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殖民地撰定の背景と区画測設

元町史編集員 野尻 巳知雄
昭和十二年三月三十一日生(六十三歳)

殖民地撰定者の間違いとその背景

北海道の新しい開拓制度として、明治十九年に殖民地撰定事業が始められた。
それまで行ってきた拓殖政策は、官営による開墾事業を主体として進められ、移民に対しては旅費支給、衣食住給付などの手厚い保護を与えて来たため、かえって移民の依頼心を高め、多額の投資の割には開拓の実績が上がらなかった。
初代の北海道長官に就任した岩村通俊は、従来の直接保護政策を廃して、内地の新興資本を北海道開拓に投資させる拓殖行政に転換を図ろうと考えた。
岩村は就任するとすぐに「北海道土地払下規則」を定め、それまでは開墾希望者の勝手な選択に任せていた土地撰定を、道庁が自ら行うように改めるべく未開の原野を調査し、農耕適地を確保する「殖民地撰定事業」を開始した。
また、未開のままになっている内陸地の開拓を同時に進めようと、開発に必要な基盤整備も行い、岩見沢〜上川間の「上川道路」の建設も始められた。
一方、行政の組織においても事業を円滑に進めようと、機構の大改革を行った。
明治十九年十二月に道庁は、今まで事業を担当してきた「勧業課地理係」を「地理課」に昇格させ、事業の主任には札幌農学校第一期卒の二等技手内田瀞(きよし)、同五等技手柳本通義、同四期卒四等技手福原鉄之輔の三人が任命された。
最初の撰定事業は、三人の任命以前に北海道庁の発足と同時に始められ、当時札幌農学校助教であった内田瀞を主任に、八等技手十河定道を助手にして、一行六人で十九年八月下旬に着手した。しかし、十二月に入ると降雪に妨げられ、僅か三ケ月余りで調査を終了した。この時の調査では、旧夕張川の左右マオイフリヌプリ山下の原野五百三十万坪と、江別川と野幌川間の平地三百万坪、幌向川沿岸約六百五十万坪の三ケ所の撰定を終えたに過ぎず、旧町史にある「フラヌ原野」撰定は含まれていない。
各市町村史の誤った認識
昭和三十八年前後に、富良野沿線各市町村史という公の刊行物に記載されたことから、「フラヌ原野」の殖民地撰定は、明治十九年に内田瀞によって行われたと、長い期間に亘って誤った認識で信じられてきたのである。
この町史の記載が誤りである発見のきっかけとなった「柳本通義自叙伝」は、柳本が生前ひそかに書き綴っていた原稿を、昭和十二年に遺族が見つけ、ごく僅かな部数を自家出版したものであるが、少ない部数のために一族間でもその存在を知っていた人も少なく、最近になってようやく本が発見されたのである。
この自叙伝を基に、平成七年十月に発刊された神埜努著「柳本通義の生涯」(共同文化社版)では、「フラヌ原野殖民地撰定の市町村誤記」について、次のようにその原因を分析している。
明治十九年に内田、十河が調査した「空知郡」は現在の南幌町、栗沢町、岩見沢市にまたがる地域であったために、ごく札幌に近い地域に限ったのであった。
二十年に柳本が担当した富良野地区の「空知郡」を十九年の札幌に近い「空知郡」と混同したため、富良野地区を内田、十河が担当したとの誤りも生じた。
こうした誤りは、同じ「空知郡」が上川・十勝両支庁にあるという、古い郡制が遠因とも考えられる。また、このように誤記され、柳本が隠されている原因として、これまでに
北海道史関係の刊行物に殖民地選定事業、土地区画事業について、年次別の実施地域と担当監督者名を一緒に掲げたものがない。
そのために各市町村史などの執筆にあたり、創業時代の資料として内田瀞が書いた北海道殖民地撰定報文の「緒言」に頼りすぎ、独断的な類推、解釈が生まれた。―ことが考えられる。
また、柳本は寡黙で自己顕示欲が薄く、目立たない性格であったこと、そして同期生の内田瀞、佐藤昌介などが、長く北海道に留まり色々な業績を残しているが、柳本は明治二十九年に台湾に転出しており、資料も少なく柳本と北海道開拓を結び付けることが、薄れていたものと考えられる。
