郷土をさぐる会トップページ     第17号目次

各地で活躍している郷土の人達
…私と上富良野 そして今…

河村 一郎 昭和十年九月三日生(六十四歳)

―はじめに―
貴誌の「各地で活躍している郷土の人達」に寄稿するようにと観光協会事務局長・山崎良啓君から一月中旬依頼がありましたが、定年退職した私が該当しているか自問自答しつつ一月から二月となってしまい、私よりも各地・各方面で現役で活躍され、上富良野に望郷の想いを持っている人達が沢山おられることと拝聴しましたが、二月になってお断りするのも無責任且つ失礼に当たることと考え、幼少年時代、上富良野で育まれた喜びとお礼を兼ねざんげの心境で「あの頃・その頃」として体験記をと考えましたところ、既に「上富良野十二年生れ丑年会」があり、彼等が当時の生き様を記した著書もあることに気付き、同世代の私も共感・共鳴すること多々あり、貴誌、そして読者の皆様にご迷惑をおかけすることと危惧して、思案の結果、「私と上富良野そして今」を主題にわが家の由来等に変えて書かせていただきました。
―上富良野との縁―
平成九年、上富良野町開基一〇〇年の祝典に招待状が私宛に届きました。何故?それは五年前の平成六年三月、先輩大垣信雄兄の発案で「一都六県(神奈川・埼玉・千葉・茨城・栃木・群馬県)に在住する上富良野出身者の集いを実施したいのだが」と誘いを受けましたが、私は消極的でした。というのは推測で、明治・大正・昭和三代の人々、消息・生死の有無等どこにも記録がないのです。唯一、「東京ふらの会」が最も資料となるのですが、富良野高校卒業生が発展して「東京ふらの会」となったわけですから「東京ふらの会」が存在していることすら知らない人が多かったのが理由です。そこで思案した結果、「ふらの会」に入会していた人々を通じ、主に同級生、上富良野での町内会の人々に連絡をとり、一人でも消息、在住者をバトンタッチ形式で連絡をお願いしました。
一ヵ月後、百五十名を超える氏名が寄せられました。前後しますが、明治・大正・昭和、三代の上富良野町出身者の集りとなると時代を含め、自己紹介で終りになってしまう、いわゆる「式」になってしまう可能性があるからです。「又逢う日までの会」と化してしまいます。私の体験から、それだけは避けたかったので消極的になっていたわけです。そこで提案したのは、昭和元年から昭和二十年迄に生まれ、その間、上富良野で育まれた人々の集会として、開催してよかった、出席してよかった、又の会が楽しみになる会を目的としていました。唯それ以前に又以後に生まれている方も参加したい方は是非遠慮なく歓迎します、と案内状に添えて連絡をさせていただきました。
盛会(正解)でした。予定の三時間が過ぎて閉会後、町内会・同級生・幼友達同志が各々に集い、上富良野在住当時の思い出に話の花が満開。各々、二次会、三次会と続き、ありしの思いを語り、今を語り、再会を約して散会となりました。
五年後に再びと……。それから今年が五年目ですが、その気配はありませんが……。
平成九年上富良野町開基一〇〇年記念式典に私一人、招待状が届きました。その理由が判りませんが、正直、嬉しくもあり、複雑なものがありました。
かつての上富良野は、記憶にあった情景が一変し、人々、様々な家並みが残り少なく、大雪山の山脈と十勝岳の噴煙のみが、私の胸中の想いを遥かなる呼び声となって当時を思い起こしてくれました。故郷を離れて四十年。ですから時代の進歩、社会、生活、人心等あらゆるものが変化して当然です。ここまで書いて筆先が鈍りました。なにをさぐるべきか?故人をしのび、故郷をしのぶ、それが良いのか?あるいは、故郷は遠きにありて想うものの悟りが正しいのか?「関東一都六県上富良野会」に出席された人々は、すべて成人となって、育まれた上富良野に想いを熱っぽく語るひとり一人が輝いていました。
私事で恐縮ですが「百年史」の開拓にたずさわった人々の苦難を超えて一心同体のスピリットを、そして大正の十勝岳噴火当時の努力と、戦時、戦後の貧困を越えた人々のハーモニーとヒューマニズムを(義理と人情ではなく)新しい風を自然の中で育んでこそ、上富良野の存在に望郷をかりたてられるのではないでしょうか?
―人生は五十から―
今、私は死に向かって一歩一歩近づいております。
「人生五十年」と言われた時代から、現在は「人生五十年から」になりました。されど「死」は間違いなく訪れるのです。人間の力の限界を「生」に対する愛着。一期一会に感謝し、自らの体験、経験を私なりに、一郎変じて放浪・流浪・浮浪の旅をと在職中、仕事で北は北海道から南は九州まで一人旅で多美(旅)を味わうのが夢でした。が、自分の年令、体力を過信しておりました。それは一老になっていたことです。朝起きようとすると心臓が締めつけられ、苦しさ、痛さに救急車の出動を依頼、即入院、二ヵ月の治療を終え、現在半年に一度精密検査、月一回の診断、病名は血管から生じた「大動脈解離」。
手遅れになっておれば、別の世界にいたでしょう。
ミレニアム。「老人界」に身を置く年令になりました。病も自覚症状のないまま年々歳々、日々、喜怒哀楽のワンマンショウライフに磨きをかけております。心身共々に忙、亡、望、乏、放、防、冒、奉、宝、忘、抱……と「雨ニモメゲズ、風ニモメゲズ」「小さき者へ」「非凡なる凡人」を念頭に、両親を通して『天』から生を享受したひとりの人間として大切に余生余命を過ごすべきと努めております。
