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7章 現代の上富良野 第9節 現代の生活

1143-1152p

1、くらしの変化

 

 戦後50年の就業と消費

 戦後経済は、昭和20年代の戦後復興期、30年代から40年代の高度経済成長期、オイルショックを経て50年代の安定成長期、60年代以降のバブル経済とその崩壊期と大きな変化を遂げてきた。

 戦後50年の道民生活を特集した平成7年版『道民生活白書』によると、北海道の就業人口の推移図7−3は、昭和30年に第一次産業(農林漁業)が43.0l、第三次産業(卸売・小売業・サービス・観光など)が36.0lを占め、35年後の平成2年にはそれぞれ10.8lと65.8lと、第一次産業に就く人口の割合は4分の1に激減した。なお、グラフ@には上富良野の第一次産業比率を挿入している。第二次産業(製造業・建設業など)は数l増ながら、若年人口は減少傾向。昭和25年の人口は市部に約3分の1であったものが、平成7年には市部に約4分の3が占め、郡部人口は半減した。上富良野の人口は、昭和30年の約1万7,000人が平成7年には4分の3(約1万3,000人)に減少している。

 続けて消費生活の変化をみると、昭和20年代は「寒冷地の必要経費が食費さえも圧迫した時代」、30年代は「衣食住のゆとりが見えはじめ、「耐久消費財(白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫)ブーム」、40年代は衣食住にかかわる「基礎的消費から選択的消費へ」と生活を楽しむようになり、50年代は「石油危機による節約ムード」、60年代以降は「消費税の導入と平成景気」、バブル経済の崩壊に至った。消費経済は上富良野にも都市部同様に押し寄せてきた。

 

 図7−3 就業人口の推移

  ※ 掲載省略

 

 上富良野の就業推移

 上富良野の産業別就業人口は図7−4によると、昭和30年(1955)には就業人口9,552人のうち、第一次産業が54.3l、第三次産業は37.9lであったが、20年後の50年(1975)には就業人口が約2,000人減少して、第一次産業が34.2l、第三次産業は54.9lと、その比率は逆転した。さらに、その傾向は強まり、40年後の平成7年は就業人口が25l減(約2,500人)、第一次産業が3分の2、第二次産業は2倍、第三次産業は1.7倍のウエイトに変化した。

 町内地区別の人口は、市街地と農村部の人口が昭和38年を境に逆転し、その差は開き続けている。また、町外へ転出した人口が約2,600人となった昭和45年は、突出した年で、農家の離農によるものであった。年齢別の人口を比較すると、平成7年は14歳以下の年少人口が、60歳以上の老人人口より約300人多く、全国的には同9年に老人人口が年少人口を上回る時代に入った。

 

 図7−4 産業別就業人口の推移

  ※ 掲載省略

 

 農家経営と生活改善

 こうした減少する第一次産業に対する、上富良野農業の振興策の重点は、深刻さを増す後継者や規模拡大に伴う対策であった。

 45年に農業者結婚相談所設置、48年富良野沿線6ヵ市町村農村花嫁推進協議会を発足、50年には大規模麦作育成団地として全町の指定を受けながら、53年から米の生産調整を開始、同年農業振興資金制度を設け、翌年には農業機械効率利用安定対策事業を推進。55、56年の冷害・風水害の後、56年には農村花嫁推進協議会に専任嘱託を置いたり、57年には負債整理のため、天災資金利子補給・農業負債整理・自主農業育成推進事業を展開した。

 上富良野農業の振興策は、上富良野町・上富良野農業協同組合・富良野地区農業改良普及所を中心に推進された。激変する農業において、生産の基盤である農家経営の安定を図った生活改善の実践が数多く生まれた。なかでも農業家計簿の推奨は、戦前から産業組合や報徳精神による『家の光』などで奨励されてきたことであった。戦後の上富良野農業協同組合婦人部の創立時(昭和29年)にも家計簿の記帳を活動の一つとした。なお、昭和24年に上富良野村生活改善同盟が発足(昭和24年「事業報告」)とあるが実態は分からないものの、同24年は上富良野農業改良委員会設立の年である。

