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石碑が語る上富の歴史(その10)

中村 有秀 昭和十二年十一月二十八日生(五十五才)

十勝岳頂上の碑『光顔巍々』と門上浄照師

十勝岳頂上の碑『光顔巍々(こうげんぎぎ)』

・建立年月日   昭和十七年七月(紀元二六〇〇年七月)
・建立場所    十勝岳頂上
・碑の揮毫者   大谷光照貌下(浄土真宗西本願寺第二十三世法主)

はじめに
上富良野町に開拓の鍬が下ろされて、平成九年には開基百年を迎える事になります。
この約百年の歴史の中で、祖先と共に現在に生きる私達は、喜びにつけ悲しみにつけ、朝な夕なに十勝岳を仰ぎ見る生活を過して来ました。
ある時は、素晴しい十勝岳連峰を見て感嘆の声を上げ、又、悲しみの中で見る十勝岳に大いに元気づけられた事も、長い歴史の中で数々あったことでしょう。
上富良野町を離れて故郷を思う時、必ず脳裏に浮ぶのが十勝岳連峰の春夏秋冬であったという。又、故郷を紹介する時は「十勝岳の麓上富良野」「ラベンダーの町かみふらの」と先ず言います。
上富良野百年の歩みの中で、大正十五年の十勝岳大爆発の惨事、昭和三十七年の噴火、昭和六十三年の小噴火と、十勝岳とは切り離せない生活が営々として続いています。
今号は、十勝岳頂上碑「光顔巍々」と、その建立の中心的人物であり、十勝岳を仏教霊山として開発しようとの悲願を着々と実践された故門上浄照師(聞信寺第二世住職)について記します。
十勝岳頂上碑「光顔巍々」建立の発端
門上浄照師は大自然に富む十勝岳を、精神教化の母ともいうべき聖徳太子の聖範を基に、北海道の仏教一霊場として開こうとの大願をいだき、大正十年八月には、次の『趣意』を書かれた。
趣  意
私共は折角人間として生れて来たのでありますから、精神的にも物質的にも、なるたけ多くの事業に関係して其共進程に参与し、有らん限りの力を致すべきことを心がくべきでありませう、所が私は複雑な世相に引きずられて余儀なき歩みを続けて居るものであるやうに考へられてなりません、かうした考へから回顧しますと、私の過去の仕事に生命が見えなくなって参ります、私は無生命の労作の堆積に過ぎないのだと思ふと何とも言ひ得ぬ淋しさを感ぜずには居られません、人は種々な経験を持って居ますけれども、この経験を整理することが出来ないで悶えて居るのが少なくはないのではあるまいかと私は思ひます
道を求むるに必ずしも山とは限らぬ、生命を探る静寂の境でなければならぬといふのではありませんが、実際を申しますと時には騒々しい環境から離れて沈思し、うるさへ日課を忘れて瞑想することも私共に望ましいことであります、これは唯私一人の心情ではなからうと思はれます、こんなことから私は多年閑寂静静寥な霊地が有ったらと考へて居たのであります、然るに今度私は恰好な勝地を見つけたので大方の諸賢に御相談を申し上げ且つ御願ひせずには居られなくなったのであります、何卒私をして霊地の大概と計劃の一般とを語らせて下さい
足一度富良野線を踏めば海抜六千九百尺東方の天空を劃して聳立する十勝岳の連峯を仰ぎ見るでありませう、四時常に緑なる密林を懐にして、ぬっと熔岩に焼けた禿峯腮を落した處に噴煙が立ち上って居る、これが俗称硫黄山で岩脊奇態走りては止まり、止りては千仭の断崖を成す、天工の妙到底筆にすることは出来ません、これと指呼の懸崖を隔てゝ温泉がある、清澄些のの潤色なく垢穢を去らずんば止まさるものがあります、今では上品な湯宿が有って客を容れて居る、温泉を南に五六十歩の處眺望洞然瞰下幾十里自ら身の軽きを覚えられます、一たびこゝに立てば恐らくは生涯忘れることのない爽快を有せられます、夕張岳を西南四五里の處に望み、北は石狩岳と相對して石狩の大平原を呑む耕園乃畝たヾ指すに任せ、裾野の汽車が走るところ下富良野、上富良野、旭川が数へられます若しそれ頭を回らせば高峯儼然人の知らぬ遠い歴史を蔵して寛るやかに我を撫でヽ居る、私はこヽに立ちて幾回か泣いた、そして私はどれだけ教訓を得たか知れません
私はこの仙境を得て遂に大願を思ひ立つやうになりました、それは此地に我が文明の父といふべく精神教化の母とも申すべき聖徳太子の聖像を安置し講堂を建てゝ、彼の日夕繁激な仕事に馳驅して心身共に疲れた人々を此霊場に遊ばせたい、崇高な太子の御生涯を偲ばせたい、講堂に徳者の提唱を聴かせたい、かくの如くして佛の所謂修己潔体洗除心垢の大方便たるを得ることあらば私は人々と共に折角人間に生れましたことを心から喜ぶことが出来やうと思ふのであります
私は此大願の前には一點私心私欲を挿まぬことを俳陀に誓ひます
ざっと一通りを語りました、どうぞ御同心を願いますどうぞこの大願を成就させて下さい、殊に紀元の新らしい本道に一霊場を創造し得ますならば将来を教ふることゝもなろであらうと思ひます
大正十年八月         
上富良野 聞信精舎にて
門上浄照識す
大正十年秋には旧噴火口の付近に太子堂建築のための仮小屋を建て、近くに飲料水になる池があって登山者の宿泊にも使用させていた。
大正十一年八月に再度「趣意」を書かれると共に聞信寺内に「篤敬聖徳会」をつくり、会則によって会員を募り、大願への準備も進んだが、翌年の関東大震災によりその救援が中心となって太子堂は建設できなかった。
    「篤敬聖徳会」の会則一部

