郷土をさぐる会トップページ     第17号目次

―演習場に関する余談(2)―
演習場での諸々について

大森  明 昭和五年一月五日生(七十歳)

◎ はじめに
前十六号では、自衛隊の演習行動に起因して発生した障害事項について、現代社会では、想像を絶する未整備法体制当時の環境条件のなかで、関係住民が数多くの苦痛と犠牲に耐えてこられた事実について、概要を紹介させて戴いた。
この度の、余談(2)については、現代の豊富な物量社会と、法治国家の国民として、遵法精神の定着した現代社会の常識からは、とても想像することが困難と思われる事案が繰り返されていた。
星霜四十有余年前、敗戦国日本の復興途上の時代とはいえ、上富良野演習場を舞台に、多種、多様な不法行為が繰り返えされていた。
法を軽視する傾向者のいた当時、生きるための手段行為として、糾弾し難い時代的な背景もあって、やる人、やられる立場にある側、共に心を痛めたものであった。
今となっては、過ぎた昔の笑い話のようなものであるかもしれない。
また、過去にあった大きな問題についても、事実を覆っていた事について、紹介をしたい。
そのような理由から、首題のとおり、問題を特定せず、演習場供用当時の頻繁な問題惹起の一部と、過去に於て、ニュース性の高かった問題の事実等についても、断片的ではあるが触れてみたい。
そんな事、あんな事もあったのかと、ご笑読ください。
以下、十項に区分して、述べさせて戴きます。
一、町営による弾着区域の廃弾回収作業
昭和三十三年から、三十五年頃の鉄屑価格は、一貫目(約四キログラム)五十余円という高値の時代であった。
これがためか、演習場近傍の人、市街地の人達が休祭日、或いは実弾射撃のない日を想定して、弾着区域内に、無断で忍び込み、砲弾の破片を拾い集めて、運び出す極めて危険な行為が頻繁に行なわれていた。
時には、満月の夜など、月明かりを利用して立入る者、或いは実弾射撃の当日、早朝からの立入る者を発見したため、部隊の射撃開始時間が大幅に遅れること等、大変な騒ぎとなったこともあった。
更には、知能的な立入り者がいて、古物業者から買い求めた自衛官の戦闘服装、上下一式を着装して、休祭日には悠々と弾着区域内で砲弾の破片を拾い集めていた。警戒巡察を強化して観測用望楼から双眼鏡で監視当初は、自衛隊員が射撃のための目標設置作業かと錯覚させられたこともあった。
また、極めて危険な行為として、特科の一〇五ミリ榴弾の不発弾を持ち出して、旭野川に浸して火薬を湿らせて信管を外し、売り捌こうとしていた事件もあった。
以上のように、危険な弾着区域内への侵入行為は、自衛隊の射撃訓練以前の問題で、町民の人命に係わる重大な事案であったのである。
斯のような無断立入りに伴う人身事故の絶無を期するため、駐屯地と上富良野町が協議を重ねた結果、廃弾を上富良野町に払い下げる契約を締結し、町の直営事業として、廃弾回収作業を実施することにしたのである。
然し、町が直轄事業として実施したのは、三十三年五月から三十四年六月までの一年間であった。
町は、町職員と公用車の一日間、現地張りつけに問題がある、とのことから、三十四年七月以降の回収作業の実施については、町が委託をする上富良野町廃弾処理組合を組織した。
組合長には、西村又一氏が推挙され、同時に町役場嘱託職員の山川義春氏が専従した。
西村又一氏が、廃弾回収作業の着手に当っては、作業直前に必ず現地の中央部に於て、作業員を横隊整列させ、業務隊が貸与する黄色の安全ヘルメットを着帽させ、部隊側の安全教育、町役場側の注意事項等、各説明の後、かつての大木の根元だけが残っている箇所を、安全祈願の神様に見立て、一升の神かしわで酒を供え、全員が西村組合長に合せて拍手を響かせて参拝をし、その日の無事を祈願して回収作業に着手したのであった。
西村組合長、山川嘱託職員の厳格な指導と監督態度には常に敬意を表していた。
組合員は、旭野・東中・市街地の人達であった。