 また家計簿の記帳は、全道で取り組まれた新生活運動にもみられ、上川支庁は昭和44年度「道民運動関係事業年間計画」において明るい社会生活推進運動(新生活運動)や貯蓄増強運動の一つとして管内一円で取り組む事業であった。道の調査(昭和56年)によると、農漁家が家計簿の記帳をしない主な理由は「めんどう」「時間がない」の2点であったが、農業改良普及所では、家計簿の記帳を沢山の「忙しい」仕事の一つと位置付けて奨励した。こうした農家家計簿の実践を次にみたい。

 

 農家家計簿による家計の安定

 富良野地区農業改良普及所では、昭和49年から58年までの10年間、上川管内生活部会で家計調査のプロジェクトとして「農村生活に即した農家家計を設計し、経営に対応した農家経済の合理化」を図った。オイルショック後のインフレと、53年の2度目のオイルショックをはさみ、貿易の自由化が進行する時期である。58年には上川全体で375戸のうち、富良野地区から65戸、上富良野から12戸が取り組み参加した。家計簿記帳グループ研修会は島津を中心に東中・里仁・草分・静修・旭野・富原から20名ほどが参加、島津はモデル地区でもあった。

 家計簿記帳グループの中で、妻(ノブ)が記帳した家計簿を、夫(勇)が継続して集計してきた数山家(里仁)の記録は、戦後20年からのたゆみない努力の実績として、農業改良普及所の援助で分析され、営農の励ましとなっている。これらは、上富良野農家の生活記録としても貴重な記録である。富良野地区農業改良普及所の若狭紀恵子生活改良普及員(上富良野担当)がまとめた資料をもとに、数山家の記録をみたい。

 収入においては、上川管内のデータと同様に、数山家の記録も上昇を続けたが、55年以降、盛り返しながら収入は伸び悩みの傾向であり、支出において、農業経営費は膨れ上がる一方で、家計費も年々上昇した。数山家の農家経済の移り変わりは図7−5、6であり、家族構成と生活史は表7−71となっている。経営形態は畑作(10f)、主要作物は馬鈴薯・小麦・菜豆。52年に増反した。農業家計簿は、現物収支をすべて金額に換算して記帳し、数山家は飯米を購入している。自動車関係費、保険料などを除いている。数山家にとっては、子どもの教育を長男1人残し、高齢の母親を抱えていたが、営農を家族で賄える余裕ができた時期であった。55年の大幅な住居費の出費は家の改築、57年の被服費の増額は次女の結婚によるものである。全体として、49年から58年までの家計費の出費において、交際費が約3倍の増加比率をみている。これは富良野管内の家計費調査図7−7にも現われ、上昇を続けて200lに達している。飲食費・被服費・交際費ともに53年までは右肩上がりに支出増であった。

 家計費調査結果は、「経営や収入に合った生活」で「農業の良さを生かしながら実行」し、「支出を減らすように心掛けて欲しい」とコメントされている。家計簿記帳グループ研修会でよく聞かれるのは、「苦労して得た売り上げのうち、資材・機械の投資や借金の返済が大きく、生活に行くお金が少ない」という声である。しかし、数山家の体験では、経営簿を記録することで、収入・経営内容を把握し、使えるお金を知った上で必要家計費や臨時費、特別費を見積もり家計費の総額を予算化し、記帳による生活改善の実行を図った。

 

 表7−71 家族の生活史

年次

家族構成

家族のできごと

長女

次女

三女

長男

昭和49

(1974)

54

52

24

22

18

15

77

長男中学卒業。長女は別居、次女は農業手伝

50(1975)

55

53

25

23

19

16

78

 

51

56

54

26

24

20

17

79

 

52

57

55

27

25

21

18

80

長男高校卒業、後継者

53

58

56

28

26

22

19

81

 

54

59

57

29

27

23

20

82

 

55(1980)

60

58

30

28

24

21

83

家の改築、長女結婚

56

61

59

31

29

25

22

84

初孫誕生、母入院手術

57

62

60

32

30

26

23

85

次女結婚して別居

58(1983)

63

61

33

31

27

24

86

母病没

 

 図7−5 数山家農家経済の移り変わり

  ※ 掲載省略

 