十勝岳ノ中腹(海抜三千五百尺)付近ニ於テ官地ノ貸下ケヲ受ケ太子堂及ビ講堂ヲ建設シ篤志家ヨリ寄贈ノ聖徳太子聖像ヲ奉安ス
納骨堂ヲ建設シ会員中死亡者アリタル時ハ白骨ヲ分納セシメ毎年一回追弔法会ヲ執行ス
十勝岳をこの上なく愛し、岳人が来ると必ず同行案内等もしたので、登山回数も毎年二十回以上にもなったという。
仏教精神によって霊場的な十勝岳を開山しようとした門上浄照師は、十勝岳を源とするヌッカクシフラヌイ川の上流の滝の名に、聖徳太子の法華経義疏・維摩経義疏・勝鬘経義疏の三経義疏から「法華の滝」「維摩の滝」「勝鬘の滝」とつけたのである。
昭和十二年二月二十八日西本願寺第二十三世法主大谷光照貌下が来村し三月一日十勝岳にスキー登頂され、山岳スキーを楽しまれると共に十勝岳の大自然に満足される。二日後の三月三日にも聞信寺に御立寄り光栄に浴した時に、門上浄照師は十勝岳を仏教の霊山としての開発に積年の悲願と努力を申し上げ、十勝岳山頂の霊とすべき碑に光顔巍々の文字を所望し揮毫を懇願申し上げたところ、大谷光照貌下は永年の御苦労を讃えながら御快諾をされたのです。
大谷光照貌下が揮毫された書は、同年三月末に聞信寺に送付されてまいりました。その書には墨跡あざやか『光顔魂々(こうげんぎぎ)』とありました。
『光顔魂々』の書は、表装され掛軸として聞信寺に大切に保存されています。
『光顔巍々』の意
浄土真宗西本願寺第二十三世法主大谷光照貌下の書かれた、十勝岳頂上碑「光顔巍々」は浄土真宗の根本経典「大無量寿経」の中にある『讃佛偈(さんぶつげ)』の冒頭の経文で、意は『雄々しくおごそかにそびえたつ十勝岳の姿は、光に輝く佛の徳のように偉大である』として仏徳讃嘆してのお言葉(聞信寺第三世住職門上美義師談)といい、正に霊峰十勝岳頂上にふさわしい頂上碑文と感じます。
十勝岳頂上碑「光顔巍々」の建立
昭和十二年三月末に送付を受けた「光顔巍々」の書は、支那事変勃発となり頂上碑の建立は一時見送らざるを得ない状況になりました。
昭和十七年、聞信寺の壇信徒・岳人仲間・村役場の御支援により、いよいよ建立の準備に入る事になりました。
碑は設計段階では四角柱であったが、頂上までの運搬には重量が重過ぎるとの意見で、現在の三角柱になった。
昭和十七年七月、朝六時に吹上温泉に集合し土橇に「光顔巍々」の碑を乗せて頂上に向って出発す。
指揮は夏山、冬山のベテランで威勢のいい西村又一さんが号令をかけ、急峻な道なき泥流跡を、特に前十勝の急な坂には大変に難儀され、ロープが切れたり、土橇がづり落ちていったりの繰り返しであったと、当時、東中青年団長で運搬に携った、南 藤夫氏(元町議会議長で現在カミホロ荘支配人)が述懐されていました。
