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7章 現代の上富良野 第9節 現代の生活

1164-1173p

3、ライフスタイルの変化

 

 戦後50年の見直し

 1985年(昭和60年)以降のバブル経済とその崩壊期は、政治や経済の変化が個人の生活に色濃く影響した。そして、1995年の平成7年は、第二次世界大戦にピリオドを打ち、日本が敗戦から、新たに築いた半世紀を戦後50年の意味として問い、国民自らの生き方にも突き付けられることになった。

 戦争に一つの区切りをつけた人々がいる。9歳の三男を中国人養父母に預けたまま帰国せざるを得なかった富樫つるよは、厚生省援護局の肉親探しのなかで、日本人残留孤児の1人、富樫正義(上富良野生まれ、中国吉林省在住)の消息を昭和60年に知り、再会することができた(『北海タイムス』昭和60・8・17ほか)。

 さらに、立松登美男の妻子の埋葬場所が中国人ガイドの調査によって判明(『北海タイムス』昭和61・10・1)。向井サトは亡夫の遺稿を『満州逃げ歩記』(平成7年)として刊行した。

 

 家族の社会的支援のために

 1995年1月の阪神淡路大震災は現代文明の集中した都市社会が災害によってマヒ状態に陥り、救援のため上富良野からも役場職員や自衛隊員が派遣された。被災者への救援が全国からのボランティアの熱意に支えられ、新しい次代のパワーに期待が寄せられた。震災の恐怖さめやらぬ同年3月、若者たちが家族や社会から隔絶した新興宗教に心のよりどころを見いだし無差別殺人を犯すに至った。現代社会の病理といわれる教育や家庭に現われる問題がもはや個々で解決することができない状況のなかで、深く傷つき悩む青年の姿が明らかとなった。上富良野でも児童や学童の不登校や、子育て不安などの相談が関連機関に寄せられるようになった。翌年の『厚生白書』(平成8年版)は家族の社会的支援のために≠ニ、サブタイトルを付して戦後日本の家族の変動をとらえている。

 現代の家族は、家族の在り方が多様化し、結婚の年齢や離婚再婚などに個人の価値判断が反映した自由な変化となり、女性の就業は専業主婦になる出産期をはさんで増加。さらに、「人生五十年」から「人生八十年」の生活設計が必要な時代に入って、出生率が低下し、高齢者の介護が必然なこととして、町民一人ひとりの課題となっている。上富良野の町としては、出生率が全道平均を上回り、高齢化は遅れているが、町民は抱えている近くの家族、遠距離の家族を問わず、家族の在り方を揺れながら探っている。

 上富良野における戦後の人口動態は表7−82で、昭和35年(1960)から35年間に人口は約4,000人の減少、世帯数は1.6倍に増加。出生数は約4分の1、死亡数は約100名を推移、乳児死亡や死産は母子保健の推進などから減少。婚姻数は半減、離婚率の増加傾向は他市町村と同様である。なお、年齢別(5歳階級)人口性比の図7−16をみると、平成2年(1990)では20〜24歳の男子が女子の倍を超える性比で、自衛隊駐屯地としての上富良野の特徴が現われている。

 

 表7−82 人口動態(1960〜1995年)

 

昭和35年

(1960)

40年

(1965)

45年

(1970)

49年

(1974)

54年

(1979)

60年

(1985)

平成2年

(1990)

7年

(1995)

人口

17,101

16,204

15,791

14,600

14,700

14,127

13,559

13,200

世帯

3,097

3,019

3,618

4,696

4,747

4,795

4,796

5,073

出生

417

384

340

301

243

177

147

145

死亡

96

99

100

82

89

80

74

102

乳児死亡

( )

12

2

0

2

3

2

1

死産

 

41

20

22

25

10

3

4

婚姻

215

161

158

138

104

87

80

94

(婚姻率)

(12.6)

(10.1)

(9.2)

(9.4)

(7.1)

(6.2)

(6.0)

(7.3)

離婚

13

12

10

17

16

24

21

17

(離婚率)

(0.76)

(0.75)

(0.58)

(1.04)

(1.17)

(1.7)

(1.59)

(1.33)

   *婚姻率・離婚率(人口千対)

   *人口は10月1日現在、『道北年報』富良野保健所より。( )は不明。

 

 図7−16 年齢(5歳階級)別人口性比

  ※ 掲載省略

 