作業着手前には、危険と思われる形のもの等は絶対に手や足を触れないように注意を喚起していても、鉄と異る砲金やアルミ片等は高価なために、どうしても手や足を触れたくなるのが人情、一人は、踵で蹴る等で踵部を裂傷。一人は、右手で掴み、付着土を落とすため石に叩いたところ破裂して指三木損失を負う等の傷害事故もあった。二名の傷害事故は、いずれも十五秒延期雷管という小さな不発弾であった、去る日、指三木を損失したSさんと、四十年振りでお逢いし、右手の状態を拝見して、あの時代の制度とはいえ何の補償もなかった哀れさを感じさせられた。
今の時代、団体でパークゴルフの大会に参加する場合でも傷害保険を掛けてから行動する、大砲の不発弾が存在する最も危険な弾着区域の中で、弾薬の処理技術をも有していない素人集団が数日間も続けて弾片回収作業を実施したあの時代、金のために命をかけた作業でもあった、といえるかもしれない。
一部の無断立入り者の事故防止対策が発端で始めた事業ではあったが、爆発死亡等の重大事故がなかったこと等、今、新らためて時代の措置とはいえ不解な念去り難い。
その後、鉄屑は、昭和三十五年以降値下りが続き、回収作業も漸減傾向から、昭和三十六年六月十八日を最後に、廃弾回収作業は終業した。
以後、市街地の一部の人と、中学生の数名が数回培本部落に隣接する基本射撃場の小銃弾丸(廃弾)を拾いに無断立入りをしたが、以後、この種事案は皆無となっている。
近年は、夜の八時に、防災無線から爽やかなアナウンサーによる射撃訓練の放送を聞きながら、部隊も今では何等の懸念もなく実射訓練を実施していることであろう―。
休祭日を返上して、潜入者の監視を強化した者として、また、射撃通報業務を最初に企画担任した者の立場から、忘れ得ない危険な管理業務の一つとして紹介をさせて戴いた。
廃弾回収業務を担任された故西村又一組合長を初め、町役場の担当者として、三原健吾・小松信幸・三島五二次・三上孝人・山川義春以上、各故人のご苦労を偲び、ご冥福をお祈り申し上げるものであります。
二、温床用床土と客土用腐植土採取
昭和三十三年当時、水稲の苗を育成する温床用の床土として、演習場内から立退いた旧農耕跡地の土が最適土壌であったためか、泥炭地水田耕作者の一部の人達ではあったが、箱馬橇・箱バチを仕立てた馬が七頭、十頭と連らねて演習場内から無断で土砂を採取していた。
主な土取場として、中の沢奥地・日の出二十六号奥地・富原第一安井奥地・東中十九号、二十号奥地等であった。
頻繁に潜入する水田農民の心情は十分に理解できるが、国有財産の管理責任を有する立場から、放置することは、国有財産法の定めから許されない。
上富良野・中富良野の両町役場に実態を伝え、注意の喚起を要望した。
その後、両町長から各地区の境界付近から採土許可申請書の提出を受け、検討の結果、境界線の起伏地形(穴地等)を整備する、という名目で許可を与え、毎年十二月から三月中旬頃までの間、温床用床土として随分多くの水田農家に採土搬出をさせた。
以後、土壌改良技術の進歩等のためか、近傍農民による採土行為は、三十六年十二月二十八日を最後に皆無の状況となった。
水田農家の苗造りも、当時の紙貼り油引きの障子から、今の大規模な鉄枠ビニール覆いのハウス苗床と比較して隔世の感大きなものがある。
当時、防衛庁、或いは周辺に気嫌ねしながら無断で侵入採土した人びとの心情を察するとき、当時の復雑な苦しかった思い出がこみあげてくる。
上富良野町長・中富良野町長が早々に、深く陳謝に来隊されたお姿も眼に浮かんでくる。
また、三十三年一月から三十六年十二月までの間、土取り問題で、農民に代って、お詫びやら採土の許可申請のため、陳情交渉に当られた上富良野町役場の村本喜八氏・中富良野町役場の久保田哲男氏の心情を深く察するに余りあるものがあると共に、当時のお二人に深く敬意を表している。
三、家畜飼料と堆肥用雑草の刈り取り
前記の温床用床土を採取した同じ年代の時期で、機械化以前の農業経営は総て馬が主で、一戸で二頭飼育していた農家は数多かった。また、農外副収入と健康管理向上の為に、乳牛・山羊・緬羊・豚等、多種多様に家畜を飼育していた。
畑作農家は、家畜飼料用の牧草畑を作っていたが、水田農家の人びとは、家畜飼料、緑肥用の雑草等は総て水田の畦草・用水路沿い或いは河川・道路沿いの雑草を刈取り利用し、大変な苦労をされていた。
