郷土をさぐる会トップページ    上富良野百年史目次

7章 現代の上富良野 第10節 町民とスポーツ・文化活動

1174-1179p

1、昭和4、50年代のスポーツ

 

 武道の動向

 昭和30年代、「武道愛好会」として一本化されていた剣道部、柔道部、銃剣道部は、昭和43年12月柔道部が富良野柔道連盟に加入したことからそれぞれ独立し、銃剣道部は「上富良野銃剣道連盟」を結成し、また剣道部も剣道連盟を発足させ、北海道剣道連盟に加入することになった。その後それぞれは独自の道を歩んだが、どの種目も自衛隊の隊員に愛好者が多いことから、練習環境や指導体制は整備され、全国自衛官大会や全道大会をはじめ各種の大会に出場して好成績をあげた。昭和47年7月1日には常磐区にある旧隊員クラブを譲りうけて町立武道館が開設された。また、53年4月には「剣道スポーツ少年団」、「柔道スポーツ少年団」なども結成され、青少年への指導にも力を入れた。

 一方昭和4、50年代は、上富良野に新たな武道が根づいた時期でもあった。昭和43年には「上富良野町弓道会」が設立され、3月に「合気道連合会」も発足している。また昭和45年には上富良野駐屯地に第一〇二装甲輸送隊が新編され、隊員のなかに多くの空手道有段者がいたことから「駐屯地空手道」が結成された。その後昭和51年8月には一般愛好者を含む「全日本空手道連盟剛柔会富良野支部」となり、翌52年には同支部が富良野地区連合会と改称し、上富良野支部が結成された(『体協20年の歩み』)。

 

 写真 柔道スポーツ少年団の練習

  ※掲 載省略

 

 スケート連盟の結成

 昭和30年代に町民の間に広まったスケートは、リンク作りや除雪、リンクコンディションの整備にボランティアで取り組む愛好者たちの尽力によって支えられていたが、昭和43年になると町の予算で業者が造成、管理することになり、以後スケートリンクは町の管理下に置かれた。また翌44年にはスケート協会が設立され、会長には卯月省三が就任し、さらに同協会は昭和47年「上富良野町スケート連盟」と改称した。当時はスケートが上富良野で最も盛んな時期であり、連盟の会員も一般会員40名、児童会員200名にのぼったという。また活動も、昭和50年代にはリンク開き、新年すべろう会、スケート教室や講習会、スケート大会などが2カ月ほどのシーズンの間に次々と行われた(『体協20年の歩み』)。

 

 写真 元青年研修所広場でのリンク作り

  ※ 掲載省略

 

 スキー技術の向上

 昭和40年代以降もスキーは盛んに行われ、設備や指導体制も整備されていった。昭和46年12月26日にはスキー連盟に婦人部が結成され、22名の婦人が会員として登録された。また翌47年にも連盟のなかに少年部が設けられ、これが母体となって「上富良野町スキースポーツ少年団」が結成された。さらにこのなかから競技中心の「ダウンヒル少年団」が独立し、各種大会に出場している。一方スキー少年団では、年30日間程度の講習が行われ、昭和56年からは「国立日高少年の家」のオープンを機会に2泊3日の宿泊研修も計画され、年1回は富良野スキー場にスキーツアーにも出かけた。

 このような指導体制の整備は、確実に上富良野のスキー愛好者の技術向上につながり、昭和44年には村上吉弘が世界選手権大会に出場し札幌冬季オリンピックの強化訓練要員となったのをはじめ、中学生、高校生を含めた多くの会員が全道あるいは全国大会に参加し、好成績をあげた(『創立30周年記念誌シーハイル』)。

 また道民スポーツ上川冬季大会では常に上位入賞し、特に昭和59、60年の大会では2年連続優勝をしている(『体協20年の歩み』)。一方、町民の大会も盛んに行われ、53年には第1回上富良野町民十勝岳スラローム大会、57年にはウィンターフェスティバルが開催された。

 また上富良野のスキー施設も、昭和50年代以降かなり整備され、昭和54年には日の出山スキー場に照明灯が設置され、ナイタースキーもできるようになった。さらに昭和60年12月21日にはロープ式のリフトも設置された。

 

 十勝岳山岳会の結成

 十勝岳山岳会は、昭和26年に十勝岳スキークラブと統合し、スキー部門の肥大化によりスキークラブ、或いはスキー連盟のなかではやや活動が埋没していた。そこで昭和47年4月、自然に対する情操を豊かにするとともに、会員相互の親睦を深めることを目的に「十勝岳山岳会」を再び結成し、会長には高橋寅吉が就任した。