 「町おこし」に挑戦

 1989年(平成元)に上富良野町は「豊かな風土に明日を創るふれあいのまちをめざして」新しい町づくり計画『上富良野町総合計画』を発足した。「豊かな風土」の根幹は町の自立的な産業であり、家族の生活基盤をなすものと期待された。すでに同総合計画以前に、北海道による昭和60年の地域小規模事業活性化推進事業(村おこし事業)の一環として実った、町の特産品づくりに情熱を傾けていたグループがある。

 たとえば、花木園芸生産組合(昭和57年に特産物生産組合と改称)がハスカップやアマチャヅルの栽培活動を約10年間続けたり、商工会青年部がラベンダーのローソクなどの製品化を図り、また昭和59年にはラベンダー研究会が7年間の研究実績をふまえてラベンダーの香りの缶詰を考案、農業協同組合でも農産物に付加価値を高めるためのグリーンアスパラの冷凍食品化などに取り組んだ(「みんなで考えよう一村一品運動」広報『かみふらの』昭59・8)。

 こうした地場産業の創出とともに商工会活動や消費者動向の調査『二十一世紀への出発、住みよい街をめざして』を60年に上富良野商工会が刊行し、町民の心をつなぐイベントづくりも活発であった。商工会青年部は青年部独自で主催し、出会いの場でもある「北の大文字」を62年12月31日を第1回としてスタート、商工会婦人部は平成8年から「かみふソーラン」踊りを練習するために商いと家事を終えて集い、日頃の疲れを吹き飛ばして、全道大会にも出場し、他の各催しに華やかなエネルギーをもたらしている。

 

 写真 北の大文字

  ※ 掲載省略

 

 農業振興への活路を拓く

 上富良野の農業就業者が、全産業の50l前後を占めていた昭和40年(1965)頃を過ぎて、3分の1となり、平成2年(1990)に4分の1と激減するなかで、農業就業者自身は自分の農業経営を模索し、決断せねばならなかった。農産物を消費者へ直接販売する独自の販路を開拓する、いわゆる産直を志向する人たちがいる。そして稲作の減反から畑作転換し、花などを観光と結びつけて生産販売する観光農業を創出する人々が登場する。

 産直は、生産地や生産者のさまざまな特徴をブランド化して販売する農産物を、消費者が信頼して購入するシステムで、既成の商業ルートに頼らず独自の実績を広げ、全国的には高度成長期に、安全な食品を望む消費者と生産者の思いが一致したことから始まった。上富良野では、報道されているところでは、小玉商店(青果物移出業小玉康男)が生産者農家と消費者を直接結びつけて町特産、ジャガ芋・グリーンアスパラ・玉葱・メロンの味覚便を昭和六十年から全国に販売し、後に十勝岳山麓野菜村と称した(『北海タイムス』昭63・6・4ほか)。共同経営によるビーバーファームの産直開始は平成二年である。

 さらに、道が提唱した一村一品運動(地域小規模事業活性化推進事業)の昭和六十年度「村おこし事業」として、上富良野ではラベンダー商品の開発と流通経路をつくるために、商工会青年部を中心に九人でクリエイト・カミフを翌六十一年六月に設立した(『北海タイムス』昭61・7・10)。近年では、ファームインなどの農村体験を観光客などへ提供する事業(農村ホリデイネットワーク)を上川支庁が平成八年に組織、援助した。上富良野から酪農関係では高松牧場やビーバーファームなどが参加した。

 農業に対する情熱を花づくりに転換させた農業人のなかから、平成二年大規模観光農場フラワーランド(社長伊藤孝司)が誕生した。稲作専業から畑作への転作をよぎなくされ、大規模経営による生産者主導型農業の実現のために選んだ道であった。バブル崩壊・大雨による花の生育不良・冷害凶作・異常気象による旱魅[かんばつ]などを乗り越えて生産し、内陸性の寒暖の差を生かした花々の色彩の良さをセールスポイントに、全国に販路をつくり、観光産業を開拓した(伊藤孝司『地球は生きている』一九九七年)。また、中堅水田農家の兼業でドライフラワーを生産販売し、折からのホームクラフトなど人気がでてきた分野に挑戦したドライフラワーイワタなどがある(『北海道新聞』昭・3・6)。菅野ファームの発足も同時期である。

 