―閑話休題―
さて、私の生い立ちですが、上富良野に居住したのは昭和十六年の初秋でした。当時の七町内の大通りと駅前通りの角で、旧北原 稔宅であった。(現在の栄町一丁目一番自衛隊上富良野募集事務所で、別記の昭和十一年頃の町並み図を参照下さい)家系は曾祖父(善次郎)、祖父(康次郎)と共に、屯田兵として京都・宇治山田から東旭川に駐屯、曾祖父は他の三人の部隊長と現在の「旭川神社」(旧東旭川)を設立。師団解散後、善次郎は富良野郵便局の初代局長(現在の上富良野郵便局)、康次郎も下富良野郵便局の初代局長(現在の富良野郵便局)に任命されました。父俊一郎は、高畠正信(旧○一薬局)の次女ティと結婚。昭和十年九月三日に私が誕生。
父は祖父の家業(酒造業)を引き継いでいたが昭和十四年、小樽で貸船業(漁船)を開業のため下富良野(現在の富良野市)を離れた。十六年春、父は体調を損ねて入院。母と共に当時、母の姉(樋口ミサオ)の高畠支店(弟克郎の死後、引き継いで営業)に寄宿、大学入学まで上富良野で育まれたのです。
さて、上富良野に移った翌月、太平洋戦争が勃発、昭和十七年五月、弟、洋次誕生。十八年二月父死去。
四月上富良野国民学校に入学。二十年八月敗戦。小学校と改称、三年生まで戦前教育、それからはご存知の戦後教育を受けたのです。
昨日までの教育がすべて悪しき歴史、一夜あければ民主主義と言われる教育。今思えば、勝負はともかく「失えば得、得れば失うよろずかな」を実体験したのです。
戦後二年余閉店後、あらたに伯母と母が「樋口商店」として同じ場所で開店。母が昭和四十年迄店を続けて、現在私のいる茅ヶ崎市に転居しました。
その母も平成二年十一月二十六日死を迎えました。
奇しくもその前年平成元年十一月二十六日、母の弟、孝文叔父(旧○一雑貨店主)が亡くなっております。
―NHKに入局して―
私は昭和三十四年日本放送協会(NHK)に入局、芸能局文芸部に配属され、在籍十五年余、その後広報室に移りドラマ番組を主に広報業務を担当、五十七歳で定年退職、現在に至っております。
参考までに、担当した番組を列挙しますと、「パノラマ劇場」のバラエティショウ(大河ドラマの前身)、「夢であいましょう」「風雪」「竜馬がゆく」「二十一時連続ドラマ」、テレビ小説「北の家族」(私の提案で採用され、旭川を中心に「便利屋」家族を中心に、当時の人々との交流と家族の姿を描き、たくましく生きる北国物語でしたが、企画は通ったものの、当時、旭川に空港がなく、札幌から旭川まで鉄道を利用すると丸一日仕事ができません。止むを得ず舞台を函館に変更して制作、放送されたのです。その後、民放で「北の国から」が放送されましたが、「北の家族」が下敷になったとの事でした)。
「土曜ドラマ」、テレビ小説「いちばん星」「天下御免」単発ドラマ等制作、広報担当に大河ドラマ「草燃える」「獅子の時代」「山河燃ゆ」「武田信玄」「翔ぶが如く」でしたが、広報室に変わっても間接的に提案して、上富良野が登場する単発ドラマ「黄昏(たそがれ)の赫(あか)いきらめき」(平成元年九月二十三日放送)をはじめ「ラベンダーの丘」「新十津川物語」と上富良野でロケを実施しました。この機会にあらためてご協力いただきました役場の方々をはじめ町民の多くの皆々様にお礼申し上げます。
私が在職中に上富良野から上京された折、多くの人々がNHK放送センターを訪ねてくださいました。
当時、見学コースなるものがありません。見学あるいは観覧することは出来ませんから、私が案内役となり、皆様に喜ばれました。その折々、上富良野の近況を伺い、懐旧談に耽けたのをきのうの様に思われます。その他、ミスラベンダーの番組出演、「NHKのど自慢」の誘致、十勝岳爆発の際のニュースに放送時間と取材を多くする様、担当者に依頼した事もありました。
話が前後しますが、中学・高校時代、私が学校の教育よりも、新聞、ラジオ、あらゆる雑誌、書籍、映画、音楽鑑賞に興味がありました。大学でも同様で、アルバイトをして費用を捻出し、時間の許す限り、金の続く限り継続していました。映画のエキストラも経験し、余談になりますが作品は「太陽の季節」「あなた買います」「処刑の部屋」等学生が登場する作品が主なものです。
食事も自炊、一日二食。友人からノートを借り、代返を依頼の生活でした。やがて就職は新聞社、放送局のいずれかに入社しようと決意して、マスコミ四社の就職試験を受け、幸いにも希望する仕事に従事したのでした。
今、耳に残るのは、少年時代、又は故郷の劇場のスピーカーから流れる美空ひばりが歌う「私は街の子」「悲しき口笛」「越後獅子の唄」が、余韻が残照として……。
拙文を掲載、お読みいただきました事を厚く深く感謝し、加えて各位のご多幸とご健康を祈念祈願して筆を置かせていただきます。
一期一会の皆々様が当地の近くまで(横浜・鎌倉・箱根)、おいでいただく時は、是非是非お声をかけて下さい。喜んで歓迎させていただきます。
最後に上富良野でたくさんの無形の財産をいただきましたことを再度感謝してお礼を申し上げます。
ドラマ一筋に二十七年
     北海道新聞(平成三年三月十日付)日曜インタビュー(谷地智子記者)より一部転載

