郷土をさぐる会トップページ     第14号目次

富士屋をささえた母

花輪 洋一 昭和十一年十月二十九日生(五十九歳)

〜はじめに〜

母は、平成七年十月三日に永眠しました。
昭和十年に父と結婚して以来、六十年間の長い歳月をこの上富良野に住んで、町内の皆さんにお世話になり、また、たくさんの方々に「富士屋(花輪の苗字より屋号で知られていた)のおばさん」「富士屋のおばあちゃん」と呼ばれ、慕われ、ご愛顧いただいて幸せな一生をまっとうしたと思っています。
ここに、母との思い出を書きとどめ、お世話になった方々に母を偲んでいただければとの思いで、あえて拙文を顧みず筆をとった次第です。ご一読いただければ幸いと存じます。
山梨県の実家から北海道へ
母は、大正五年五月二日に、山梨県北巨摩郡小渕沢村字高野で生まれた。父清水保明、母保代の二女として、男八人、女三人の十一人兄弟姉妹の大勢の家族の中で育った。今は、妹の保子叔母が山梨県で在生しているのみである。
家は農業で、山梨といっても信州に近く、わずかな田畑をつくりながら、家の二階でお蚕(かいこ)さんを飼っていた。私が満四歳(昭和十五年)の頃と思うが、母につれられて、父や母の実家にいった記憶が断片的に残っている。
富良野の白倉の伯母さん(母の姉で富良野の呉服店に嫁いでいた)と、いとこの白倉保則さんが一緒であったこと、父の実家近くで丸太橋を渡ったこと、母の実家で祖父に馬の側につれてゆかれ、こわかったことなどが脳裏に残っている。
特に印象に強いのは、上野駅の人込みの中で迷子になって、見知らぬおばさんに連れられていきそうになり、子供の目の高さでようやく保則さんを見つけて、母にさんざんしかられたことである。
母は、白倉の伯母と違い、娘時代から活発だったという。尋常小学校高等科を卒業し、家の農業を手伝っていた。藤森先生に和裁を習って、かわいがられ、後年長く手紙のやりとりをしていた。諏訪の紡績工場に働きに出たときにローマ字を習ったといい、私は小学生のときに母からローマ字を教えてもらった。
そんな母が父と結婚したのは、姉の白倉春子伯母がお世話したのが縁だった。父は白倉家で洋服仕立ての修業をし、中富良野に昭和九年から独立して店を持った。その翌年、上富良野に転居して現住所の向い(現在の久保商店の所に店があった)でまじめに働いていた父との結婚話がまとまったのである。
昭和十年、はるばると初めて北海道へ青函連絡船で渡ったときには、非常にさびしい思いがしたといっていた。
おそらく、結婚という喜びにもまして、さびしさがこみ上げ、涙をためながら津軽海峡を眺めたことだろうと思う。満二十歳の年であった。父母の結婚の記念写真は、私達の結婚式のあと持たせてくれたが、後で母に返した。
上富良野の地に家庭を築く
上富良野で新婚生活がはじまったが、母は内地を思い、しきりに寂しがったという。そんなときは、父がハーモニカを吹いて慰めたそうだ。父は洋服など白倉からの委託販売をしながら、ミシンを買って洋服の仕立てをしていたが、当時家には玉ちゃんという店員の娘さん、洋服仕立て修業の佐々木栄吉さんが働いていた。
私は、昭和十一年十月二十九日に生まれた。洋一と命名したのは、二人が太平洋(津軽海峡)を渡ってきたからと聞かされた。母は、馴れない北海道の寒さが、ことのほかこたえたという。母は寒さに弱く「さぶい、さぶい」とよくいっていた。私の家の手伝いの一つは、湯タンポに熱湯を入れることであった。寒さに弱い母の好きな季節はやはり夏である。
私が生まれた月日は、奇しくも父と同じであり、
父の父、祖父が亡くなった日でもあった。祖父内藤 弘は、初めての子である父が生まれた大正四年十月二十九日に亡くなっている。二十五歳であった。父の母は気の萎えと同時に体が弱くなり、父をつれて実家の花輪家に帰った。祖母花輪センは、終戦の年、父が千島の戦場にいたときに亡くなった。母が何度か、北海道につれてこようと話したが、体が弱く北海道に来ることを嫌がったという。したがって、父は、内藤家の長男に生まれたが、このようなことで父の母の実家である花輪家に戻って入籍され、花輪豊裁となった。
