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8章 地域の百年 第2節 地区の歴史

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3、草分

 

 開拓の始まり

 草分地区はいうまでもなく明治30年、田中常次郎を実質上の指導者とする三重団体の入植に始まった上富良野発祥の地である。その入植の過程と開墾への取り組みについては、既に第3章第2節「三重団体の移住と展開」で詳述されており、ここでは繰り返さない。

 三重団体以外の草分地区における開拓の動きとしては、明治37年、美瑛の堀川松次郎による造材目的の堀川牧場開設がある。

 大正2年にはこれを後の村長である金子浩が購入して金子農場を開設した。豆景気の終焉とともに同農場は手放され、ブローカーなどの手を経て所有者も次々と代わったが、昭和14年頃には自作農創出事業によって開放されたことが『上富良野町史』には記されている。

 

 十勝岳災害からの復興

 草分地区の歴史を記す際に、避けて通ることができないのは、やはり大正15年の十勝岳噴火による大きな被害であろう。これについても、既に第4章第10節「十勝岳大爆発」で泥流による被害から、復興をめぐる様々な動きまで詳しく述べられている。ここでは概略を述べるにとどめる。

 噴火が起きたのは大正15年5月24日午後4時頃。火山活動の活発化による前兆は既にあったといわれ、泥流による大きな被害を与えた噴火も、この日の昼頃に続く2度目のものだったとされる。そして、この噴火が引き起こした泥流は、火口から20数`も離れた草分に20数分というスピードで到達、村の存立を揺るがすほどの大被害をもたらしたのである。

 『十勝岳爆発災害志』によると、被害戸数は全戸数の2割に達する299戸。死者・行方不明者は137名。家屋、田畑、道路、鉄道などの被害も大きく、泥流の通路に当たる平山鉱山、新井牧場、三重団体のほとんどが全滅。さらに江幌、日の出、市街地、島津農場の一部など草分地区の周辺にもにも被害は及んだのである。

 災害の直後から吉田貞次郎村長を先頭に町外からの応援も得て救護活動は始まったが、活動が軌道に乗り、多少とも落ち着きを取り戻しつつあるなかで新たな問題も浮上してきた。上富良野の復興は難しいのではないかという悲観的な見方が出てきたのである。村内でも復興か放棄かという議論となったが、吉田村長は復興を強く決断、これを受けて国や道庁も支援体制を本格化、ここに復興の第一歩がはじまったのである。

 

 学校と宗教

 上富良野における子弟教育は寺子屋から始まっている。草分地区でも三重団体が入植した翌年の明治31年、創設された高田派専修寺説教場(専誠寺)に寺子屋が併設され、赴任してきた僧侶の島義空が指導にあたったとされる。また、33年4月には上富良野簡易教育所が認可され西2線北28号の草小屋を仮校舎に授業を開始した。新校舎は西3線北28号の共有地に住民の寄付によって建築、35年に落成している。

 この寺子屋、上富良野簡易教育所ともに、三重団体との深い関係のなかで設立されているが、上富良野簡易教育所の場合は、この時期、東中を除くと上富良野では唯一の子弟教育施設で、通学区域は上富良野一円とされていた。やがて、市街地の形成とともに35年7月、東1線北25号に上富良野尋常小学校が開校。

 上富良野簡易教育所の通学区域は変更され、西2線北26号を境として両校に通学区域が分割されるのである。

 41年になって上富良野簡易教育所は尋常小学校へと変更され、昭和16年に他の尋常小学校同様、国民学校へと変わるのだが、このとき問題になったのが校名である。市街地の上富良野尋常小学校は明治38年に高等科を併置したことで、上富良野尋常高等小学校となっていたが、国民学校に改称する場合、両校とも同じ校名となる。そこで、草分の上富良野尋常小学校が創成国民学校と名称を変え、戦後の新教育制度でも創成小学校としたのである。

 また、昭和30年代になると離農が目立ちはじめ、農業地域での児童数減少、一方では自衛隊上富良野駐屯地の設置により市街地人口が急増し、上富良野小学校のマンモス化などが問題となってきた。そこで町と教育委員会は小学校新設による学校規模の適正化を構想し、39年5月、創成小学校の新設校への統合という方針を明らかにした。草分地区だけでなく市街地児童の通学区変更も含むため、各地区住民と町との話し合いは難航したが、42年になって話し合いはまとまり、創成、江花両校の児童と上富良野小学校から一部児童が加わることで、42年4月に上富良野西小学校が開校することになったのである。

 地区神社としては、明治31年に創祀された草分神社がある。田中常次郎たちが入植した初めての夜に野宿した楡の木を神木として礼拝したというところにも、この神社の性格が窺える。大正15年の十勝岳噴火に際して神殿は流出しているが、昭和2年、義捐金をもとに再建されたことが、『草分郷土誌』に記されている。

 

 現在の草分住民会

 平成8年4月1日現在で草分住民会(会長・篠原正)を構成するのは以下の12組合、106戸である。

 草分一農事組合(組合長・鹿俣民成、14戸)

 草分二農事組合(組合長・平吹俊一、15戸)

 草分三南農事組合(組合長・沼沢幸広、6戸)

 草分三北農事組合(組合長・佐藤耕一、2戸)

 草分三重一農事組合(組合長・伊藤孝司、7戸)

 草分三重二農事組合(組合長・白井隆、12戸)

 草分旭農事組合(組合長・内田登、13戸)

 草分報徳農事組合(組合長・立松昭雄、8戸)

 草分更進農事組合(組合長・富田弘司、1戸)

 草分二区更生農事組合(組合長・船引清吉、8戸)

 草分新生農事組合(組合長・木下智、4戸)

 草分六農事組合(組合長・川喜田誠、16戸)