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8章 地域の百年 第2節 地区の歴史

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4、里仁

 

 開拓の始まり

 フラヌ殖民地の開放は明治30年だが、上富良野の西部にあたるエホロ殖民区画地の開放は遅れること9年。この区画地に含まれていた現在の里仁地区の開墾への取り組みは、おのずと明治39年以降ということになる。

 このように富良野盆地のなかでは遅れて開放された里仁地区だが、開放後は団体、農場、そして個人移住と、様々な形態の移住者たちによって急速に地域の開拓が進んだ。その入植者たちの動向を『上富良野町史』をもとにたどると、まず明治40年には守屋熊治を団長とする宮城県登米郡豊里村の人々20戸による豊里団体と、原田徳次郎を団長とする徳島県那賀郡和月村の人々20戸による阿波団体が入地している。ただ、この団体入植は脱落者も多く、これらの土地を切り開いたのは、その後の個人移住者たちだったともいわれる。

 また、42年には津郷三郎の津郷農場が開設され、同じ年に美瑛の田中亀夫の第二マルハチ牧場も開設されている。第二マルハチ牧場は大正2年、沼崎重平に引き継がれ沼崎農場となるが、この年の「部長設置規程」の改正で第十七部として行政区としては独立したかたちとなっており、これらの移住者たちがそれぞれが横のつながりを深めながら里仁地区は拓かれていったといえる。

 なお、地区名については何度かの変更が行われ、里仁に定着したのは昭和36年、区制が復活した際であると『上富良野町史』は記している。

 

 学校と宗教

 豊里団体の20戸に加え農場にも小作農家が入場し、開墾が本格化するなかで地区の入植者たちは子弟教育の必要に迫られていた。当初は神山翁宅で寺子屋式教育を行っていたといわれるが、学校設立の機運が盛り上がるなか、明治44年4月に学校開設の認可を受け、10月6日には初めての学校である上富良野第三教育所が開校されたのである。建坪35坪の校舎は地区住民の寄付によるものだったといわれる。

 同校は大正5年の法改正によって里仁尋常小学校と改称され、同じく昭和16年には里仁国民学校、また戦後は里仁小学校という校名の変遷をたどり、昭和48年には上富良野西小学校へと統合された。背景には既に他の各地区の統合に関する記述のなかで述べてきたように、過疎化による児童数の減少があった。里仁地区の場合もまた地域の中心施設を失うことへの住民の抵抗感は強く、教育委員会との話し合いは順調にはいかなかったが、スクールバスや道路の管理、さらに公民館分館新築という地域住民施設の設置という条件が認められた上で話し合いはまとまったのである。

 地区内の神社としては、豊郷八幡神社がある。『上富良野町史』によれば、大正5年豊里団体の団体長、守屋熊治が創祀したとあるが、『石碑類宗教施設調書』(町史編纂室)では明治45年創祀とする。大正10年に沼崎八幡神社を合祀、昭和58年8月に全面改修された。『石碑類宗教施設調書』にはもうひとつ、津郷八幡神社も掲載されている。

 

 現在の里仁住民会

 『昭和十三年版村勢要覧』に記されているのは、共進と豊郷、第一共和の3農事実行組合で、戦前はこの3組合となっているが、平成8年4月1日現在では次の5組合、42戸で里仁住民会(会長・南川知弘)は構成されている。

 

 里仁豊郷農事組合(組合長・荒仁、7戸)

 里仁津郷農事組合(組合長・三浦聖一、8戸)

 里仁共進農事組合(組合長・荒直、2戸)

 里仁第一共和農事組合(組合長・伊藤貞夫、10戸)

 里仁沼崎農事組合(組合長・小泉芳幸、6戸)