郷土をさぐる会トップページ     第17号目次

―かみふらの事始め物語―
上富良野村のごみ焼却場

鈴木  努 昭和九年十月九日生(六十五歳)

はじめに

私たちの町のごみは、戦後では昭和三十年九月十九日に町の清掃条例が制定された頃は、現在の島津球場・島津公園付近(富良野川の河川改修による凹地)での埋め立て処理が行われていた。
昭和四十年代になり、生活が豊かになると共に、捨てるごみの量も多く、捨て場が飽和状態になり、ごみ捨て場付近に保育園(昭和三十九年新築)や民間の住宅が建ち始め、ハエやネズミの大発生で衛生上問題となり、昭和四十五年十二月から、次の捨て場を西二線北二七号富良野川改修跡地(現潟Aラタ工業裏付近)を指定し埋立処理することになった。
この捨て場は当初四十六年五月末までの六ケ月間を予定していたが、次の捨て場の選定が進まず、一年延期となった。
昭和四十七年五月十日からは、東中地区町有林内(東六線北二一号)での埋め立てにより処分されてきた。
しかし、東中の埋め立て可能残余容量も僅かとなったため、町では具体的対策を議会に諮り、これを受けた議会では、平成五年六月二十四日に、一般廃棄物処理対策特別委員会を設けた。
平成六年一月二十一日に、日新地区大沢に新たに十八・四ヘクタールの用地の取得が議決され、公害の無い最新の処分場の整備を早急に行うこととし、平成八年から最終処分場が供用開始された。
さらに、平成十一年四月から焼却施設・リサイクル施設も稼働を開始したので、この年三月末日を以て東中の埋立地は閉鎖された。
その間、平成七年十月一日に、資源ごみとして空きビン・空きカンの分別回収リサイクル事業がスタートしたのに続き、平成九年七月からは分別回収が、空きビン・空きカン・不燃ごみ・乾電池・一般ごみの五種類となった。
日新地区に完成したクリーンセンターは、三つの施設で総工費は二十億円余となっている。
平成十一年二月二十四日の新聞報道によると、「町として始めてのごみ焼却炉に、二十二日火入れ」とあるが、実は上富良野には戦後のごみの埋め立が始まる前に、市街地の中にごみ焼却場があったのである。
十数年間ごみを焼却処理した実績があるが、既刊出版物にこの内容が皆無に等しいので、文末の各氏の協力により、かみふらの事始めの一つとして記録する。
昭和初期の焼却場設置の背景
大正十五年の十勝岳大爆発により、山の中腹の大森林地帯が泥流により押し流されたため、その泥流跡地が絶好のスキースロープとして、広く世に知られるようになった。
冬季スキー客も、北大山岳部の合宿を始め、各地から急増し、村では昭和八年に十勝岳観光協会(会長吉田貞次郎―村長―)を発足し、十勝岳には同年二月に道庁林務課主管により山小屋「白銀荘」が、続いて翌九年に村費で勝岳荘が建てられ、かつその年十勝岳連峰を含む大雪山国立公園が指定され、四季を通じて観光客の誘致活動が活発になった。
当時美瑛町の白金温泉がまだ出来ていない時代(昭和二十五年十二月二十七日開業)であり、美瑛地区の温泉であった丸谷温泉が泥流で流れて泉源も無くなっていたので、十勝岳への玄関口は上富良野駅がただ一つであり、昭和三年から吹上温泉に小型自動車が、昭和八年からは乗合バスが営業運行した。
一方、昭和五年七月二十三日駅前近沢運送店の空き家からの出火で駅を含む十五棟・二十戸が全焼、三年後の昭和八年六月六日に駅前カフェー○竹二階より出火し、駅を含む十三棟・十四戸を焼失した大火があって、いずれも放火という事件があった。
更に当時の衛生面では、結核患者も多く、腸チブス・赤痢も心配される時代で、大正十四年に建てられた伝染病隔離病舎に入れられることは、火葬場に入れられるように恐れられた時代であった。
これらの世情から、市街地内の観光美化・清掃・防火意識の機運が高まり設置に至ったものと考えられる。
焼却場の場所
島津農場の所有地であった現栄町三丁目三番地「木全樋門・越智建設作業場」付近に、二反歩の貸付を受けて、市街地衛生組合(組合長 高畠正男)が、昭和七年頃にごみ捨て場とごみ焼き場を設置した。
