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7章 現代の上富良野 第8節 学校統合と現代の教育

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6、社会教育の現状と生涯学習

 

 青年団の結成状況

 昭和37年12月16日、連合青年団と青少年クラブ連絡協議会(4Hクラブ)が合併して青少年団体協議会が結成されると、上富良野における青少年の活動は同会を中心に行われることとなった。

 昭和37年当時上富良野には東中(50名)、江花(28名)、共栄(30名)、富原(33名)、日の出(32名)、草分(35名)、島津(28名)、旭野(22名)、清富(17名)、日新(18名)の計10の青年団があった。その後、昭和43年度の青少年団体協議会の「会計決算報告」には、東中(49名)、江花(40名)、共栄(32名)、富原(29名)、日の出(27名)、草分(26名)、島津(26名)、里仁(20名)、清富(17名)の9つの青年団の名前があり、旭野青年団と日新青年団の名前がなくなったかわりに里仁青年団が入っている。それが昭和44年度の収支決算書では旭野青年団が復活し、清富青年団の名前がない。さらに昭和49年度の青少年団体協議会の組織図では、日新青年団が復活して10団体となるが、昭和54年度の各青年団の団員名簿には旭野青年団がない。おそらく旭野、日新、清富など団員の少ない青年団は、この時期に団の解散や再結成を繰り返していたと思われる。ちなみに全団員数は各年度の収支決算書の会員負担金を参照すると、昭和37年度に293名だったのが、昭和43年度に266名となり、45年度には256名、46年度に210名、47年度に209名、48年度に205名、昭和49年度には遂に200名を割って186名と年々減少していき、昭和50年度には163名、昭和54年度には142名と昭和37年度の半数以下となった。また団員の年齢構成も、昭和47年度には15〜17才が21名(男13名、女6名)、18〜20才が121名(男64名、女57名)、21〜23才が63名(男48名、女15名)、23才以上が4名(男4名、女0名)だったが、昭和54度には、17才未満の団員はいないかわりに23才以上の団員が47名となり、全体的に団員の高齢化も進んだ(『青少協総会資料』役場蔵)。

 

 青少年団体協議会の構成と活動

 青少年団体協議会の活動は、町民スポーツ大会を兼ねた青年体育大会や球技大会、ソフトボール大会やバレーボール大会、芸能発表会や資金造成ダンスパーティの主催、リーダー研修会やプロジェクト発表会、町内技術交換大会、春期研修会の開催、成人式や神社祭典での使役、新年交礼会への参加、研修旅行、管内4H大会や管内青少年研修会への参加などであった。特にプロジェクト発表会は、青少年団体協議会と農業学園が合同で開催し、学んだ技術を農業の経営や生活のなかで実際に体験し、その実績を発表しあう会として位置づけられた。ちなみに昭和43年度には、「馬鈴薯の多収穫栽培」、「気温と水稲の生育調査」、「わが家の食生活」、「卵の殻のむけ具合と鮮度」などが発表された(『広報かみふらの』第105号、昭43・1)。

 また青少年団体協議会は、産業専門委員会、文化修養専門委員会、生活専門委員会、体育専門委員会から構成され、それぞれが専門とする分野の行事を中心的に運営した。特に文化修養専門委員会では、昭和46年6月から「青少協だより」を発行し、また年1回機関紙「どろんこ」の発行も行っていた。また産業専門委員会や生活専門委員会は学習会を計画し、団員の知識の獲得や技術の向上に努めた。

 昭和47年には創立10周年を迎え、11月4日には公民館で記念式典が開催された。また翌48年11月には第1回「青年のつどい」を主催し、「町内農家の青年が一同に集まり、日頃の考え方や技を出し合い、親睦を深め、若人として明日の郷土発展に立ち上がろう」と技術交換や意見発表を行った。テーマは「農業という職業」、「農作業は重労働か」、「農村女性の労働」、「冬期間の過ごし方」、「余暇の考え方」、「農村の封建制とは」などであった(『広報かみふらの』第176号、昭48・12)。しかし第2回には「広く町民に対し青少協活動の理解」を求め、「収穫の喜びを味わい、相互の親睦を深める」ことが開催のねらいとなり(『青少協総会資料』)、「青年のつどい」は「青年祭」となって、技術交換や意見発表だけでなく、「青年の活動と情熱を一般町民に理解してもらう」場となった。またダンスゲームや映画会、講演、演芸会などもプログラムに取り入れられ、フリーコーナーでは単位青年団の催し物や1年間の記録写真展が行われ、夜は歌謡ショーも開催された(『広報かみふらの』第211号、昭51・11)。

