上陸して来たならば、キスカ島守備隊もアッツ島に続き玉砕していた事であろう。
第二次ケ号作戦成功
収容艦隊が入港する数日前、キスカ島を警戒中の敵艦隊は、電波探知機(レーダー)に幻の日本艦隊を捕らえ、これに猛攻撃を加えて多くの弾薬を消費してしまった。
また七月二十七日の夜十時過ぎ、キスカ島南西海上で盛んな砲声の響きと、激しい光芒の閃きを目撃した。日米艦隊の衝突による海戦が始まったに違いないと思い、「これで撤収作戦もご破算になった。あとは敵上陸軍と刺し違えるのみ」と不安な中にも悲壮な決意を固めた。
これは、敵艦艇が昨夜の濃霧の中で日本軍と間違えて同士撃ちを演じたものであった。その損傷も激しく、止む無く包囲網を解かざるを得なかった一因である。
奇跡の生還
我が艦隊はそんな事とは露知らず、キスカ島鳴神湾に突入して来たのである。なんという偶然のもたらした成功の一因であろうか。
突入時刻が予定の十七時より大幅に繰り上がった。
二十九日十三時四十分、天佑神助の外なし、キスカ湾海面五十メートルほどの上空は一面厚い濃霧に包まれ、空からは視界零の状態であるが、濃霧の下の水平線上はカラリと晴れている。
松ケ崎の先端から、収容艦隊が入港して来た。
『ああー三本煙突だー』軽巡洋艦「阿武隈」「木曽」、駆逐艦「夕雲」ほか十一隻、海防艦一隻、タンカー一隻が次々と入港して来た。
僅か五十分足らずで陸海軍五千百八十一名全員残らず乗艦完了し、十四時三十分出港、全速力で一路千島に帰還する。
キスカ湾突入時、我が艦隊は小キスカ島を敵艦隊と誤認して、阿武隈が魚雷二発を発射する出来事があった。その時はてっきり敵艦の来襲と直感した。
我が海軍の艦隊は、アッツ島より米軍の制空権範囲を脱するまで全速力をもって航行し、やがて北千島に接近しつつある時、かすかに飛行機の爆音が聞こえ数機の編隊が雲間から機体を現した。
『アァー友軍機だ!』翼の両側にハッキリ「日の丸」が付いている。
艦上に全員集まり声高らかに『万歳』『万歳』である。ようやくあの「キスカ島」から生還出来た実感が湧く。友軍機は各艦艇の上空を旋回しながら、『キスカ島の将兵ごくろうさま』と呼びかけているようであった。
無事に北千島に上陸する。日本の小さな島でも、地上に足を踏みしめる喜びは大変なものであった。
≪佐藤光玉氏について≫
佐藤光玉氏は上富良野町の出身で、現在美瑛町美馬牛に在住していますが、草分に住む佐藤光盛氏とは兄弟で、昭和十四年二月に満州関東軍独立守備隊歩兵第二十三大隊に現役兵として入隊しました。
その後十七年に応召を受け、アリューシャン列島のアッツ島、キスカ島の戦線で活躍し撤退命令を受けて、猛爆撃と米軍艦隊の厳重な包囲網の中、濃霧と数奇な運命に助けられ、奇跡的に脱出に成功しました。
その後も北千島の警備に当たり、十八年九月、沖縄作戦のため九州に転属となり、二十年六月、沖縄作戦が中止となって、鹿児島県で警備の任務中、終戦を迎え、敗戦処理を済ませ、十一月、我が宅に復員となるまでの体験記を記しています。
この手記は、いかに戦争が非情であり、悲惨なものであるか、そしてその中において多くの人命が失われ、社会も家庭も破壊してしまった戦争を二度と起こすまいと、生死に一生を得た戦争の経験者が、その手記を通じて、私達に訴えかけてくれたものです。
平成二年四月、キスカ島に参戦した戦友の方々が集い、戦争体験記を残されましたが、その中の上富良野町に縁の深い佐藤光玉氏の原稿から、その一部を抜粋して、今回郷土をさぐる誌に掲載させていただきました。
