郷土をさぐる会トップページ     第18号目次

各地で活躍している郷土の人達
七十六年の歩み 思い出すままに

町村 末吉 大正十三年十月二十六日生(七十六歳)

二〇〇一年、世紀の変り目となると、今まで出会ったこと、出会った人々についての憶い出が一人懐かしく思い出され、無意識の侭に七十六年間を共有してきた人々との縁を思うと感謝せざるを得ない心境となり、又複雑な哀感を覚える今日この頃である。
昨年、道庁の久保さんより請われる侭に軽い気持でお受けしたものの、書く事苦手の筆不精を「多忙」の言葉で言いのがれした事も遂に限界となり、恥を忍びつつ七十六年を省りみ、徒然なる侭に書くことにする。
少子化の昨今を思うと、自分は九人兄姉の末子であり、随分苦労をかけた親たちに孝行もせずに別れたことを詫び、感謝をしている。数年前、両親の五十回忌には「五人の子供が揃っていて珍しい」と、聞信寺の住職からほめられた事があるが、その後二人の姉は浄佛、今は三人兄弟となり、お互に語り励まし合うことを最上の楽しみとさえ思う。今社会が憂慮している少子化傾向を思うと、今の子供たちが可愛想で同情したい気持にならざるを得ない。九人の子供を育てるお袋を助ける兄姉達の協力の姿を想像し、私だけが一番恵まれ過ぎる人生を歩みつつある幸せを思うと、申し訳なく感謝せずにはいられぬ。
それは私より秀れた兄達が向学心に燃えつつも我が家を護るために進学を断念し、農業に専念してくれた事である。
私は小学校の頃は信心深いお袋の計らいで聞信寺の幼稚園日曜学校に行かせてもらい、ランプの下で少年クラブを読む楽しみが忘れられない。街の二、三の級友が旭川の中学などへ行くのを羨しく思いつつ高等科に入る。その時兄の友人で東旭川の小学校長(三浦友馬)が、「将来満州開拓に長男辰夫をつれて行きたいので、農学校に入る前一年実習をさせたいとの事で預かり、俊雄兄と同年で仲良く一生県命頑張る姿を見、彼から可愛がられた事を今も忘れられない。そして彼は十勝農業学校に入学、休みに帰省する度に立寄り、勝農の塾教育の素晴らしさを説明し私の入学を奨めてくれた。父代りの長兄が同意して私も高等科を卒え、一年間家事の手伝いをしたのであるが、今の中学三年の年令であり、農学校に入りたい一念で良く頑張ったように思う。同級生の海江田尚信君は、卒業後すぐ入ったので、一年先輩として狩勝峠を越え入学していた。
私は昭和十五年無事入学、研農塾に入り十町歩の畑と乳牛、馬などの管理で、朝五時に塾長の太鼓の音で起床、家畜の世話をし、七時半朝礼後二粁離れた学校に室長を先頭に通学、午后は週二回農場実習、夜は八時半から三十分程塾長の話を聞くと言う盡忠教育と称する何の抵抗もなく満足した時代で、今の高校生には考えられぬ日々であった。昨年、開校八十周年記念行事に参加し、九十四才の塾長先生にお会いし感無量、通学した落葉松の並木道を散策し六十年前を懐古、全国一の農高に育った事を知り喜びに浸る。今でも私は勝農の塾生活が将来を決めてくれたものとして感謝している。
(註)先に記した三浦辰夫兄はその後東京高等農林学校(現東京農工大)に進学、戦後秋田県の金足農高の先生となった事迄は知っていたが、八十周年記念の折、秋田より参加の家庭科第一期生の三浦和子さん(辰夫兄の妹)と会うことができ、始めてその後の足跡を知り私は頭を垂れる。父勇馬氏は昭和十七年校長を辞して内原開拓訓練所にて研修、二〇〇名余の開拓団の団長として満州ハルビン東北地方に家族、母、妹弟(辰夫兄は残る)一緒に入殖、辰夫兄は敗戦を予感し両親達を迎えに行くも、仲間を残しては帰られぬと勇馬氏は固辞し残るも不幸にして十九年病死。その後終戦となり二十年帰国、その途路で母が過労からの病で亡くなり、和子夫人が二人の姉弟をつれてやっとのこと母の郷秋田市(酒造り)に辿りつき、金足農高の辰夫兄とも再会出来た。