 

 商工会青年部と農協青年部

 一方昭和41年11月には、商工会青年部が創立された。初代会長は堀内慎一郎で、活動としては、同婦人部とともに図書基金造成パーティーを開催し、公民館に図書購入資金20万円を寄付したり(『広報かみふらの』第214号、昭52・2)、花見会場として使われた上富良野神社境内の清掃などを行った(『広報かみふらの』第229号、昭53・4)。また昭和63年1月1日に開催された「第1回北の大文字焼き」を主催するなど積極的な活動が評価され、平成6年11月24日には優良商工会青年部として「中小企業庁長官賞」を受賞した。

 昭和26年8月2日に結成された農協青年部は、昭和56年創立30周年を迎え、12月15日記念式を挙行した。また昭和60年12月には農村青年グループ「フロンティア・スピリット・クラブ」が発足し、会長に中西一男が就任した。

 

 単位青年団の活動

 昭和40〜50年代の単位青年団の活動は、青少年団体協議会の行事への参加のほか、地区の神社祭典や小、中学校の運動会での使役、田植えや収穫の際の援農、地区の清掃や草刈り、花壇作り、資金造成のための客土散らしやダンスパーティーの開催、花見や研修旅行、収穫祭やクリスマスパーティーなどの親睦が行われていた(『島津青年団総会資料』役場蔵、『創立60周年記念・激動10ヶ年の歩み・東中青年団』)。特に奉仕作業に関しては、昭和44年3月26日に、江花青年団が過去50年間の江花道路の整備や、20年にわたる江花公園や江花神社境内の清掃を行ったことから「善行青少年」として町より表彰された(『広報かみふらの』第119号、昭44・4)。

 

 青年学級

 青年学級は昭和30年代後半、東中、瑞穂、江花、江幌、里仁、富原、旭野、商工の8学級が開講され、参加290名、延べ学習時間は1,200時間を超えていた。昭和41年度には創成学級と日の出青年学級が開講されているが、学級の合併などがあったのか、昭和43年には公民館、東中、江幌、江花、里仁、富原、旭野、商工の8学級に戻り(273名受講)、昭和46年度には東中、島津、旭野、江花、里仁、草分、共栄の7学級となっている。また農業学園や高校卒業者の増加により、中卒者を対象とした「初級コース」、農業学園や高校卒業者、経験3年以上を対象とした「中級コース」が設置され、さらに44年度からは「上級コース」も設置された(『広報かみふらの』第111号、昭43・6)。

 

 青年学級の学習内容

 青年学級の教科は、公民としての教養や態度の向上を目指す「一般教養」、職業や家事に関する基礎的な知識や技術を習得する「職業家事」、専門分野の習得や華道、茶道を学ぶ「特殊技能」、「学級行事」、「宿泊訓練」、奉仕や行事に参加する「社会活動」、生徒会活動やレクリエーション、座談会などの「集団活動」、キャンプや遠足、スキーなどの「野外活動」、「視察研修」などであった。また学習のテーマとして、たとえば「青年の使命について」、「農業技術の習得について」、「望ましい青年像」、「地域の課題解決」、「青年期における友情・恋愛」などを考察し、アンケートによる共通課題の発見に取り組んだり、また女子は家事一般や生け花、茶道、料理などの実習を行った。

 

 青年教育の現状

 昭和54年4月、上富良野では社会教育委員会とスポーツ振興審議会の2年に及ぶ答申を受けて「社会教育振興計画」が策定された。この計画で青年教育は、青少年団体連絡協議会の活動に参加するのが農村青年にとどまり、全町規模の活動が展開されていないとして、新たな青年組織「上富良野町青年開発会議」の結成を構想した(『上富良野町における社会教育中期計画』)。しかし単位青年団の団員数の減少には歯止めがかからず、昭和59年4月の「第2次社会教育中期計画」では、青少年団体協議会に加盟している単位青年団は6団体・87名で、18〜24才までの対象人口1,327名に対して加入率は6.5lとなっていた。