そのような状態にあった当時、水田農家の人達にとって演習場内に繁茂している緑濃い赤クローバや軟かい雑草を採取したくなるのは誰れしもが同じく欲する人情であった。
今日のように、町民と行政が親しく気軽に何でも対話相談のでき得る体制ではなかった当時、町役場を経由することもなく、無断立入り採草することの違法行為は十分承知のうえで、随分多くの人達が、飼料用・緑肥用にと人目を忍んで立入り採草を重ねたものであった。
そのような農民の心情は十分理解しながらも、国有地内である限り、雑草と雖(いえど)も国有財産の副産物として管理をしなければならない立場から、上富良野・中富良野の両町に、無断立入り絶無の指導をお願い申し上げたところ、両町長から、今後、町が責任をもって指導を徹底する、採取条件等は総て厳守させるので雑草採取を許可して戴きたい、との申請を受け、演習場境界地域整備の一環として採草を許可した。以来、毎年度継続して雑草刈取り作業を実施させたものであった。
四十有余年前の一つの出来ごととして記述させて戴いておりますが、殆んどの農家は既に代替りの今、後継者には容易に理解できない問題であろうと思っている。無断採草及び町長申請による許可採取地域は、旭野・中の沢・日の出(北二十六号奥地)・富原・培本等であり、採草年次は、三十三年七月から三十六年七月まで毎年採草していた。
以上のように、当時は家畜の飼料と併せ緑肥造りのためには、危険な演習場の中に、不法侵入しながらでも採草していた農民の根性と、現代農業者の、有機農業・堆肥、緑肥だと訴えているが、収穫後の稲藁・麦から・豆からを焼却している状況を見るとき、四十有余年前の農民の緑肥、堆肥造りに精魂を傾注された百姓魂を想い起こされてくるのである。
現代農業を知らない私は、当時の無断立入り採草していた熱心な農民の根性を想い、過ぎた事案の一つとして紹介をしておきたい。
四、その他、無断立入り問題
(一)立木の無断伐採搬出と、立木伐採現場での束薪つくり。
(二)境界付近で燕麦耕作、二か所。
(三)買収補償金支払い済みの、針葉樹・広葉樹の伐採搬出
以上、あの時代に公然と行なわれていた違法事案の概要について、該当した人達の心情を十分に理解しながらも、演習場供用時代、一つの歴史として敢えて記述しておきます。
五、演習場火災と防災林の消滅
演習場火災の始まりは、昭和三十一年四月二十五日、二十六日の二日間にわたる延焼が始まりで、続いて、六月五日、同じ地域内から発生した火災により、併せて焼失した範囲は、北は旭野川・南はカラ川南方約一二〇〇メートルの見晴道路までの間であった。
この二回、三日間の火災で、ヌツカクシフラノ川及びベベルイ川流域に残置した防災林(水源涵養林)の殆んどの面積を含めて、九一〇ヘクタールの天然樹林を消滅した。
この火災原因について、調査の結果、不明となっている。その理由として当日は、旧山林所有者等が立木の期限内伐採搬出のため、多勢立入り作業中であり、煙草の火か、自衛隊側なのか、断定することが困難であったためのようだ。
続いて、三回目の大きな火災は、昭和三十三年五月二十三日、当時の演習場南西端部の境界で民有地の造林のため笹焼きを実施した後の残り火が燃え出して演習場に延焼したものであった。
この火災でベベルイ高地(海抜五一六・五米)周辺に残置した防災林(防風林)立木の殆んどを含めて約一五二ヘクタールの天然樹林を焼失した。
更に、四回目の大きな火災は、昭和三十八年五月十一日、二師団計画による戦闘射撃訓練場の笹焼き作業実施中の飛火によるものである。
当日は、培本地区特有の極地風が発生して、笹焼き現地から約二〇〇メートル南方に飛火したものであった。
この日の火災で、三十三年五月二十三日の貰い火の火災で焼け残った防風林の殆んどの面積と、国有林六十ヘクタールを含めて、四二〇ヘクタールの天然樹林を焼失した。
このように、四回の大きな火災によって、演習場売買時、関係者の強い要望によって残置した、主要河川流域の水源涵養林と、ベベルイ高地周辺に残置した防風林の殆んどが焼失したのである。