しかし、あのスポーツマンの辰夫兄も昭和二十八年に他界されたことを知る。今は三人弟妹夫々幸せな老後を過ごしているとのことであるが、我々の年代にはこの様な悲話、ドラマのある時代を経て今日の恵まれた社会に生きる喜びを得ている事を、今の若い世代も知ってもらいたいと願う気持である。
その後北大農林専門部(農科)に運良く入る事が出来たが、何分戦中であり専門の方は学ぶ事少なく、二十年一月学徒出陣で特甲幹志願で習志野兵学校へ、そして毎夜の様に東京近郊都市の空襲に悩まされつつも終戦を迎え無事帰宅する。その時病床にあった父より身の上話を初めてきかされ、豊頃町の十勝川河口に二百町程の牧野があるので酪農をしたければとの話を聞き、あまり学ばずして卒業と言う事になったので農学部への進学は断念した。学生時代に二度訪ねた町村農場での実習を思いつき、誰の紹介もなく帰途農場に立寄り、奥様より三年間の実習許可を得て戻り、十一月より江別での実習生活が始まる。今思うと随分大胆な行動の出来た自分に驚くのである。
二十名余りの旧軍人中心の人達が酪農の夢を求めて実習生としており、五十町の畑に乳牛(牡の育成牛を含め)約一〇〇頭、農耕馬十二頭で、朝は五時より夜は夕食後の搾乳を終えると九時であったが、皆と語り合う楽しい生活であった。町村敬貴先生より土作り、草作り、牛づくりについての基本の指導を受け感銘、意気を感じた若者達の集団でもあった。十年後自分が農場の後継者となるとは考えられぬ事であり、今思うとそれは不思議な宿命と言わざるを得ないのである。
三年実習の希望も、二十一年農地法改革により、十勝豊頃の不毛の牧野も農地と言う事で地主不在(所有者)として買収になり、病床にあった父は『私名義の土地を少し残してあるから兄にさせてもらえ』と言って、九月三日六十才で癌にて世を去る。再び農場に戻り実習を続けていたが今度は大事な母が一月病床につき、私は母親に対して親孝行をしていないので少しでも役に立ちたいと思い、二十二年二月十一日、一年三ヵ月余にて退場させてもらった。
私の実習中に上富酪農組合は町村農場より種牡牛第二十五カーネション ガバナー イムペリアル ラッドを購入する。私が実習中には十勝広尾の開拓者として有名な坂本直行先生(後に画家して終る)は坂本竜馬の家系で私の北大の先輩だとか、開拓の苦労人、大学の先生のお話などを、志津夫人は請わるるままに冬期間心よくうけて勉強させてくれた。
私は三月二十五日より二日間、北大の三田村、黒沢亮助教授の話があるので来る様に、そして購入した種牡牛を連れて帰えられる様必らず貨車の手配するからとの連絡をうけ奥様の御厚情に感謝し農場に来て話をきく。翌夕刻講義中、貨車が入ったとの知らせで牡牛の輸送準備中に母危篤の知らせをうける。
貨車困難な時代折角手配して戴いた事であり、夜牡牛と一緒に江別を出発、翌二十七日九時四十分上富駅に到着した処、母は二十分程前に亡くなったと駅に迎えが来ていた。半年の間に失った両親に対しては哀惜の情禁じ難くつらい日々を送る。兄に酪農をさせてもらうべくそれから三年間酪農、澱粉工場の手伝いをする。
