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7章 現代の上富良野 第8節 学校統合と現代の教育

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3、教育環境の整備

 

 高校の全日制化

 昭和42年にひとまず昼間季節制の農業科を新設し、定通併修形式を採用した上富良野高校は、「全日制」化と「道立移管」を模索しつつ、校舎整備に取り組んだ。同年5月16日にはグランドが設置され、翌43年11月23日には屋内体育館、土・肥料・飼料実験室、作物畜産実験室などの特別教室を新築落成し、同日20周年記念式典が挙行された。一方昭和45年には定時制生活科(季節制)が設置され、それと同時に定通併修課程の募集を停止し、通信制課程を設置して道立有朋高等学校の協力校となった。翌46年には有朋高校上富良野学習集団振興会を設立し、自営者クラブが結成された。

 その後上富良野における高校進学率は年々上昇し、昭和40年に53.0lだった(『昭和40〜42年度請願陳情』)のが、昭和52年度には86.5l(『統計要覧』)にまでなった。また、富良野や旭川の高校へ汽車通学する生徒も500名近くにのぼったが、全日制ではない上富良野高校への進学希望者は減る一方となった。さらに道教育委員会が昭和48〜50年にかけて小規模校などの整理統合を含めた高校適正配置計画を推進し、同校の廃校の可能性もでてきた。そこで@農業政策の転換などによる一般基礎教育の普通科の必要性、A定時制入学者の減少、B全日制高校の進学者増加と富良野、旭川方面への通学者増加、C農業後継者である生徒やその親が、4年制より3年制の全日制を希望し、近くて通学しやすい高校の設置を要請し、D職業科高校は志望者が少ないうえ、学校の施設設備費が膨大で、一方普通科高校は志望者が多く施設をそのまま使用できる、E上富良野町の人口や規模から全日制高校の設置条件は整っている、などの理由から全日制普通科高校の設置の要望が高まった。昭和47年の春には「高校振興協議会」を発足し、翌48年6月の町議会には「高校整備対策特別委員会」が設置された。一方昭和48年3月には、定通併修課程の生徒が卒業して同課程が廃止され、この年9月16日開かれた第7回定例町議会で「上富良野高等学校に全日制課程の普通科を設置する件」が可決され、翌49年4月から定時制課程農業科、同生活科の募集を停止し、全日制課程普通科二間口の設置を道教育委員会に強力に働きかけることになった(『広報かみふらの』第174号、昭48・10)。

 昭和48年12月5日には、道教育委員会により翌年度の公立高校の適正配置計画が最終決定され、この結果上富良野高校に全日制普通科二間口、定員90名の開設が決定された(『広報かみふらの』第176号、昭48・12)。翌49年4月には定時制農業科、同生活科の募集が停止され、全日制普通科第一期生が入学した。

 

 写真 上富良野高等学校

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 道立移管と間口増

 一方全日制普通科への移行の実現により、つぎなる目標は入学志望者全入学実現のための間口増と道立移管の促進となり、そのための教育施設の充実と教育環境の整備が行われた。昭和50年には翌51年度の道立移管が決定したことから、急きょ第2グランドの造成が行われた(『広報かみふらの』第198号、昭50・10)。また昭和52年度には、上富良野高校の受験者の応募倍率が1.5倍となり、間口増を望む父兄の声があがったため、町教育委員会が道に働きかけ、昭和53年度の公立高校の適正配置計画により、上富良野高校の一間口増が決定された。これにより同校の募集人員は135名となった。

 

 保育所の開設

 昭和40年代、上富良野では昭和30年代につづいて各地区で保育所が設置された。昭和40年代以降幼児人口は漸減したが、一方で一般的に幼児教育の重要性が認識されはじめ、ほとんどの幼児が小学校に入学する前に、保育所や幼稚園に通うようになったからである。昭和42年5月には江花小学校の統合により要望されていた江花季節保育所が、旧同校教員住宅を会場に開設された。期間は毎年5月から10月末までの6カ月間で、保母には教員の夫人2名がなった。最初の保育児は14名で、うち2名は中富良野町新田中から入所した。また昭和61年10月には開設20周年をむかえ、記念式と『保育二十年の歩み』を発刊した。