こんなことがあったので、母は、私を生むときに父が亡くなるのではないかと心配したという。私は、弟の俊夫が生まれる少し前まで母乳で育ったが、体はどちらかというと弱かったらしい。栄吉さんに背負われて旭川の小児科医院に何度か通った。旭川ではじめて食べたマグロの鮨のうまかったことが強く印象に残っている。
父は努力家で、よく商品を売り、家計も日に日によくなってきて、本郷のおじさんが中に入って白倉の委託販売から独立した。本郷さんは当時の店の向い側にあった本郷花屋のご当主で、父母を子どものように親身に可愛がってくれたという。母も富良野の姉に強くいって頼んだようだ。父が独立してから、店はさらに繁盛し、商品も増し旭川や小樽の問屋も応援してくれ好調のようだった。父は今でも質素倹約を訓としているが、私には、三輪車やおもちゃを買ってくれ、表通りや裏通りで乗って遊んでいた。
弟俊夫の生まれた年、昭和十六年に母の父(祖父)が亡くなった。母は私に、「利口だから留守するのだよ」といって弟をおぶり、富良野の祖母と山梨にいった。私は泣かないで、「うん」といって三輪車に乗っていたそのときのことを、不思議と覚えている。
戦中戦後の混乱期
昭和十八年、私は国民学校一年生に入学した。この年、父は軍命で、芦別の三井鉱山に勤労奉仕し、翌年旭川の第四部隊に招集され、いったん帰ってきたが、再び入営した。芦別の炭鉱や旭川の師団に母と一緒に面会にいった記憶がある。戦争にいくことは死を意味していたので、母は涙を流したものと思う。その頃家にいた栄吉さんも南方の戦場にいった。
家には、母とユリちゃん(店員の方で父の不在の期間を含めてその後も長く勤めておられた)と私と弟の四人のほか、冬期間は農家から二人ぐらいのお姉ちゃんがきてミシンを踏んでいた。商品も少しずつなくなり、店も縮小していかざるをえなかった。どこの家でも働きざかりの男性は兵隊にとられ、家には女性と子どもとお年寄りが残った時代だった。母は、心細かったと思うが、ユリちゃんに助けられて二人の子どもを育てたのである。
当時、隣の空地が売りにだされたことがあった。
父が、こつこつと貯めたお金があったので、その金で買っておけばと戦後になってくやんでいた。そのお金も、戦後相当のインフレが進み銀行貯金は封鎖され、結局はせっかく貯めたお金は、全く価値がなくなってしまった。
終戦の年の四月に、末の弟、和夫が生まれた。本郷さんのおじさんが平和になったら夫が帰るとの願いを込めて命名した。終戦後、物はどんどんなくなって、食料も不足した。母は、和夫をおぶって農家に手伝いにいって米をもらって帰ってきた。ユリちゃんが、いもを細かく米粒のようにしてつくった「いもごはん」を毎日のように食べた。下駄好きの母は、よくユリちゃんに下駄をあげて、機嫌を取っていたように思う。私も、家の掃除や水くみ、畑仕事などを手伝った。
そのころ、母にもいわれ、自分でも意識して神社にいった。小学校五年頃から父がシベリアから帰るようになった日まで、学校帰りに神社に寄って、父が元気でいること、そして、早く家に帰れるようにひたすら祈った。毎日通っていたので神主さんにほめられた。
東京の奥多摩氷川にいる母の兄(保夫)が心配して、終戦後間もなく二男の松ちゃんを我家によこした。洋服仕立てを習いつつ、家の男仕事をするためだった。私より五歳くらい年上で、内地言葉でどなったり、ときにはなぐるようなこともあったが、二人でよく山や川の堤防でまきをひろったりした。父が、帰国してから内地に帰ったが、男手のない我家をよく守ってくれた。私が、大学を卒業する少し前に、内地の親戚をまわって、氷川に寄り、十数年ぶりで再会した。氷川のあちこちを案内してくれたが、その後不幸にして亡くなった。シャイで親分気質のある気持ちのいい人だった。
父が帰国する少し前の昭和二十三年の春のことだった。シベリアから上富良野に帰ってきたある人が、富士屋さんはシベリアで亡くなったと伝えてきた。
