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8章 地域の百年 第2節 地区の歴史

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7、江花

 

 開拓の始まり

 江花地区が独立した行政区を形成したのは、大正6年、中富良野との分村で部を再編成した際である。それまでは中富良野の新田中とともに、第十一部を形成していた。それだけに西部地区としては開墾の着手も早く、明治35年には村木九兵衛が未開地貸し付けを受けて村木農場を開設。その後、入植が本格化するのはエホロ殖民区画地が開放された39年以降で、団体移住を中心に開墾が進められていったのである。

 『上富良野町史』によれば、まず明治40年には大野嘉一を団長とする土佐団体、大場金五郎を団長とする山形県村山郡と置賜郡の人々27戸、高階某を団長とする秋田団体がと、団体移住民が相次いで入地した。また、41年には越後団体が入植したとある。ただ、この団体については足跡をほとんどたどることができない。さらに、45年になると、霜取四郎が大地積の貸し下げを受けて霜取牧場を開設している。造材目的の牧場だったと考えられるが、成功検査に合格すると区画を設定して売り払ってしまったのだという。江花地区もこのように、明治40年を境に移住者が急増し、開墾が進んだのである。

 

 学校と宗教

 こうした団体や個人などの移住者が急増するなかで、子弟教育が問題となるのは江花地区も同様であった。しかも、この地区は市街地の上富良野尋常高等小学校の通学区に入っていたため、長い道のりを通学していたのである。そのため、住民たちは学校設立の運動を進め、村木農場内の家を修理して仮校舎として、明治41年7月ようやく上富良野第一教育所が開校した。同校は大正6年に江花尋常小学校と改称されたが、この年、中富良野と分村している。既に述べたように、江花地区は新田中とともに第十一部を形成していたこともあり、中富良野も通学区域に入っていた。しばらく、中富良野の児童の通学は続いたのである。

 昭和16年の江花国民学校への改称、さらに戦後は江花小学校となる経緯は他の小学校と同じだが、創成小学校の項で述べたように、過疎化のなかで上富良野西小学校への統合問題が浮上した。

 昭和42年度には複々式になることが予想されていたためか、教育委員会との話し合いのなかでも強硬な反対意見は限られていたようである。42年2月に話し合いはまとまり、新校舎完成まで授業は続けられたが、日付けの上では42年4月に統合となった。

 地区神社である江花神社の創祀は明治43年で、もともとは村木農場の神社としての創祀だったといわれる。昭和49年には開拓70周年を記念して社殿を新築している。

 

 現在の江花住民会

 平成8年4月現在で、江花住民会(会長・升田弘一)を構成するのは、次の6組合、42戸である。

 

 江花一農事組合(組合長・花田久泰、14戸)

 江花二南農事組合(組合長・中田宏幹、10戸)

 江花二北農事組合(組合長・物井秀明、6戸)

 江花中央農事組合(組合長・武田勝吉、5戸)

 江花三農事組合(組合長・菊池祐司、4戸)

 江花四農事組合(組合長・井村昭次、3戸)