 上富良野に魅せられた人々

 富良野地域一帯は、旭岳につらなる十勝岳山系と丘陵地帯の畑作が織りなす、季節ごとの景観に魅せられ、自然志向、アウトドアのライフスタイルなどから観光や旅行地として、一九八〇年代半ばから脚光を浴びてきた。そこで通過点としての上富良野から、居住地や生産活動としての魅力を上富良野に見出いした人々が増えてきた。上富良野百年の歩みのなかで、団体移住・戦後開拓期・自衛隊駐屯など、ある目的の下で幾度か人々の移住があった。とくに、一九八〇年代末のバブル経済以降の生活に潤いを求めた移住は、これまでとは異なる移住の発生となっている。

 上富良野に転入した人々と、その目的や就業内容を把握することは困難である。ただ、農業への新規参入者は役場資料によると、昭和六十一年(一九八六)から平成十年(一九九八)までに八人である。また、上富良野観光協会資料では、平成十年三月末の町内宿泊施設一八ヵ所のうち、七ヵ所は移住者が開業した宿泊施設となっている。

 さらに、新聞報道をたどると、農村部では稀であった職業人、写真家・工芸家・音楽愛好家などの動向を知ることができる。しかし、アトリエなどの半定住の形態をとる人々や、報道されていない人々などは把握できない。そして、予定されている移住者には、退職後に趣味、特技を生かしたライフステージを求めている人々もいる。

 こうした移住の新たな動向のなかで、移住者のいくつかの軌跡を知ることは、上富良野の魅力の再発見と日本社会をとらえ直すことであり、明治期の移住との比較も興味深い。町内各地域に移住した方々から、聞き取りにより表7−84「現代の移住」を作成した。

 表7−83は九世帯二〇人、個人名を用いず、居住地の変遷と年次にしぼった。移住に先立ち一九七〇年代に、北海道の酪農に関心をもっていたA男、富良野沿線の観光地としての魅力をとらえていたF男がいる。北海道内外の出身にかかわらず、関東関西などの都会で進学、就職を通した生活体験を持ち、コンピューターや教員、翻訳、公務員などの専門性に富んだ仕事からの転身が多い。女性においても、北海道の自然や酪農への憧れを行動におこすなかで、移住に至り、上富良野在住の契機が結婚と重なることも多い。1990年代に移住を決意した20〜40代の若いエネルギーが上富良野に流入してきたことになる。両親を伴った移住はなく、子どもは3家族におり、2家族はまだ幼く、生活地・子育てに適した上富良野への期待がある。

 

 表7−83 現代の移住

  ※ 掲載省略

 

 子育てネットワーク

 1990年代は、生活上のさまざまなネットワークが官・民の間でつくられ、目的達成の大事な要素となってきた。上富良野における子育て・福祉のネットワーク化が近年、顕著であり、個人では達成困難な子育て・福祉の課題に応えているので具体例を紹介する。

 上富良野の子育ての特徴は、妊婦の夫の職業をみると、昭和57年(1982)と平成7年(1995)の13年の間に、自衛官は全体の約4割から5割を超える程に増え、人数的にも1.05倍と増加、逆に、農業・公務員や会社員の人数は1982年の約4割に減少している(『上富良野町母子保健計画』平成9年)。

 つまり、新生児の半数以上は自衛官として赴任している若い両親で祖父母や親戚、友人の少ない家庭に出生している。高齢化を低くしている要因でもあるが、若い家庭の社会的なサポートが国のプランとして執行されるより早くに上富良野で着手されてきた要素をみることができる。町と教育委員会が発行する『上富良野町育児ガイド』は育児電話相談・母子通園センター(ひよこ学級)・児童館紹介・かみふらの子育てマップ・予防接種などが子育て情報を提供している。そのなかに「孤独な子育て、サヨウナラ」との思いからヤングママに8つの育児サークルを紹介。1998年(平成10)、育児サークルが集まり上富良野町子育てネットワークを結成した。

 育児サークルのなかで最も早い設立は「キャンディー」(平成9年8月)で、3年前に母親学級へ参加者した5名の仲良しグループが定期的に集い、子どもの成長やあそび場、あそびなどで連絡を取り合い、保健婦も関わりながら育児サークルへと発展。時には父親も参加して、育児の向上・子どもと親の交流と悩みの解消の場となってきた。ヤングママたちは母親学級(マタニティースクール)を終了すると、同サークルを参考に次々と結成し、独自の運営を開始。