 農家の食生活改善

 また、高度成長とともに導入された家庭の電化や、便利さの一方で、生活の質にも注目されるようになった。町は農閑期を利用した「辺地婦人料理講座」に栄養士を例年派遣して農村部の生活向上に努めていた(『北海タイムス』昭47・2・21)。49年に富良野農業改良普及所は沿線市町村の農家における生活水準調査で、無作為に町内各地域から69戸で実施、翌年発表した(広報『かみふらの』昭50・5)。生活に関する9項目の必要(欲求)がどの程度に充足(満足)されているか、その度合いから浮かびあがった実態図7−8は、上富良野では保健、次に生計面がもっとも満足度が高く、84.7lであった。他は北海道平均を下回り、栄養(25.8l)と教育・教養(33.1l)の面でもっとも低い位置にあった。栄養面は「油脂類・緑黄色野菜の摂取が悪く、野菜の貯蔵に工夫が必要」であった。教育・教養面は教育・教養に対する態度を調査して、家庭における話し合い・しつけは比較的良いが「自分自身の教養を高める積極性は低く」、新聞を購入しても読まないなどの結果であった。

 さっそく同50年10月、健康について運動・休養・栄養の全体から注意を促しながら、油脂・緑黄色野菜の摂取を食生活改善普及月間で強調した(広報『かみふらの』昭50・9)。

 そして、高校生にとっても栄養は学習課題となった。上富良野高校家政科では季節定時制の特徴を生かした自宅研修の期間を利用して、「わが家の食生活」を記録し、52年の第28回農業クラブ全道大会で発表して優秀位を獲得した。殿山信子ら3人の高校生は蛇沼マリ教諭指導により、1年間にわたり栄養調査・労働時間・食事準備時間・自給野菜の調査をした。結果はカルシュウム・ビタミンAの不足、食事準備時間の不足の問題点が明らかになった。そこでカルシュウムや牛乳などを生かした調理法を工夫、改善したことが評価されたのだった(広報『かみふらの』昭52・3)。こうした調査結果のデータは散逸して、残念ながら今のところ、見つからない。

 さらに、先の富良野農業改良普及所による生活水準調査(昭49)では、主婦の労働と休養面でも、満足度は37.8lと低く、主婦の睡眠時間が「5時間半未満の家庭がかなりあること」で、「農村の花嫁不足」の一因でもあった。町内における農繁期の畑作の主婦の労働時間について、同調査以前にも炊事・洗濯を含めて平均16時間労働、睡眠時間はもっとも少ない人で1日4時間半、平均6時間という、高校生による調査がある(広報『かみふらの』昭50・4)。全道的には、米が主体の空知支庁の農業改良普及所の調査(『農家の若妻に関する調査』昭53・3)でも、農作業に9時間以上働く人が52.7lを占め、農繁期の家事作業時間が4時間以上が29.2lという実態があった。

 こうした農家経営の安定のために、共同作業による生産、共同炊事による主婦の労働時間の軽減と栄養管理を実現したグループがある。清富一心生産組合である。

 

 図7−6 数山家家計費の推移

 図7−7 富良野普及所管内家計賣調査

 図7−8 上富良野町農家調査の実態

  ※ いずれも掲載省略

 

 共同炊事による主婦労働の軽減

 清富一心生産組合は、戦後開拓地を含み、過疎化が進行するなかで、農家経営をいかに維持していくのか、その解決策として、共同化の方法を選択し、昭和40年に村上国夫を中心に、8戸で発足した。平成元年に夫が亡くなった後も生産組合を見守っている妻君子は、夫が「ただ働くだけではだめだ。農休日を月2回、天気が良くても心の元気のために休む」という主義であったと回想する。また、清富一心生産組合は「共に生きる視点、一人一人の持ち場、持ち場を活かした適材適所で経営した」と上富良野農業農業改良普及所に女性として初めて着任していた鈴木千恵元生活改良普及員は30年を経て語っている。

 このような理念のもとで実践された生活の共同化の一つ、共同炊事の開始は昭和41年からで、時々の状況や年齢などに応じた形態によって20数年間続けた。食事は朝食、夕食を食堂に集って共にし、昼食は主食だけを共同で炊き、副食は各家庭が作った弁当をもって、遠くの畑に出ることもあった。炊事はお年寄り2人と君子が担当し、朝起きと朝食は当番制で、中学生の女子も含め、若い奥さんたちの8人で2日間ずつの交代制で、農休日を除くと週に4、5日は当番がない。食事の準備と後片付けには約2時間かかり、当番以外の主婦たちはゆっくりと食事をして、体を休めることができた。