この三年間は自分にとって有意義な人生経験であった。一つは当時或る事情で日の出青年団は二つに分かれていた。私は突然帰って来たよそ者であったので双方に利害関係も感情の障害も無く、請われるままに青年団長となって和解につとめ、それを発展させて日の出祭りをする事に決める。自分も寸劇の主役となって活躍した懐しい思い出がある。もう一つは上富酪農青年同志会をつくり毎年、先進地を訪ねて歩いた事である。車の無い時代で歩いて町村農場から宇都宮牧場へそして札幌に泊った事もある。富良野麓郷の鎌田氏を、名寄の水田酪農家の成功者(残念乍ら名前を思い出せぬ)など。当時有名な篤農家を訪ねてその技術心を学んだのである。又当時NHKで「話の泉」と言う連続放送番組があり、和田アナウンサーの機知に富んだ話題を提供してくれる番組があったのにあやかり、「酪農の泉」と言う表紙のみを同志に配り、折ある毎に酪農誌よりの抜粋、又考えている私見など酪農の知識を綴っていこうとする趣旨であった。自分は町村農場に一年余であり酪農の序の口より判らぬのに皆から過大に評価され、共進会でも中心になったり、まとめ役として役立った様である。
昭和四十四年であっただろうか、全国酪農青年研究連盟の体験発表が東京であった折、「上富酪農青年研二十年の歩み」をスライドで説明発表、最優秀賞を得、その祝賀会では初代会長として感謝状を戴いた事は光栄であり、酪農研の継続を心から嬉しく思ったのである。そして数年前にも五十周年記念式があり私も出席、熱心な酪農同志が今もしっかりと護り続けているのに深い感銘をうける。
又それに関する事で書き加えるが、昨年、五十年の上富生活と別れ旭川に移った太田左夫郎氏は私の勝農時代の同期であり、昭和二十二年復員後恩師川村秀雄校長を訪ねた処、『和田が町村農場で実習しているので君もそうしたら』と言われ、農場実習生として入って来たのであるが、一ケ月も一緒に居る事が出来ず私は帰省し、その二年後の二十四年、上富良野家畜授精所へ私が誘導した様な関係で上富を訪ねる時は必らず立寄ったのであるが、今は度々旭川からの声を聞いてはいるが寂しさを覚える。
私は二十五年春迄の三年間は上富町民として郷里の表裏を知る事の出来た良い機会であった。又改めて変らぬ十勝岳連峰、芦別岳を望む富良野盆地の自然の美しさを確認、堪能する事が出来た貴重な三年でもあった。
二十五年春、その頃町村敬貴氏よりアメリカでの酪農実修のすすめをうけ、郷里での酪農も考えていたが両親の他界もあり、兄にこれ以上負担をかけられぬと思い、酪農青年同志との別れを惜しみつつ渡米準備のため勧められる侭上京、千葉市にあった農林省技術研究所畜産部(元農林省畜産試験場本場)に研究生として入る。そこには副部長として中富良野出身の桝田精一先生がいて、随分可愛がって戴く。
氏は後年、日本ホルスタイン登録協会の要職にあり、乳牛改良に貢献された業績は日本中の酪農家の知る処である。私は敬貴の知人であった元場長釘本昌二先生宅に居候する事になり、緊張するも、先生には私生活を通してヒューマニストとしての人生訓を学ぶ事が多かった。東大、米国コーネル大学を経て農林省に入り、若き頃月寒試験場の場長もされており、北海道についても造詣は深かった。昭和二十二年の第一回参議院議員立候補準備中に軽い脳梗塞で倒れて断念され、私がお邪魔した時は可成り回復され、請われると各地の講演に、又週一度日大農学部の講師を勤め、その時は何時も私が杖代わりになってお伴をさせて貰う。家にあっては英語の勉強として三十分以上、英文の畜産の専門書を読み教えを請う日々が続く。当時は仲々渡米する事はむづかしく、心より感謝しつつ一年半程で辞し、幸い義兄石川清一が参議員であったので議員宿舎にもぐり、二十六年七月より小田急線(箱根行)の座間にあった米軍キャンプ(元陸士学校跡)のPXに勤め、会話の勉強目的で半年過ごす。当時は朝鮮動乱の最中で米兵が多く駐在、日本は貧困であったので売春婦がその周囲に溢れていた時代である。