 山岳会の活動内容は、かみふらの十勝岳観光協会主催の十勝岳山開き記念登山会の案内と頂上での交歓会、富良野岳、芦別岳の山開き登山、また秋には清掃登山を実施し、ゴミの持ち帰りを登山客に呼びかけ、十勝岳の保全をはかるというものであった。また昭和58年8月には3泊4日の日程で富士山登頂を実施した(『体協20年の歩み』)。

 

 写真 十勝岳山岳会の町民登山会

  ※ 掲載省略

 

 テニスの流行

 昭和48年公民館主催の第1回町民テニス大会が町立病院テニスコートで開催されると、町民のテニスへの関心は高まり、農協にテニスコートが新設された。翌49年の第2回町民テニス大会には50ものチームが参加し、同年11月24日には「上富良野町テニス協会」が創立された。翌50年には、町立病院建設予定地に暫定的に町営のテニスコートが完成し、その後昭和52年10月には富原地区に運動公園を設置する際、野球場とともに軟式用クレーコート2面、硬式用アスファルトコート1面の本格的なコートが造成され、日の出公園にもテニスコートが造成された。昭和54年には「テニス協会」は「上富良野町軟式庭球連盟」と改称している。

 一方競技団体も次々と結成され、昭和51年6月には「婦人テニス教室」の開催を契機に「フライデーテニスクラブ」が誕生し、53年4月には上富良野小学校、上富良野西小学校の4年生以上の児童により「かみふらのテニススポーツ少年団」が結成された。一方東中では、昭和54年の6月から7月にかけて、東中中学校のテニスコートを会場に早朝のテニス講習会が開催され、これがもとで「東中庭球愛好会」が結成された。56年4月には「東中テニススポーツ少年団」も結成され、東中小学校開校80周年記念事業の一環として、校庭にテニスコートが造成された。さらに昭和60年には45歳以上の愛好者が集まって「水曜テニスクラブ」も結成され、子供からお年寄りまで楽しめるスポーツとして定着した(『体協20年の歩み』)。

 また昭和54年6月には、硬式テニスの同好会も結成され、同年11月には「上富良野硬式テニス協会」が設立された。同協会はその後昭和57年4月に北海道テニス協会に加盟登録し、59年4月「上富良野テニス協会」と改称している。

 

 写真 町民ソフトテニス大会(富原コート)

  ※ 掲載省略

 

 野球について

 昭和4、50年代になっても野球の競技人口は衰えず、昭和46年には個人三賞の制定や年間優秀チーム賞、ベストナイン賞の制定と優秀選手による「上富良野クラブ」チームの結成などが行われ、48年には「野球スポーツ少年団」が発足した。また昭和50年には全日本軟式野球連盟富良野支部に「上富良野町野球連盟」として加盟し、全日本との組織の一体化が図られた。審判部も昭和47年からは全日本軟式野球連盟富良野支部審判員との交流と技術向上の講習会を行い、52年10月5日には富原球場も完成し、野球を楽しむ環境はほぼ完備された。

 卓球の再興

 卓球は昭和40年代以降一時競技人口が減ったが、昭和53年の卓球協会の総会で、児童生徒に卓球を奨励すること、婦人層をターゲットに競技人口の拡大をはかること、指導者の養成と指導体制の分業化が目標として掲げられた。これにより中学校や高校の卓球部に優れた指導者が迎えられ、婦人層に対しては53年から卓球教室をクラブ化し、翌54年にはママさん卓球部会「パープル」が結成された。また53年には第4回全道自衛隊卓球大会を上富良野駐屯地に招致し、各種大会に出場するなど活発な活動を繰りひろげ(『体協20年の歩み』)、58年には卓球協会を「卓球連盟」に改称した。

 

 バレーボールとバスケットボール

 バレーボールは昭和40年代に一時下火になったが、44年に第1回道民スポーツ上川大会が開催されたのを契機に協会の活動が活発化した。特に46年以降は協会の組織化と町内愛好者チームの強化を目標に、婦人や青年女子を対象としたバレーボール教室を開催するなど競技人口の増加に努めた。また道民スポーツ上川大会には青年男子チーム、青年女子チーム、ママさんチームが毎年参加し、49年には青年男子チームが道代表として全国大会に出場した。町内でも招魂祭奉納大会、神社祭典奉納大会、春季と秋季のナイターリーグ、女子の秋季町民大会などが開催された(『体協20年の歩み』)。

 