以上、演習場火災のうち特に大きな四回について紹介をしたが、演習場という特性から、使用する弾薬・化学加工品等により、射撃実施中の火災と、気象条件によっては、既に撃ち込んだ黄燐発煙弾等による自然発火等が絶えることなく発生していたのであった。
このような火災を防止する対策として、弾着区域と、戦闘射撃訓練場は徹底して笹焼きを実施することにした。
然し、五月という乾燥の月は、上川支庁管内に於て、無煙期間と定めており、一般の造林地等、笹焼き作業は禁止する月となっている。
このような定めの中で、第二師団管内の各部隊は、年度訓練の基準目標達成のためには、どうしても五月中に、演習場の訓練環境の整備を完成して、各種の訓練に入らなければならない。
以上のような自衛隊側の訓練計画と併せて、笹焼き実施当日の強力な消防体制(ヘリコプターによる上空からの飛火監視と火災時の上空よりの消火・戦車張付けによる火災時の機動力強化)について、関係市長・町長・営林署長・山火予消防組合等に説明をして、その同意を受け、毎年五月の連休日の前後に、笹焼きを実施して射撃訓練による火災発生の防止に努めてきた。
更に、徹底した演習場火災を防止する対策として、自然発火の原因となる黄燐発煙弾の使用については、降雨日・積雪時期の使用を禁止とし、小火器による曳光弾・徹甲焼夷弾等についても、枯草や、気象条件による使用を規制した。
以来、このような規制事項を規則化してから、演習場火災は皆無の状況に維持されている。
六、演習場の大火災と迎え火の効果
昭和三十八年五月十一日発生した山林火災は、消防自動車の進入不可能地であり、猛威火勢は、隊力による人海戦術では手の施しようがない状況に陥ち入っていた。
火災発生の原因は、第二師団計画による、第二特科連隊が担任した戦闘射撃訓練場の笹焼き実施中の飛火によるものであった。
この日も、笹焼き作業実施中、培本地区特有の吹き降ろし風と、吹き上げ風による極地風が発生した。
火災現場は、更に火災風の煽りで火勢は益々猛威を振ってくる。
火災当日、上富良野駐屯地の高杉恭自司令は、北部方面総監部に出張不在中で、火災現地で消火指揮を執ったのは、第四特科群の藤井副群長であった。
私はこの日、第二師団計画による第二特科連隊が担任する戦闘射撃訓練場の笹焼き作業と、第四特科群が担任する弾着区域の笹焼き状況を掌握するためこの二か所を往来していた。
弾着区域の笹焼き状況を立会観察中、二特連の飛火、火災発生の無線が入り、急拠火災現地に急行した。
二特連の隊員は、計画した笹焼現地の消火と併せ火災の後方部から火を追うように、生木の枝で夢中になって叩いて消火に努めていた。
然し、火勢は徐々にではあったが猛威を振るいつつあり、隊員の手による叩き消火では消し止めることは不可能と判断した私は、白樺峠で消火の全般指揮を執っている藤井副群長に対して、次のような意見を強く具申した。
一、隊員による人海戦術では、消火不可能である。
二、現状火勢方向では民有林へ延焼する、国有林なら国同志、話し合い
  で何とかなる、民有林地への延焼は絶対に阻止してもらいたい。
三、大きな山林火災は、降雨による自然消火か、迎え火以外に消火方法
  がない。
現状取るべき手段は、南方約一〇〇〇メートルの基線道路から、迎え火を点火することを、強く意見として具申したのであった。
然し、副群長を補佐する幕僚も、大隊長も、迎え火失敗の火災拡大を恐れ、同意する者はなし、副群長も、なかなか迎え火の決心をしてくれない。
火勢は、徐々に強くなる状況から、私は、声を大に語気も強く、一刻も早やい迎え火点火の決心を副群長に迫ったのであった。
声も荒く真剣に迎え火を訴える私の強引な具申に対し、あの頑固な気性の強い藤井副群長も遂に迎え火点火の決心をされた。
君に、二個大隊を任せる、頼む、と言われた。
私は、二人の大隊長に対し、延焼方向一〇〇〇メートルの基線道路を防火帯として迎え火点火の教唆をして、基線道路に急行した。
然し、火の勢が愈々早いため、多勢の隊員を基線道路に配列して迎え火を点火させることは困難と判断、点火位置を更に南方一〇〇〇メートルの南二線道路に変更する旨、二人の大隊長に決心変更の示唆を述べ、その同意を得て、南二線道路に二個大隊を先導した。