引揚げてくるとき、部隊の人から聞いた話だという。
この不確実な情報が、一瞬我家を深い悲しみに沈ませた。今でもはっきり記憶しているが、母は私をつれて涙ながら本郷のおじさんに報告にいった。おじさんから、「洋一がこれから家の中心にならなければならないから、しっかりやれよ」といわれた言葉が頭にこびりついた。子供ながらにほんとうに悲しかった。家では、仮の小さな俳壇をつくり、線香をあげた。
母は、父がいない間、よく近所の人達に「私の父ちゃんは日本一よ」といって歩いた。ひやかしの言葉も聞いたが、子どもながら、母が父を思う気持ちの強さに快いものを感じていた。それだけに母の悲しみはいかばかりか計りしれないものがあった。心配してくれる人が改めて確かめてみると、この情報は人づてに聞いたといい、だんだんあいまいになってきた。その後、父が元気でいること、おそらく近いうちに帰国するということを知ることになった。復員してきた札幌の方が、わざわざ上富良野まで伝えにきてくれたのである。母は、涙を流して喜んだし、私も本当にうれしかったのを覚えている。
父が戦争にいってから店はほとんど閉じていたが、昭和二十二年頃から富良野の白倉の伯父さんの勧めもあり、文房具、おもちゃ、アメなどを売ることとし、生活のかてにと店を開きはじめた。私は長男だったので、自覚を持ってこれを手伝った。一週間に二回ぐらい、学校から帰ってから富良野にいき、ユリちゃんの実家で取り次ぎをしていたアメを取りにいった。また、旭川の問屋にいったとき、大きな荷物を背負って改札口を通るのに苦労したこともあった。
戦時中に、母が乳腺炎にかかり、富良野の医院で手術をしてもらったことがあった。当時、汽車の切符は制限されており、夜明けに駅にいって行列に並び、ようやく母の切符を手に入れたときには、親孝行ができたという思いがした。
母は、畑仕事が好きだった。家の裏の畑に肥やしをまくため、桶をかつがされた。漬物を漬けるのが自慢で、人に食べてもらうのを楽しみにしていた。
私は母乳で育ったのだが、便に小さな回虫がでたというから、いかに回虫が入りやすい環境の中にいたことか。
こんなことから、小学校四年生のとき、回虫による腹痛などで二か月近く学校を休んだことがあった。
母は心配して看護してくれ、当時はなかなか手に入らなかったサントニン(駆虫薬)を入手し、飛沢病院に通って治ることができた。母が仏壇をきれいにして、先祖にお願いし祈っていた姿を覚えている。
終戦後は物のないときで、世の中の道徳も乱れて盗みも横行していた。母は、人様のものは決してとるなと強く私をいましめた。父が戦争でいない家族だから、ただでなくとも指をさされがちだという。
私は、母のいましめを守ることを心に約した。
父は、質素倹約を生活信条としていたが、母はよく買物をし、知人にも気前よく買ったものを配っていた。父は母のことを「一反風呂敷」といっていて、このような相反するような父母だから、家庭と商売が保っていけたのだと、私達子どもは思っている。
母の愛情をかいまみる
父が昭和二十三年七月三日、軍服姿で帰国し、我家に帰ってきたときは、とにかくうれしかった。さっそく二階の窓のこわれたところを父が直している姿を見て、家に父のいることの心強さをしみじみと感じた。私は、このときのうれしさとほこらしさを、父が復員のときの背のうを背負い、留萌の小平の海水浴を中心とした修学旅行に出かけたときのことで思い出す。
父は、商品があまり出回っていない中で、旭川に出て昔の知り合いの問屋などをまわって商品を仕入れ、洋品を主体とした商売に切り替えていった。商売も順調にすべり出していて、私は、新制中学校で、勉強もしたが、野球にも熱中した。夜遅くまで勉強をしていると、母が階段の下から「体に悪いからもう寝なさいよ」とよくいってくれた。
昭和二十七年、私は富良野高等学校に入学した。
入学間もない父母参観日に、うるわしき女学生のいるなかで、母が私の側にきて「はなをかめ」というのである。青春まっ盛りの私にとって、このはずかしさは、なんともいいようのないものであった。