 写真 道民スポーツ上川大会でのバレーボール試合

  ※ 掲載省略

 

 バスケットボールは、昭和36年に「上富良野町バスケットボール協会」が結成されていたが、昭和40年代には職場対抗や冬季リーグ戦が行われ、自衛隊員を中心としてチームが編成され、野球チームも冬季トレーニングをかねて参加した。昭和46年には富良野沿線市町村バスケットボール連盟も発足し、8月17日に第1回大会が開催され、上富良野から参加したチームが準優勝を飾っている。ただバスケットボールは、他の競技に比べ競技人口が少なく(『体協20年の歩み』)、昭和57年には「バスケットボール少年団」が結成されて、愛好者の掘りおこしが図られた。

 

 新たな球技のはじまり

 昭和50年代はさまざまな球技が上富良野に根づき、愛好者が生まれた時期である。昭和51年9月12日にはサッカー協会が結成され、「上富良野サッカークラブ」、「上富良野高校サッカー部」、「十勝岳ダウンヒルクラブ」などが傘下に入った。翌52年には「サッカースポーツ少年団」も結成され、指導体制の強化が図られた。バドミントンは自衛隊内で盛んであったが、その後町民の間にも愛好者が増え、昭和51年10月にはバドミントン協会が設立された。昭和53年には職域対抗バドミントン大会(59年より会長杯バドミントン大会)が開催され、56、57年にもサンバタ杯バドミントン大会(58年より稲毛抔バドミントン大会)が開催された。

 一方昭和52年6月14日にはソフトボール協会も設立された。昭和58年には10チームが協会に登録し、旭川地区大会などで周辺町村と試合を行った。昭和59年には「上富良野ソフトボール協会」の主管で、第5回全日本クラブソフトボール大会北海道大会が富原球場を舞台に開催されている。

 

 その他のスポーツ

 昭和47年7月15、16日、第4回道民スポーツ上川大会が上富良野、中富良野で開催され、陸上競技は自衛隊駐屯地営庭内グランド、球技・格技は町内各学校体育館を会場に熱戦がくりひろげられ、上富良野は総合優勝を果たした。しかし上富良野にはこれまで陸上競技の団体が結成されておらず、同大会の開催をきっかけに陸上競技の会を発足する気運が高まった。翌48年には「上富良野町陸友会」が結成され、高畠正男が会長となった。

 陸友会の対外的な活動は、富良野沿線で開催される各種大会の審判員のほか、昭和50年から開催された町民走ろう会の主催などであるが、上川南部消防事務組合主催による防火啓蒙駅伝大会に100近いチームが参加し、また昭和59年からは町民運動会が開催されるなど、町民の陸上競技に対する関心も高まっていった。

 一方昭和54年4月には「上富良野町水泳連盟」も設立されている。

 上富良野では、昭和40年代にやっと小学校などにプールが設置されたが、どれも屋外プールで屋内プールがないため、夏季の短期間しか利用できない状態であった。そのようななかでも水泳教室が開催され、指導にあたった教員などの間から、水泳同好者の親睦と水泳の振興、発展が求められ、連盟が設立された。会長には大島利之上富良野小学校長が就任した。

 昭和57年6月には「相撲連盟」も設立された。会長には岡澤孝春が就任し、会員数は少数であるが、町内では職域対抗相撲大会や子供会対抗相撲大会も開催されている。

 

 スポーツの奨励

 このように上富良野では昭和4、50年代にさまざまなスポーツが定着し、各競技とも愛好者が誕生した。ただし昭和50年に入ると各団体とも競技人口は頭打ちの状態で、各種大会もややワンパターン気味であった(『体協20年の歩み』)。

 そんななか昭和51年8月8日には、上富良野町体育協会の創立10周年記念式と記念運動会が開催され、またスポーツの振興とさらなる奨励を図るため、「上富良野町スポーツ賞」が制定された。第1回は酒匂佑一が受賞した(「上富良野町スポーツ賞」の暦代受賞者は表、7−87、88参照)。また昭和50年12月10日には、青少年へのスポーツの奨励と強化を図るため、「上富良野町スポーツ少年団本部」が設置された。

 また51年4月1日からは「上富良野町スポーツ指導員会」が設置され、53年4月1日には「上富良野町婦人スポーツ団体協議会」が発足し、ミセススポーツ(多種目)、睦スポーツ、フライデーテニス(軟式テニス)、さつきクラブ(バレーボール)、パープル(ママさん卓球)、ラベンダー(バレーボール)などの団体が加盟した。