以後、隊員の配列、笹刈り、点火等は総て二人の大隊長の判断実行に頼ったのである。
現地の南二線道路には、駐屯地から馳けつけた業務隊長の中楠二佐と管理科長の青竹三佐が延焼状況を視認していた。
私は迎え火実行の説明報告をしたところ、二人は口を揃えて、迎え火というのは大変危険なことだ、失敗すると更に火災が拡大することになる、迎え火なんか止めた方がいいよ、との回答。
日頃、あの気丈頑強な藤井副群長から二個大隊を任かされ、迎え火以外、総て聞き入れることのできなかった私は、瞬間「カッ」となり、己れの上司である業務隊長に対して、この火災を隊力によって消火できると思っているのか!!声も荒く独り激怒して国有林との境界防火帯上を火に向って進み、延焼してくる状況を監視しながら北上していた。
ふと、後方を振り向いたとき、迎え火の煙が数か所から立ち上りはじめていた。
瞬間、ヤア一大隊長やってくれた、有難う!!と黒煙覆いかぶさる山林の中で独り声を挙げて喜び、叫びたい感動のひと刻であった。
朝から小休憩もなく、昼食も当らず孤軍奮闘以来初めてその場に腰をおろした。
迎え火は徐々に火勢を拡大してきた。私は、双方からの火煙に挟みうちの危険に追われるように、岩石・岩盤の防火帯を東二線道路へと避難後過した。
迎え火の点火地点をよく見ると、南二線道路に沿って約十メートルから十五メートル幅で笹を刈って点火した形跡が燃え跡の中から判断された。
迎え火は、約二〇〇メートル火災に向って撃突し、大きな火柱を上げて火災は鎮火した。
迎え火は確実に成功したのだ。迎え火の経験のない私の強引な意見具申は成功した、吾れながら何とも言いようのない気持ちであった。
しかし、迎え火という講釈については当時、民有造林地の笹焼きを請負っておられた、故人、南 学氏及び菅野良治氏等から、演習場笹焼き実施時の予備知識として授ずかった智恵であった。
翌日、青竹三佐と二人で防風林地焼跡の実況調査中、逃げ切れなかった蛇や兎の黒焦げ姿は哀れであった。続いて国有林側の延焼状況の踏査を終えて、燃え尽きた境界防火帯上を歩いていると、黒焦げに焼けている小さな物体があり、何げなく足の爪先で転ろがしたところ、びっくり仰天、なんと山鳥の焼死体、その下から二羽のヒナ烏がピイピイーと噂いた、親鳥は羽根を焼きつくして、あの強い火勢の中で、しっかりと二羽のヒナ鳥を抱いて幼ない生命を守り、母鳥は死んでいる。
人間にも勝る山鳥の姿を見て全身が震え感動に胸せまり、しばしその場に立ちつくした。
山は焼けても 山鳥立たず
子に引かされて 身を焦す!!
七、熊出没と熊狩り作戦
演習場内で熊が頻繁に出没して訓練演習に大きな支障となったのは、昭和五十四年七月頃から五十八年五月頃であった。
出没する地域は、中茶屋・山加・中の沢東南部・日の出、富原の東方部・東中培本、十九号、二十号の各東方部一帯で、演習場南地区を除く全域であった。
演習場内に出没する熊は、常日頃、戦闘服装で訓練中の自衛官の姿を遠近から見ているためか、隊員を、山の中で棲息している熊達動物の仲間と考えているのか、隊員と至近距離で出逢っても、熊の方は平静で、隊員の方は吃驚仰天、大騒ぎとなっている。
然し熊による人身危害は一度もなかった。
吃驚仰天したなかで、特に、よくぞ無事であったと感心させられたことでは、国有林との境界防火帯線上で、訓練状況中の普通科の隊員が一人蛸つぼ内で(上部を木の枝で覆って)遮蔽していたところ、
何者かが近づいてくる気配に気づき、上部を見たところ、なんと熊が蛸つぼの中を見つめていたが、直ぐに移動して行ったという。
また、泉地区第二宿営地の炊事場で夕食の準備をしていた場所に、佐藤釣堀り方向から一頭の熊が悠々と炊事場に向かってくる、炊事場勤務者全員がそばに駐車中の大型車両に飛び乗り、熊を追い返えそうと車両の警笛を夢中で鳴らしたが、熊は全く気にもせず炊事場に近づいてくる。運転者は、車両ライトの点滅を繰り返しながら、熊に向けて急発進・急停止をしたところ漸く熊は反転して釣堀りの方向に戻って行ったという。
以後、露営部隊は起居する天幕の周囲には二重の有刺鉄線や蛇腹鉄線を設張し、更に空き缶を吊したり、犬の吠えているカセットテープを鳴らす等、大変な苦労をしてきた。
