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7章 現代の上富良野 第1節 現代の町政

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1、町政の推移

 

 和田町長の誕生

 村上国二町長の退任を受け、その後継を決める町長選挙が46年8月22日に町議選と同時に行われた。立候補したのは元町議で前回の町長選でも村上国二と激しく競った和田松ヱ門、元助役の酒匂佑一、それと藤原利雄の3人であった。当日の有権者数は9,938人で投票総数9,367票、投票率は94.25lと高い投票率であり、町民の関心も高かった。選挙の結果は和田松ヱ門4,742票、酒匂佑一2,607票、藤原利雄1,917票を獲得し、和田松ヱ門が町長に当選した。

 和田松ヱ門は明治38年に上富良野村に生まれ、若き頃は日の出青年会を中心にして青年会活動に奔走し、農村青年層のリーダーとして頭角をあらわしてきていた。昭和14年に村農会総代、評議員、15年に村会議員に就き、村の農政・行政の指導者へとなっていった。16年に壮年連盟を組織して幹事長に、17年に壮年団長、18年に大政翼賛会支部長、20年に農業会理事に就任するなどめざましい活躍をしていた。

 終戦後は20年に上富良野村農村建設同志会、北海道農村建設連盟、21年に上富良野村農民同盟、上川農民同盟、22年に北海道農民同盟などの創設に参画し、幹部として枢要なはたらきをしていた。しかし、21年11月25日に公職追放にあい、26年6月30日に解除となるまでしばらくの間雌伏を余儀なくされていた。解除後は再び農民同盟や各種団体の要職につき活躍し、34年4月には道議選に無所属で立候補するも落選し、38年から42年まで町議会議員をつとめていた。そして42年に満を持して町長選に臨むも敗れ、今回は再起を期して当選を果たしたのであった〔和田松ヱ門の経歴・業績については横山政一「和田松ヱ門君の業績の半生を編[ママ]る」(『郷土をさぐる』第9号、平3)、長沼善治「名誉町民『和田松ヱ門氏』を語る」(同誌、第10号、平4)を参照〕。

 

 写真 和田桧ヱ門町長

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 和田町政の開始

 和田町長は、「私は人間開発と人造りによって町将来の発展の基礎を作り、町民の皆様と心と血の通う理解と融和を町政に実現して行きたいと思います」と述べて就任し(『広報かみふらの』第148号)、町政の施行方針では財政の確保、基幹産業の振興を掲げていた。この46年は本道では戦後最大といわれる冷害、凶作に見舞われており、町では9月7日に冷害対策本部を設置し霜害の予防対策、救農土本幸業、資金援助など農家の生活、農業再年産に支障の及ばないような対策が講じられることになった。

 和田町政の第一期に当たるこの時期は、46年11月22日に公民館(福祉センター)が竣工式を挙げてオープンし、47年1月1日からは70歳以上の老人医療費の無料化が実施されるようになり、48年12月10日に老人身障者福祉センターも完成し、福祉事業・政策が着実に伸びてきている時期であった。

 また、47年10月20日に市街地区の上水道工事が完工し、48年1月1日より1,849戸に給水を開始し、47年9月に富原地区圃場整備事業が完工し、49年8月8日に国営直轄潅漑事業である日新ダムが41年8月に着工以来、8年の歳月をかけて完成するなど、町の懸案であった大規模な諸事業がそろって完成した時期であった。48年11月26日には食肉センターが完成し操業を開始していた。しかしながら、冷害の影響もあって町財政は苦しく、47年9月に江幌町有林274ヘクタールを東海不動産に売却して財政のピンチを切り抜ける状況であった。

 47年7月に成立した田中角栄内閣は列島改造論を展開し、経済の高度成長にそって列島改造ブームが起こってきた。48年4月1日に地域開発事業に必要な公共用地の収得、造成、管理と処分を目的に上富良野町土地開発公社を設立していたが、その直後の10月から中東戦争による石油危機が発生し、異常な物価騰貴とインフレーションがおこるようになり、12月22日に政府は石油緊急事態宣言を出していた。これ以降は町民の生活も苦しいものとなっていったが、町も財政的にしばらく苦しむことになる。インフレーションの影響を受けて、町の一般予算も48年度から50年度にかけて毎年30lにも及ぶ急上昇を続けており、財政的には危機的状況であった。

