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7章 現代の上富良野 第6節 十勝岳と防災

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1、昭和37年の噴火

 

 噴火の概況

 十勝岳が大正噴火以後、比較的大きな噴火を起こしたのは、昭和37年6月29日のことであった。噴火の前兆ともいえる異常現象は、約10年前から既に認められており、また硫黄採取も昭和30年以降行われ、生産量も次第に増加していた。29日の最初の噴火は午後10時すぎに始まったが、この時磯部鉱業所の宿舎に多数の火山岩塊が落下し、宿泊していた硫黄採取作業員14名と火山活動調査のために入山していた旭川地方気象台の職員2名のうち、作業員5名が死亡(うち1名は行方不明)し、2名が重軽傷を負った。その後噴火はいったん収まったが、30日午前2時45分ごろ再び噴火し、磯部鉱業所の宿舎は全焼した。また噴煙は高さ1万2,000bにまで達し、まもなく北海道東部は降灰に襲われ、火山ガスによる大気汚染もあり、特に十勝支庁新得町トムラウシ地区では、約80世帯300人が1ヵ月以上も避難生活をし、西風の運ぶ灰をまともにあびて農作物が全滅する被害を受けた。

 その後噴火は30日正午すぎまで続き、8月末まで小噴火を繰り返して終息した。しかし、十勝岳が特に4月23日の広尾沖地震以降活発な動きをみせていたこと、またそのため札幌管区気象台と旭川地方気象台が協力して26日から調査を行っていたにもかかわらず、噴火時期の予測ができなかったことから、火山観測体制の不備が指摘され、より充実した観測のあり方が望まれた(『北海道新聞』昭37・7・1)。そこで翌38年10月には美瑛町白金温泉地区に旭川地方気象台の十勝岳火山観測所が設置された。

 

 写真 昭和37年の十勝岳噴火

  ※ 掲載省略

 

 上富良野町の対応

 一方噴火により、上富良野では29日午後11時に十勝岳爆発対策本部が役場に設置され、救援対策にあたった。噴火と同時に広報車や有線、救急車、サイレン、愛の鐘により注意を促し、翌30日の午前8時50分には、清富地区などの危険区域の住民323名の避難が開始され、清富農事センターに60名が収容された。また清富、日新の両小学校を臨時休校とし、旭野地区の通学生を自宅待機とした。30日から7月4日までは、自衛隊、警察の協力により警備網を張り、一般の危険地帯への立ち入り禁止を行った(「十勝岳爆発に伴う爆発対策について」『昭和37年議事録』役場蔵)。

 ただ大規模な泥流が確認されず、風向きにより噴煙、降灰の心配もなかったことから、長期的かつ大がかりな避難対策はとられず、むしろ緊急の問題は、噴火後の降雨により火山灰が川に流れ込んだため、富良野川やヌッカクシフラヌイ川の河水が強酸性となり、これを主水源とする草分土地改良区の区域内の水田1,300fに大きな被害が予想されたことであった。そこで上富良野では、7月6日午後1時から緊急町議会が招集され、昭和31年度から調査が行われていた清富ダム建設の計画を緊急事業として着手し、真水を確保できるよう、道開発庁に要望書を提出した(「清富ダム建設促進に関する要望書」『広報かみふらの』第45号、昭37・7)。その後、昭和38年2月7日には清富ダム対策委員会が設立され、同年7月は同委員会を日新ダム対策委員会と改称、41年1月21日には日新ダム補償協定調印式が行われ、同年8月26日に起工式が行われた。ダム本体が完成したのは昭和47年で、10月18日には草分土地改良区改組20周年記念として日新ダム記念碑「富源の湖」の建立除幕記念式が行われ、昭和49年8月8日に竣工した。

 

 写真 役場内の対策本部

  ※ 掲載省略

 

 その後の防災対策

 一方防災対策に関しては、今後大正噴火と同規模の泥流災害がおこる可能性もあるとして、昭和38年から昭和59年にかけて富良野川の砂防ダム建設が進んだ。砂防ダムは比較的細かい岩石や泥水をせき止め、堆積させる不透過型のダムで、昭和43年には1号砂防ダム、昭和47年には2号砂防ダム、昭和59年には3号砂防ダムが完成した。

 また昭和56年から63年にかけて、連続的に堤を配置することで泥流の規模が大きくなるのを防ぐ底固工が32基設置された。

 またこの間、昭和53年5月31日に開設された上富良野町郷土館が、大正噴火に比重をおいた展示内容で構成され、また昭和55年には『大正十五年十勝岳大爆発記録写真集』が作成されるなど、町民の泥流被害についての知識と防災意識を高める取り組みもなされていた。

 58年ころからは再び十勝岳の火山活動が活発化していたが、59年1月には防衛施設庁の補助を受けて「防災行政無線通信施設」が設置され、役場を本部放送局とし市街地12ヵ所に設置される屋外受信局と地域外全部に設置される戸別受信機を通じ、全町の家庭に各種情報を伝達するシステムが配備された(『広報かみふらの』第295号、昭58・12)。

 また上川支庁も、59年に上富良野、美瑛両町を始めとする周辺市町村や防災関係機関による十勝岳防災連絡協議会を組織し、60年には札幌管区気象台と旭川地方気象台が協力して臨時観測を行うとともに、臨時振動観測点を設けて観測を始めた。同年には北海道大学有珠火山観測所が、十勝岳に設置した観測点の観測要素の電送を開始した(『1988−89年十勝岳噴火災害対策の概況』平3)。

 上富良野でも昭和60年以降、毎年移動無線器が購入され、特に昭和61年は、大正噴火からちょうど60年めにあたることもあって、3月31日には『上富良野地域防災計画書』が策定された。また危険区域を公表することにより地域住民を災害から守る目的から、各地区の指定避難場所を示した「緊急避難図」を作成し、全戸に配付した。さらにこの年以降、毎年9月1日の防災の日には、草分・西日の出地区など泥流危険地域の住民に防災訓練が実施された。