この付近は、大正九年十月創業開始したが、工場用水の水質が非常に悪く、大正十三年八月に閉鎖した東洋製麻鰹纒x良野亜麻工場の浸水場があった地区で、大正十五年五月二十四日の十勝岳大爆発の災害により、泥流が堆積したため、一帯が平らになって、酸性が強く作物は育たず、ところどころに「ブタノケ」様の雑草が生えており、放置されていた。
平らで広い場所は、野球好きな若者等が、野球グランドとして利用していて、ある年には駅から優勝旗を閃(ひらめ)かし富良野沿線の野球大会も開催した。
昭和十四年まで、焼却場の直ぐ南隣に住んでいた石崎浜子(旧姓高橋)によると、この付近は泥流流木も多くこれを拾って燃料用の薪にし、土地は作物が出来るようにするため、八百屋がごみ置き場に投げた林檎箱や籾糠を集めてきて燃やし、その灰を畑に撒いて何年かしてやっと、食べるものが出来るようになったという。
また、家の回りの野菜畑を起こすと、泥流で流れてきたお椀や皿、牛馬の骨が出て来た事もあったという。
ごみ焼却場のあらまし
当時のこのごみ焼却場は、木造・一部二階建で、壁は板張り、屋根は波トタン葺で、建坪は三間×六間(約五・五メートル×十・九メートル)で、十八坪(紛六十u)であった。
焼却炉は煉瓦造りで、直径約一間(一・八二メートル)で深さ二間(三・六メートル)、煙突は鋼管製で長さは六間(十メートル)あり、中間二カ所を地上から針金で三方に固定していた。
昭和十年頃ほぼ全焼に近い火災に逢い、骨組は残ったが、再建された。
焼却炉上部投入口までのごみ搬入桟橋は、長さ五間(約九メートル)の木造で、支柱四カ所は丸太造りであった。尚、煙突は戦時中の昭和十八年頃に、鋼管から煉瓦造りに改造された。
ごみ焼却場の管理人
ごみ焼却場の管理人は、最初は小木曽久太郎であった。
小木曽は、樺太で火災にあったため引き揚げてきて、年老いた母親と二人暮らしで仕事を捜していたとき、衛生組合長の高畠正男から依頼されて、昭和十四年頃まで携わったが、その後は当時現栄町二丁目二番で古物商を営んでいた中條與七(姓の「中」の字は入植時の木簡は「仲」であり、戸籍簿では両方使われているが、現在の子孫は「中」であるので本文は中條とする)が閉鎖するまで当たっていた。
管理賃金は特に支払われる事はなく、仕分けした雑品など(空ビン・缶類・金属片・焼却灰)の販売代金により生計を立てていたようである。
中條與七は、明治三十一年六月に十歳のとき、家族五人で、父與吉に連れられて三重県伊勢国鈴鹿郡能登村大字辺法寺より、上富良野三重団体西三線百六十八番地未開地に入地した。
父與吉はそれまで三代に亘って、帯刀(大刀・小刀・脇差)を許された三重の伊勢神官で、仕置場に係わる仕事をしていた。
翌明治三十二年に兄の甚吉が二十二歳で石狩札幌第七師団に入隊した。
その年、父與吉は、耕地面積を広く貰える中富良野に移住したが、その後は上川郡東旭川村下五号線三十一番地、上川郡永山村九百七拾弐番地、上川郡旭川町二条通十三丁目、虻田郡辣弁辺村などを転々と居を移した後、再び中富良野に戻り、與吉は中富良野東三線北十六号で他界した。
中條與七(明治二十二年十二月二十五日生、昭和三十三年十月二日没、享年七十歳)は、大正二年旭川村のリウと結婚し、翌年長男義勝が生れ六男三女をもうけ、上富良野での最初の住まいは、現栄町二丁目一番、小林商店の処で吉田貞次郎から借りていた。
毎月借家賃を現上富良野町農協金融部の処にあった、○三吉田雑貨店(吉田吉之輔の経営で、消防団の組頭もした。吉田貞次郎の弟)に子供が支払いに行かされたが、支払いが遅れた時などは、「焼酎を飲む金があれば早く支払えと親父に言っとけ」と冗談半分で言われた事もあった。
当初、指し物大工や桶造りをやり、後に古物商を営んだがその間棺桶も作り、四華花(死花花・死華花とも言う)作りもしたが、身内の者から「人が苦しむ時に、喜ぶような仕事をしていては長生きできない」などと苦情を言われて、古物商だけをやるようになった。
しかし、当時の葬祭用具は現在のように専門業者が全て納品するのではなく、大工建築屋や馬車屋などを営みながら注文があれば、棺・七本仏・塔婆・骨箱・位牌・蝋燭立・提灯なども手掛けて納品していたし、農家の地域では実行組合の中の大工気のある者が、板など材料を買ってきて作った。