 経費は49年では1人約2,000円(自給の野菜・肉・牛乳を使用)と安価であるばかりではなく、農業改普及員などから献立のアドバイスを受けて栄養にも考慮した。昭和50年4月の広報『かみふらの』は「農村花嫁にも喜ばれる共同炊事」として清富一心生産組合の例を掲載して農村の地域づくりを励ました。

 さらに、共同化の一環として、若い家庭も多く10数人の子らになった時もあり、共同保育も喜ばれた。小学校高学年や中学生が手助けをしたり、保母を雇用して共同保育は平成4年頃まで継続した。

 

 消費生活の見直し

 消費生活の大きな変化は、昭和30年代に白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫などの耐久消費財への要求が高まり、40年代にはそれらが充足されながらも、各自の選択的消費へと移ってきた。表7−72のくらしの推移は、上富良野における物質的充足の現われである。43年にはすでに、戦後直後の生活を便利に、豊かにしたラジオ・自転車・新聞・映画は、1人当たりの集計は公表するまでもなく充足されていた。一方に、30年代におけるテレビが速いスピードで普及したことがうかがえる。40年代に入ると各家庭に2台目が据え付けられ、映画は遠ざかっていった。国の所得倍増政策を背景に、こうした「消費者は王様です」といったキャッチフレーズが登場していた生活に見直しが迫られたのが石油危機の到来、49年のオイルショックであった。

 では、石油危機当時は、生活に関連の深い食糧・光熱費・被服などを総合した消費者物価はどの位上昇したのであろうか。

 「北海道小売物価統計調査」(道開発調整部)によると、全道の消費者物価の上昇率は47年までは4〜6l台であったものが、48年に入ると急激に高まり、49年20l台の上昇を続けた。このような大幅な物価上昇は戦後の混乱期以来のことであった。石油危機の始まる直前の48年9月の消費者物価を100とすると、50年の9月には4割近い上昇であった。北海道の物価指数は石油危機でも変わりなく、全国平均の物価指数を上回っていた。なお、道内の食糧総合にみる消費者物価指数(48年11月)は、上富良野近隣では旭川市が平均値100に近く、富良野市はもっとも低く岩見沢市と並んで96.6であった(昭和50年度版『道民生活白書』)。

 次に、上富良野の主婦たちは、続く物価高にどのように知恵をしぼり、家計のやりくりを図ったかをみたい。生活防衛の方法についてのアンケート調査が広報『かみふらの』(昭50・2)に紹介されているので以下にまとめた。浮かび上がってきた生活像はミエ∞ムダ≠捨てた「新しい生活技術」により豊かな生活をめざすことであった。

 家庭で眠っている品々の再利用、リサイクルの精神が、生活に浸透しはじめると、町連合婦人会などで家庭の不用品即売会(友愛セール)が広く行なわれるようになった。

 

  インフレ時代の生活防衛(町内の主婦・無作為抽出100人回収38l)

 問1、主に何を一番倹約しておりますか?

  (1)衣料品 50l (2)履物などの身の廻り品 42l (3)旅行娯楽費 40l

  (4)副食物 8l

 問2、今まで使い捨てにしていたもので、再活用しているものは?

  *残り布・毛糸・湯上がりタオルなどで人形・パジャマをつくる。

  *古い衣類、セーター・オーバーなどを子ども服やスカートなどをつくる。

  *子ども服などを近所の方々へ提供。

  *新聞のチラシ・包装紙・空箱・空きビンなどをメモ用紙・雑ノート・容器などに。

  *ストッキングを靴みがき用に。

 問3、あなたの家庭で、ものを大切にすることとして、どんなことをされていますか。

  *全体として、「大切にあっかい、使える間は最後まで使う」「必要以上のものは買わない」「流行にとらわれない」などの心掛けがみられた。

 問4、もし生活の中で、まだ節約するとしたら何がありますか?

  *節電・節水・ガス・灯油・市外電話・衣料・自動車

  *副食物・旅行などの娯楽費・交際費・嗜好品

  *散髪は自宅でする・衣服を手製で。

    (広報『かみふらの』昭50・2より)

 

 表7−72 上富良野のくらしの推移(1956・1968・1989年比較〕

項目(単位)

(1956)

昭和31年

(1968)

昭和43年

(1989)

平成元年

北海道(全世帯)

耐久消費財普及率

人口(人)

15,923

17,787

13,820

 

電子レンジ

68.8l

 

 

自動車

78.7l

 

 

パーソナルコンピューター

9.4l

 

 