頂上への運搬は、聞信寺の若き壇信徒と、村内の各青年団長十五名が中心になって行われ、綱を引く人、土橇を押す人と懸命の人力で頂上に運び上げる事が出来たのです。
花崗岩で丈三尺五寸・表面一尺三分・両背一尺の三角柱に刻まれた『光顔巍々』の十勝岳頂上碑を建立し、汗と涙の歓声を上げたのです。
碑の裏面には
『維持昭和十二年三月一日 西本願寺法主
大谷光照師當山頂上ヲスキーニ据リ踏破シタル記念トシテ表記ノ如く揮毫セラレ之ヲ刻シテ後昆に傳フ矣
紀元二千六百年七月建之』
十勝岳の夏山・冬山を登山する人々は、ひたむきに頂上を目ざし体力と気力そして汗を流し、頂上碑『光顔巍々』にたどりつき、征服感と安堵感と喜びを感じ、三六〇度の景色のパノラマに感激します。
しかし悪天候、事故等での遭難も十勝岳では発生しております。私達は「光顔巍々」の意を理解しながら、この頂上碑建立に大きく尽力された門上浄照師に深甚なる感謝と、建立に携った関係者に心から御礼を申し上げます。
南藤夫氏は……『光顔巍々』の碑を運んだ仲間と、元気な内に十勝岳頂上に達し、『光顔巍々』に触れ、そして感謝を申し上げたい……と今回の取材で語ってくれました。
門上浄照師が建立された石碑の数々
門上浄照師は仏教精神で十勝岳を北海道の霊山にしようとの大願を抱きながら、ひとつひとつその実現に邁進されました。
その中に石碑の建立があります。歌碑・句碑については、旭川市慶誠寺住職であった石田慶封師(俳名雨圃子)の影響が大きかったと思います。
建立年代順に石碑名・建立年月・建立場所について記します。
一、長谷川零餘子の句碑
      『鬼樺の 中の温泉(ゆ)に来ぬ 橇の旅』
・建立年月   大正十三年七月
・建立場所   十勝岳・白銀荘前
二、石田雨国子の句碑
      『秋晴や 雪をいただく 十勝岳』
・建立年月   昭和二年七月
・建立場所   十勝岳・中茶屋入口
三、十勝岳爆発横死者血縁塔
・建立年月   昭和二年八月十三日
・建立場所   聞信寺境内
四、十勝岳爆発災害記念碑
・建立年月   昭和三年十月七日
・建立場所   十勝岳泥流の丘
五、九條武子の歌碑
      『たまゆらの けむりおさめて しずかなる
             山にかえれば 美るにしたしも』
・建立年月   昭和四年七月九日
・建立場所   十勝岳泥流跡

