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7章 現代の上富良野 第3節 現代の商業と工業

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3、観光の振興

 

 十勝岳の開発

 昭和45年、吹上温泉と十勝岳温泉を結ぶ新道の開削が始まった。これまで吹上温泉から十勝岳温泉に向かうためには中茶屋を経由した20数`を大きく迂回する必要があったのである。

 上富良野の観光振興にとってはもちろん、十勝岳一帯の観光にとっても大きなマイナス要因となっていた。

 工事は陸上自衛隊上富良野駐屯地第308地区施設隊により2年計画で進められ、46年10月に2.1`の新しい道路が開通した。また、47年9月には勝岳橋の掛け替え工事も完成し、これで十勝岳・白金両温泉を結ぶ道路は完全に全通することになり、以降の十勝岳観光開発に大きなはずみをつけることになったのである。

 また、この間、戦前からのスキーヤーたちに人気のあった十勝岳のゲレンデを、スキー場として再開発しようという努力も続けられた。43年には道立スキー場を誘致しようという動きが持ち上がり村上国二町長を会長に期成会も結成された(『上富週報』昭43・2・9)。46年には「十勝岳国民[ママ]スキー場の誘致」(『北海道新聞』昭46・7・10)、50年には「三段山スキー場のリフト新設と再開発」(『北海道新聞』昭50・3・6)など、様々な運動や計画が進められたが、国立公園であることの制約や交通アクセスの問題などから、いずれも実現には至っていない。

 十勝岳のもうひとつの目玉である温泉については、後述するが、十勝岳観光を盛り上げようと、町や観光協会、商工会によって数多くの事業やイベントが行われてきた。戦前からの恒例である十勝岳山開きをはじめ、秋の紅葉まつり、十勝岳温泉登頂駅伝大会などだが、63年に行われた十勝岳温泉秘境めぐりのような、アイデアをこらした企画も打ち出されている。

 

 ラベンダーと観光

 ラベンダーが農作物から観光資源へと変身したきっかけは、昭和45年に当時の国鉄のカレンダーにラベンダーが採用されたときに始まるといわれる。さらに51年には全国キャンペーン「一枚の切符から」のポスターにも採用され、ラベンダー畑の紫色の波が雄大な景色のなかに溶け込んでいる美しきと魅力が、ブームに火を付けたのである。また、翌52年には、東中の吉河喜逸が耕作していたラベンダー畑の写真が『北海道新聞』に掲載され、観光客が上富良野に訪れるようになったともいわれる。

 こうしたことから、既に農作物としての価値は失われていたラベンダーを、観光資源として見直そうという機運が盛り上がり、再び町内で植栽が進められ、町や観光協会による積極的な全国PRが展開されたのである(片井昭治「ラベンダーの由来」『郷土をさぐる』9号)。

 ラベンダーの新植は、既に述べたように商工会婦人部が、52年に駅前と深山峠に苗を植えたことから始まっている。55年には商工会青年部が深山峠報徳にラベンダーの苗を植えたほか、町と観光協会は青少年団体協議会の労力奉仕によって54年には住吉ラベンダー園の8,000平方bに7,000本、翌55年は日の出公園の整備とともに1万5,000平方bの造成を行い、さらにはラベンダーを町の花とするなど、ラベンダーに囲まれた町づくりを進めていった。

 こうした町民をあげての取り組みと、近隣町村も行っているラベンダー・キャンペーンとが相乗効果を生み、上富良野を含む富良野地区のラベンダーは一躍、全国の注目を集めることになるのだが、53年に始まった商工会主催の「北海ホップ祭り」は、55年の第3回から「北海ラベンダーホップ祭り」、さらに58年から「ラベンダー祭り」となり、平成7年の7月22日から2日間行われた「第17回ラベンダー祭り」は、12万人の人出となるほどに大きく発展、年を追うごとに人気を高めている。また、昭和59年から開始した「ラベンダー・オーナー制」、商工会青年部の発案で60年から「ラベンダー祭り」と同時に行われている「ラベンダー結婚式」も、全国から申し込みが殺到するなど、上富良野のラベンダーの知名度やイメージ・アップに、大きな役割を果たしている。