と述べている。
殖民地区画測設と内田瀞
今までは、フラヌ原野の殖民地区画測設に当たった者の氏名は、不明であるとされていたが、北海道開拓記念館所蔵のフラヌ原野区画図(原図)には、測設者の氏名が記載されているほか、新たな資料として明治三十年三月に、当時まだ未開地のままであったフラヌ原野を、内田瀞が訪れて描いた略図がその程発見された。
その資料が発見された経緯は、昭和六十一年八月に内田瀞の子孫である内田健二氏(東京在住)の協力により、開拓記念館の職員が、雨竜郡妹背牛町の旧内田農場(明治二十六年開設)倉庫内に残されていた古い資料を調査整理したところ、彼の残した日誌、野帖、手書き地図などが出てきたものである。
明治二十年、殖民地撰定事業を進めるため主任に内田瀞、柳本通義、福原鉄之輔の三人に任命し、雨竜郡を内田、上川郡を福原、空知郡を柳本が担当して始められた。
翌二十一年に福原鉄之輔が室蘭郡長に転出することになったが、撰定事業の調査範囲を拡大するために、調査隊を三組から十二組へと大幅に増やし、内田と柳本は、十二組の班の監督を務めることとなった。
その後、二十七年十月になって内田瀞が突然休職を命じられ、監督の仕事を柳本一人で勤める事になって多忙を極めた。ところが、今度は柳本通義が台湾総督府に転出する事になり、急遽休職中の内田瀞が復職を命じられて、柳本の仕事を引き継ぐ事になったのである。
内田は復職した二十九年六月から九月にかけて十勝地方へ、十月には北見地方へ出張し、三十年三月にはフラヌ原野に出張している事が、彼の日誌から判明した。
三十年というと十勝フシコベツ原野、北見トコロ原野とともに、フラヌ原野が開放となった年であり、また、小野政衛技師等六人によってフラヌ原野の測設が行われた年である。
これらのことを考え合わせると、内田瀞がフラヌ原野の殖民地事業に携わったのは、明治二十年の殖民地撰定ではなく、三十年のフラヌ原野区画設定事業に深く関わっていたのではないかと推測される。
この時に描いたと思われるものが、手書きの地図「忠別・フラヌ間略図」である。
地図は薄い和紙に墨と朱墨、紺色の墨と三色で措かれており、大きさは縦五十p、横七十p程で美瑛町のオキキナイ川から、富良野市ニシタップ川までの範囲を描いている。
図面は、川と丘を墨の線で、沼地、池は紺色を使い、道路と思われる線を朱墨で描いていることから、未開の地に入る入植者のための、刈分け道路の位置を示す案内図とも考えられる。
図面の中で不思議な事は、未開の地であった原野の中で、コルコニウシュベツ川の横に四角く囲み、「文太郎」という人の名が記載されていることである。他にも三箇所ほど名は無いが、四角い囲みが書かれており、これらは入植予定者が事前に小屋掛けをして、入植準備をしていたか、或いは開放前にすでに、開拓者が住み着いていたのではないかと思われる。
また、当時はフラヌイ川、ヌッカクシフラヌイ川、デボツナイ川、ベベルイ川の下流は沼地になっているが、地図では一本の線で描かれていることから、内田が訪れた三月の時期は、まだ一面が雪に埋もれていたことと、道路と思われる朱線の位置が、十勝岳山麓に近い東側にあり、沼地からは遠く離れていたために、その様子がよく見えなかったのではないかと思われる。
これらの資料は、長い間妹背牛の内田農場倉庫に保管されていたものであるが、今回、開拓記念館の特別の計らいにより、写真に撮らせて頂いた。
基線設定の誤解
フラヌ原野の区画測設に当たり、基線設定の間違いについては、前号でも若干触れているが、このほど新たな資料に基づき、解明して見たい。
旧町史の関係記述を再掲すると
明治二十八年春、札幌農学校の学生であった佐藤昌介氏(後の大学総長)が、伊藤広幾氏をリーダーとする一行十六名の中に加わって、空知川を遡り島ノ下から富間を通って、裏側から清水山の山頂に登ったことがあった。
