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7章 現代の上富良野 第3節 現代の商業と工業

996-1002p

1、現代の商業と商業団体

 

 商業活動の進展と停滞

 上富良野の人口は昭和35年をピークに減少へと向かった。この背景にあったのは表7−18からも分かるように、農業を中心とする第一次産業従事者の著しい減少であり、むしろ第二次及び第三次産業従事者は増加が続いた。これは自衛隊の移駐によって消費が拡大し、小売店や飲食店など上富良野の商業活動全体の活性化につながったためと考えられる。この間の商店、飲食店の数、年間販売高の推移を各年度の『町勢要覧』をもとに示すと、表7−19の通りである。

 だが、こうした順調な動きのなかにも多くの問題が潜んでいたようである。昭和47年に商工会が北海道商工指導センター旭川支部に依頼した診断結果が、『北海道新聞』(昭47・8・15)に報道されている。そこで指摘された問題点は次のような内容であった。

 

 ▽問題点1=町の経済力は農家経済にあり、商業基盤強化にブレーキがかかりやすい。交通機関・自家用車普及とレジャーの拡大によって町外流出が促進されやすい。白金−十勝岳サークル観光道路は開設されたが、いまだ受け入れ体勢、とくにバスの発着施設及び商業施設との関連性が薄い。

 ▽問題点2=人口比に対する小売り販売商貢献度は、0.37と管内各町村に比べ低い。特に衣服・身回り品に著しい。人口20%を占める自衛隊の購買力の営内消費が多く、商店街への流入が少ない。商店街が鉄道で二分割されているうえ、商店街の中心部に明確な核店舗がない。しかも、総延長(大通り、一丁〔ママ〕内)が1.4`にも及び、随所に切断個所が多いため、顧客が分散化している。

 ▽問題点3=よろずや商法の店が多く、固定客本位の販売にウエートを置いているため店舗の構成が消費者本位でない。座って売るという消極的商法で、広告宣伝活動も弱い。他店との共同や商店街全体としての連帯意識に乏しい。結局、自衛隊及び業務用購買力に支えられ、安易なムードにひたっており、経営体質の改善に消極的。

 

 昭和40年代後半からこうした問題が指摘されていたわけだが、町や商工会をはじめとする各商業団体などもその後、様々なかたちでこうした問題の改善に取り組んできた。しかし、車社会の急激な進展など、予想を超える商環境の変化が、上富良野の商業活動をさらに停滞に追い込んだ。そのひとつが次に述べる大・中型スーパーの進出である。

 

 表7−18 産業別人口の推移

 

昭和40年

昭和45年

昭和50年

昭和55年

昭和60年

平成2年

平成7年

実数

構成比

実数

構成比

実数

構成比

実数

構成比

実数

構成比

実数

構成比

実数

構成比

第一次産業

 

3,843

46.7

 

3,250

39,9

 

2,560

34.1

 

2,254

30.1

 

2,174

29.22

 

1,791

25.53

 

1,571

21.80

第二次産業

723

8.8

990

12.2

818

10.9

1,011

13.5

938

12.61

1,012

14.43

1,070

14.90

鉱業

0

0.0

0

0.0

2

0.0

2

0.0

0

0.00

3

0.04

建設業

413

5.0

626

7.7

514

6.9

610

8.2

566

7.47

575

8.20

製造業

310

3.8

364

4.5

302

4.0

399

5.3

382

5.14

434

6.19

第三次産業

3,659

44.5

3,909

47.9

4,103

54.9

4,227

56.4

4,326

58.15

4,207

59.97

4,557

68.10

卸・小売・飲食業

763

9.3

898

11.0

980

13.1

1,059

14.1

1,106

14.87

933

13.30

金融・保険業

56

0.7

56

0.7

67

0.9

91

1.2

102

1.37

109

1.55

不動産業

5

0.0

17

0.2

11

0.1

12

0.16

13

0.19

運輸・通信業

172

2.1

154

1.9

139

1.9

144

2.0

154

2.07

163

2.32

電気・ガス・水道業

4

0.0

10

0.1

15

0.2

9

0.1

7

0.09

9

0.13

サービス業

752

9.2

856

10.5

868

11.6

974

13.0

938

12.61

1,106

15.77

公務員

1,912

23.2

1,930

23.7

2,017

27.0

1,939

25.9

2,007

26.98

1,874

26.71

就業者総数

8,225

100.0

8,149

100.0

7,486

100.0

7,492

100.0

7,439

99.99

7,015

100.0

7,020

100.0

   出典:各年度『町勢要覧』

 

