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7章 現代の上富良野 第3節 現代の商業と工業

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2、現代の工業

 

 木材・木製品製造

 上富良野を代表する工業は古くから木材加工と農産物加工であった。昭和40年代に入ると、木材工業に大きな変化が現れた。上富良野の主力木工場のひとつであった山本木材が、42年11月に製材部を閉鎖、山部に工場を新設し操業を開始することになったのである(『上富週報』昭42・10・20)。本社は上富良野に残され、建材の販売などは継続されたが、背景には原木供給の問題があったと思われる。

 一方、戦前から市街地の木工場として人々にはなじみの深かったもうひとつの主力木工場・伊藤木材工業も、平成元年10月2日に富良野市山部の升谷木工場と合併し廃業した。これで開拓期以降、連綿と続いてきた上富良野の大規模な製材事業はほぼ終わりを告げたことになる。以降、木材工業の主力となるのは、フローリングを主体に生産する北日本木材工業に代表される木製品製造へと移行していくのである。なお、北日本木材工業は昭和48年9月、中町から自衛隊駐屯地前へと事務所及び工場を移転している。

 また、49年1月には富良野地区森林組合が江花に設立したカラマツ加工工場が操業を始めている。国有林の伐採が厳しさを増すなかで、民有林のカラマツ小径木を加工、建築材として生産しようというもので、1日当たり50立方bの加工処理能力をもっていた(『北海道新聞』昭48・10・18)。

 

 写真 森林組合カラマツエ場

  ※ 掲載省略

 

 農産物加工

 昭和36年に相次いで上富良野に進出したデイジー食品と日本合同缶詰の2つの缶詰工場は、その後もアスパラガスを中心とした缶詰製造を続けたが、43年からはデイジー食品がサンマ蒲焼き缶詰の製造を始めている(『上富週報』昭43・11・8)。工場は最新式の機械を備えているにもかかわらず、アスパラガスが出回るのは5月中旬から7月中旬までであり、9カ月も遊ぶ状態になっていた。そこで釧路や紋別からサンマを運び、蒲焼き缶詰の生産を始めたもので、1日約5dの原料から4〜500ケースを製造した。なお、62年1月には合理化のために上富良野工場は閉鏡、デイジー食品富良野工場に吸収統合されている。

 一方、日本合同缶詰も順調にアスパラガス、スイートコーン缶詰などを製造していたが、本社が水産物部門の不振のため51年9月に倒産。会社更生法の適用を受けたため、52年には操業を再開したが、本社の再建は難しいと54年3月には会社整理の方向が打ち出された。しかし、上富良野工場単体では黒字であり、上富良野農協は雇用の問題や生産者擁護の立場から、最大の債権者である東食(本社・東京)と買収の交渉に入った。その結果、5月15日には1億2,000万で買収交渉がまとまり、国土利用計画法に基づく知事の認可が必要なため、1年間は賃貸契約での操業だったが、55年から上富良野農協食品工場として再スタートを切ることになったのである(『北海道新聞』昭54・5・12、5・19)。

 その他の農産加工としては、ラベンダーの香油は52年で曽田香料の買い入れは中止になったが青しそオイルの生産が始まっている。44年には東中ラベンダー耕作組合青しそ部が発足、青しその本栽培に入った。蒸留によって搾油される青しそオイルは漬け物や菓子類の香料として使われ、東中の曽田香料上富良野蒸留所で生産されるが、上富良野と網走の佐呂間町2カ所で、全国の生産の大部分を占めているといわれる(『北海道新聞』平5・9・21)。

 

 畜産品加工

 前節でも述べたように、牛や豚の飼育など混合農業の奨励や振興が進むなかで、上富良野の畜産は昭和45年前後を境に飛躍的な伸びを見せたが、それとともに町営のと殺所である白樺製内所の処理量も激増した。しかし、施設の老朽化や処理頭数の増加によって汚水処理の問題も出てきたため、町は48年12月、富原に鉄筋コンクリート平屋建て1,410平方b、1日の処理能力は沿線では最大規模の食肉センターを完成させた。この動きとタイアップするかたちで、食肉センターと隣接してほぼ同時に工場を創設したのが、プリマハム系列の空知ミート株式会社であった。