二十七年漸やく渡米の目途がつきその準備をしつつ、真面目な仮の秘書として書類整理、国会内の委員会に、又廊下で吉田総理と二度行きかう事が出来た忘れられない想い出がある。敬貴の友人から五〇〇ドル(当時一ドル三六〇円)の送金を受け、戦後第一号の渡米実習生として夢ふくらませて、ノルウェーの貨物船にてシャトル港にむけ出港する。十一日間要したが七名の日本人が個室を与えられ、食事はキャップテンと同席で随分賛沢な楽しい旅であった。
戦後の日本とはあまり違う美しい地シャトルに上陸、敬貴の友人の日系人のホテルに二泊する。そしてミルウォーキの汽車に乗り午後四時出発、翌々日の昼にミルウォーキの駅につく。丸二日間かかる大陸の広さに驚ろきつつ、日中は車窓からの風景をあきずに眺め続ける。ウィスコンシン州ミルウォーキ駅に敬貴が実習したラスト牧場のラスト氏と、獣医の奥山惣兵衛の迎えをうける。アメリカ四十年以上の方で、大男と思ってお会いしたら以外に小柄の方であった。
奥山氏について少し触れる事とする。山形県天童の出身で農学校を終えて渡米、苦学してコーネル大学に入るも学費続かず、その後オハイオ大学に入学、その時に雪印乳業育ての親佐藤貢氏と同期となるのである。年後私を招いてくれたブルッヒル牧場主グリーン氏の元で専属獣医となり、又近辺の酪農家の牛も見て居り、Dr・惣兵衛の愛称で親われていた。
大東亜戦争が始まった時、三十六才でウィスコンシン州知事候補との話題になった程の紳士グリーン氏の特別の配慮で、日本人皆抑留された時もそのまま仕事を続けられたのであるが、戦後一応職を辞して近くに農場を求め乳牛二十頭程飼育、独身であったので毎日ブルワヒルに来て昼食をとり、病牛を診て戻る静かな生活を続けていた。私も一年近くなり仕事も慣れたのでその留守を守る事となり、四十年振りに日本を訪れる計画中であったが、その直前、食事に来ないので気になり支配人が訪れた時は、長椅子の上で亡くなっていた。六十三才で心不全で尊い生涯を終える。グリーン氏の配慮であろうかミルウォーキージャーナルの三分の二に惣兵衛氏の記事が、写眞と共に大きく報ぜられた事が忘れられない。
一九三〇年シカゴ大博覧会の折、アメリカで始めて人工授精のデモンストレーションをし、六頭中三頭の受胎が後に成功と報じられ話題になったとの事である。遺書により遺産はすべてウィスコンシン大学奥山惣兵衛基金として残されている。
私の一年目は一一〇ドルの手当を貰い、食事・寮費として毎月四〇ドル差引かれ、毎月五〇ドルを十ケ月間、渡航費として借用した返済に当て、二〇ドルを小遣いとする。その間に自動車免許をうける。アメリカの免許証は誠に合理的で、先ず警察署で交通法規などの比較的やさしい試験を受け、合格すると一ドル拂い仮免許を受け、日の出から日没前迄の六十日間は免許証を持った者同乗で運転することが許される。六十日たつと警察と同乗して市内を三十分間程指示通り駐車・運転をして廻りO・Kで本免許を二ドルでもらえた。警察は一緒に行った支配人に暫らくは都市の中の運転はさせぬ様、田舎道だけとする様にとの助言があった。私は三ドル(当時約千円余り)で得た免許証で帰国後法規の試験だけで日本免許証を得ており、今二十〜三十万円もかかる日本の現状に驚くのである。