 その1つ、「ベビーベアー」(平成9年10月設立)は前年の母親学級で出会った13組の母と子が、胸の内を吐露しながら、ともに子育てを楽しくしようとユニークな新聞『ママドルタイムズ』を発行している。また、定例の週1回の集いは約2時間、社会教育総合センターの和室などを会場に参集。町内全域と富良野へ引っ越した仲間も一緒に、リズムに乗って母と子の手あそびや絵本の読みきかせ、子どもたちをお互いの子として励まし合う。そして、歯科講習やエステなど母親の特技を生かした企画や楽しみも折り込んできた。リーダーは「必ず一人一人のお母さんと声をかわす」ことを心がけている。

 

 福祉ネットワークの充実

 福祉分野のネットワークは、保健・福祉・医療の連携をいわれながら、その具体化は困難さの方が先にたっていた。しかし、それぞれの各分野の努力が結実して、ネットワークが有効に機能を発揮しはじめている。前節の「現代の社会」における「2、社会福祉」でみてきた役場の保健課・町民課と社会福祉協議会や民生児童委員、そして町立病院などの医療機関・保健所などの在宅要介護者の支援体制は、平成9年(1997)の状況である。とくに「高齢者サービス調整チーム会議」の集団による情報の共有化・処遇の決定によって、在宅要介護者などのニーズに応えることになり、サービスを受ける側の生活が、これまでより多く、社会の息吹に触れることになった。

 昭和57年(1982)の段階では、すでに家庭奉仕員(のちにホームヘルパー)2名が配置され、保健婦も「ねたきり・ねたきり予防老人」が少しでも快適にすごせるように訪問していた。

 たとえばAさん(71歳男)の場合をみたい。脳卒中の後遺症で12年間ねたきりで全介助による食事、排泄で、失語症もあった。

 家庭での介助は妻と嫁であったが、妻の入院・息子や嫁も疾病をもち、嫁が仕事で日中不在なので、Aさん1人になる状況が生じ、保健婦が年5回訪問、「シーツ・寝具の交換、全身状態の観察・清拭、合併症の予防など」の支援をした。他に、結核感染予防から保健所の保健婦が訪問するケースもあった。そのほかの5ケースも妻・嫁・息子・孫の嫁が介助者で、介助者の肉体的精神的な疲労もあった。

 関連機関の役割分担が鮮明になってきた平成元年(1989)には「上富良野町の老人対策ネットワーク」が作られた。デイ・サービスセンター(ラベンダー・ハイツに併設)も4年(1992)に開設すると、サービスを受ける「おおむね65歳以上・体が弱かったり、ねたきり等のため日常生活に支障のある」人たちも家から外へ出かけることが可能となった。専用バスで、5班編成の週1回、1日平均15人の利用宅をまわり、利用者を家庭から預かり、専門のセンター職員6名が午前10時頃から午後3時半までの日帰りで、入浴と食事、日常動作訓練、健康チェック、地域の仲間との交流などを楽しんだ。開所から1年間の利用者は延べ2,456名であった(広報『かみふらの』平9・3・2)。

 そして、平成9年(1997)に至って在宅要介護者の支援体制が確立して、「高齢者サービス調整チーム会議」によって、支援に関わる人々が増えて、在宅要介護者がより多くの人との出会いが生まれている。同9年度のホームヘルパー派遣世帯数は42、派遣回数は2,085回、派遣人員は2,019名、ホームヘルパー在籍6名(社会福祉協議会調べ)である。表7−84は難病と闘いながら「いつまでも在宅で過ごし、夕食づくりが継続できる」ことを願っているBさん(女性)を支える支援体制である。今後、国の介護保険の導入により、こうしたサービスが質的にも、経済的にもどのように変化するのか、財政上の裏付けとヘルパーの人的確保など、住み慣れた街で、家でくらす保障が望まれている。

 

 写真 デイ・サービスセンター

  ※ 掲載省略

 

 表7−84 Bさんを支える1週間の支援

支援予定

土日

午前

ヘルパー訪問看護

 

ヘルパー

リハビリ教室隔週

 

(家族)

午後

 

ヘルパー14時〜

入浴週1回

往診月1回

 

ヘルパー訪問看護

(家族)

   *ヘルパー(入浴・掃除・洗濯・シーツ交換・買物・歯肉ブラッシング・相談援助)

   *訪問看護ステーション(身体チェック・体操〈運動〉・身体の保清など)

 