 また第1次計画で構想され、昭和57年に発足した「青年会議」も会員数は20名にすぎず、農協青年部には、かろうじて110名、商工青年部には57名が加盟していた。そこで第2次計画では、青年の地域活動への参加の奨励が第1の目標とされた(『上富良野における第2次社会教育中期計画』)。

 平成元年に策定された「第3次社会教育中期計画」では、青少年団体協議会に7団体87名、農協青年部に80名、商工青年部に48名が所属していることが報告され、第2次計画に対して現状維持したかたちとなったが、20〜29才の加入対象者は2,088名おり、加入率はかなり低かった。これは加入対象者に自衛隊営内者が多く、地域とのつながりが薄いこと、農業青年が活動の主体となり、市街地区の青年の参加が少ないことなどが理由とされた。「第3次計画」でも「グループによる学習機会の提供」や「ボランティア活動や社会参加の機会の拡充」などを課題として、交流会や研修会、学習援助が計画された(『上富良野における第3次社会教育中期計画』)が、結局実を結ばず、平成9年7月1日現在で青少年団体協議会には1団体、32名が加盟しているにすぎない。

 

 婦人会の活動

 昭和37年度の上富良野の婦人団体には、中央(320名)、東中(280名)、富原(70名)、島津(100名)、日の出(120名)、草分(100名)、江幌(60名)、江花婦人会(75名)、旭野(44名)、里仁(40名)、日新(40)、清富(30名)の計12の婦人会があり、2,179名が所属していた。しかしこの時期には既に市街地の婦人の加入者が少なく、昭和41年には市街地区婦人会が「婦人会への全戸加入」を呼びかけている(『広報かみふらの』第92号、昭41・10)。

 また昭和48年には単位婦人会が10団体で538名が所属していることから、青年団と同じように婦人会も昭和40年代に会員が半数以下となっていった。その後昭和54年の町連合婦人会研修会には、やはり10団体の単位婦人会から参加者があったことが確認される。

 単位婦人会の活動は、中央婦人会を例にとると、51年や53年に行われた北海道療育園や旭川老人ホーム「敬生園」におむつを贈る事業や、昭和57年に文化祭協賛事業として不用品即売会を実施し、その利益のなかから児童図書50冊を公民館図書室に寄贈するといったものがある。また昭和53年に弁天町婦人会が西富区弁天町前のロータリー花壇におんこ20本を植樹したり(『広報かみふらの』第234号、昭53・11)、西富婦人会が行っている植樹や草取り、ラベンダー刈り、日の出公園の花壇作り、研修旅行なども重要な活動の1つである(創立10周年記念誌『親睦・西富婦人会』平5)。

 一方単位婦人会を統括した連合婦人会の活動には、役員会や総会の開催のほか、年3回の研修会や沿線婦人大会への参加や管内婦人大会への参加があった。また昭和42年11月21日には「一日町長の催し」を実施し、昭和51年7月29日には、深山峠でラベンダーを交通安全のお守りとしてドライバーに手渡すなどの活動も実施した(『広報かみふらの』第208号、昭和51・8)。一方公民館活動として昭和44年には210名が参加した婦人スポーツ大会も開催され、婦人会リーダー研修会や町内若妻研修会、町内婦人幹部研修会、婦人学級なども行われた。

 

 商工会婦人部と農協婦人部

 また昭和46年には商工会婦人部が設立され、初代の婦人部長に新納満子が就任した。商工会婦人部の活動は、商工振興のための研修活動を始め、町の行事への協力やラベンダーハイツでの奉仕活動などである。昭和51年6月16日には「市街地の要所に花を置く」作業を行い、以後花いっぱい運動として定着した(『広報かみふらの』第374号、平2・7)。また青年部とともに町の公共施設の設備や備品に役立てようと基金造成パーティを開いた。ちなみに昭和52年には郷土館内部施設充実資金となり、翌53年にも公民館の図書購入資金にあてられた。また新入学児童に交通安全お守り鈴をプレゼントしたりしている。

 一方昭和53年4月1日には農協婦人部に若妻会が設立され、59年には結成30周年記念式典が実施され、記念誌が発刊された。平成2年1月31日には「第1回おにぎり祭り」を主催し、以後毎年実施されている。

 