ヵラーテレビ

3台以上16.5l

 

 

ビデオデッキ

65.6l

世帯(世帯)

2,687

5,320

4,868

1世帯あたり人口

5.9

3.3

2.8

人口密度(1km2当たり)

67

74

58.3

町民税(1人当たり)

2,659

4,969

30,248

医師(1人に住民数)

3,980

2,541

2,764

歯科医(1人に住民数)

7,962

5,557

2.764

消防車(1台に世帯数)

671

1,330

 

自転車(1世帯当たり)

1

 

 

自動車(1台に人数)

 

16

1.9

乗用車(1台に世帯数)

 

(49年2.6)

0.8

電話(1台に世帯数)

7.3

3.7

0.9

ラジオ(1台に世帯数)

1.4

 

 

新聞(1世帯当たり部数)

1.4

 

NHK契約

1.4

テレビ(1台に世帯数)

2,239

1.9

電灯(1世帯当たり)

7.2

 

 

映画(1人当たり年回数)

5

 

 

出産(1日当たり人数)

1

0.9

0.5

死亡(1人当たり日数)

3.6

5.3

4.1

結婚(1件当たり日数)

2.2

2.9

4.5

  * 昭和31年は昭和32年版『町勢要覧』、昭和43年は同年12月1日現在(広報『かみふらの』昭44・1)、平成元年は,93資料編『上富良野』・『道北年報』富良野保健所、北海道(全世帯)における所有数量の増加の高かった耐久消費財普及率は『道民生活白書』(平成3年度版)などから作成。

 

 消費者保護と消費者協会の発足

 昭和50年6月上富良野町は、狂乱物価と商品サービスによる被害、誇大広告など消費者間題が新聞紙上で取り上げられるようになってきたことから、消費者保護対策の一つとして、上富良野消費者協会(会長三宮秀義)を発足させた。北海道消費者協会の指導協力のもとに「くらしの改善講習会」を開催し、会報を発行、道の物価モニター・消費生活モニターを募り、価格動向調査や研修に参加、消費生活の啓蒙につとめた。事務局は役場町民課におかれ、個人会員に男性も参加、30名程が会員となっている。

 主な活動に、発足後まもなく「石油ストーブの手入れ方法講習会」を開き、「くらしの講座」を、52年に衣料品の知識や食生活を考えるなど、54年にはミセススクール(婦人学級)の一環として省エネや家庭経営を開催。町内の「食品衛生一日監視員」としても食中毒防止安全週間に合わせて、各スーパーを巡回した。61年の巡回には会員10名が食品衛生協会役員・業者代表・保健所職員ら15名とともに保温・保冷状態・商品表示などを検査した(『北海タイムス』昭61・8・10)。平成に入ると、新たな消費生活の課題となってきたゴミの減量化や資源ゴミのリサイクルなどについても、調査や啓蒙活動を展開している。相談のなかには、高額な化粧品などに関する苦情処理もみられる。

 

 バブル崩壊と消費生活

 昭和60年代以降の日本経済は、急激な円高による「円高不況」におちいりながらも景気を回復して、62年以降に迎えた「平成景気」では、株価や地価が上昇するなど、いわゆるバブル状態に至った。しかし平成3年に入ると景気は後退し、北海道も全国同様にバブル崩壊の影響を受け、景気は低迷した。

 4年の消費税導入により買い控えも現われた。消費支出に占める費目は昭和60年と平成6年では食料、光熱・水道などほとんどの費目が減少傾向を示しているなかで、パック旅行や習い事などの教養娯楽、こづかいや交際費を含む「その他の消費支出」が増加傾向になった(平成7年版『道民生活白書』)。

 大量消費や使い捨ては省資源、省エネルギーに逆らう行為として、慎むようになってきた。しかし、一人ひとりの消費の質は、高級化・多様化・個別化を志向、このような消費者の動向は買物によく現われて、まちづくりを喚起する要素でもあった。日常の行動や生活圏に関する62年9月の町民アンケート(「第3次町総合計画」資料)では、町内で購入するのは、一般雑貨や実用衣料品などが86.5lと高く、高級衣料品・アクセサリー・贈答品などは低く29.6lである(図7−9)。流出先は旭川市がもっとも多く、特に旭川市での高級商品の購入は若者の約90lを占める(広報『かみふらの』昭63・4)。

 

 図7−9

  ※ 掲載省略