 21世紀の社会へ向かって

 社会や経済の変化に対応して、個人の生活や意識は、たえず新しいライフスタイルを生み出してきた。近年13年間に町民が投票によって選んだ「かみふらのの10大ニュース」は、さまざまな町民のくらしを映し出している(表7−85)。

 21世紀社会の課題は、自然、科学、経済などそれぞれの分野で提起されているが、平成7年版『道民生活白書』は、「誰もが安心して生活できる社会」「個性と多様性が尊重される社会」「活力ある地域社会」「環境と調和した社会」の4点をあげている。上富良野においても平成9年度『上富良野総合計画』はこうした4点を踏まえながら、「新たな共同性の時代へ」と展望を示している。

 つまり、戦前の「公(パブリック)」中心から、戦後の「私(プライベート)」中心の時代を経て、少しずつ新たな「共同(コモン)」の動きが広がりつつあること、福祉・文化・環境・景観整備などにグループ活動やボランティア活動が活発化して、住民参加型行政の推進が求められているという認識である。

 共同の動きは、大人の世界だけではなく、日本が「子どもの権利条約」を批准した平成6年頃から上富良野中学校でも、登校形態の自由(自転車使用の可否など)、子どもたちの生活を細かく縛ってきた校則の見直しなどが、教員と生徒によって図られた。

 そして、平成9年の商工フェスティバルでは商工青年部が中心になって、ミニ四駆ラリー広場を特設し、子どもたちとともに楽しんだ。同年農業フェスティバルには、農業関係者のみならず老若男女がつどい、農家の主婦たちが「ひがしなかニュー・ファーミス・マーケット」(代表高松恵子)などのグループで手づくりしたパンやジャムなどを販売、親子劇場の上富良野サークルがリサイクルバザーをひらくなど分野を越えた共同が進んでいる。上富良野における『郷土をさぐる』などの郷土の歴史をひもとき、つづり伝える作業の労苦をいとわぬ人々の共同作業も貴重である。

 また、上富良野の女性たちの多くが戦後間もなく再組織されて上富良野町連合婦人会(昭32.7〜56.3)をつくり、一時解散していたが、女性団体相互の連携の必要性から平成元年(1998)に上富良野町婦人団体協議会を再結集、平成9年に上富良野町女性連絡会協議会に改称した。とくに記したいのは、構成各団体役員が会員や家族に支えられて、全道レベルの運動を次々に担ってきたことである。北海道母子寡婦福祉連合会理事(植田スミ昭52〜62年)、北海道はまなす会会長(植田スミ平4〜6年)、全道商工会婦人部連合会理事・副会長(新納かず子昭48〜49・50〜55)、北海道婦人防火クラブ連絡協議会長(竹谷愛子昭63年〜)、全道交通安全母の会副会長(松浦正子平6年〜)。

 さらに、こうした女性たちのスポーツ団体や婦人学級(のちに女性学級)などを継続運営してきた倉本千代子を上富良野初の女性町議(平3〜7年)として押し出し、初の女性教育委員に小沢治子(平2年〜)が就任。久我みち子が全道ホームヘルパー協会会長(平5〜8年)の重責を果たした。

 21世紀のキーワードの1つ、男女共同参画の社会実現のために、町では町民の声を1人に3点を挙げてもらうアンケート調査を実施した。「女性の働く職場を拡大・充実」(30l)、「料理・掃除・育児などを男性も分担」(28.5l)、「子どもの時から家庭や学校で男女共同参画の社会的気運を高める」(28l)の3項目が多く、この結果は、若い女性の定住に大きく関連する要望であり、着目された(平成9年度『上富良野総合計画』)。

 21世紀の社会は、人権思想に裏付けられた、男女共生が基本の1つとなる。

 

 表7−85 「かみふらの十大ニュース」のあゆみ(1984年〜1996年まで)

 

1位

2位

3位

4位

5位

6位

7位

8位

9位

10位

1984(昭59)

十勝岳観光開発促進

駅東側地区整備完成

ラベンダーハイツ完成

アヤレバータ州との親善交流

第一回町民運動会

文学碑「泥流地帯」建立

富良野聖観音像建立

交通事故死ゼロ851日

米大豊作と畑作大旱魃

ラベンダー観光花ざかり

1985(昭60)

カムローズ市と友好提携

ラベンダー観光まっ盛り

上小講堂など新改築ラッシュ

上富駐屯地開庁30周年

国際森林年植樹行事多彩

日の出公園スキーリフトほか完成

演習場問題に関心高まる

和田松ヱ門名誉町民に

火山災害防止に意識新た

上富高校間口減反対運動

1986(昭61)

