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故浜巌氏の遺稿文と戦後緊急開拓のあらまし

岩田 賀平 明治四十三年十二月十日生(八十五歳)

一般には戦後開拓事業と理解されていますが発端は、太平洋戦争末期の昭和二十年三月閣議により『本土空襲激化に伴う大災の罹災者の疎開強化』の方針が決定され、戦災者の生活安定と食糧の増産等と戦力の強化を図ることになったものです。
北海道は集団帰農の全国でも主要な受け入れ先に指定され、第一陣二〇一戸は昭和二十年七月六日に東京を出発、そして昭和二十年十月までに三四一九戸が全道に分散入地しました。
戦争は昭和二十年八月十五日に終戦となりましたので、名称を『戦後緊急開拓事業』と改称し、対象者には復員軍人、戦没者遺族、工場離職者、外地引揚者を加え、北海道では数次の計画変更があって、五カ年で三十五万町歩、七万戸を策定推進するものでしたが、実際には昭和二十四まで二万七千余戸が入地したのでした。
これは開墾土地が少ないこと、農業未経験者であること、更に敗戦の荒廃で農機具、肥料等の農業資材が皆無に近い欠乏下での営農など不可能に近く、加えて未曾有の大凶作の食糧難ではその日その日の生活が言語に絶する苦しいものとなったためでした。
従って、五カ年間のうちに脱落者は四十六%にも達したと言われています。
本町の集団帰農者は団長佐藤大四郎氏以下十九戸で、正確な入地時期は定かではありませんが、前期の三四一九戸の中に含まれていたものと考えられます。
浜巌さんの遺稿は、この様な時代を背景に東京から集団引揚者の一員として昭和二十年九月三日に東中に落着かれ、無我夢中で最初の一年を生き抜かれた段階での回顧録です。
北海道行きが決って想像と夢を措いた北海道での農業と、一ケ年を体験した敗戦下の現実が社会情勢と共に如実に語られた一編ですが、戦後五十年を経た今日、私達はこの一編を読んで濱 巌さんの農業への将来展望を適確に見通しており、又上富良野の歴史の一頁として記憶に留めると共に、飢餓―強権供出時代から飽食―米過剰、自由化時代の図式が描かれる今日、今昔の感に耐えないばかりでなく、国に於ける農業の位置づけに、そして一定の自給率と環境保全、都市と農村の両立、調和を考える機会にしたいとつくづく感じます。
―集団帰農者の緊急開拓関係法令について―
昭和二十年一月 道庁、北海道過疎受入れ体制整備強化要綱決定
昭和二十年三月 閣議で『戦災疎開者の就農に関する緊急措置要綱』が決定したが、依然として縁故疎開が続く。
昭和二十年五月三十一日 政府次官会議で北海道に対する『五万戸、二十万人』の疎開者集団帰農計画が『北海道疎開者戦力化実施要綱』として決定す。
昭和二十年六月十一日 戦災者北海道開拓協会設立
昭和二十年六月二十三日 北海道集団帰農者受け入れ要綱が制定される。
昭和二十年七月六日 東京からの集団帰農者第一陣は『拓北農兵隊』と命名され、都知事らの激励を受けて『二〇一世帯、九五三名』が七月六日東京を出発した。七月九日札幌、空知、夕張の各郡に入植す。
昭和二十年八月一日 道内戦災者等集団帰農に関する事務取扱募集要綱制定。
昭和二十年九月 道庁、北海道大学農学部学生を主体に、市町村及び農業会職員等を加えて、全道の開拓可能地調査を行う
昭和二十年十月十三日 道庁、北海道戦後開拓実施要衝を定め、復員者、戦災者の受入れ体制を整える。
昭和二十年七月六日出発の東京第一陣以後、東京、神奈川、愛知、大阪などの各地から前後『二十四回、三四〇〇世帯、一万七〇〇〇人』の人々が北海道の各地に入植しました。しかし馴れない気候と開墾や農作業、そして不十分な衣食住、農業資材等の厳しい生活環境の中で、開拓地に入植された人々は自己の生活確立、食糧増産、そして日本の戦後復興に寄与されたのです。
集団帰農者疎開入植地(昭和二十年九月三日 十九戸集団入地)
入植時の世帯主氏名 入植地 備考
佐藤大四郎 日の出 団長
佐藤 一衛 日の出
濱 五千朗 東中
澤田 武治 東中
吉村(不明) 富原 産婆さん
佐藤(不明) 富原
石川 龍雄 十人牧場
松ヶ枝 毅 中の沢
石毛 半歳 江花
田中(不明) 江花
関  寅吉 静修
石井松太郎 静修
田中 兼雄 静修
宇治 松吉 静修
志田 寅三 静修
田畑 宮吉 静修
長島音五郎 草分
※ 十九戸入植しましたが十七戸しか現在判明していません。

機関誌 郷土をさぐる(第14号)
1996年7月31日印刷  1996年7月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