これは二十九年の区画設定と共に富良野町に学田の設定をみる原因をなしていると思う。
佐藤昌介氏は岩手県人であった、昭和七年の頃大学総長となって富良野町を訪ね県人会を初め、有志の歓迎会で、この時の清水山からの展望を語っていたということである。(中略)
と書かれているが、ここには大きな間違いが記されている。
第一の間違いは、佐藤昌介氏が学長になったのは明治二十四年から昭和五年までであり、明治二十八年の学生、昭和七年の総長ともに間違いである。
第二の間違いは、リーダーの伊藤広幾氏についてである。北大付属図書館北方資料室にある資料によると、伊藤広幾氏は明治二十六年に札幌農学校を卒業し、その後奈井江村に移住しており、二十八年には角田村で農場を開設している。ただ、三十年に札幌農学校農場の監督を委嘱されていることから、この時に農場の監督者として、富良野町の学田農場を訪れたのではないかと推測される。
正しい基線と零号の基点の位置は、柳本が二十年に初めてフラヌ原野に入り、測量の仮基点としたフラヌ川と空知川の合流地点を、三十年の区画測設にそのまま使用したもので、基点から北と東を見通し出来る区画図(「フラヌ原野区画図」その二)の基線〇号の基点図にある基点が正しい位置となっている。
区画測設と番地設定
明治二十九年と三十年に行われたと思われる、フラヌ原野の殖民地区画測設の担当者が、旧町史では不明とであると記載されているが、明治三十一年一月二十二日付「北海道毎日新聞」によると、「フラヌ原野の状況」の中で次のような記事が出ている。
(一部略)面積は殖民地選定時代の測量のため、およそ四千万坪の見込みであったが、その後小野技手の測量によると、四千万坪に達しない面積である。札幌農学校学田地を除いた外は、すべて区画割を施し貸下げする予定である。
農学校学田地は目下小作人を募集中である。
この記事にあるように、フラヌ原野の区画測設にあたった技師は、小野技手であることがわかったがその裏づけとなる「フラヌ原野区画図」の原図が、北海道開拓記念館に保存されている。(別紙原図)
図面によると、フラヌ原野の測設は明治三十年となっており、測者は小野政衛、島數恵、永田安太郎、平尾嘉太郎、村岡乕雄、佐藤誠之助の六名となっている。
区画割の面積は
大画九〇〇間四方    (九〇〇町歩)
中画三〇〇間四方    ( 三〇町歩)
小画一五〇間×一〇〇間 (  五町歩)
で区画割され、基線を中心に東に十一線、西に十二線まで北は三十七号、南に六号までを区画選定している。
線と号の間は夫々三〇〇間とし、それを六区画(一区画五町歩)に分割している。
六区画に分割した地積には線をはさんで〇号から番地をつけ、〇号から一号までを一番から六番までとし、一号から二号までは七番から十二番までと、各線ごとに順番に番号が付けられている。
このため、現在使われている番号は六で割ることによって線号の数字が出てくる。この番地は、住所や本籍地の番号としていまもわずかに使われているが、当時国から貸下げを受け、開墾に成功して土地を登記した折にはこの番地は使われず、検査に合格した順に土地台帳の番号が付けられている。このため後の土地台帳と住所の番地がまちまちになって、混乱を起こす因となっている。
明治二十年に柳本通義を主任に助手一人、測量工夫七人(内アイヌ四人)の総勢九人によって、原始のままであったフラヌ原野の測量が行われ、殖民地として選定された後、明治三十年に内田瀞の監督のもとで、十勝、北見、雨竜とともに富良野の植民地区画測量が行われて開拓の道が開けたのである。
今回の原稿を書くにあたり、北海道開拓記念館の小田島情報サービス課長さん、北海道大学付属図書館北方資料室の山口さんほか、関係者の皆さんにご多忙の中大変お世話になったことを、厚くお礼申し上げます。

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