夏祭みこし復活

富樫さん41年ぶり一時帰国

ハンドベル音楽使節団来町

民家全焼死傷者出す

スズメバチ死亡事故

上富駐屯部隊銃剣道ほか活躍

老若パワー発揮ゲートボール

改めて町民防災意識高揚

日の出公園夏冬賑わう

十勝岳冬山スキー遭難死

1987(昭62)

富樫さん一家中国へ帰国

上富良野神社地鎮祭

福祉バス入庫ラベンダー号

ラベンダー園株主23名来町

日の出公園眺望展望台完成

深山峠リゾート・コミュニティー広場に

社会教育総合センター完成

街頭放送協会発足

わかば愛育園新園舎落成

60年度国勢調査人口増管内一位

1988(昭63)

十勝岳26年ぶりに噴火

国道バイパス完成47億円

上富開基90周年記念

新社殿上富良野神社完成

エキノコックス汚染地帯指定

日の出公園など北海道町づくり百選入選

十勝岳噴火慰霊碑発見

食肉センター空地ミートに売却

カムローズ市友好親善に青少年も参加

1回農業フェステパル

1989(平1)

「昭和天皇崩御」平成に

はまなす国体町内リレー中高生

スキー国体5名参加

カムローズ市長一行来町

火の山と香りの町復活祭島津公園

富良野大雪地域リゾート指定

大規模総合防災訓練実施

ふるさと創世1億円駅前周辺再開発

清富小ホタル羽化成功

クロカン優勝会田範子さん

1990(平2)

セントラルプラザ完成

十勝岳噴火警戒区域解除

集中豪雨で大被害

ローズ・ド・メイ植樹祭

砂防1号透過型ダム完成

カリヵワ上富工場操業開始

吹上温泉に47度の湯

草分防災センター完成

大場もよのさん百歳に

後藤画伯アトリエ江幌購0周年

1991(平3)

B&G海洋センターオープン

吹上露天の湯完成

草分防災センター利用開始

町長町議選挙初の女性議員誕生

フラワーランド大温室完成

浄化センター完成

上富駐屯チーム剣道大会優勝

ふれあい花壇づくり日の出公園

上富小防音工事完成

全日本軟式野球大会富原球場

1992(平4)

菅野町長誕生

リゾートホテル誕生トアスホテル

露天風呂吹上温泉大人気

地酒「北の浪漫紫人」ほか販売

ラベンダー祭り12万5千人

土と農機具博物館「土の館」開館

観光農園フラワーランドオープン

全道自衛隊剣道大会連覇

十勝岳火祭り5千人

町立病院夜間診療開始

1993(平5)

2師団音楽まつり開催

冷夏で農作物多大な被害

上富駐屯地総合落成式

緊急連絡通信新システム開始

清富小学校新校舎完成

多田分屯地軟式チーム全国体

コンポスト容器助成開始

清吉小体力づくり優良校に

東中小学校講堂完成

「ふれあい広場」開催

1994(平6)

3地対艦ミサイル連隊編成完成

トリックアート美術館オープン

ゴマ(ザイール)派遣壮行会

十勝岳温泉凌雲閣改築オープン

聖観音賽銭箱に百万円

トストライアスロン会田さんら奨励賞

ラベンダー発祥の地碑建立

十勝岳連峰登山2名死亡

名誉町民村上國二逝去

伊藤幹男南米チンボラソ山登頂

1995(平7)

2戦車連隊新編

自衛隊富良野ワールドカップ支援

観光事故多発深山峠7人死傷

カミホロメロン販売高3億円突破

御輿に大関武蔵丸合流

開基百年シンボルマーク決定

町議会議員選挙施行

阪神大震災町職員派遣

武道館完成

カムローズ市友好提携10周年記念式

1996(平8)

吹上保養センター完成

尾岸孝雄町長当選

ダイイチスーパーオープン

9回「北の大文字」

十勝岳火祭り神戸から衡子舞

米軍演習場移転反対決議町議会

役場玄関改修・自動ドアー

雪まつり家族連れ2500名

美容技術選手権全国4位黒田さん

日米共同積雪寒冷地訓練実施

   *『かみふらのの10大ニュースのあゆみ』(平成9年7月上富良野郷土館発行)