郷土をさぐる会トップページ    上富良野百年史目次

8章 地域の百年 第1節 地区の形成

1227-1231p

1、行政区と地域

 

 地区の起源

 上富良野を構成する地区としては清富、日新、草分、里仁、静修、江幌、江花、日の出、島津、旭野、富原、東中、市街地の13地区がある。これらの地域が形成された背景については、様々な歴史的要素が考えられるが、そのなかで草分、島津、市街地の起源については分かりやすい。三重団体の入植、島津農場の開設、そして殖民地区画における市街予定地の設定が、これらの地区の起源となる重要な要素であったことは明らかといえるからである。

 一方、複数の農場や牧場の開設、団体や個人の入植によって開拓が進められた他の地区の場合は、多少、複雑である。昭和初期までは現在の地区名より、当時は地名として地図の上にも記されることも多かった団体名、農場名、牧場名で、地域を呼ぶことの方が一般的だったといわれるからである。ただ、歴史的に見ると明治・大正期の「部」や昭和期の「区」など、行政の下部機関として設置された行政区が、地域の形成に重要な役割を果たしたことは明らかである。人々は団体や農場、牧場などのまとまりを保ちながらも、行政区の枠組みのなかでどのように横のつながりを深め、郷土を形成していったのか。この地域形成に深く関係した行政区の変遷については、各時代ごとの「村政(町政)」の項で既に述べられているが、ここでもう一度、概略を整理することで各地区の形成と成立期を明らかにしておくこととする。

 

 明治期の行政区

 上富良野の行政区としては、富良野村戸長役場時代の組制度がまずあり、明治39年の二級町村制の施行とともに部制に移行している。このとき中富良野を含む全体で9部が設置され、41年までに11部まで拡大した。そのなかでまず9部編成時代、二級町村制施行直後の「部長設置規則」(『親展書類』役場蔵)によって設置された部を、現在の地区に当てはめると次のようになる。

 

  第三部−東中の一部

  第四部−東中の一部

  第五部−東中、富原の一部

  第六部−市街地、富原の一部

  第八部−島津、江花

  第九部−草分、清富、日新、里仁、静修、江幌、旭野、日の出

 

 入植地がまだ限られていたこの時代は、開墾が先行していた東中、市街地、島津、草分を中心に部が設置され、この段階でこれら4地区の原型が形成されたことが分かる。

 やがて「北26号以北」全てを含んでいた第九部を分割する形で、40年に「基線及西7線ヲ界トシ北26号線以北」(『村規則』役場蔵)を区域とする第十部、41年に「自西七線北27号線以北、西13線北37号ニ至ル間」を区域とする第十一部が新設されるのである。ただ、この2部編成時の区画については、『村規則』などに記載されている「部長設置規定」の内容と、もうひとつこの時期の部の状況を報告している『村勢調査基楚』の内容では明らかに矛盾しているところがある。例えば、第十部を『村規則』では「基線及西7線ヲ界トシ北26号線以北」としているのに対し、『村勢調査基楚』は第十部に日新の新井牧場や作佐部牧場を含めている点などである。

 「部長設置規定」に従って旧第九部の分割に対し現在の地区を当てはめた場合、大まかには次の3区画に分割されたと考えられる。

 

  第九部−日新、清富、日の出、旭野

  第十部−草分

  第十一部−里仁、静修、江幌

 

 一方、『村勢調査基楚』の記述を採用すると、3区画は次のように分割されたことになるのである。

 

  第九部−日の出、旭野

  第十部−草分、日新、清富

  第十一部−里仁、静修、江幌

 

 大正期の行政区

 大正期に入ると入植者の増加に伴い、大正2年6月に「上富良野村部長設置規則」が改正され、11部編成からさらに18部(中富良野を含む)へと拡大する。この時期はまだ分村前であり中富良野にまたがっている部もあるが、上富良野だけに限って現在の地区を当てはめると次のようになる。

 

  第六部・第七部・第八部−東中

  第十部−島津

  第十一部−江花

  第十二部−市街地南部、富原西部

  第十三部−富原東部、旭野

  第十四部−市街地北部、日の出

  第十五部−草分

  第十六部−江幌、静修

  第十七部−里仁

  第十八部−清富、日新

 

 大正6年4月には中富良野が分村する。これに伴って上富良野の部は大きく再編され14部編成となる。さらに8年4月には北海道一級町村制の施行があり、「部長設置規則」が改正されるが、このときは境界の変更が主な改正点であったと考えられる。こうした分村から一級町村制施行へと至る14部編成時の部を、大まかにではあるが、現在の地区に当てはめると以下のようになる。

 

  第一部−日新、清富

  第二部−草分

  第三部−里仁

  第四部−江幌、静修

  第五部−江花

  第六部−日の出

  第七部−市街地

  第八部−島津

  第九部−旭野

  第十部−富原

  第十一部・第十二部・第十三部・第十四部−東中

 