また、熊によるエピソードもあった。夜間訓練の状況中に、熊ダーと叫けび、熊が出たーと騒ぐ隊員の指す方向を確かめると、山火事で焼けた大木根株の黒焦げと判明。また隊員間の雑談、笑い話しに、雨の夜とか、夜間訓練で疲れて厭になったら、熊が出たあー、と騒ぐと演習状況中止になる、と笑って話す隊員もいた。
このような熊情報が続くなか、演習場の使用統制責任者である第二師団長は、監屯地司令・業務隊長・上富良野町及び猟友会等と協議を重ね、次のような熊退治作戦を展開することになった。
最初は、猟友会の人達にお願いをして培本付近の泉第二宿営地炊事場付近で猟銃を持って待機してもらったが、前日まで近くに姿を見せていた熊は一向に姿を見せず、以来此の付近での熊の出没は途絶えてしまった。このときの猟友会員の車両・服装は、いずれも黄色であったため、熊は日頃の見慣れた自衛隊車両、戦闘服装等と異る色彩に警戒して他に移動したものと思われる。
その後は、旭野川流域沿いに頻繁に足跡、糞便や李(すもも)の幹部を爪で傷つけ、李の実を振り落として喰った跡が生々しく明瞭に発見された、
第二師団は、幕僚長を指揮官として、二〇〇名の隊員と、十両の戦車・装甲車・十三名の猟友会員・更に、ヘリコプターにより超低空で旭野川流域両側を上流国有林に向けて山林・熊笹地帯を煽りまくったが熊は姿を一向に見せなかった。
人海戦術も熊公側の情報に負けたのだ、次の手段としては、檻を仕掛けて生捕り作戦を計画実施した。
旭野川沿い場内真水橋上流右岸に一檻と、国有林内勝竜橋の下流一〇〇メートル右岸に一檻を設置した、誘導の餌は、蜂蜜を一升程袋に入れて吊した、然るに熊公は、檻の外から手を指し込んで蜂蜜の袋を引き抜いて持ち去って行った、このような蜂蜜抜き取りは三回繰り返えされた。この戦いも熊に負けた。最後の手段として、その後熊が最も多く出てくる国有林境界の望見台の谷部に、熊誘導の餌付けをした。餌は、ドラム缶半切れにした容器を設置し、駐屯地から残飯を搬入与えると共に、猟友会長の河合秀雄さん等が常時待ち伏せて戴いた。
長い間の忍耐と苦闘の結果、五十五年九月六日、遂に望見台付近で一頭射殺してくれた、早速、二師団長を含めて待望の熊鍋を賞味させてもらった。
以後も引続いて、親熊・子熊の足跡、糞便等を発見されたため、檻の設置を継続すると共に、猟友会員の立入り監視を継続して戴いた。
然し、檻の蜂蜜抜き取り等、足跡も自然途絶えてきた、その理由は判らない。じ後、熊を演習場内に誘致させないための一ツの方策として、演習部隊の食事後の残飯類の放棄・埋没は総て禁止させ、駐屯地に搬入させることとした。
この定めが功を奏したのか以後、演習場内に熊の出没は殆んど皆無のようである。
当時、猟友会長の河合秀雄さん、楠本 徹さん達のご苦労とご協力に深謝して熊狩り紹介とします。
八、開拓入植者の神社と墓地
明治の末期から開拓入植された森農場・橋野農場内にあった、当時の入植者が祭祀されたと思われる神社・稲荷大明神・墓地等を紹介しておきたい。
(一)橋野神社
培本部落との境界線から、演習場内の東方向へ約五〇〇メートル進んだ地点の、南側斜面部に木製の鳥居が、太い〆縄を付けて建っていたのを昭和三十三年の春に確認している。直径約二十センチメートルの鳥居だけが朽ちて山側に倒れている状況であった、当時の開拓入植者は、それぞれの心の寄りどころとして祀ったものと聞き及んでいる。
(二)稲荷神社
北二十号終点の民有地境界から約四〇〇メートル演習場内に入った位置に、小さなお宮が在った、この地域の入植者が、作物の高値等、景気高騰を期待して祀った稲荷大明神様だ、と近くに住んでいた元老の言葉であった。
(三)墓地
[その一]
培本部落の東南方向で、旧森農場事務所跡から南西約五〇〇メートル地点の位置に、開拓当時の墓地があり女性一体を埋葬している筈だ、と高橋重志さんから聴いている。
事実について、此の地の徹底調査はしていないが、この付近に居住しておられた高橋重志さんの説は否定できなかった。
そのようなことから当時、戦闘射撃訓練場の停弾堤を構築する土木工事の実施に当り、予測される墓地の場所は回避した。