ブルックヒル牧場は当時としては最も新らしいタイプの牧場へと改造中であった。牛舎をフリストールに変え、二人で八頭をミルキングパーラーで搾り、飼槽は外に造りバンカーサイロもあった。当時はコーンサイレージが主で牧草地は放牧であり、グラスサイレージ流行の始めであった。総頭数五〇〇程で二五〇前後の搾乳を朝一時から約五時間、又午後一時からと当時としてはアメリカでも一日二回搾乳の始まりであったと思う。シカゴにプラントをもっており、特殊ミルク(サイファドミルク)として特別価格で売られていた。今思うに町村農場がその縮図の経営へと進んだ事を改めて確認するのである。ここでの経験は当時の日本は畜力材機農業であり、アメリカの動力材機化農業を見て驚き貴重な体験であった。二、三年後に宇都宮牧場の潤君、黒沢牧場の勉君が来て三人で良く牧場巡りをし、興味深く新しい農業を学んだのである。我々は昭和三十三年より大型トラクターを導入、三十五年にはハーベスター、ヘイベーラを導入、手作業より機械化農業へと、その先鞭をつけたものと心秘かに自負している。
二年半厄介になったブルックリンヒル牧場とも、私が町村農場経営に参加を決心する事により、牛作り専門の牧場へ移る事になる。当時日本では東のパブスト、西のカーネションと注目されていた。パブスト牧場の日本人としての第一号研修生として移る。
それは敬貴が二十七年パブスト・ウオカーロベルを輸入した縁でもあった。そこで種牡牛の管理高能力の牛の飼育を学び、州又他の州のステトフェア(共進会)へ、又全米の共進会にも牛と共に参加、素晴らしい牛に接する事が出来、その中でも上位、又チャンピオンになるなど乳牛改良に対する興味を味うと共に、牛作りのむずかしさを肌で感じる事が出来た。
もう一年居たかったが志津夫人の病気の事もあり一年余でパブスト牧場の実習を断念、十一月下旬にはロッキー山脈越えは危険との事で南方コースを選び、ジープでの一人旅を十二日間続けてサンフランシスコに到着、日本に着いた時は五〇ドルきれていた薄氷の旅、これも若さ故に出来た事であり、不毛の砂漠あり貧困の農村地帯あり、緑豊かな農村あり大都会をとアメリカ大陸の広さを感じる。十二月下旬無事三年半振りに帰国、三十一年一月、三女寿美子と結婚町村家の一員となる。人生の不可思議、与えられている運命であろうか、やがて半世紀を迎えようとしている今も判らない。又知ろうとも思わない。
以後敬貴を父、志津を母と記す。父及び病床にあった母より、未熟な私共に、両親の責任ではないが或る事情で大変厳しい状態にあった農場経営の総べてを一任され、不安な重圧を感じるスタートであった。
仕事のみに夢中であった不慣れな我々を、絶えず暖かく見守り続けてくれた事に感謝せずにはおられぬ日々であった。又金五さんも度々訪ねて激励をうけ又東京の兄姉達も農場の継続を願い声援を送ってくれたのである。この様な事から経営と経済は車の両輪である事を肝に銘じて四十五年間、時の流れに応じた経営を続けてくる事が出来た。幾度かの難関にも当ったがその都度不思議と幸運に恵まれ、乗り切る事の出来た幸せな男であった。
ここで母志津について少し触れてみよう。女学校を終えてすぐ、敬貴がアメリカより一時帰国した明治四十四年十八才で結婚、四男三女の親として大変な苦労をされる。或る人日く「農場は七は志津夫人、三は敬貴によって成り立っている」とも言われた程土作り草作り、牛作りに生涯をかけた敬貴の陰の力となって家計を守ったのである。そして子供の教育には特に意を注ぎ、小学校を終えると七人は皆東京にいる祖母(志津の母)のもとに送り、最高の学府へと進めたのであるが、両親の苦労の姿が子供達には感謝の気持として伝わり頑張ったのでなかろうか。