 また、8年4月の北海道一級町村制施行による「部長設置規則」改正後間もなく、住民の請願によって第七部が旧市街の第七部東と新市街の第七部西に分割、さらに第四部も静修に当たる第四部北と江幌に当たる第四部南に分割され、実質は16部編成となったのである。ここまでの記述からも分かるように、後に分割される清富を除くと、分村から一級町村制施行に至る時点で、現在の各地区はほとんど出そろったことになる。境界の変更はその後も何度か繰り返されるのだが、基本的な区画はここでほぼ定まったわけである。現在の上富良野を構成する各地区の枠組みの成立期を求めるとするなら、やはり大正期ということになるだろう。ただし、冒頭でも述べたように、昭和初期までは現在の地区名より、団体名、農場名、牧場名で地域を呼ぶことが一般的であったといわれ、こうした集団の枠を超えた地域の成立はまだ先のことと思われるのである。

 

 昭和戦前期の行政区

 昭和2年8月に北海道一級町村制が改正になり、部制は区制へと変更された。この時点での変更の詳細は不明であるが、『旧村史原稿』に昭和13年4月の全面改正後、16年5月に一部改正された「上富良野村区設置規定」が記載されている。ここでは第一区が第一区東(清富)と第一区西(日新)に分割され、第十一区も北と南に分割されているところが大きな変更点である。つまり、東中は第十一区北、第十一区南、第十二区、第十三区、第十四区の五区から構成されることとなり、また、最も遅れて地区を形成した清富の分離も、おそらくこの16年5月の一部改正で行われたと考えられるのである。

 一方、この行政区設置とは別に、戦局が進むなか住民の末端まで国家総動員体制を強化するため昭和15年9月、内務省は「部落会町内会等整備指導に関する訓令」を出し、住民組織の整備と編成を指示した。以降、全道で市街地区には町内会、村落地区には部落会が末端の住民組織として設置されることになるのだが、『旧村史原稿』によれば、上富良野でも15年10月には部落会、町内会が組織され、さらに各区単位で聯合部落会、市街地には聯合町内会が組織されたことが記されている。

 この部落会・町内会、聯合部落会・町内会の編成に関連して注目したいのは、『上富良野町史』が次のように指摘している点である。

 

 富良野沿線各町村では昭和時代にはいると区長制度は次第に忘れられ、むしろその下部の組が発達してくるのであるが、上富良野では戦時中となった昭和十六年にも尚生命を持っている。

 

 部や区などの行政区は本来、村政など行政の下部機関として設置された。しかし、そうした機能も併せ持っていた聯合部落会・町内会の設置によって、多くの町村では行政区は廃止となるのだが、『上富良野町史』が指摘するように、上富良野ではそのまま制度として継続されたのである。ということは、上富良野における当時の行政区や区長制度は、単なる行政の下部機関だけではない性格と役割をもっていた、と考えるのが自然であろう。

 

 地区の成立

 昭和に入ると上富良野では行政区の下部組織であった組が再編され、農事実行組合が設立されていった。一方でこの時期は自作農創設事業などが推進され、農場や牧場が崩壊過程に入っていた時期とも重なっている。つまり、従来の団体や農場、牧場という枠組みが次第に流動化へと向かっていたと思われるのである。そうしたなかで、限定された範囲とはいえ、行政区は地区住民の利害を調整する自治組織としての役割を、次第に強めていった。聯合部落会・町内会が設置された以降も、行政区が存続した背景にはこのような事情があったのではないかと考えられるのである。

 同時にまたこのことは、複数の団体や農場、牧場などによって構成されていた行政区においても、ひとつのまとまりを生み出す結果をもたらしたと考えられる。その意味で現在の地区につながる郷土性は、この時期、昭和初期から戦時中にかけて成立したことが想定されるのである。

 このように地域の枠組み作りに重要な役割をもっていた行政区は、住民会や部落連合会と名称を変え、区長は世話人や役場出張所駐在員と名称は変ったが、戦後になっても実質的に制度は存続された。また、昭和36年に行政区という名称が復活、61年には再び住民会へと変わり、境界の変更や一部地区の分割も行われたが、大正期に形成された基本的枠組みと、昭和前期に生み出された郷土性を維持して現在に至っている。

 なお、地区と行政区の関係でいうと、東中と市街地は他の地区とは違う形態を持っていた。ともに地区のなかに複数の行政区を抱えていたからである。これは両地区とも行政区の設置以前に地域の形成を終えていたこととも関連するだろうが、そのなかで東中は行政区の連合組織として大正期に成立した東中住民会があり、他地区の行政区に相当する役割を果たしていたといえる。