 『北海道新聞』(昭48・12・16)によれば、48年3月に会社を設立、11月中旬には延べ924平方bの鉄骨造りの工場が完成、1日の生産能力は豚が200頭、マトンが150頭とある。

 ハム・ソーセージの原材料と販売生肉の製造を行い、食肉センターつまり生産者と直結することで中間経費の削減につながり、新鮮な原料を短時間で処理するメリットが生まれたこともこの記事では触れられている。

 その後も順調に運営されてきた食肉センターと、空知ミート加工処理工場だったが、60年には「長期的に見通した場合、施設の老朽化、人件費アップ、集荷場の変化といった問題が予想され」「こうした圧迫要因に柔軟性のある民間経営なら乗り切れる」(『北海道新聞』昭60・9・19)と、町は手放す方向を明示し、63年3月に空知ミートへの譲渡が決定、解体と加工の一貫工場として現在に至っている。

 

 写真 空知ミート工場

  ※ 掲載省略

 

 機械製造

 農機具メーカーのスガノ農機はプラウなどの生産を続け、昭和43年からは東南アジアやアメリカなど海外への輸出も始まり、国内での販売を含め45年1年間の販売実績は2億9,000万円にのぼった(『北海道新聞』昭46・1・31)。平成3年の時点でもプラウでは全道80lのシェアを誇っている(『北海道新聞』平3・9・11)が、55年にはプラウ生産工場の一部を茨城県美浦村に移転、60年には生産合理化のために本社工場を全面的に茨城工場に統合させた。

 その一方で創業の地である上富良野には平成4年、敷地面積5f、建物延べ床面積838平方bの博物館・土の館を設立。博物館部分の1階はスガノ農機製品の歴史や創業時の工場の一部を保存・展示、2階は世界の農機具や全国から集めた畑土の標本を展示している。

 ほかに、機械製造としては昭和51年にカラーテレビのブラウン管用電子銃の組み立ての上富良野電子工業(社長・高橋忠)が創業されている。経営不振のため廃業したボーリング場を転用したもので、旭川に本社のあるホクト電子の系列会社。資本金1,500万円の3分の2を地元で負担して8月から操業を開始した。従業員は42名、電子銃の月産は3万本、年商3億2,000万円の計画でのスタートだった(『北海道新聞』昭51・9・18)。

 やがて同社の事業は56年に同じカラーディスプレイ用電子銃をホクト電子などに供給するトウマ電子工業(社長・只野博)へと引き継がれ、さらに59年にはトウマ電子と東京カソードの出資で北光電子工業(社長・大久保利次郎)が新たに設立され、平成2年3月まで電子銃を製造した。

 なお、平成2年12月から北光電子工業の姉妹会社である内田工業株式会社(社長・大久保幸正)上富良野工場が操業を開始、金属絞りプレス部品の製造を行っている。

 

 写真 内田工業上富良野工場

  ※ 掲載省略

 

 縫製工場

 平成2年8月には上富良野では初めてのアパレル産業の進出で、株式会社カリカワ(本社・東京)が上富良野工場を建設している。『北海道新聞』(平3・3・8)によると、同社は流行の先端を行く婦人服を独自に受注、販売するアパレル・メーカーで、同社にとって4番目の工場である上富良野でも、スーツ、ジャケット、ブラウス、ドレスなど多品種少量生産が目的とされる。

 向町1丁目に建設された工場は、鉄筋コンクリート一部2階建てで延べ床面積は1,320平方b。従業員は58名。当初の生産目標は月150万円を予定していたという。

 

 写真 カリカワ上富良野工場

  ※ 掲載省略