ともかく晩年は夫々が社会的に要職を得て活躍をし恩返しをしている。
私の実習中の思い出には、誰か悪い事をすると二十余名の全員に対して厳しく叱責を受ける事が度々あった。併しその後には必らず甘酒か志る粉などを準備させていて、「判りましたね」と言って去る母であった。多くの実習生が叱られても慕われたのはその人徳であろう。二十九年脳溢血で倒れ、漸やく回復しつつあった三十三年十一月、上京して再度倒れ遂に江別に帰ることなく四十三年三月、七十六才の生涯を終えたのである。私共上京の折の近況報告を大変喜び、激励をうけて戻る。頭脳明噺決断力に富み永い間苦労しつつ父の留守を立派に守った良妻賢母の典型と語られた。私にとっては短い間の交流ではあったが教えられる事も多く、尊敬して止まない存在であった。又金五先生の書(「一粒のグスベリ」思いつづるまま)には母の如き姉に対して尊敬感謝の言葉が繰り返されている。又父敬貴については政治好みではなかったが、永年の信条である「土作り、草作り、牛作り」から発する農業諸問題に対する業績が認められたのであろうか。道内では佐藤昌介初代北大総長と二人だけの勅選貴族院議員に続いて参議院議員となり、吉田総理には格別なる御愛顧をうけた様で、今も吉田総理の書簡が大事に保管されている。道開発審議委員として根釧開発事業には特に努力され、立派な酪農地帯になった事を喜んでいた。
私が身近かに接した敬貴に対する印象は、純粋の酪農家としての親しみであった。見学に訪れる人とは何時も快く歓迎し語らい楽しんでいた。母が十年間病床にいた東京には毎月上京するも数日で江別に戻り牛舎、畑を散策し、又孫とたわむれる平凡な好々翁であった。昭和三十八年、農業諸団体より胸像の贈呈を受け、除幕式の時の謝辞を忘れる事が出来ぬ。
「こうして晴れやかに皆様より胸像を戴けるのも病床の家内のお陰」と言って、あとの言葉が続かず一同の胸を痛めた事があり、これも長い間苦労を煩わした妻への感謝の現れであったと思う。東京で病床にある母を寂しく思う日々であったであろうが、牛と孫と娘(寿美子)により慰めを得ていたのでなかろうか。諸用の時以外は必らず午後札幌の石田屋でコーヒーを、そして時折古い友人を訪ねての語らいを楽しんでいた。その時は背広姿にソフトをかぶり毅然たる老紳士の姿は、今の時代には仲々見ることの出来ぬ憧れの姿として心に残る。人を批判する様なことは殆どなかった。その例として牛の好きな父は道、全国の共進会等は必らず見ていたが、すすめられても決して審査場に入る事はせず、牛舎主任、私などと牛の良い点のみを指摘し、悪い点には触れる事なく、審査員の順位については全く批判をする事はなかった。それは牛作りのむつかしさを知っていたからであろう。最近の若者達の中には自信過剰となって我が主張を、又順位に対する批判をする姿を見ると敬貴に学ばねばと思うことがしばしばある。
敬貴と生活を共にしたのは十数年であったが、経営と共に家計の総べてを護ると言う事は仲々出来ぬ事でなかろうか。その事を許してくれたので自分にも責任ある行動がとれたと思う。農地を求めるにしても、施設の増改築にしても必らず相談はしたが反対する事はなく、常に温かく見守ってくれる存在であった。こうした態度は対外的にも同様であり、語る一語に皆が賛同してくれ、尊敬される人間像が出来上がり、幸せな生涯であったと思う。中でも一番幸せであったのが私である事を疑わない。
急性骨髄性白血病で医大に八カ月入院中は毎夜一日の報告をしていたが、週二度は子供を交替で二人づつ連れて行くと、それが一番の喜びで待っていた。