 表7−19 商店の推移

 

卸売業

小売業

飲食店

百万円

百万円

百万円

昭和44年

20

129

1,138

188

1,059

1,584

77

204

133

昭和47年

3

65

592

158

619

3,781

80

223

253

昭和49年

3

36

476

156

585

5,309

86

228

413

昭和51年

17

132

3,520

167

590

6,227

108

292

576

昭和54年

18

215

5,334

173

676

9,713

129

140

379

昭和57年

23

151

10,793

159

631

8,577

141

159

573

昭和60年

17

116

14,330

153

632

8,557

昭和61年

52

118

418

昭和63年

16

157

2,493

157

594

9,328

平成元年

51

128

420

平成3年

15

111

1,864

141

618

9,335

平成4年

47

108

510

   出典:各年度『町勢要覧』

 

 大型店の進出

 大型店については、昭和44年8月の農協もとまち店の建設に関して「商工会側から農協店舗のような市街地商工業者に影響を及ぼす様な建物は一切建てさせないで呉れと強く要望」(『上富週報』昭44・1・17)と、早くから問題になっていたが、48年にはスーパーかくはた(本社・芦別)、54年にスーパーふじ(本社・旭川)と開店が相次いだ。これに対し危機感を強めた小売業者は対策協議会を発足させ、営業時間や休業日数の交渉を決定したことが、『北海道新聞』(昭53・12・7)には報道されているが、同時にまたこの記事には「消費者の意向、従業員の現地採用といった地元のメリットも大きいため強硬な対決姿勢をとることも出来ず、対策に苦しんでいる」ことも伝えており、問題の難しさを浮き彫りにしている。

 なお、平成8年には売り場面積2,820平方bとこれまででは最大級のスーパー・ダイイチ(本社・帯広)が、本町の伊藤木工場跡地に進出した。これに対しても商工会では商業まちづくり委員会などで対応を協議、売り場面積を必要最小限にするよう働きかけるなど、大店審での調整のなかで既存商業者への影響緩和を図った(『北海道新聞』(平7・5・17)。

 

 写真 スーパー・ダイイチ

  ※ 掲載省略

 

 商業の振興

 大型店の進出以外にも、既に述べたように車社会の進展による消費者の旭川や富良野などへの町外流出、また昭和63年の国道237号線上富良野バイパス開通により市街地の交通量は一気に減少、これが集客力の低下につながるといった、商環境の変化による多くの問題を抱えている。そのため町や商工会では商業活動の停滞を打ち破るため、様々な振興策を計画、推進している。

 まず、商工会は昭和60年、「上富良野町地域振興ビジョン計画」をまとめた。そのなかの商業振興ビジョンでは、現実の問題点をふまえた上で、駐車場など車の受け入れ態勢の整備、アーケードの設置、青空市場の開催などコミュニティの場としての商店街形成を打ち出した。また、平成4年には「町商店街活性化基本構想」をまとめている。これは平成2年に道の商店街診断を受けその勧告に沿って策定された(『北海道新聞』平4・3・27)もので、JR上富良野駅周辺の商店街を中心商業地として整備を進めるとともに、Aコープもとまち店を中心とするいしずえ通り商店街、鉄道東側の通学通り商店街、スーパーふじ周辺のラベンダー商店街と、機能を分担した商店街づくりを計画している。

 一方、平成元年度に策定された町の「上富良野町総合計画」では、魅力ある商店街形成のために商店街の基盤整備、バイパス開通に伴う対応策の検討、経営援助制度を推進し、経営体質の強化や、観光、農畜林業、工業の連携強化が掲げられた。さらに「町政執行方針」(9年度)でも、商工振興資金制度の充実や融資制度強化、街並みづくり、防災町づくりの観点から駅周辺及び商店街整備、商工業継承円滑化対策が掲げられている。

 

 金融機関

 商工業にとって血液を循環させる心臓部に当たる金融機関については、昭和40年代に入っていくつかの動きがみられた。

 大正15年に設置されて以来、40年以上の歴史をもっていた北海道拓殖銀行上富良野支店が、合理化を理由に46年5月15日をもって廃止され、同行富良野支店に業務が引き継がれることになった。突然の発表に村上国二町長や金子全一商工会長などが、同年4月16日に札幌に出向き、本店幹部等に撤回を申し入れた(『北海道新聞』昭46・4・18)が、方針は変更されなかった。