 家庭教育学級と婦人学級

 昭和39年文部省が、非行少年の増加とともに家庭のありかたを社会問題として取り上げ、家庭教育の重要性に鑑み、両親等に対する家庭教育に関する学習の機会を拡充するため、家庭教育学級の開設を奨励したことから、上富良野でも同年家庭教育学級が開設された。開講されたのは、上富良野中央家庭教育学級(上富良野小学校、250名、24時間)、旭野家庭教育学級(旭野分館、33名、22時間)、江幌家庭教育学級(江幌小学校、30名、24時間)、江花家庭教育学級(江花小学校、80名、30時間)、東中家庭教育学級(東中中学校、120名、24時間)の5学級で、翌40年には旭野がなくなり、創成と日新に学級が設置された。しかし昭和42年には東中母親学級、江幌家庭教育学級、中央家庭教育学級、若葉婦人学級の4学級となり、名前も母親学級や婦人学級といったものが使用され、翌43年には若葉、中央、江幌の各学級が「婦人学級」を名乗るようになり、昭和45年には全て「婦人学級」に統一された。

 婦人学級は月1回程度開講され、家庭教育学級の開設目的のような「家庭教育のための学習」から、健康や生き生きした生活設計、家庭円満の秘訣に関する講話のほか、活動は自衛隊の1日入隊などの町内見学、町外見学旅行、宿泊研修会、スポーツ活動(美容体操等)、レク活動(ゲーム、フォークダンス等)、グループ活動及び発表会が主となり、婦人の日常生活を豊かにする学習がメインとなっていった。また昭和54年度からは「ミセススクール」となって装い新たに開講され、「主婦として、母親としての資質の向上と日常生活をさらに豊かにする学習及び交流」の場としての位置づけを強めた。また昭和48年からは学級誌『こてまり』も発行された。

 その後「ミセススクール」はさらに「女性学級」となり、現在は「女性としての資質向上と日常生活をさらに豊かにする学習及び交流を深め、地域のリーダーとなる女性を養成する」ことを開設のねらいとし、講話や実習、施設見学や社会見学、趣味の学習やスポーツ、町議会傍聴、文化祭への作品展示、いしずえ大学との合同作品展など多彩な学習に取り組んでいる。また家庭教育学級も復活し、小学校児童の母親を対象に講話を聞く活動が行われていたが、現在はさらに低年齢化して高田幼稚園やふたば幼稚園などが主体となり親子レクリエーションや親子共同製作など、「親子のふれあい」を活動の中心にすえている(『平成8年度教育要覧』)。

 

 婦人団体連絡協議会の発足

 昭和53年2月23日には、公民館で約100名の婦人会員による町連合婦人会研修会が開催され、「これからの婦人会のあり方」をテーマとして研修が行われた(『広報かみふらの』第227号、昭53・3)。このころから婦人会活動の見直しが論議され、翌54年2月23日の町連合婦人会研修会でも、「婦人会活動の体質改善一試案」として農村地区連合婦人会、市街地区連合婦人会を設け、町ボランティア活動部連合会や若妻会連合会等を結成し、婦人学級、農協婦人部、商工婦人部といった既設の単位婦人団体を包含したなかで、町婦人団体連絡協議会を組織して各種事業を行うといった提言がだされた。この提言を受けて各地区別に討議が行われた結果、農村、市街地区連合会構想や連絡協議会構想には基本的に賛同するものの結論は急がず、とりあえず単位婦人会の活動を盛り上げることを確認した(『広報かみふらの』第239号、昭54・3)。

 しかしその後昭和56年、結局連合婦人会は解散し、昭和54年の「婦人団体連絡協議会」構想が実現したのは、それから10年後の平成元年12月であった。

 設立当時「上富良野町婦人団体連絡協議会」には、婦人スポーツ団体協議会(昭和53年結成)、交通安全協会婦人部(昭和58年結成)、赤十字奉仕団婦人部、更生保護婦人会、女性学級こてまり会、農協婦人部、商工会婦人部、中央婦人会、ボランティアあゆみ会の9団体が加盟していたが、現在は農協婦人部がJA女性部となり、母子会が加盟して10団体、1,286名が所属している(平成8年度『教育要覧』)。

 