 一方昭和44年6月には、東中に上富良野町立東中へき地保育所が設置された。最初は東中小学校の空き教室を保育室として利用し、その後昭和54年8月に旧東中公民館に移転開設された。また昭和46年5月1日には、草分児童館を利用して上富良野町立草分季節保育所が開設された。やはり毎年5月から10月までの6カ月間で、その後平成2年12月21日の草分防災センターの新築落成にともない、移転した。

 昭和45年には無認可保育所として「わかば愛育困」が開設され、2年後の47年3月31日には社会福祉法人「わかば会」として認可された。同年4月1日より開園した「わかば愛育園」は保育定員60名、母親の産休明けから乳児を預かる0才児保育に力を入れている。

 また昭和50年5月1日には上富良野町立西保育所が開設された。一方昭和59年2月には、東児童館の開館により「あそびの教室」が開設され、61年4月には「上富良野町ひよこ学級」に改称した。平成4年には泉栄防災センターの開館により、同センターに移転している。また清富にも一心生産組合員の幼児を対象に、清富一心組合季節保育所が開設された。

 

 洋裁学校の閉校と子供の習い事

 昭和30年代まで人気の高かった洋裁学校は、その後入学者が漸減し、上富良野文化服装学院、上富良野高等家政女学校、昭和61年には千葉洋裁専門学校も閉鎖された。

 一方、それにかわって昭和40年代以降、子供たちがピアノやオルガン、エレクトーンや珠算、書道、英語などの習い事をするようになり、ヤマハ音楽教室、静心書道専門学院、森本書道教室、小川英語塾、及川珠算塾などが開設された。またセシリヤ音楽院、社交ダンスサークル、服部和子着物学院など主に大人が習えるものも開設された。

 一方、昭和49年1月から3月まで町公民館草分分館では、富良野職業訓練校上富良野分校建築科が開設された。同校は、農家の転職希望者に技術指導を行うのをねらいとし、上富良野からは13名、中富良野からは7名の計20名が訓練をうけた(『広報かみふらの』第179号、昭49・3)。

 

 完全給食の実施

 上富良野では、昭和38年上富良野小学校で完全給食が開始されたが、その後上富良野西小学校を除き、他校では実施には至らなかった。そこで昭和48年11月19日には、上富良野小学校の給食施設を大幅に改造して配送車を購入し、これにより東中小学校、江幌小学校、日新小学校、清富小学校にも完全給食が実施できるようになった(『広報かみふらの』第177号、昭49・1)。また同年「上富良野町学校給食会」が設置された。

 昭和54年12月24日には学校給食センターが竣工し、翌55年1月22日から各校への給食の支給が開始された。新しい給食センターの給食能力は3,000食で、中学校への給食の支給も可能となり、4月1日からは町内の小学校5校、中学校2校で完全給食が実施された。また同年「上富良野町学校給食センター審議会」が設置された。

 

 写真 学校給食センター

  ※ 掲載省略

 

 教育研究

 上富良野の教育研究の主体は、町内教育研究会と単級複式教育研究会である。町内教育研究会は、町内の教職員を会員として教育推進の調査研究を目的として運営されており、教科サークル、教科外サークルにそれぞれの会員が所属し、教育の実践と研究にあたっている(『広報かみふらの』第137号、昭45・11)。昭和49年には日新小学校で開催された町内教育研究会で、清富、江幌、日新の各小学校が複式連盟を結成した。また研究集録として毎年『上富良野の教育』を発行している。

 一方単級複式教育研究会は、上川管内の富良野地区(上富良野、中富良野、南富良野、占冠、富良野)で、5学級以下の小規模校が共通の教育上の諸問題を互いに解決し、各校の研究成果、実践研究等の発表や授業の参観により、教育実践の向上を図る研究会である(『広報かみふらの』第137号、昭45・11)。また各校でも独自の教育に取り組み、昭和43年には江幌小学校で主体性創造教育を開始した。江幌小は翌44年には全国へき地教育研究大会分科会会場校に指定され、47年9月7〜8日には第21回全国へき地教育研究大会北海道大会の第1分科会場となり、日本全国のへき地学校の教員150名が参加した。研究課題は「学校学級経営」で、へき地単級複式学校の特性を生かした特色ある学校学級経営のあり方を求め、小規模校の特性を見いだし、子供の主体的な態度を育成する指導はどうあるべきかを、主として学校の諸活動と地域社会の結びつきを通じて研究討議した(『広報かみふらの』第159号、昭47・8)。