そのように霊が眠る地に弾丸撃ち込みを避けたため、上富良野演習場に於ては訓練中の死傷事故が絶無の記録が保持されているのかもしれない。
[その二]
演習場の南地区で、零号道路から南二線道路を富良野岳に向って約一五〇〇メートル登った道路北側に、この地域開拓当時の墓地があったという。
埋葬時代、何名の遺体を埋葬したのか判らないが、墓地はありました、と説明してくれた方は、富良野市麻町に居住しておられた老婆の佐藤さんからの聴取であった。佐藤さんは元、零号、南六線に居住し農業と併せヌノッペ幹線用水路の監視役を務めていた方である。
以上のように、神社・墓地などを調査した理由は、当時、十勝の鹿追町に在る然別中演習場に於て、訓練中の死亡・傷害事故が続発していたためか、北方総監部の訓練班長から上富良野演習場内に、神社・仏閣・墓所の有無について調査の依頼を受けたのが神社・墓地を知り得るきっかけとなった。
あの頃、神社仏閣墓地の話しをした元施設科隊員であったY氏から聞かされた話しの中で、鹿追の演習場供用当初、弾着区域の整備を担当実施したが、弾着区域は、元アイヌ民族の墓地であったのだという。そのような霊が眠る墓地に砲弾を撃ち込むのだから隊員の傷害・死亡事故は、有り得るだろーと話しをしてくれたことも忘れることのできない秘話である。
九、培本地区ベベルイ川決壊氾濫の原因
昭和五十年八月二十三日から二十四日にかけて降り続いた豪雨は、台風六号となり、十勝岳のカミホロ荘で、二三五ミリと発表されている。
安政火口周辺一帯を集水源となるヌッカクシフラノ川・富良野岳等を集水源とするベベルイ川・カラ川(水無川)の各河川は、満水となって演習場に浸水し、演習場内で、ヌッカクシフラノ川は三か所・ベベルイ川は二か所で各決壊氾濫して、演習場内の道路五か所、延べ三三八〇メートルを決壊流失させ、更に、橋梁流失損壊五橋・この他、暗渠・渡渉橋・訓練施設等を流失する大きな損害を蒙むったのであった。
このように演習場内を荒しまくったその水は、培本部落と演習場の境界上流一五〇〇メートル地点で三河川が一団となってベベルイ川に集水して、境界から約九〇〇メートル下流地点の、左岸を決壊し、池上明男氏の住宅を直撃して住宅を傾斜させ、この地域一帯の農作物・農地に大きな被害を及ぼしたのであった。池上宅前の培本道路は欠壊流失して路肩が四十センチメートル程しか残っていなかった。
この水害の原因、実態を調査のため、国会議員・建設省・北海道庁(上川支庁・土建旭川・富良野含む)・営林局、署・上富良野町・中富良野町・町議会調査特別委員会・土地改良区・陸上幕僚監部・北部方面総監部・防衛施設庁・札幌施設局等、延べ三十六回日の調査諮問を受けた。
調査結果は、演習場外下流左岸の決壊原因は、演習場内の荒廃によるものとの結論に対して、防衛庁側は、流域被害住民や、町民感情を憂い総てこれに甘んじたのであった。
私は、水害原因を確認のため、ヌッカクシフラノ川・ベベルイ川・カラ川の三河川を、川伝いに国有林の境界まで踏査し、国有林と演習場境界地点での水深と水流幅を調査した。その結果は、次のとおりであった。
(一)ヌッカクシフラノ川
水深、約三メートル・水幅、約四十メートルであった。更に、国有林境界から下流五〇〇メートルの地点で、左岸が長さ五〇メートルで決壊して多方の水は総て、ベベルイ川に浸水したのであった。
境界付近一帯は、針葉樹・広葉樹の天然木が、根の付いた状態で流入散乱していた、大木が丸坊主になっている姿は、大正十五年の十勝岳爆発時の写真とよく似ていた。
更に、後日、凌雲閣に至る流域を実祝したが、河川流域の崖崩れが激しく、流域内のいたるところで大木が、川に向って逆さまに倒れていた。
(二)ベベルイ川
ベベルイ川の源は、国有林の密林地帯で、演習場流域内に流下しても、弾着東側道路までの間は全くの密林地帯である、そのような森林状況から調査地点は、国有林との境界から下流約二キロメートルの弾着東側道の渡渉地点での状況である。
水深、約一・五メートル・水流幅、約七メートルであった。
(三)カラ川(水無川)