「ラジオドラマにほれて」NHKに就職したが、昭和三十四年といえば、既にテレビドラマ勃興期。「ラジオの時代は終ったと言われましてね」。美術進行課や、芸能局のバラエティー班を経て、ドラマ制作に十五年、昭和五十四年から広報に移りドラマを担当。番組を取材する側にとって、ツーと言えばカーと返って来る広報マンはありがたいが、河村さんがそうなのは、ドラマ一筋二十七年のキャリアがあるからだろう。「パブリシティーをたくさん持つのが僕のやり方。ほかの人が一種類なら自分は三種類用意する。そして、この番組は面白いという言い方は絶対しません。それを判断するのは、取材する人であり視聴者ですから。これこれの情報があります≠ニいうことに徹しています」と広報マンの極意を披露する。
河村一郎プロフィール
昭和十年九月三日 父俊一郎、母ティの長男として生れる
昭和十四年 父の船主経営のため小樽に転居
昭和十六年秋 父、病で入院、母と共に上富良野に転居
昭和十七年四月 上富良野村国民学校入学
昭和二十三年四月 上富良野村中学校入学
昭和二十六年四月 北海道立富良野高等学校普通科入学
昭和三十年四月 法政大学文学部入学
昭和三十四年四月 日本放送協会(NHE)入局し、芸能局広報室勤務
平成四年九月二日 日本放送協会(NHE)を定年退職し、広報室顧問となる。
以後、オールフリーライフ。趣味は旅・観劇・音楽・写真・読書で、スポーツは野球・テニスもいずれも観戦年令になり、自分の総括と身辺の整理の日々で、「毎日、毎日が人生の初日。初日が続く中で……」の気持で生甲斐を求めて歩み続けます。

機関誌 郷土をさぐる(第17号)
2000年3月31日印刷  2000年4月15日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