 このため、47年4月1日からは、拓銀に代わりこの時期、唯一の市中金融機関となった富良野信用金庫上富良野支店が、上富良野町指定金融機関に指定された。なお、同信用金庫上富良野支店は42年11月、五町内フタバ馬具店(現中町2丁目)を譲り受け支店店舗を新築落成している。また、49年10月1日には滝川に本店をもつ道央信用組合上富良野支店が、町や商工会の誘致活動(『広報かみふらの』168号)もあって錦町2丁目に開店し現在に至っている。

 

 写真 現在の富良野借金上富良野支店

 写真 現在の道央信組上富良野支店

  ※ いずれも掲載省略

 

 上富良野町商工会

 平成2年12月、町が進めている駅前再開発の一環として建設されたセントラル・プラザ(商工業研修施設・中央区学習等共用施設)が完成、管理、運営を委託された商工会が移転した。鉄筋コンクリート造り2階建て、延べ床面積は約2,100平方bで、商工会が入居した事務室のほか、200名収容の集会室、大小会議室、調理実習室なども併設され、十勝岳噴火の際の緊急避難所としての利用も考慮されている。

 翌3年1月27日には商工会法施行30周年記念並びにセントラル・プラザ移転記念式と祝賀会が開催されたが、商工会は法人としての正式発足以来、様々な活動を続けてきた。「上富良野町地域振興ビジョン計画」「町商店街活性化基本構想」については既に述べたが、ほかにも58年8月20日に第1回商工夏まつりを主催。61年むらおこし(地域小規模事業活性化推進事業)による特産品開発で、ラベンダー製品等14品目を考案する。62年には有線街頭放送協会(初代会長・松井喜代治)を設立して7月20日に供用を開始した。また、この年から従来の商工会夏まつりを「十勝岳火まつり」と改称し、平成3年には農協の農業フェスティバルと同日開催された。さらに、平成4年には上富良野産米「きらら397」で醸造した地酒「北の浪漫紫人」「紫のときめき」を送り出すなど、商工業はもとより観光の振興に大きな役割を果たしてきた。

 法人としての発足以来の歴代会長は次の通りである。

 

  初代・山本逸太郎  就任・35年9月   山本木材社長

  2代・金子 全一     44年2月   幾久屋呉服店代表

  3代・一色 正三     49年5月   一色石炭販売社長

  4代・仲島徳五郎     51年5月   通学スーパー社長

  5代・一色 正三     55年4月   一色石炭販売社長

  6代・佐藤  勇     61年3月   割烹享楽代表

  7代・堀内慎一郎     63年5月   北日本木材工業社長

 

 また、商工会青年部は41年11月に創立されたことは前章で述べたが、46年3月には商工会婦人部が創立されている。初代部長は新納満子。51年に町を花で飾ろう運動を呼び掛け、52年の5月14日には「環境美化と町の特産PRを」と駅前花壇にラベンダーを植え(『北海道新聞』昭52・5・16)、第2弾として26日には深山峠にも(『北海道新聞』昭52・5・28)と、ラベンダー観光の復活に一役かった。一方、青年部も63年から元旦の「北の大文字焼き」を主催するなど、町おこしや町の活性化に積極的に取り組んでいる。

 なお、上富良野のその他の商工業関係団体を記すと、別表(表7−20)の通りである。

 

