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8章 地域の百年 第2節 地区の歴史 1243-1245p

6、静修

 

開拓の始まり

既に述べたように静修地区も江幌同様、大正8年に第四部が北(静修)と南(江幌)に分割されたときが地区の形成ということになるが、同様にまた、大正2年の「部長設置規程」改正で、行政区が18部編成(中富良野を含む)となり、江幌、静修両地区が第十六部とされた時代、さらには里仁を含めた明治41年の第十一部とされた時代にまでさかのぼることができる。

静修地区への入植は区画地の開放が明治39年であり、それ以降ということになるが、まず、宮城団体は『上富良野町史』によると、明治40年、佐々木利左エ門を団長に宮城県の東田郡、志田郡、栗原郡の3郡の人々が18戸入植したものだという。また、福島団体は明治37年に福島県人20戸が入地したものというが、区画の開放時点を考えるとこの『上富良野町史』の記述は誤りと思われる。これに続く岡山団体は、大正元年(明治45年)の入地で、入植者の春名金太郎「岡山団体(静修)のゆくえ」(『郷土をさぐる』第3号)によれば、当初はルベシベ御料地に入植したのだが、静修に成功検査に合格しなかった土地があったため、春名金太郎はじめ団体メンバーがそれを譲り受けて再入植したのだという。

 

戦後開拓

静修地区は清富同様、戦後緊急開拓事業による開墾が行われている。佐藤耕一「静修開拓の足跡(その1)」(『郷土をさぐる』第12号)によれば、東京空襲による疎開者12戸と、樺太よりの引揚者2戸が昭和20年に入植、さらに26年には地元から2戸が入植して、16戸がこの地区の開墾にあたったという。開墾から15年ほど経って、ようやく本格的に収量が上がるようになったというが、このころから櫛の歯が抜けるように離農が始まっている。そして、清富は50年代であったが、静修地区も同じように、63年春の離農で、戦後開拓事業も終わりを告げたのである。

 

学校と宗教

江幌小学校の項でも述べたように、大正7年9月、静修特別教授場が開校している。それまでは江幌尋常小学校が、静修地区児童の通学区であったのだが、学校の位置の関係で静修には通学困難な児童もいたのである。そのため地区住民の間には移転の要望や不満があるなかで、江幌尋常小学校増築が明らかになったため問題化したといわれている。結局、このときの妥協案として静修特別教授場の開校が決まった。

昭和4年に再び静修特別教授場は江幌尋常小学校と合併するが、このときは美瑛の二股に特別教授場が開校したことが引き金となったようである。ここは静修の隣接地であるため、静修特別教授場の生徒が激減したのだという。そのため統合が浮上したのである。今回の合併に当たっては、静修と江幌の中間点である西9線北29号に建設することなどが配慮され、この年の11月から通学を始めたのである。

一方、地区神社としては静修神社(熊野神社)がある。明治42年、宮城団体の創祀したもので、大正5年に神殿を建立、7年には福島団体や地区の地神を合祀している。熊野神社の名は熊の被害を除くためだったという(『上富良野町史』)。

 

現在の静修住民会

平成8年4月現在で、静修住民会(会長・宮島一郎)を構成するのは、次の6組合、28戸である。

 

静修一農事組合(組合長・本田陽一、11戸)

静修二農事組合(組合長・白井敏雄、6戸)

静修三農事組合(組合長・遠藤和郎、1戸)

静修四農事組合(組合長・加藤朝義、3戸)

静修五農事組合(組合長・海老名与三郎、3戸)

静修六農事組合(組合長・宮島久雄、4戸)