原稿は、引き続き昭和二十年十一月の復員までのご苦労が、克明に記されていますが、その分は次の機会にでも掲載を考えて行きたいと思います。
なお、スペースの関係上原稿の一部を割愛、補足させていただきましたので、悪しからずご了承願いたいと存じます。
(編集委員 野尻記)
≪宇佐見中尉とは≫
現在、上富良野町本町二丁目二番十号に住む宇佐見利治氏(九十三歳)であり、戦時中、カメラを個人で所有して従軍中の行動を撮影した中から、佐藤氏の戦記に関係した写真をお借りした。
宇佐見利治氏は明治四十二年十二月二十三日、福島県いわき市川前町大字上桶売字沢尻にて出生。
昭和三年六月一日、近衛歩兵第二連隊に現役志願兵として入隊。昭和十四年八月一日、陸軍予科士官学校少尉候補生第十九期を卒業、同日付で第七師団歩兵第二十六連隊に配属、ノモハンの激戦に参戦してソ連軍の銃弾により負傷する。
その後、中尉に任官し、独立歩兵第三〇一大隊第四中隊長としてアリューシャン攻略戦に従軍。宇佐見隊は、アッツ島に上陸して唯一の集落チャチャゴフ(熱田部落)に一番乗りし、米軍管轄地域に最初の日章旗を掲げた。
昭和十九年十二月一日、陸軍大尉を経て陸軍少佐に任官。昭和二十年七月十八日、第二五〇飛行場(岡山市)大隊長に赴任。広島の原爆投下のときには、救援隊を指揮し、被災者の救済に従事したが、間もなく終戦を迎える。同年十二月、予備役に編入となる。
復員後、上富良野町に居住。鞄本劇場の経営の外、町議会議員、商工会役員等の公職を数多く歴任するなど、多方面にわたり、上富良野町の発展に寄与されている。
(編集委員 三原康敬記)
≪補 足≫
編集後、「キスカ島撤収作戦」に着いていろいろな出版物があることを知った。その中から一部紹介したい。
「日本軍には退却という言葉はなく、その代わり転進とか後方移動などと言った。
キスカ島の攻撃には、昭和十八年六月二日から八月十六日までの飛行機の出撃は、述べ千四百五十四機で、千二百五十五トンの爆弾の雨を降らせた。これに加えて頻繁な艦砲射撃である。
日本軍は最初、潜水艦による撤退を計ったが、運べる人数は少なく、途中爆雷の攻撃により撃沈された事もあって、この作戦は六月で中止になった。
七月に入り軽巡洋艦、駆逐艦その他十数隻の艦隊により撤収作戦が計られた。
七月十五日、艦隊はキスカ島の近くまで進んだが、霧がかからないため、作戦を中止して引き上げた。島には米軍の戦艦五隻、重巡洋艦五隻、駆逐艦十数隻が十重、二十重に取り巻いており、完全に包囲されていたため、この地方特有の濃霧を頼りに救出を計るしか方法がなかったのである。
七月二十四日、米軍哨戒機がアッツ島の南西二百哩に、幻の七隻の船影をレーダーに捕らえ、米軍司令部はキスカ湾にいた哨戒艦を移動させ、戦艦、巡洋艦、駆逐艦も幻の日本部隊攻撃に向かった。
この攻撃に、米軍が打ち込んだ砲弾は、十四吋砲弾一一八発、八吋砲弾四八七発に及んでいる。
この砲撃で使い果たした弾薬を補給する為、米軍艦隊は補給地点に引き上げたが、たった一日の空白の日、八月二十九日に運良く濃霧が発生し、キスカ湾に日本艦隊が突入する事が出来たのである。
キスカ島にいた五千二百人の隊員を、僅か五十五分で全員を収容し、敵の攻撃を受けることも無く、奇跡的な撤収に成功したのである。
(編集委員 野尻 記)

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