 

 写真 ラベンダー結婚式

  ※ 掲載省略

 

 日の出公園

 「ラベンダー祭り」の主会場でもある日の出公園の本格的整備は昭和58年にスタートしている。もともとのきっかけは45年に個人所有地だった標高約250bの日の出山を、町振興公社が町民スキー場として買収した(『北海道新聞』昭45・9・8)ことに始まるのだが、既に述べたように55年には1万5,000平方bをラベンダー圃園として造成、総合公園計画がスタートした翌年の59年にはキャンプ場、60年にはスキーリフト、62年には展望台など、着々と整備が進んでいった。

 平成2年には日本で初めて香りの女王と呼ばれるバラ「ローズ・ド・メイ」500株が、公園の5,000平方bの畑に植えられた(『北海道新聞』平2・5・31)。町や観光協会は、ラベンダーに続く町の新しい香りとして、香水や石鹸など独自の製品の開発を通し産業振興に役立てることを計画している。

 

 写真 展望台から望む日の出公園

  ※ 掲載省略

 

 深山峠

 昭和39年に展望公園が開園された深山峠はその後も整備が進み、国道を通るドライバーのいこいの場所であるとともに、上富良野の新たな観光のポイントのひとつとして大きく育ってきた。

 そのひとつのきっかけをつくったのが。48年2月に設立された深山峠観光開発振興会(会長・高橋博男)である。この年の八月に深山峠新四国八十八カ所霊場を復活させ、10月には江戸末期の十勝越えの際に深山峠を通ったとの説もある松浦武四郎の顕彰碑を建立した。また、これに先立って45年10月には豊里地域の開拓以来の資料を展示する豊里郷土館を建設。その後、上富良野郷土館設立に伴い展示資料を移して閉館した。

 やがて、既に述べたように、商工会青年部などによってラベンダーが植えられ、また、59年にラベンダー・オーナー制による新植が国道沿いに行われるなど、深山峠の景観がさらに注目されるようになるなか、62年に町は展望台を新設するとともに、コミュニティ広場を完成させ、ドライバーや観光バスの利便を更に図ったのである。

 平成6年には株式会社アラタビル(社長・荒田裕昭)が設立したトリック・アート・ラ・ギルランダ美術館が完成。建物面積872平方b、国内では最大規模といわれているトリック・アートの展示で、多くの詔題を呼ぶなど、この美術館のオープンで深山峠はさらに集客力を強めたのである。

 なお、63年5月、近くにゴルフ・ショートコース「上富良野ゴルフクラブ・ラベンダーコース」(理事長・柏木稔)が正式オープン(『北海タイムス』昭63・5・13)。また、平成4年には道内最大級ともいわれる温室をもち、15fにジャーマンアイリス、ポピー、ラベンダーなどを植栽して、花園を遊覧して楽しんだり、園芸植物の販売などを行う「フラワーランド上富良野」(社長・伊藤孝司)もオープン(『北海道新聞』平4・5・30)し、深山峠地区はひとつの観光圏を形成しつつある。

 

 写真 トリックアート美術館

  ※ 掲載省略

 

 温泉と宿泊施設

 平成7年現在で、十勝岳には4つの温泉宿泊施設、国民宿舎カミホロ荘、凌雲閣、バーテンかみふらの、ヒュッテ白銀荘があり、多くの温泉ファンをはじめとする観光客に親しまれている。そのほかに、旧吹上温泉の一部浴槽を利用した露天風呂、さらに平成9年には新しい施設である吹上温泉保養センター(白銀荘)がオープンした。

 そのなかで国民宿舎カミホロ荘は、前章でも触れたように十勝岳観光の中核施設として昭和40年、町営国民宿舎としてオープンした。45年には木造2階建てモルタル仕上げ、延べ床面積214平方bの別館を増築し、登山客などの人気に応えたが、運営は決して順調とはいえなかったようである。理由のひとつは泉源が不安定だったことで、湯量や湯温の問題を解決するために44年以来、たびたびボーリングを行っている。また、町営であるが故の赤字問題にも苦しめられた。そのため昭和59年には経営を第3セクターの十勝岳観光開発公社に経営を委託、平成3年には町の持ち株比率を下げたうえで同社に売却され、民営の国民宿舎として現在は運営されている。

