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8章 地域の百年 第2節 地区の歴史

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5、江幌

 

 開拓の始まり

 江幌地区も明治39年のエホロ殖民区画地の開放で開拓が始まった地域である。地区の形成は大正8年に第四部南(江幌)と第四部北(静修)に分割された時点ということになるが、分割される前の第四部の成立ということでは、大正2年の「部長設置規程」改正で、行政区が18部編成(中富良野を含む)となり、江幌、静修両地区が第十六部とされた時代、さらには里仁を含めた明治41年の第十一部とされた時代にまでさかのぼることができる。

 里仁地区もそうであったが、江幌地区もエホロ殖民区画地の開放とともに、団体の入植、農場の開設が相次いだ。まず、明治39年には後藤貞吉を団長に岐阜県武儀郡小金田村の25戸が入植している。続いて40年(『上富良野町史』は36年)には奥野仙蔵を団長に滋賀県から15戸が入植した。また、団体としては明治43年に岩手県胆沢郡衣川村から15戸が村上兵馬を団長に入植するなど、開墾は着々と進んだのである。

 一方、農場では41年に下富良野で旅館を経営していた清水運吉が、カネキチ農場を開設している。『上富良野町史』によると農場名は旅館の屋号であったようで、大正期に入り豆景気も終わった後、農地は切り売りされて閉じられたようである。

 

 学校と宗教

 江幌地区の学校開設は明治43年4月の上富良野第二教育所の開校に始まる。江幌だけでなく静修地区も含むエホロ殖民区画地の移住者噌加による子弟教育の必要性に対応したもので、42年12月には校舎敷地の無償付与の認可を受け、校舎の建築資金に関しても住民の寄付によって手当がついていたといわれる。

 また、開校の翌年である44年に28坪の増築が行われ、45年4月には他の地区にさきがけて江幌尋常小学校へとなったのである。こうした同校の拡充は、この時期の江幌、静修両地区における移民急増を物語っている。

 大正に入っても両地区への入植は続き、広大な地域のなかで通学に不便な児童もあらわれるようになった。そうしたなかで浮上したのが同校の増築、移転問題だったといわれる。詳細については第4章第5節「大正期の教育と青年会」に詳しいが、同校の一部増築と大正7年9月の静修特別教授場の開校で一時、決着したとされる。しかし、昭和4年10月には両地区の中間点に江幌尋常小学校が移転新築した上で、静修特別教授場を統合し問題は解消したのである。その後、同校は昭和16年の江幌国民学校、戦後の江幌小学校と名称を変え、他の小学校と同様の変遷をたどるのだが、昭和40年には校舎を全面改築、開校80周年を迎えた平成2年にも再び全面改築され、現在に至っている。

 また、戦後の新教育制度のもとで新制中学校が発足したが、江幌地区の生徒たちにとっても、市街地の上富良野中学校への遠距離通学は大きな負担であった。そのため地区住民は分校設置を要望し、25年10月に上富良野中学校江幌分校が開校した。通学区域は江幌、静修両地区で、27年4月には江幌中学校として独立している。ただ、日新中学校に関する記述で既に記したように、学校規模の適正化という動きのなかで昭和39年4月、上富良野中学校へと統合されることになったのである。

 一方、地区神社としては江幌神社があるが、『江幌誌』(平10)によると、創祀は明治42年。昭和27年に移転する際、岐阜団体が創祀した白山神社と、地区内の地神を合祀したという。

 また、昭和53年になって現在の位置に移転建立されるのだが、このとき滋賀神社、衣川神社も合祀された。

 

 現在の江幌住民会

 平成8年4月現在で江幌住民会(会長・小原勇治)を構成するのは、次の3組合と江幌三教員住宅(5戸)の31戸である。

 

 江幌協栄農事組合(組合長・早田恵一、9戸)

 江幌更生農事組合(組合長・包子博幸、11戸)

 江幌三農事組合(組合長・中瀬実、6戸)