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8章 地域の百年 第2節 地区の歴史

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8、日の出

 

 開拓の始まり

 行政区として日の出地区が形成されたのは、中富良野との分村によって上富良野が14部に編成された際、第六部として独立したときである。それまでは草分、旭野、市街地などに含まれる地域だったのである。しかし、第六部として枠組みができて以降も、境界は一定とはいえない。他と比べるとかなり性格の違う地区といえそうである。

 また、移住者の歴史についても調査が難しい地区といえる。個人移住者が多いことや、開拓当初に貸し下げられた土地のほとんどが、牧場地であることも理由のひとつである。とくに牧場地の場合、占める面積が広く、造材が目的の場合などは所有者が次々と変わっていることも追跡を難しくしている。

 『上富良野町史』よれば、日の出地区で最も早く開設された牧場は、コルコニウシュベツ川が山地入る附近に設置されたとする西川牧場である。開設は明治34年だが、典型的な造材目的の牧場といえるだろう。木を切り出したあとは相馬牧場となっている。

 また、明治36年には日の出から旭野にまたがる地域に渡辺牧場が開設されているが、37年には岡部牧場と、境牧場に所有が代わっている。さらにまた、この岡部牧場の一部が明治43年に宮北牧場と脇坂牧場に売却され、残りは大正5年に宮下牧場に売却されている。次に、売却されて開設された牧場についていうと、宮北牧場は大正10年、九人牧場に売られ、宮下牧場は多田牧場と五十嵐牧場にそれぞれ所有が代わっている。

 

 学校と宗教

 日の出地区に開拓期、学校は作られていない。市街地に近く上富良野尋常小学校(上富良野小学校)の通学区域に含まれていたためであろう。これに関連していうと三重団体の区域が日の出地区にもかなり含まれている。これは部制が施行された際、上富良野簡易教育所と上富良野尋常小学校の通学区域によって境界を設定したためといわれている。行政区と学校との関わりを考える上では興味深い。

 地区神社については、『上富良野町史』に和田松ヱ門、村上学蔵などが発起人となって、昭和21年に日の出神社を創祀したことが記されているが、『石碑類宗教施設調書』(町史編纂室)にその記載はない。現在は祀られていないようである。

 

 現在の日の出住民会

 市街地に隣接していることもあり、日の出地区にも市街化の波が押し寄せている。現在は市街地である扇町、泉町はかつての日の出地区であった。平成8年4月現在で、日の出住民会(会長・橋本公吉、109戸)を構成しているのは、次の農事組合と住民会である。

 

 日の出一農事組合(組合長・藤崎隆、18戸)

 日の出二上農事組合(組合長・石川和宏、10戸)

 日の出二下農事組合(組合長・丸田道規、12戸)

 日の出三南農事組合(組合長・浦島義弘、13戸)

 日の出三北農事組合(組合長・稲垣征、11戸)

 日の出四東農事組合(組合長・川田哲司、15戸)

 日の出四西農事組合(組合長・木村敏男、4戸)

 日の出五農事組合(組合長・西崎正吉、9戸)

 日の出六農事組合(組合長・喜来光雄、11戸)

 北町町内会(町内会長・金山規雅、6戸)