棺桶などを作った者には、代金のほかに道具を清めてくれと、必ず酒一升が振舞われるしきたりになっていた。
十勝岳大爆発泥流の埋没地域からは、数年に亘って行方不明の遺体が出たが、近くの商店に電話(昭和初期には村内の電話は五七戸しか無かった)で、何線何号に死体が揚がったからと、棺桶の注文があると與七が作り、四男の浩などが大八車で配達したが、同級生などに会うのが、恥ずかしくて嫌だった様であった。
棺桶は現在のような寝棺でなく、ほとんど座棺で寸法は一・四尺×一・四尺×三・四尺(約四二センチ×四二センチ×一・〇三メートル)で、四(シ・死)の数字が付いていた。
ごみ搬入と分別焼却処理
ごみは村民が各自、リヤカーや大八車で持ち込んだが、生ごみは市街のいたる処で内職として豚を飼育していたため、残飯などは裏口の一斗缶(十八リットル)に入れておけば奇麗に集めて行き、余程不要のものしか投げには行かなかった。
昭和二十六年八月一日に、町制が施行されてからは、衛生的見地から、市街地の中での家畜飼育は禁止となり、徐々に、街の中の副業養豚は姿を消していった。
中條與七は、ごみをビン・衣類・鉄類などに分類して古物で販売したが、焼却するためには急傾斜の桟橋をリヤカーを押して運ばねばならないし、黒くなったマスクをして焼却灰を「とおしがけ」をしていたので、與七の子供たちは身体に悪いし、ごみ置き場周辺は蚤(ノミ)が多くて近付くのも嫌な処だったので、早く止めて欲しいと思っていたという。
昭和十二年に日中戦争が始まり、年々激しくなって国内経済の統制も強化され、あらゆる物資は枯渇していた。
軍馬の徴用はもとより、「金属並びに陶器類回収」の通達により、火箸、五徳(火ばちなどの中に置きやかん等をのせる鉄輪)などの生活必需品を始め、かんざし、帯止め、指輪までも出さざるを得なかった。
釘も支給申請して、大工業組合を通じての配給制となったため、廃材に刺さっている釘は子供等に抜かせて、一本一本金槌で叩いて延ばして建設業者に売ったし、ごみを焼いた灰をとおし(篩(ふるい))でふるった後に出た焼け釘でさえも売ることができたし、ときには焼けた一銭銅貨が出ることもあった。
焼却した灰は、古叺(かます)などに入れて農家に売っていたようであるが、上富良野信用購買販売利用組合の肥料売却実績の中にも、焼却灰の取扱いがあり、昭和七年は二五〇袋、十一円(一袋四・四銭)、昭和八年は四八九〇袋、一九四円二十銭(一袋、一・九銭)、昭和九年は三一三〇袋、四六円三五銭(一袋、一・五銭)、昭和十年は一〇六〇袋、十五円九十銭(一袋、一・五銭)とあり、このごみ焼却場での灰を扱ったものと思われる。
焼却当初は、散乱していた泥流木廃材などを処理していたため、灰の量が多かったようである。
その後、組合では石灰の取扱いがこれに代わり、焼却灰の取扱いは無くなった。
昭和十六年十二月八日に大東亜戦争に突入し、村役場事務も戦時体制になった。
衣類については、昭和十七年より「点数切符制」が始まり、捨てられたものや、肺病・その他伝染性の病人が亡くなって、連絡があって引き取った物も、メリンスと、木綿に仕分けして梱包された。
木綿は、軍事兵器工場などに「ウェス」として、いくらでも売れたし、メリンスは更に高く処分できた。
蚊帳の四隅に付いていた真鍮の輪や、プラウの鉄部分などは普通の五倍位に売れた。
焼却炉には改造したリヤカーで運び上げ、炉に投入したが、ごみを運んでくる村民は與七が指示した処まで中々運び込まず、夜などは五丁目橋の付近に投げて行く者がありよく怒っていたが、ごみ投げ場の中はノミやネズミが多く異臭があったので、中まで入りたがらないのも当然であった。
戦後になり昭和二十八年に、汚物処理法に基く衛生班設置と併せてこのごみ捨て場・焼却場は整理閉鎖された。
與七は、昭和二十九年、仕事もなくなり身体も弱っていたので、富良野の名取醤油屋の桶職人を止めて、しめに美瑛駅前丸山通りで〆二「中條魚や」をしていた四男浩夫妻の家に同居した。