 婦人教育の現状

 社会の進展にともない婦人の余暇時間は年々増大し、これに対処して社会参加や個人学習の場の確保することは、社会教育にとって重要な課題である。昭和54年4月策定の「社会教育中期計画」でも、婦人団体の活動促進を図り、婦人学級の内容充実や婦人活動グループの育成が目標とされた(『上富良野町における社会教育中期計画』)。

 この結果昭和59年4月の第2次計画策定時には、地域婦人会、農協婦人部あわせて430名、商工会婦人部が142名、婦人スポーツ団体に110名、婦人ボランティア36名など多くの女性が各種団体に参加している。しかし指導者不足にともなう役員の固定化や高齢化により、活動が停滞していることも確かであり、また団体育成に偏重せず、婦人学級などの個人の学習機会の充実が重視されるようになった(『上富良野における第2次社会教育中期計画』)。

 しかし一方で余暇の活用として趣味や教養、スポーツ活動に積極的に参加する傾向は年々強まるものの、生活課題や地域課題を解決するための活動には消極的な婦人が増えている。平成元年の「第3次計画」の報告では、地域婦人会が13団体、750名、農協婦人部が227名、農協若妻会が87名、商工婦人部が153名、婦人スポーツ団体協議会が120名、婦人ボランティアが55名、交通安全協会婦人部が600名の計1,857名の女性がなんらかの団体に加盟し、これは20才以上の対象人口4,832名の38.4lにあたることから、一見婦人教育の推進には一定の成果があったようにみえるが、婦人会への参加率は低く、まちづくりやボランティアへのいっそうの参加奨励が課題とされている(『上富良野における第3次社会教育中期計画』)。

 

 子供の団体

 昭和30年代後半に子供会の活動は、子供会スキー大会、子供スケート大会、子供会先進地区との交歓会、社会見学、全町子供会ソフトボール大会、全町子供会の集いなど子供を主体とする行事のほか、子供会リーダー研修会、子供会育成指導員研修会など子供会の指導者の研修も盛んに行われていた。特に子供会リーダー研修会は、「子供会のリーダーとして必要な知識と技術を習得し、子供会活動を自主的に運営するリーダーを養成する」ことをねらいとして開催され、町内の子供会から会長、副会長、書記、会計らが出席し、年間活動計画の立て方、レクリエーションの進め方の実習など、リーダーとしての知識を研修した。

 またこれらの取り組みや行事は、昭和40年代以降も引き継がれ、昭和42年には「上富良野町子供会育成協議会」も設置された。

 そのほかに子供の団体としては、昭和43年9月8日に結成された「少年消防クラブ」がある。同クラブは、上富良野、上富良野西、東中の各小学校の5、6年生の希望者56名で結成され、「火災予防の精神を少年のころから香い、将来においての予防的成果を期待」して設けられ、少年消防クラブ運動の普及徹底と火災予防に関する研究などの事業を行った。また昭和55年度には、北海道初の自治省消防庁長官表彰に選ばれ、昭和56年3月27日の表彰式には、3校の代表3名が出席した(『広報かみふらの』第263号、昭56・4)。

 また昭和50年以降、活動を休止していたボーイスカウト上富良野第1団は、平成3年6月1日に再発隊し、約40名の隊員が活動している。

 

 写真 子供会の活動の場であった子供会館(昭和36年)

  ※ 掲載省略

 

 児童会館の設置

 また子供の活動のためのよりよい環境作りのため、昭和45年8月24日には草分地区に児童館建設のための起工式が行われ、工費560万円で10月25日完成した。これが草分児童館である。また昭和47年11月には、東明児童館が建設されて翌年1月1日開館し、昭和57年11月30日には総工費2,160万円で東児童館が建設され、翌58年1月1日に開館した。

 平成3年12月20日には、泉栄防災センターに西児童館も併設され、翌4年1月1日開館している。

 

 写真 東明児童会館

 写真 東児童会館

  ※ いずれも掲載省略

 

 少年教育の現状

 昭和40年代以降、花いっぱい運動や子供会対抗相撲大会、ラジオ体操の実施、七夕祭と提灯行列、子供会盆踊り大会、子供会リーダー野外研修会、カルタ大会、子供交通安全行灯パレードなど様々なイベントが子供会の行事として加わり、ほぼ月に1回の割合で行事が行われている。また子供会の団体数も、昭和46年には60団体、会員数1,500名、昭和48年に58団体、会員数1,890名となったが、昭和54年には70団体となったものの会員数は1,250名となり、会員自体は減った。さらに昭和56年には団体数が64団体となり、昭和58年には66団体、会員数1,556名で加入率67.5lといったんは持ち直したものの、平成元年には61団体、会員数1,256名となり、平成8年5月28日現在で42団体、会員数811名となっている(平成8年度『教育要覧』)。