☆全国にある『九條武子の歌碑』
(十勝岳の歌碑が最初に建立されたものです)

(一) 昭和4年7月9日建立  上富良野町・十勝岳泥流跡
  「たまゆらの けむりおさめて しずかなる 山にかえれば 美るにしたしも」
(二) 昭和9年11月建立  東京・築地本願寺別院境内
  「おほいなる もののちからに ひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや」
(三) 昭和29年6月13日建立  京都・比叡山釈迦堂前
  「山の院 ?子の端に せきれいの 巣あり雛三つ 母待ちて鳴く」
(四) 昭和31年5月16日建立   旭川・神居古澤石狩川畔
  「たぎつ波 ましろう白う 岩にちる 神居古澤の くもれる真昼」
(五) 昭和40年6月11日建立   長岡市・西福寺境内
  (築地本願寺別院境内に建立の短歌と同じ)
  (大正6年4月13日に武子巡教記念)

六 十勝岳頂上碑「光顔巍々」
・建立年月   昭和十七年七月
・建立場所   十勝岳頂上
十勝岳にある石碑
@ 十勝岳頂上「光顔巍々」の碑 十勝岳頂上 昭和17年7月西本願寺法主大谷光照貌下揮毫
A 十勝岳産業開発道路記念碑 十勝岳凌雲閣の前 昭和46年9月 「防人の若き力をたぎらせて春のあけやらぬ十勝の拓道に」
B 九条武子の歌碑 十勝岳泥流跡 昭和4年7月 「たまゆらの けむりおさめて しずかなる 山にかえれば 美るにしたしも」
C 会田久左衛門の歌碑(会田清洞) 十勝岳安政火口入口 昭和50年8月 「風に吹かれ 吹雪に耐えて 岩に根をまく 松の幹」「負けるものか と夜空に問えば 月がほほえむ 十勝岳」
D 岡本三男の碑 十勝岳泥流跡 昭和29年6月
E 十勝岳爆発記念碑 吹上温泉から泥流に出る丘 昭和3年8月
F 長谷川零餘子の句碑 吹上温泉白銀荘の前庭 大正13年7月(昭和42年改修)「鬼樺の 中の温泉に来ぬ 橇の旅」
G 石田雨圃子の句碑 十勝岳中茶屋入口 昭和2年7月 「秋晴 や雪をいただく 十勝岳」
<聞信寺第二世住職 門上浄照師の略歴>
●明治14年 1月 6日 岐阜県郡上郡川合村大字河鹿弐拾八番戸にて門上暗雲・はるえの弐男として出生す
●明治31年 3月23日 得度して俗名栄を浄照と改名
●明治38年 3月 第三仏教中学校卒業
●明治38年 4月 岐阜県郡上郡戸部尋常高等小学校高等科代用教員被命
●明治39年 4月20日 同校教師拝命
●明治39年 5月 9日 依願退職(札幌別院奉仕のため)
●明治39年 5月16日 札幌別院奉仕拝命
●明治41年10月22日 依願本役被免
●明治42年 1月 7日 上富良野村数覚寺(現在中富良野町西中)駐在被申付
●明治43年10月10日 上富良野市街地発展を予期し上富良野説教所創立駐在兼務被申付
●明治45年 2月25日 教覚寺住職拝命
●大正 2年 3月 仏教婦人会創立 門上ふじの会長就任
●大正 5年 4月 巡回布教使拝命
●大正 5年 5月11日 上富良野説教所設立認可を得て島津農場(現在市街地)に設立開教す
●大正 8年 8月18日 北海道庁指令第七〇二七号にて聞信寺と寺号公称の許可なる
●大正 8年11月12日 間信寺開基住職に父暗雲を推挙し、副住職に就任する
●大正10年 8月 十勝岳を仏教的な霊山として太子堂建設の趣意書作成配布される
●大正10年 8月 8日 北海道教区北組組長を拝命してより昭和20年7月1日に至る永年の間組長の職に勤務す
●大正11年 8月 聞信寺内に篤敬聖徳会をつくり趣意書配布
●大正12年 3月 2日 俳人長谷川零餘子・石田雨圃子の両氏、十勝岳へ橇の旅