 カミホロ荘とほぼ同時期である37年に正式開業した凌雲閣は、山の巨岩をそのまま壁に利用する野趣あふれる造りを浴室に生かしながら全面改築が平成6年に行われた。新しい凌雲閣は地下1階、地上2階の鉄骨一部鉄筋コンクリート造り、延面積1,500平方bでかつての面目を一新した。

 バーデンかみふらのは昭和59年の9月にオープンした。場所は大正期から知られている翁温泉に当たるところで、泉源も自噴している温泉を利用している。上富良野で外科医院を経営する小玉庸郎医師が代表者となって建設したもので、建物は山小屋風のモダンな建築で15室、65名が宿泊できる。

 一方、旧吹上温泉が廃業以来、48年ぶりに復活している。戦後になっても再開されなかったのは湯温が低かったためといわれているが、63年の十勝岳の噴火が影響か、平成2年に調査したところ温度が上がっていることが分かった。国立公園内のため施設の建築はできないが、町は急遽、駐車場や看板などを整備した(『北海道新聞』平3・8・8)。文字通り自然のなかの露天風呂として温泉ファンの人気を集めている。

 なお、昭和42年11月には十勝岳温泉地区に、防衛庁弘済会上富良野支部の上富山荘が完成(『上富週報』昭42・11・18)、一般にも開放されていたため、多くの登山者やスキーヤーに親しまれていたが、53年3月には閉鎖され、その後は再開されていない。

 十勝岳地区以外では、市街地の温泉として親しまれているのが、フロンティアフラヌイ温泉である。平成2年9月のオープンで道北開発コンサル(社長・栗山静男)が経営している。当初は木造一部2階建て、延べ床面積275平方bで客室は5室だった(『北海道新聞』平2・9・28)が、翌年、増築が行われている。

 また、上富良野では初めての本格的リゾートホテルとして、平成4年7月にオープンしたのが富良野ホップス・トーアスホテルである。鉄筋コンクリート造り5階建て、部屋数は35室。株式会社トーアス(社長・中島ヨシ子)の経営で、ダイニングとして併設されているレストランも好評である。

 

 写真 バーデンかみふらの

 写真 富良野ホップス・トーアス・ホテル

  ※ いずれも掲載省略

 

 かみふらの十勝岳観光協会

 前章でも述べたように、昭和23年に十勝岳観光協会が再設立され、町長を会長に観光振興に関わる様々な活動を続けてきたが、十勝岳観光やラベンダーによって上富良野の観光が次第に脚光を集め、事業が拡大するなか、昭和60年にはこれまで任意団体だった観光協会を法人化、名称も社団法人かみふらの十勝岳観光協会と改め、この年の4月25日に設立総会を開催している。

 『北海道新聞』(昭60・4・25)によると、観光客誘致やみやげ品販売の体制をさらに強化するための法人化で、主な事業内容としては@観光宣伝と観光客誘致、A香水、絵はがきなどみやげ品のあっせん、B観光情報の収集と提供、などが掲げられている。

 ほかに例年、開催される「十勝岳山開き」「ラベンダー祭り」「十勝岳紅葉まつり」など各種観光行事についてはこれまで同様、中心となって事業を推進するのをはじめ、町営ロッジとなっていた白銀荘など観光施設の管理にもあたることになった。

 創立総会で選出された主な役員は、次の通りである。

 

  会長 安藤嘉浩   副会長 南 藤夫  清水一郎

  理事 斉藤正弘  辻 甚作  高田秀雄  佐藤 勇  高橋博男

     会田義寛  松岡隆七  塩田哲夫  岡沢孝春

 

 なお、法人化に伴い事務局は役場から公民館へと移転、63年に法人化以降では2代目会長として南藤夫が就任した。