 一方子供会を中心とする少年教育で最も重要な課題は、子供の数の減少ではなく、核家族化や少子化により子供が家族や兄弟とのつながりを実感できず、また学歴偏重の社会風潮により、子供の「あそび」の減少や仲間との連帯が不足していることである。

 また中学生や高校生など、本来子供会のリーダーともなるべき世代と子供世代の関係も希薄であり、子供会活動の活性化は、子供同志の世代間の交流や中、高生の協力、ボランティア活動による社会参加を実現するものとして期待されている(『上富良野町における第3次社会教育中期振興計画』)。

 

 老人大学

 昭和47年、町教育委員会は老人クラブ会員と60歳以上の一般高齢者50名を対象に、健康づくり、明るい家庭、平和な社会づくりなどを「環境づくり」をテーマとして、上川管内で初の「老人大学」を開校した。「老人大学」は科学技術の進歩、産業経済の発展と国民生活の高度化によって、高齢者が先覚者として自らの役割を自覚して社会の進展に適応し、生涯の健康保全と生活設計を樹立することを目的に開講され、同年6月16日には開講式と第1回講座が開催された(『広報かみふらの』第157号、昭47・6)。「在学」期間は2年で、その後「大学院」2カ年、専攻科2カ年の履修課程があった。また入学試験は、「血圧テスト」、「体力テスト」の年間の学習に耐えうるかどうかをチェックする「健康テスト」で、翌48年には生徒数も171名に達し、最高84歳の高齢者も「在学」していた。総長には当時の和田松ヱ門町長が就任した。

 「老人大学」は、本科1年は年15回で36時間、本科2年は年30回で58時間、大学院生はさらに20時間程度多い学習プログラムが組まれ、1年生は一般教養、2年生は一般教養と盆栽コース、工作コース、芸能コース、文芸コースの4つに分かれて専門科目を修め、大学院生は専門課程を研修し、実習も取り入れられた。また奉仕のほかに研修旅行や遠足、運動会、演芸会も行われた(『広報かみふらの』第181号、昭49・5)。毎年3月には修了式と卒業式が行われ、卒業を記念して文集『思い出』が発行され、「大学生活」の感想や詩歌、短歌や俳句、川柳などが掲載された。

 

 社会教育総合センターの建設

 上富良野では年々スポーツや文化に親しむ人が増え、既存の公民館や学校の体育館の開放だけでは施設が不足するようになっていた。昭和52年の町民を対象とした「社会教育に関する意識調査」では、総合体育館と文化会館の設置に強い要望が出されており、このような町民の要求に答えるべく、昭和54年4月策定の「上富良野町社会教育中期計画」では、「社会教育施設整備事業として「社会教育総合センター」の建設着工が計画に盛り込まれていた。翌55年には「上富良野町総合体育館施設整備基金」が設置されたが、当初の予定である昭和58年度までに建設着工はできず、昭和58年1月の町政懇談会でも、「旧町立病院跡地に社会教育総合センター等の設置を願いたい」という要望があがった(『広報かみふらの』第286号、昭58・3)。

 この結果、昭和59年4月策定の「第2次中期計画」により、再び「総合体育館」の建設が計画され、同年「社会教育総合センター建築調査特別委員会」が設置された。昭和61年7月23日には「社会教育総合センター」の建築に着工し、翌62年10月31日遂に完成した。

 「社会教育総合センター」は、体育館とコミュニティセンターで構成する複合施設で、町民のスポーツや文化活動の拠点として大きな役割を果たしている。ちなみに建物は、敷地4万5,510平方bの敷地に、延べ4,966平方bの鉄筋コンクリート造、及び一部鉄骨造の2階建てで、事業費は10億円、うち国から2億1,860万円、道から6,000万円の補助を受け、郵政省簡易保険積立金融資の地方債6億円と残りを町で負担した。

 

 写真 完成した社会教育総合センター

  ※ 掲載省略