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7章 現代の上富良野 第8節 学校統合と現代の教育

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5、公民館の整備

 

 公民館における社会教育

 昭和30年代に既に建設期成会が設置され、検討が進められていた公民館の建設は、町の財政難などにより、結局40年代に入ってもなかなか実現しなかった。しかしそのような施設の不備にもかかわらず、昭和30年代後半から40年代にかけて上富良野では、盛んに公民館を中心とする社会教育事業が行われた。

 1月の新年交礼会や成人式、9月の敬老会のほか、青年学級、婦人学級の開講、青年研修会や婦人研修会、ボランティア研修会や青少年団体技術交換大会の開催、子供の日や七夕祭り、クリスマスなど子供会の行事、各種講座の開講、料理講習会や手芸講習会、人形劇講習会などの講習会、講演会や巡回映画会、レコード鑑賞会の開催、総合文化祭や全町児童生徒作品展などの展示会、スキーやバレーボール、卓球、水泳などのスポーツ教室の開設、さらには町民スキー大会、全町スケート大会、全町バレーボール大会、全町卓球大会、町民スポーツ大会、体力テスト、全町庭球大会、みんなで歩こう会、行政区対抗野球大会、職場対抗バレーボール大会、全道十勝岳大回転競技大会、子供会ソフトボール大会、全町児童生徒野球大会、町内児童生徒球技大会、全町児童生徒スケート大会、青年体育大会、全町青年球技大会などさまざまなスポーツ大会が開催された。

 特にスポーツ教室は、組織的な体育活動をもたない上富良野の農村青少年、商工勤労青少年にスポーツ実践の機会を与え、施設や指導者を定期的に提供してスポーツ活動の振興を図ろうという試みであった。また昭和48年にはスキー、ダウンヒル、柔道、剣道、野球などの種目でスポーツ少年団も結成され、婦人を対象にスポーツ教室も開講されている(『広報かみふらの』第185号、昭49・9)。一方活動の全体的な傾向としては、40年代以降はどちらかといえば教養、文化活動よりスポーツ振興のほうに力が入れられ、また活動の目的も、各団体の親睦より、どちらかといえば研修活動が重視されるようになった。

 

 公民館の建設

 昭和40年代になると、社会教育委員会では毎年のように「公民館建設の早期実現」が審議された。特に41年には建設期成会が再結成されたこともあり、42年度に調査設計費を予算化して43、44年度の2カ年計画で国民年金の融資を受け、公民館を新築する意向もあった(『昭和41年・42年会議録』)。また昭和42〜46年の「上富良野町文教施設整備五カ年計画」でも、昭和43年度に公民館の体育館の建築が予定されていたが、これらは結局実現しなかった。

 昭和45年には、再び町政の重点事業の一つとして公民館の建設が計画され、翌46年11月20日、遂に竣工式が行われた。完成した公民館は「町民の茶の間」として「地域づくりの拠点」、あるいは「住民の対話の場」を提供するほか、「町民の福祉」への貢献も期待され、青少年会館と福祉センターを兼ねていた(『広報かみふらの』第151号、昭46・12)。施設としても「青少年の部屋」、「婦人の部屋」、「老人室」、「料理実習室」、「和室」、「青少年会館体育室」、「郷土資料室」など全町民が社会教育を享受できる設備を備え、さらには結婚式場としても使用できた。また教育委員会事務局も役場庁舎から公民館の1室に移転することとなった。

 一方館内には、図書室も整備された。図書貸出に関して上富良野の町民は、これまで上富良野や富良野に年3回程度来る移動図書館を利用する以外なく、昭和46年には利用者1,200名で利用冊数も700冊にのぼった。しかし公民館の建設により、昭和47年12月から毎週土、日に図書室が開館され、当初の蔵書数も2,340冊であったが、翌48年には3,225冊に増加した(『昭和44〜48年事務報告』役場蔵)。また昭和51年7月27日からは月、金以外は年中開館となり、蔵書も約6,000冊を超えた。

 

 写真 完成した上富良野町公民館

  ※ 掲載省略

 

 各分館の設置

 また各地区への分館の設置も、既に設置されていた東中分館や、昭和37年4月の旭野小学校の廃校により設置された旭野分館以外は、昭和40年代の各小学校の統廃合にめどがついた時点から進められた。

 昭和42年4月には江幌小学校に江幌分館、旧江花小学校校舎に江花分館が設置された。翌43年1月1日には旧創成小学校跡に草分分館が設置された。またその他の地区でも昭和48年4月1日をもって一斉に分館が設置されている。

 島津分館は町公民館に、日の出分館は日の出二下部落会館に、富原分館は「富原母と子の家」に、里仁分館は旧里仁小学校校舎に、清富分館は清富小学校に、日新分館は日新小学校にそれぞれ設置された。

 

 分館建物の移転・新築

 しかし既存の建物に「居候」したり、廃校となった小学校に設置された分館では、どうしても公民館活動に制約がある。そのため各分館は、結局その後移転や新築により、よりよい施設整備を行うことになった。旭野分館では、老朽化した同小学校の校舎を使用していたため、早くも新築が計画され、昭和39年9月18日に落成式が行われた。同分館は建坪71.5坪、総工費215万円で建てられ、講堂やステージ、給水室、研修室などからなっており、住民たちの文化活動の中心として利用された(『広報かみふらの』第73号、昭39・10)。また昭和55年10月には、同小学校校舎跡地に「旭野寿の家」が新築され、こちらに分館が併置された。

 草分分館は、昭和45年10月27日草分児童館の新築にともなってこちらに移転し、平成2年12月21日には、草分防災センター新築により同センターに併置された。江花分館は昭和46年11月5日に旧江花小学校校舎跡地に「江花母と子の家」が新築されたため、こちらに移転した。

 里仁分館も昭和49年10月14日に「里仁寿の家」が新築されてこちらに併置されることになり、江幌分館も翌50年9月5日同小学校校庭に「江幌寿の家」が新築されたため、こちらに移転した。

 昭和51年には、東中分館が昭和26年に建設された建物を防衛庁の補助により新築する計画が持ち上がり、同年7月26日に起工式が行われ、12月13日落成した。

 この「東中会館」は演習場の騒音により生徒の学習、幼児の保育、老人病弱者の休養等に支障があるため、防音装置を完備した建物が必要となり、防衛庁への陳情の結果、建設が実現した。敷地は住民が町に寄付し、総工費は7,620万円で、そのうち防衛庁からの補助は4,500万円であった(『広報かみふらの』第212号、昭51・12)。またこの年には、へき地保健福祉会館として清富に「清富保健福祉館」が建設され、同館に清富分館が併置された。総工費は1,000万円で、12月3日には会館びらきが行われた(『広報かみふらの』第212号、昭51・12)。

 昭和54年11月には日新分館も「日新寿の家」新築によりこちらに併置され、昭和57年11月30日にも、日の出分館が「日東会館」新築にともない、同会館に移転した。島津では平成2年12月18日に「島津ふれあいセンター」(島津農業構造改善センター)が建設され、住民の活動拠点が確保された。また平成5年9月1日にも「富原コミュニティセンター」が新築され、富原分館が同センターに併置されることとなった。