帰りには必らず額寄せてのさよならの光景は、私に代わっての親孝行でもあった。八月十四日八十六才で他界、一年前他界の母と共に眠ることとなる。
最後の農場の経営について少々触れよう。昨年末、蝦名賢造先生により「北海道牛づくり百二十五年」=町村敬貴と町村農場=が出版されているので、その大要を記すことにする。今年は北大百二十五年であるのでそれに併せてとの事であった。祖父金弥は明治九年札幌農学校の二期生として新渡戸稲造、内村鑑三、南鷹次郎、宮部金五などと席を同じくし、十三年卒業後真駒内の種牛場に勤め、エドウィンダンの弟子となる。父敬貴は明治十五年十二月そこで生まれ、小さい時から牛と共に育つのである。
金弥はその時から敬貴を酪農家へとの夢を画き、明治三十九年北大農芸科を卒業と同時に、アメリカへ酪農実習に旅立たせ、又当時の石狩村の樽川の原野百二十町歩の土地を明治三十年に求めていた。十年のアメリカ実習を終えて帰国。大正六年樽川に町村農場の創業をするのである。平成十三年は創業八十三年となる。樽川の地の大半が泥炭地であり、電気も無く風強く、吹雪になると牛舎と住宅の間が見えず、方向違いをすることが度々あったとの事である。それよりも牛作りに必須の良い草が湿地でどうしても育たず、十年間苦労の末昭和二年江別市の対雁に移転を始める。この地は開拓史に深い縁のある永山武四郎所有地で荒廃化していた。表土は少しあるがその下は煉瓦の原料にもなる堅い埴土であることを確め、土地改良により、このひめすいば(スッカンコ)の畑も草地化出来る事に自信を得て始まる。
この対雁での土地改良(暗渠排水、酸性矯正)の実践が道内に土地改良事業推進の原動力となった様である。今は茎科収草、特にルーサンの育つ土地になったのである。
私が引き継ぐ頃の経営はブリダーと称する種畜販売を主目的としたもので、アメリカより種牡牛を輸入し、その牡牛、牝牛を全国に売却する事で、牛乳は副生産物で総べてをバターに、脱脂乳は育成用にむける形態であった。併し三十年頃より人工授精事業の普及により種牡牛の需要が少なくなったので、自ら経営の転換を考慮せねばならぬ時代へとなる。
徐々に牛乳生産が重点となり乳牛の頭数も増して行くと同時に、昭和四十三年市乳部を開設、平成四年、現農場に第三移転を計画する時点では搾乳牛は二百頭近くとなる。又戦後も再び数度、種牡牛を米国、カナダより輸入し続けていた。人工授精事業も昭和六十三年に廃止し一層市乳部の充実を図る。
対雁の農場も市街化の進展により畜尿処理の難しさもあり、昭和五十年前に求めていた現在地(篠津)に第三回目の移転計画をたて、次男の設計で二百頭搾乳の倍増計画を建て、乳製品もバター、市乳からヨーグルト、アイスクリーム、ソフトクリームの製造を始め、全国的に販路を拡大今日に至っている。
顧みると三十一年当時、一日乳量約一、〇○○キロであったのが、現在五倍以上の生産量となった。
労働力は当時よりむしろ少人数で運営でき、又作業開始は七時より五時迄(但し夜の搾乳時は六時半より三名)、夏期間は農事作業は六時終了、休日も年間九十〜百日を与えられるのも機械化農業の成果として評価している。又平成十二年三月、日本で初めての糞尿処理によるバイオガス利用の発電(65KW)を始め、自然エネルギー利用として注目され、農林水産大臣も視察され驚かれていた。
