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7章 現代の上富良野 第7節 現代の社会

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1、町づくり

 

 計画化

 昭和42年7月、上富良野町は「開基70年」を迎え、上富良野町民憲章を制定して町の新たなスタートをきった。翌43年は北海道百年記念祝典が札幌円山競技場で開催され、全道の若人らとともに、上富良野町の青年男女4人は町旗をかかげてメインスタンドを行進した。一方、国土庁は新全国総合開発計画を明示、日本列島改造論が全国を駆け巡っていた。道では、45年に第3期北海道総合開発計画が55年までの10年間を目標に、「生産と生活が調和する豊かな地域社会の建設」をかかげて、「都市と農漁村の均衡ある発展」の推進を図ることになった。高度成長が経済発展をもたらした反面、地域的には「先進地域への人口・産業の著しい集中」による過密や過疎という社会問題が、あらゆる分野にあらわれ、その対策を必要としていた。

 また、広域市町村圏構想が44年に自治省から打ち出され、地域開発・道路整備・防災などを富良野地方単位で推進する富良野地区広域市町村圏(上富良野町、富良野市、中富良野町、南富良野町、占冠村)がモデル地区指定を受けた。市町村圏振興協議会(高松竹次会長)を発足、上富良野町では45年に肉牛消流対策事業(肥育センター)や観光施設、上富良野高校の校舎増築、上川南部消防事務組合を組織した(『北海道新聞』昭46・2・6)。すでに43年、農協の広域化として上富良野農協と東中農協は合併を終えていた。

 上富良野町はこうした国や道、富良野地区広域市町村圏の諸計画にのっとり、44年に総合10ヵ年計画を策定した。町づくり、地域づくりは住民にとっても関心度が高いものとなっていく。東中区は美しい町づくりで全国表彰を受賞した(『北海タイムス』昭44・5・20)。拓銀上富良野支店が富良野支店との近距離支店であることから閉店した46年には、上富良野町商店街診断を町商工会が道商工指導センターの協力で実施。「町は富良野圏にはいるものの、経済的には旭川圏に包括され、商業機能の充実強化は旭川を相手に考えるべき」であること、そして、共同意識の高揚を図るために、青年部や婦人部の意見を反映する機会などが、望まれた(『診断報告書』)。

 町の行政は積極的に町民の声に耳を傾け、町長との対談などを広報紙上に掲載するようになる。46年12月7日に第1回「明日をつくる青年の集い」が商工会、農協、自衛隊、職域の各団体計20名が和田町長を囲んで開催され、次回は女子青年を予定した。

 

 意識調査

 町づくりの計画化を進めるために、町民の意識調査も活発に行なわれるようになった。戦後の経済発展に対して、現実の生活の豊かさを実感するに至らないことは全国的傾向と同じで、道や各自治体でも生活基盤の整備をどのように充実させるのか、住民の意志を反映させ、各事業の優先順位を明らかにするためにも各種アンケート調査が活用された。

 全国的に48年の第一次石油危機の前後2年間の物価高騰はすさまじく、全道の消費者物価も4割近く上昇した。インフレと不況下の道民生活を明らかにした昭和50年度版『道民生活白書』は、49年の道民の生活水準を人口、健康と福祉、宅地と住宅、生活環境施設、教育と余暇などについて46年の全国平均に比較している。同白書の「各広域生活圏毎の指標図」からみた富良野生活圏は全体として「低位」にあり、いっそうの振興がのぞまれた。「地域類型と人口動態」からみた上富良野町の45年と50年の比較をした人口の増減率では、上富良野町は6l程度を示し準地域中心都市に含まれ、農家人口の減少がありながらも、自衛官家族の人口増が町の特徴にあらわれていた。

 53年に上富良野町は、次年からの長期計画『上富良野町新総合計画』策定にあたり、生活環境の全般にわたる町民意識調査を実施し、町内各地域や項目の細部にわたり検討し、『上富良野町町民意識調査報告書』(54年1月)をまとめた。このなかから、生活環境全般に対する満足・不満足の評価として、舗装・下水といった道路環境の整備が課題となった。また、「町の将来像」のなかで、民生の充実に対する願いは産業振興に対する願いの半分だが、「重点施策」の「要望ベスト5」では町道の整備、次いで雇用安定、保健医療への要望が多かった(広報『かみふらの』昭54・3)。

 さらに54年に町議会議員会(会長仲島徳五郎、議員20名)は婦人団体の代表者約45名との懇談会をもち、町連合婦人会(代表六平美子)などから婦人活動や生活環境の整備、灯油価格など、町づくりに対する声を聞いた(広報『かみふらの』昭54・12)。翌55年には町内の青年がどのように余暇を利用しているのか、青年の活動や志向調査を、上富良野町教育委員会が実施した。これは労働時間が北海道は全国的には長時間であるという状況のなかで、余暇が社会的に一般化してきたことを反映した。58年に『上富良野町地域農業振興計画・農協中長期総合経営計画』が「体質の強い上富良野町農業をめざして」農業の展望を示した。

 

 写真 婦人と議員の懇談会

  ※ 掲載省略

 

 住民意識の多様化

 やがて、町づくりに「一村一品」運動や国際交流などの新たな挑戦が加わり、幅広い地域づくりの見直しがはじまった。バブル経済が進行する62年、21世紀の上富良野町を展望した「まちづくりに関する町民アンケート調査」を実施。「項目別生活環境評価」は「自然に親しむ環境」に優れ、「健康に生活する環境」「子供を育てる環境」への評価は高いが、便利に暮らす、文化に親しむについては劣り、「若者が働く環境」づくりが大きな課題として浮かび上がってきた。そして、住民自身の課題の上位は、「農家経営の確立、後継者確保」「特産品づくりや販路開拓」「快適な環境づくり、まちづくり運動」の3点となり、町民に共通した認識が浮かび上がった。

 平成元年、上富良野町は『上富良野町総合計画』(平成元年〜10年)を練りあげ、すでに62年度から国は『第四次全国総合開発計画』、道は『北海道新長期計画』をスタートしていた。広域市町村圏は「活力ある地域づくりの推進母体」として国や道と連携を図りながら、多様化・高度化・高齢化・情報化・国際化といった急変する地域に対応した将来像の構築が課せられることになった(『第三次富良野地域広域市町村圏振興計画書』平元年〜9年度)。

 一方、バブル経済の崩壊は、戦後50年を経た日本にあらゆる角度からの見直しを迫り、上富良野町民にとっても、21世紀を目前に町の将来像を希求することとなった。

 『第四次上富良野町総合開発計画』(平成9〜18年)策定のためのアンケート調査をした。「生活環境の満足度指標」は「改善の必要性」をみるために、「非常に満足」、「満足」、「普通」を合計して満足度指標となっている。基準を4区分して、「(1)改善が政策課題のもの(我慢できない)、(2)改善を必要とするもの、(3)改善したほうが良いもの、(4)現状維持でもやむを得ないもの」とした。

 「アンケート結果報告書」(平10・1)の分析は(1)に該当するものはなく、「雇用の機会」、「商業施設・商店街の駐車場など」、「病院・診療所などの医療施設」などは(2)改善を必要とするものであった。上富良野町の将来像では、「保健・福祉の充実したまち」が「美しい自然・田園環境、環境のまち」を抜いてトップである。「民生の充実」より産業重視が浮かび上がった20年前の調査「町の将来像」と比較して、福祉に対する期待の変化が著しい結果となった。

 

 写真 上富良野町総合計画

  ※ 掲載省略