まもなく與七たちは上富良野駅の沢田便利屋跡に転居し、大衆食堂・パチンコホール(最初はスマートボール)「新世界」を開業した。
與七は同浩夫妻から毎月決まった小遣いを貰いながら余生を送っていたが、上富良野町立病院が開業した昭和三十三年の八月に倒れて中風となり、同年十月二日に他界(享年七十歳)した。
焼却場近辺の余談
連れ添いの中條リウ(昭和五十年九月八日没、享年八十二歳)も一緒に働いていて、旦那の與七は大きな声は出さない仏さんの様な人だったが、リウは中々のしっかり者で、ごみ投げに行った人に下ろし場所を喧(やかま)しく指示していたし、火鋏を持ってごみの仕分けもやっていて、針仕事も達者で、履いている足袋なども刺子の様に丈夫にして辛抱していた。
自分の女の子には、表通りの馬糞拾いをさせ家の軒下に置いているりんご箱に集めておき、堆肥造りをしたが、子供たちは恥ずかしくて夜暗いときや人通りの無いときを見計らって拾った。
與七が指し物大工をしている頃は、一服休みが多く手間暇のかかる割に金にならず、指し物大工にはわが娘は絶対に嫁にやらないと話していた。
そして朝は四時には畑に出ていたし、焼却場周辺の堤防用地や、向かいの富良野川に人がやっと通れる吊り橋を作り、川向かいの堤防も畑地に耕していた。
この堤防利用の畑は、近所の食べ盛りの子を持つ者達(筆者の親もお世話になった)にも貸し与えてとうきび・芋(いも)・南瓜(カボチャ)・野菜類を作らせていて、近所のガキ(子どもら)が畑に入ろうものなら、目から火が出るほどに怒鳴られたものであるが、焼却場に分別して保管してある金になる物(現中町二「駅前弁当」の所にあった高橋古物商で買ってくれた)がコソドロされる影響があったようである。
リウはこの吊り橋から落ちて怪我をしたこともあったが、この橋は大雨の時流されてしまった。
この吊り橋は越智正一が施工設置したが、幹線のワイヤーは、山本木工場で取り替えた古ワイヤーと、手すりや踏み板押さえの鉄線は、北電の電柱控え取り替え鉄線を利用して三日間で造った。
リウは、焼却場が無くなった後は、ひとり暮らしで二匹の猫を可愛がり、野菜作りや、オンコ(いちい)の苗作りに生きがいを感じていた様子で、畑の雑草、特に「貧乏草」はこれが一番悪い草だといって、鉄鍋で煮て、ときには、型紙で裁断して作った足袋の端切れも細かく鋏で切って一緒に鍋で煮て堆肥にしていた。堤防の草も根に土が付いたまま堆肥に積込み、畑を肥沃にしていたので、どの作物も立派な出来だった。
焼却場は富良野川堤防縁の、コルコニウシュベツ川の合流地点にあり、大きな鳥貝(からすがい)・ザリガニ・ウグイもいて水量も今より多く、付近の子供等が水泳したりする通り道で、畑を踏みつけたりして大変であった。
焼却場の南隣には、付近のガキから「赤目じいさん」と言われた男三代の三人が住んでいて、赤目じいさんは読み書きもできる頭の良い人で、焼却場が出来る前、窪地に捨てられるゴミを漁(あさ)って生活の足(た)しにしていた。その息子は荒地の反(たん)起こしなどをしていたが、お金の勘定も解らない人で長続きはせず、知的障害のある孫と共に、入口には汚い筵(むしろ)を下げた、酷い生活をしていたが、大雄寺の滝本おばあちゃんが時々あがりものの菓子などを与えていたのをよく見かけたし、畑中豆腐屋ではおからを持って行くのを自由にさせていた。
付近の子供等からは恐れられていて、泣き止まなかったり、言う事を聞かなかったりした時など、親から「赤目じいさんが来るぞ」と威(おど)かされた。
昭和十年頃の大雄寺の裏の白樺は、人の背丈程しかなくぼりぼり茸(ナラタケ)の宝庫であった。
また、近くの沼田セツの男の子供が富良野川に流されたことがあった。
消防団員等が必死に捜していた折、ある人が戸板に鶏を繋いで乗せて流していたのを見たが、それは流れた人のそばに近づくと、鶏が鳴きだすとの言い伝えであった。
結局は富良野で見つかったという痛ましい水難事故であった。
写真は、昭和二十六年夏に焼却場の東側から筆者が撮ったもので、ごみに捨てられていたスキーを中條リウより貰って遊んだ鈴木徳郎(筆者の弟)である。
その後のごみ処理
