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有線放送施設の原点

上村 重雄 昭和三年四月三日生(七十歳)

郷土上富良野町の有線放送施設の生みの親と称される今は亡き、元町議会議長をされた床鍋正則氏は、かって私にこう言われました。「いつの時代においても大事なことは、自らの進んだ識見と意欲によってその時代が建設される。たとえ少人数の意見でもそれを尊重し取り入れることが大切である。リーダーたるものは常に先見の明を養うことに努力してほしい。人間は、チャンスに向って無限の可能性を秘めているのだから、つねに心を引きしめて何事にも自ら進んでこれに当り修養研さんにつとめなければその或果が得られないと思う。心して頑張ってくれ――」
と激励のお言葉をいただいたことも今も銘記して励みとしております。
戦時下の農村生活において、いち早く有線放送施設という文化施設を企画され、実行にうつされた偉大なる先覚者の業績に対し深甚なる敬意と感謝の誠を捧げ、謹みてご冥福を祈念申し上げる次第です。有線放送施設それは農村文化生活の曙光でもあります。
有線放送施設の原点は内原(うちはら)にあり
昭和五十四年十一月刊行された『かみふ物語』の記事の中に、島津、水谷甚四郎氏の想い出の「食糧行政の変遷」の中に、食糧増産報国挺身隊という全国的な組織が誕生し、北海道隊四百数十名が道庁前で結団式を行い、茨城県内原訓練所に第一回生が入所され訓練を受けられたとの記事がありますが、その内原訓練所内の有線放送施設こそ、全国的な有線放送施設のさきがけとも言われ、原点と今日に言いつがれております。このことを忘れてはならない特記すべき記事でないだろうかと思うものです。
余録として水谷甚四郎氏が調査された挺身隊員の方々の氏名を記して、ご苦労に深甚なる敬意と感謝を捧げます。(敬称略)
昭和十五年度
 床鍋 正則  久野専一郎  佐川 亀蔵  和田 正治  宮崎 明善
昭和十六年度
 笠原 重郎  村上 隆則  平井  進  島田 良友  木全 義隆
昭和十七年度
 太田 政一  佐藤 信弘  升田 武夫  水谷甚四郎
昭和十八年度
 立野 佐市  広川 義一  実広 清一  菅野 忠夫  小川 直太
 大角伊佐美  佐藤根久一  岩山 昌弘  幅崎 龍蔵  遠藤  清
この食糧増産挺身隊員に参加された中で物故された方々の御冥福を心より祈念申し上げます。
平成九年九月五日
北海道の農村地帯に、有線ラジオ放送の施設を始めて計画され、認可の手続きをして許可されたのは、先にも書きましたが、東中出身の床鍋正則氏でありますが、氏のお話しによると、昭和十五年十一月から十二月にかけて、茨城県内原青少年訓練所(所長加藤完治)に於て行われ、全国食糧増産挺身隊隊員としてこの訓練所に入所、隊員一万五千名の二ヵ月間にわたって講習を受けられたそうです。
床鍋正則氏の外、上富良野からは東中の実広清一氏や島津、水谷甚四郎氏なども参加講習を受けられ、帰郷後は青少年の指導育成に当られたと聞いております。その方々のお話しでは、常盤線内原駅から約六粁東寄りの地域にあるこの訓練所は、構内に本部を中心にして二百棟以上の日輪兵舎(丸い円錐形の屋根をもつ)が散在され、本部との連絡命令等は有線放送施設によって、各兵舎に、迅速正確に伝達される仕組になっていたと言われますが、この施設と設計をいち早く自分の部落に移入され実施にうつされた床鍋正則氏のその卓見とご努力は高く評価されてよいと思い、深甚なる敬意を表する次第です。
また、その後(戦後)上富良野全町一本となり線合された施設が、上富良野公民館内に設置された折り、その担当者となられ、身体ご不自由なる身をいとわず誠心誠意その職に最善を尽くされ有線放送の運用に当られた島津の本田 茂(夫久朗・俳人)氏には、その卓越された識見とその努力精進に深く敬意と感謝を捧げると共に、ご冥福を心から祈念合掌する次第です。この外、多くの職員の皆さまのご努力によって、有線放送施設が活用され、今日に至っております。温故知新、この言葉を思い、若い世代の皆さんに引き継いでいただき、先覚者の偉大なる業績を偲ぶと共に、わが町の二世紀に向って進んでいただきたいと願います。
この稿を書いておりますと、今は亡き元上富良野小学校校長の渡部芳男先生が過し日、道派遣社会教育指導主事として初めて教育委員会事務局にお勤めされたとき、郷土をさぐる研究をしている私に、今まで先生が勤務された地の有線放送施設を通して青少年の指導育成を目的として、有線放送ラジオ弁論大会や地域住民の文芸作品の紹介などをして活用されたお話をしていただいた日の先生の面影を偲び、心から感謝申し上げると共に、生前の上富良野町教育振興に多大なる貢献された業績を讃えまつり、深甚なる感謝の誠を捧げご冥福を心から祈念する次第であります。
有線放送≠サれは文化の泉とも言われました。戦後各地にこの施設が設けられ活用されましたが、その後配線などに経費が重り、またその整備に人力が必要となり、幾多の変遷を経て次第に廃線され、今は町有線放送施設と農協電算化となり、農事だよりなどにも活用されております。
昭和四十二年開基七十周年に刊行された『上富良野町史』の中に書いてありますが、昭和二十五年四月、今は亡き本田 茂氏が作成されたラジオ共同聴取の沿革として、その歴史を詳細に書かれておりますので、明細はこの稿では省略させていただき、その有線放送施設の原点とも言うべき内原訓練所内有線放送施設について調べ書き綴ったことを読者の皆さま方にはご了承いただきたいと思う次第です。
この一文を書いておりますとき、ある郷土史研究家のE先生より
「修史の業は史実をはなれてあり得ないと同時に、史観を忘れても成り立たない。読みものとして考える書として、その歴史を通して世に語りかけるものであることを乞い願いたい。過去を想い現在を省察し得てこそ、未来への夢は画かれるものであり、実感をもって計画のための努力精進してほしい。頑張り給え」
と激励のお言葉をいただき嬉しく感激の念でいっぱいです。
この有線放送施設の一文について種々ご教示助言いただいた多くの先輩の皆様に深甚なる敬意と感謝を申し上げる次第です。

機関誌 郷土をさぐる(第16号)
1999年3月31日印刷  1999年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