高校一年生のとき、富良野、南富良野の友人が私の家に泊まりにきて、翌日旭川に遊びに行ったことがあった。小さな時から身体の弱かった私が、ここまで育って、友人をつれてくるようになったことがうれしいといい、涙をこぼしていた。高校に入ってから柔道部に入ったが、骨を折ることもあるという友達の話を聞いて母は強く反対した。背も伸びないといったうわさも聞いたので、野球部に入ることにした。
野球部の練習はきびしく、当然勉強をする畷は限られて、成績もかんばしくなかった。特に数学が苦手になった。二年生になってマネージャーになり、野球と勉強がかえって中途半端になった。在学中に商売を継ごうと考えたこともあったが、結局、高校の先生の強い勧めて大学受験をすることにした。学科の遅れを取り戻せず、北大医進学は失敗した。受験誌に載っていた弘前大学の学生生活の紹介や、リンゴ、弘前城、太宰 治のふるさとなどロマンあふれる弘前に憧れて、二期校は弘前大学文科を選んだ。
受験にいくとき、母は上富良野の駅まで見送りにきて、北大医の失敗で少しショックを受けていた私に、「悲観して死を選ぶようなことだけはするな」と念をおしてくれたのを記憶している。
このようにして、昭和三十年、弘前大学に入学し、受験のとき泊まった家に下宿することになった。富良野高校から理科に合格した友人も一緒であったが、一足先に大学の寮に入り私を誘ったので、下宿に丁寧に謝って一月ほどで私も大学の北浜寮に入った。
母は、便せんに十枚以上細かに書きつづり、よく便りをくれた。私は、昭和三十年、ふるさとをあとにして、もう四十年になるが、母の手紙は、道庁に勤め、結婚してから子どもが生まれ、そしてつい最近まで、頻度は少なくなったが続いた。文章は話すように、事の内容をときには経過を含めて詳しく書いてくれた。学生時代に、母の手紙があまり長いので斜めに読んでいるといっておこられたことがあった。
新ためて母を思う
手紙はどこにいったか全くなくなってしまったが、もし保存してあれば母の子に対する愛情や思いなどを、印刷すれば相当部厚い本になったことだと思う。
母と一緒に生活したのは、高等学校卒業の昭和三十年までであり、以後は休みに帰るときなどの短い期間であった。母の思い出は尽きないが、二人の弟が幼かったときの、母と私との思い出を書き残しておくことも意味あることと思って筆をとった。
母が、子どもや孫に示した愛情を振り返ると、よくいわれる「海よりも深く、山よりも高い」の言葉が、まさしくこれなんだったのかと思われる。
涙もろい母、思ったことを腹にかくすことのできない母、記憶力のいい母、そして夫を最愛の人として、日本一いや世界一の夫と生涯を共にできた幸せな母、今はなき母に対して限りない感謝をこめ、またこの様な機会を与えて下さいました郷土さぐる会諸氏に心よりお礼申し上げまして筆をおきます。
―― 追 記 ――
著者花輸洋一氏は、上富良野町で生まれ上富良野町で育った人である。大学卒業時、教員になるか、役人になるか迷ったこともあったと聞いているが、最終的には道庁に就職したのである。昭和三十四年のことであった。
北海道教育庁勤務を振り出しに、生来頭脳明噺と積極的に物事を処理する真面目さが認められ、平成元年遂に宗谷支庁長に抜擢されたのである。編集委員の知る限りに於ては上富良野町出身者では唯一人ではなかろうか。
彼をしてこのように発展させた育ての親を思うに、両親共にすばらしい人である。特に母親は戦中戦後と夫の不在の中で健気にもよくその留守を守り、商売の傍ら子弟を養育し大変だったのである。筆者の親思う心と、子を思う親の心がひしひしと身に迫ってくるのである。この文を通して昭和の女性のありのままの姿を読みとることが出来、感銘を深くするものである。
編集委員  勝井 記

機関誌 郷土をさぐる(第14号)
1996年7月31日印刷  1996年7月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