先にもふれたが、昭和二十八年にごみ焼却場が整理処分された後は、昭和三十年の自衛隊の移駐により、人口が急激に増加したため、市街地を特別清掃地域に指定した。
町では、特にハエや蚊など伝染病の発生源を一掃するため、九月十九日に清掃条例を制定し、汚物の種類別収集・処分方法・手数料負担などを明らかにした。
昭和三十一年から町内会・衛生組合・排水組合などが拠出して、約五年間、三台の馬車でごみ集めをして上富良野橋付近の河川切り替え低地に埋め立て処理をした。
昭和三十六年からは町役場が町内会に貸し与えた専属の小型トラックを利用するようになり、昭和四十年に町役場が中心になり町公衆衛生協会をつくり、専用のごみ収集車・ロータリーローダーを導入し定期的に収集し、埋め立て処理するようになったのである。
冒頭にも記したが、西富区(現在の富町一丁目島津公園及び島津球場付近)のごみ捨て場は、昭和四十四年春ころには飽和状態となり、町では適当な捨て場の選定に奔走したがなかなか見つからず、次々に運び込まれるごみの山を減らすため、ごみを野積みのまま焼却処分することに踏切り、昭和四十四年五月下旬消防署員の協力監視のもとに、火入れをして焼却処理したが、煙が市街中に立ちこめ、多くの住民から苦情が出たが、状況を理解してもらい協力頂いた。
衛生上の問題でも、保健所や付近の民家より多量のハエが施設や家の中に入ってくるとの苦情が絶えず、苦肉の策で殺虫剤の散布を行うことになり、散布する範囲が広いため、散水車のタンクに殺虫乳剤を注ぎ入れ撹拌希釈し、それを可搬動力ポンプのホースで散布した。この薬剤散布は、秋まで二、三回行われた。
また、このごみ捨て場で昭和四十四年から四十六年にかけて、原因不明の火災が四件起きているが他に延焼することなく消し止められている。
昭和四十七年五月東中地区に捨て場が移ってからも、何度か火災が発生しているほか、捨て場に行く途中にごみを捨てる者があったり、雪解け水や雨水の浸透により汚水が鯵み出し、下流地域が谷川の水を家畜に与えたり、器具類などの洗い水に利用している農家から苦情が出され、簡易水道施設の設置を行うなどの改善策が講じられた。
(この項は当時の町民生課長成田政一より聴取したものである)
産業廃棄物の処理
昭和五十年代になって、一般ごみと一緒に産業廃棄物(建築、土建業廃材など)をごみ捨て場に捨てることが出来なくなり、事業者個々での対応が困難になり、昭和五十三年四月に上富良野建設業協会(二十社・会長 荒田裕昭)が町の助成を受け、江花の吉田藤雄所有の沢地約四千uに処分場を設け、八年四カ月間使用した後、覆土地ならしし農地に造成した。
その後「産業廃棄物の処理及び清掃に関する法律」に基づき、昭和六十一年八月一日から平成二年十二月まで、草分の内田登、山崎勇治、上村勇ら所有沢地に投棄埋め立てし、平成三年四月からは江花の武田地先伊藤忠所有地で処理していたが、同年十二月町長から法律に抵触する土地との指摘により、ここは閉鎖した。
平成四年二月二十一日に協会会員二十一社が「旧嚼ン廃材中間処理センター」を設立し、西十三線北三十四号(里仁地区)に処理場として原野二万八千uを借入れ、同年五月から投棄処理していたが、同年十月末富良野保健所から「旧法適用除外」を通告され、ここも閉鎖した。
協会では他町村とも連携し、その年十一月適法なる処分場を山部地区に計画し、平成五年五月二十六日道知事の許可を受け、同年七月二十八日より廃棄物処理事業を開始し現在に至っている。
(この産業廃棄物の項は、平成十一年発行の建設業協会創立四十周年記念誌より抜粋したものである)
≪取材に協力頂いた方(五十音順・敬称略)≫
一  色武(大町)     石崎 浜子(旭川)   岡本 文子(栄町)
越智 正一・サキ(栄町) 加藤 輝子(宮町)   久保 榮司(本町)
沢田八重子(旭川)    中條キヨコ(錦町)   中條 浩・ヨシエ(札幌)
成田 政一(新町)     畑中  正(栄町)   藤田 富子(宮町)
松本 シゲ(栄町)

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