 また昭和40年以降、里仁小学校、上富良野西小学校、上富良野小学校が上川管内の教育研究指定校となり、江幌小学校を含め管内教育研究会の会場となるなど、管内の教育研究で中心的役割を果たしている。特に昭和40年には東中中学校で富良野沿線道徳教育研究会が開催され、昭和62年には江幌小学校が上川地区教育研究会富良野地区視聴覚班の公開授業が行われた。

 一方、昭和52年には小学校3年生の社会科に使用する『副読本かみふらの』が編集発行され、上富良野の自然と産業、まちの歴史を学習している。

 

 国際交流

 上富良野高校の丸山恵敬校長がカナダへの教育視察の際、カナダ・アルバータ州エドモントン市の公立ジャスパープレイス総合高校を訪れたのをきっかけに、昭和59年1月18日、上富良野高校と同校の姉妹校提携が実現した。これをきっかけに上富良野とアルバータ州カムローズ市との友好都市提携の話が持ち上がった。カムローズ市は上富良野と同規模の人口1万3,000人で、基幹産業も農業であることから、同市が選ばれた(『広報かみふらの』第305号、昭59・10)。同年5月15日には上富良野小学校にカナダ州教育視察団が来校し、また上富良野カムローズ市友好準備委員会が設立された。翌60年8月9日には上富良野町国際交流友好委員会が設置され、9月5日にカムローズ市長ルディ・スワンソンら4名が来町し、友好都市提携の調印式と歓迎レセプションが開かれた。また翌6日、一行は町内の施設見学をし、上富良野小学校に来校した。

 翌61年からは上富良野高校が国際友好、親善交流のため、カムローズ市への生徒派遣事業を開始し、第1回めは11月16日から7泊8日の日程で、生徒7名、教員2名が派遣された。また昭和63年7月25日から12日間の日程で、町内の小、中、高校生22名からなる第1回青少年海外派遣訪問団がカムローズ市を訪れた。翌平成元年9月には、カムローズ市長W・J・サイワクら一行が上富良野小学校、同中学校、同高校に来校し、以後毎年交互に上富良野町とカムローズ市双方の訪問団が行き来した。平成2年には、北海道とアルバータ州の友好提携10周年の記念訪問(カナダ・エドモントン市)にあわせて、本町とカムローズ市姉妹提携5周年を記念し、9月11日から12日間の日程で、安政太鼓のメンバーを含む町民、各種団体職員ら15名による友好親善使節団が派遣された。平成3年4月1日にはカムローズ市の高校生が来町し、上富良野高校を中心に歓迎レセプションやホームステイでもてなした。

 一方平成4年8月から6年8月にかけて、町の国際化を進めるためAET事業でトーマス・スネドンを招聘し、小、中学校をはじめ、公民館講座や婦人学級で英会話や習慣を教えたり、各種行事に参加するなど積極的な交流をおこなった。また平成4年から英語指導助手も招聘し、これまでヴィクトリア・カーク、スーザン・マリー・フォルクナーが各2年間滞在した。平成8年7月24日には、メーガン・C・サンダーランドが着任している。一方平成5年3月26日には9日間の日程で、再び第2回の青少年海外派遣訪問団がカムローズ市を訪問し、平成7年には友好都市提携10周年をむかえ、記念式典がひらかれた。

 

 写真 カムローズ市での安政太鼓(平成2年)

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 学校五日制の導入

 平成4年2学期から「学校週五日制」が実施され、月1回第2土曜日が休みになった。「学校週五日制」は、子供たちが家庭や地域社会での生活時間を使って、違う年齢の仲間との遊び、自然体験、生活時間などを増やすことを目的とし、共通した知識や技能を身につけることを重視する教育から、個性や創造性を育てることを重視する教育を目指そうというねらいがある。上富良野では、学校などの関係機関の代表者により「上富良野町学校週五日制推進委員会」を組織し、地域をはじめとする学校外活動や社会教育総合センター、公民館図書室、泉栄防災センター、児童館の開放・活用など、「学校週五日制」の実施についてよりよい進め方を検討している(『広報かみふらの』第399号、平4・8)。またその後平成7年4月からは第4土曜日も休みとなり、子供たちの休日の過ごし方をいかに充実したものとするかは、ますます重要な課題となっている。