 表7−20 町内商工業関係団体

名称

代表者

創立年月

上富良野法人会

堀内慎一郎

昭和26年4月

上富良野法人会青年部

北川 昭雄

昭和63年11月

上富良野法人会婦人部

温泉 光恵

昭和63年11月

ラベンダー通り商店街

岡沢 孝春

昭和62年11月

通学通り商店街

仲島 康行

昭和30年4月

いしずえ通り商店街振興会

大森  明

昭和48年9月

三町内商店街

武田 正則

昭和45年4月

四町内商店街・

花輪 俊夫

昭和56年4月

中央商店街

西村 芳夫

昭和35年頃

なかまち商店街

多田 豊勝

平成6年2月

栄町商店街

四釜富士夫

昭和63年7月

上富良野飲食店組合

河井 良博

昭和50年4月

上富良野料飲店組合

伊藤 善範

昭和32年4月

上富良野喫茶スナック組合

陶  由彦

昭和49年9月

上富良野南青色申告会

富山 荘平

昭和58年4月

上富良野北青色申告会

久保 儀之

昭和58年4月

上富良野町納税貯蓄組合連合会

堀内慎一郎

昭和49年5月

お楽しみサービススタンプ会

久保 儀之

平成6年9月

上富良野町自衛隊退職者雇用協議会

堀内慎一郎

昭和53年5月

上富良野技能士会

菊地 沖天

昭和59年4月

富良野食品衛生協会上富良野分会

仲島 康行

昭和24年5月

上富良野町街頭放送協会

松井喜代治

昭和62年7月

上富良野町ふれあい市実行委

高橋 正義

昭和55年6月

はだか市へ改称

 

平成2年6月

上富良野駐屯地曹友後援会

仲島 康行

平成5年9月

上富良野町旅館組合

原  幸臣

昭和33年5月

上富良野町アパート組合

松井 輝雄

昭和50年1月

上富良野酒小売組合

一色 美秀

昭和29年5月

上富良野町電気組合

蝶野  久

昭和62年7月

上富良野商業活動調整委員会

飛沢 尚武

昭和53年1月

上富良野町ほほえみスタンプ会

一色 美秀

平成6年4月

道商工政治連盟上富良野支部

堀内慎一郎

昭和53年10月

 

 写真 セントラル・プラザ

  ※ 掲載省略

 

 上富良野建設業協会

 上富良野の建設業については、前掲の表7−1でも分かるように、就業者数で町全体の7から8lを占める。事業所数については『上富良野町統計要覧(1983)』によれば、土木、建築の分類については触れられていないが、昭和44年が28、50年が34、56年が43となっている。この間の事業所数の増加の割に就業人口の伸びが低いということは、事業規模が小さいところが多いということでもあろう。ちなみに『同統計要覧』をもとに56年における事業所数を従業者の規模別に見ると、10名未満が25、30名未満が15、30名以上が3で、規模の問題はここからも窺える。

 先に触れた商工会の「上富良野町地域振興ビジョン計画」には、建設業の振興ビジョンについても提言が行われているが、これに関連して次のように述べられている。

 

 本町における町外業者と町内業者の元請比率は70:30といわれている。地元業者としては、少しでも多く町内業者に発注されることを期待しているし、一方、自治体も少しでも多く地元業者に発註したい意向であるが、発注したい仕事を充分にこなす能力、技術の向上が望まれる。

 

 上富良野町建設業協会は、こうした問題や課題への取り組みのために昭和34年2月に上富土建、佐藤組、小山組、高山建設上富良野出張所、山崎建設の5社で結成されている。会長は上富土建の遠藤藤吉(『富良野新聞』昭34・2・19)。ただ、このときの協会は結成後間もなく休眠状態に入ったと思われ、40年に再結成されている。現在の加入社数は21社。再結成後の歴代の会長は次の通りである。

 

  初代・小山 国二  就任・40年4月  小山組社長

  2代・山崎 雄平     42年4月  山崎建設工業社長

  3代・山本 光治     46年4月  山本建設社長

  4代・高橋  忠     50年4月  高橋建設社長

  5代・荒田 裕昭     52年4月  高山建設社長

  6代・遠藤 賢二     56年4月  遠藤工務社長

  7代・荒田 裕昭     58年4月  アラタ工業社長

 

 北海道建築士会上富良野支部

 上富良野建築士会は26名の会員で、社団法人北海道建築士会旭川支部上富良野分会として46年1月16日に設立された。49年3月1日には富良野支部分会へと組織変更があり、さらに62年に至って北海道建築士会上富良野支部となって、それまでの会長を支部長と変えた。会員数は発足当時の26名から、55年の30名、59年の35名、62年の50名、平成3年の52名と、年を追って着実に増加している。

 歴代の役員を記すと次の通りである。

 

  会長    副会長         就任

  竹谷岩俊  高橋 忠        46年1月

  西口 登  佐藤顕男 岡崎豊勝   55年1月

  西口 登  木津国雄 岡崎豊勝   59年1月

  

  支部長   副支部長

  西口 登  高橋 忠        62年2月

  竹谷岩俊  高橋 忠        平成3年1月