●大正13年 3月19日 開基坊守である母門上はるえ往生、法名 悉法院釈正念法尼、享年83歳
●大正13年 3月22日 開基住職である父門上暗雲入寂、法名 暗雲院釈浄念法師、享年83歳
●大正13年 7月11日 二世坊守である妻門上ふじの往生、法名還浄院釈紫雲法尼、享年34歳
●大正13年 7月 俳人長谷零餘子の句碑を十勝岳吹上温泉前に建立  『鬼樺の 中の温泉に来ぬ 橇の旅』
●大正15年 4月 7日 副住職であった門上浄照、聞信寺第二世住職を拝命
●大正15年 4月 9日 北海道仏教学院に幹事となる。
●大正15年 5月24日 十勝岳大爆発し百四十四名の犠牲者を出す。犠牲者の捜索と供養、遺家族の救護に尽力される。
●昭和 2年 7月 俳人であり旭川市慶誠寺住職の石田雨圃子(慶封)の句碑を十勝岳中茶屋に建立『秋晴や 雪をいただく 十勝岳』
●昭和 2年 8月13日 十勝岳大爆発の犠牲者で無縁故者12名の横死者のため、聞信寺境内に『十勝岳爆発横死者血縁塔』を建立
●昭和 3年10月 7日 十勝岳爆発により犠牲となった平山硫黄鉱業所及び丸谷温泉の惨死者は現地で火葬にされたが、その残骨残灰を収容し墓標と、爆発の長期間にわたる救護・観測・研究のこの地での記念として『十勝岳爆発記念碑』建立
●昭和 4年 5月 1日 上富良野村農繁期託児所「楽児園」を開設す。
●昭和 4年 7月 9日 九條武子夫人の歌碑建立す。歌碑除幕式に大谷光明貌下来られ聞信寺に御立寄りされる。『たまゆらの けむりおさめて しずかなる 山にかえれば 美るにしたしも』
●昭和10年 1月10日 上富良野仏教青年会創立す。
●昭和12年 2月28日〜 3月 1日・ 3月 3日 西本願寺法主大谷光照貌下十勝岳にスキー登山せられ、2月と3月再度聞信寺に御立寄の光栄に浴す。
●昭和12年 9月 3日 北海道方面委員(北海道庁)となり、昭和21年11月30日まで務む。
●昭和14年 2月 5日 北海道教区会議員に選任される。
●昭和15年 7月 8日 聖徳太子御尊像を聞信寺に御安置す。
●昭和15年11月 3日 皇后陛下より聞信寺施設の上富良野農繁期託児所「楽児園」に金一封御下賜の光栄に浴す。
●昭和17年 7月 大谷光照貌下御揮毫の十勝岳頂上碑『光顔巍々』を十勝岳に建立す。
●昭和21年 6月25日 上富良野村社会教育委員となる
●昭和22年 1月 7日 築地本願寺法務主任 池上美義入寺、門上信子と仏前結婚式を挙ぐ。
●昭和22年 3月 北海道教区会副議長に選任される。
●昭和24年 7月21日 門上美義聞信寺副住職を拝命。
●昭和24年 9月 1日 聞信寺経営託児所「楽児園」を上富良野村に移管す。
●昭和25年 7月 聞信寺納骨堂建築落成
●昭和30年 4月 3日 昭和16年より中断せる仏教青年会再建設立発会式を挙行。
●昭和30年 4月 3日 第二世住職門上浄照師入寂 法名 聞信院釈浄照法師 享年77歳
第二世住職門上浄照師の略歴を記しましたが、師は北海道教区の役員をしながら、十勝岳の開発に心血を注いだ足跡は非常に大きく、町内に建立されている石碑は師の影響力によるものが多い。
昭和四年五月に本堂を開放して農繁期託児所「楽児園」を開設した事が、本町の幼児教育の尊い歴史となっています。
浄照師は『聞信寺と保育の事業は切り離してはならぬ、法事や葬式をするばかりが仏教の本義でない。仏の子供を育てることが第一である』と生前語っていた。

機関誌 郷土をさぐる(第11号)
1993年2月20日印刷 1993年2月25日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