水深、約二・一メートル・水流幅、約十六メートルであった。此の川は平常、水無川で雪融け水とか大きな降雨の時以外は、名称のとおりのカラ川である。

以上、三木の河川について、国有林との境界及びその近くでの水の流れた実態について、当時の記録と写真に基づいて記述した。
このように、演習場の上流域の国有林地帯から大量の水が流れ込み、更に、ヌッカクシフラノ川という大きな河川が決壊して、ベベルイ川に浸水したために、演習場内を荒し捲り、培本部落の皆さんを恐怖に追い込んだのであった、当時、未改修のベベルイ川の状況では、三本の河川水を呑み込むことは不可能であった。
演習場内から、ベベルイ川に集水される流域内の水量だけでは、演習場外に於て決壊する要因とはなり得ないのである。
以来、二十四年が過ぎた今、ベベルイ川決壊氾濫の原因について、敢えて紹介をしておきます。
十、二〇三ミリ榴弾砲の破壊力
現在陸上自衛隊が装備している火砲のうち、直径二〇三ミリ榴弾砲は、最大最強の破壊火砲である。
沖縄駐留の米軍が、別海町の矢臼別演習場で実弾射撃訓練を実施しているのは、直径一五五ミリの榴弾砲である。
上富良野駐屯地では、第一〇四特科大隊と、第一二〇特科大隊が、二〇三ミリ榴弾砲を装備しており、年間を通じて上富良野演習場に於て実弾射撃訓練を実施している。
弾丸一発の重量は九十キロ余りで、この弾丸が目的地に落達したときの破壊威力の強大さを見た人、体験した人がどれだけいるだろうか。
自衛官の諸君は、数十年間、射撃訓練を実施しているが、射撃目標地点、その場所等、四十有余年の長い年月にわたって打ち込んでいる同一の弾着地点であり、熊笹や雑草地、或いは雑草、笹も生えることのできない荒廃地の弾着区域に限定されている。
私は、幸いにもこの眼で、二〇三ミリ弾丸の破壊力の強大さを視認することができたので、現地の実況について紹介する。
その時期場所は、昭和六十二年三月九日、中茶屋橋の北東方向、国有林第二一七林班の中である。
現場は、胸高直径三十センチから四十センチの針葉樹の密林地の中で弾丸一発が弾着炸裂した事故である。
この事故原因、公表等の諸問題については、当時の報道機関が一斉に全国報道されているので、経緯等については省略させて戴く。
私は、事故発生当日、第四特科群第三科長から、本日の射撃訓練で、一〇四特科大隊が発射した榴弾一発が、演習場外の国有林内、白銀台方向に跳飛弾着した、との報告を受けた。
直ちに、業務隊長の本宮一佐に報告、協議の後、即刻現場に急行、実況確認した。
その日の国有林内は未だ真冬の情景で、積雪が約二メートル余りの固雪状態であった。
現地状況は、瞬間唖然とさせられた、周辺真白な雪原一面に比して、弾着炸裂した部分だけが、真黒く燃えた火薬が飛散している。
周辺には、胸高直径三十から四十センチのエゾ松・トド松が密生している。
弾丸の炸裂か所は、約五〇〇〇平方メートル内の樹木二十教本は総て、地上一メートルから二メートルの部分で、切り倒したように折損倒伏して皆滅の状況であった。
更に、周辺の残存立木には鉄の破片が随所に喰い込んでいた。
たった一発の二〇三ミリ榴弾の炸裂によって発生した破壊力の大きさ、恐ろしさをしっかりと認識させられた私の所感を紹介させて戴きました。
このような強力強大な破壊兵器を装備して、戦争の抑止力として、風雪雨に耐えて、我が国の平和と独立を守る尖兵となって、有事、真に役立つ自衛隊を目標に、日夜訓練に精進を続けている自衛隊員に感謝すると共に、二〇三ミリ榴弾の破壊力の恐ろしさを認識し、戦争という悲惨さを新らためて深く感じさせられ、敢えて眠り猫を起こすような十二年前の事故について紹介をさせて戴いた。
上富良野町民と、駐屯地の隊員が、相互の立場を真に理解し、協力しながら、日本国の平和と、上富良野町の発展を祈念して、上富良野演習場供用当時の、官・公・民が相互に発生させた、上富良野演習場の諸々について紹介をさせて戴きました。
上富良野町と上富良野駐屯地が将来に向って更に強力な関係の醸成を祈念して筆を置く。
(元防衛庁事務官)

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