顧みると、この四十五年間には数多くの著名な方々の御来訪をうけた。特筆すべき事は昭和五十五年皇太子殿下の御来訪で、酪農食を共にしたこと、又平成十一年十一月、中国江沢民国家主席の御来訪に加えて森繁久弥氏などに代表されるが、その他多くの賓客を迎える事が出来たことも名誉なことと思っている。これも堅実な経営を続けられた事によってお迎え出来たものと思い、来訪に感謝している。
私は四人の子供(三男一女)に恵まれたが、機械化が進んでいなかった時代でもあり、仕事に夢中で、母は東京で療養不在でもあり放任主義であったのが、結果として良かったのであろうか、夫々無事憧れの大学へ進学でき社会人として活躍している。私は子供たちに『お前たちは二つの親孝行をしてくれた。一つは自力で大学に入ってくれた事、もう一つは自分で良き伴侶を選んで結婚してくれたことが一番嬉しい』と言った事を覚えている。今は八人の孫に恵まれる幸せな七十六才の老人となった。
しかし時がたっても忘れられぬ寂しさもある。両親兄姉達の他界ばかりでなく、平成四年九月大事な後継者次男の突然の他界であり、今も父無き三人の孫の幸せを願う日々である。幸い電通本社に八年勤めていた三男が戻って八年になる。当初は「亡き兄に比較されるつらさを感じた」と書いてあるのを見たが、八年たった今は電通八年の貴重な経験が、今の経営に如何程役立っていることか計り知れない。
現代感覚の経営を安心して見ている事が出来るので、七十五才を期に経営の総べてを譲り静かに見守る事にした。今は請われまま幾つかの奉仕をしているが、中でもNGO活動「オイスカ」には年いっても熱心で(道支部副会長)、東南アジア各国の研修センターの訪問を十年以上も毎年続けており、三月上旬にもフィリッピンの山岳地帯アラブ州に、十年前北海道支部で寄贈私がテープカットした懐しの研修センターを訪れ、又「子供の森」の木の成長を見る事、又子供達と一日植樹する事を楽しみにしている。ともかく地球サミットではブラジルにも参加する熱の入れようで、今後も健康で長く続けられる様にと祈っている。
今迄を省みると素晴らしい人々に巡り会い、温かく見守って戴いた事、苦境にあっても道自ら開ける不思議な力が宿っている事、酪農の夢が町村農場経営へと進み、農場八十五年の歩みを無事終え、次代へと譲る事の出来る幸せに感謝している。
三つ子の魂百までもの諺があるが、上富良野で生まれ育った事が上富一の幸せ者となったのであろうかと、改めて郷里に感謝を惜しまない。郷里の益々の発展を念じつつ、思い出すままに記した拙文をお許し願います。
プロフィール
町村末吉氏(76才)大正13年10月26日上富良野村に生まれる。故元上富良野町長和田松ヱ門氏は氏の長兄。十勝農学校を経て北大農林部に入学。戦中の学徒出陣で千葉県習志野陸軍兵学校に特甲幹として入学。
20年8月終戦で復学繰上げ卒業。同年11月より町村農場の実習生となるが、父の死により1年3ヵ月で退場帰郷し、家業の酪農等を手伝う。昭和24年故町村敬貴氏より渡米を奨められ、その準備のための千葉県内の畜産試験場で指導を受けた。当時渡米するには困難な時代であったが、昭和27年7月戦後の酪農実習生第1号として渡米し、ウィスコンシン州等で実習研修を重ね、昭和30年12月帰国する。昭和31年1月敬貴氏三女寿美子さんと結婚し、町村家の一員となり3男1女に恵まれる。同時に敬貴氏の後継者として町村農場の経営者、代表取締役となる。その後も農業経営規模拡大と近代化に努め、北海道酪農業の範となる。
平成12年には3男均氏に経営を引続ぎ、現在はNGO活動の北海道副会長を始め、国際的ボランティア活動を続けている。

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