 そうしたさなか、今後の町の発展と町民の生活・福祉の向上をめざす「第二次町総合計画」が策定となった。計画は49年から53年までの5カ年におこす、@産業振興、A産業基盤整備、B生活基盤整備、C教育文化振興、D福祉厚生振興の5つの計画からなっていた。なお、ながらく実施されていた町政懇談会は47年度に一時取り止めとなり、行政区長会議にて町政に対する意見を聞くこととなったが、49年度から再開されている。

 

 第二期の和田町政

 町長選挙が50年8月17日に町議選と同時に行われた。立候補したのは二期目を目指す現職町長の和田松ヱ門、一色正孝、野口光雄の3人である。当日の有権者数は9,939人で投票総数9,373票、投票率は94.31lと前回に続き高かった。選挙の結果、得票数は和田松ヱ門6,339票、一色正孝1,496票、野口光雄1,400票であり、町長選史上、最高の得票数をマークした和田松ヱ門が二期目をになうことになったのである。

 「町民と共に歩む明るく清潔な行政」を基本理念に和田町政は、第二期に入ったがその直後、50年8月23日に台風6号の影響を受けてベベルイ川を中心に諸河川が氾濫した。町ではすぐに災害対策本部を設置して対応に当たったが、総額で9億2,517万円にのぼる大きな被害を出していた。町財政は相変わらず苦しい状況であり、特に議会に50年3月22日にカミホロ荘整備対策調査特別委員会、51年3月25日に病院整備対策調査特別委員会、食肉センター運営対策調査特別委員会などが設置されているように赤字経営を続ける国民宿舎カミホロ荘、町立病院、食肉センター、以上の町営3施設の経営改善が問題となっていた。また、財政負担となっていた上富良野高校については、51年4月から道立へ移管となった。

 施設的には苦しい財政状況を反映して大規模な施設の建設は控えられていた。ただ、懸案となっていた東中中学校の新校舎については、52年12月に完成をみており、54年に町立病院の新築工事も進められていた。

 52年は開基80周年に当たっていた。「祖父の拓いた八十年和して築こう豊かな未来」というスローガンも定められ、8月20日に記念式典、市中パレード、21日に町民芸術祭などの各種の記念行事が行われた。この折に町のシンボルマークも制定された。財政難のために記念行事は簡素化されていたが、町民の要望が強かった郷土館は記念事業として建設されることに決定し、5月には郷土館建設期成会も発足し、建設の寄付金も多く寄せられ、翌53年6月1日にいたり開館した。

 54年6月に「上富良野町総合十カ年計画」が策定となる。策定に当たり資料として住民意識調査も行われ、総合計画審議会を設置して審議され、54年6月の定例議会で議決され決定した。基本構想では、

 (1) 市街地の基盤整備と農村集落整備による農村都市の建設。

 (2) 保健医療の充実と安全性の追及による居住環境の向上。

 (3) 豊かな教育・文化の創造と福祉の充実による連帯感を高める地域社会の建設。

 (4) 農・商・工・観光と連環した地場産業の育成による地域経済の発展。

 (5) 住民参加による合理的な地域行政の確立。

 以上の5項目が柱とされ、やがて三期日に入る和田町政の課題となるのであった。

 なお、51年1月より三浦綾子が北海道新聞に『泥流地帯』を連載している。和田町長は吉田貞次郎元村長を最も尊敬していただけに、吉田貞次郎の再評価機運が盛り上がることになる。

 51年8月31日には名誉町民となる、元参議院議員の石川清一が死去している。石川清一は昭和23年2月から45年8月までながらく上富良野町農業協同組合長をつとめ、その間に農業共済組合を設立するなど農業団体、農民組織の形成に尽力した。また、22年4月に道議会議員に当選し、25年6月から31年6月までは参議院議員をつとめ、上川地区の農民代表として道政、国政の場でも活躍していた。町政に関しても社会教育委員(36年9月〜46年8月)、文化財保護委員(47年8月から)など、主に教育と文化の面で公職を引き受けて協力していた。51年8月31日に急逝したが、石川清一の功績に対して名誉町民を送ることがはかられ、9月2日に急いで臨時町議会が開かれて決定となった。推薦理由は、「地方自治についても多くの公職を通じ常に中心的指導者として難問題にあたられ、町行政発展と農業教育、文化の振興に尽くされた功績は誠に多大であり、高く賞賛されるところ」とされ、4日には農協と町による合同葬の告別式が行われた。

 

 第三期の和田町政

 54年8月12日に町議選と同時に行われた町長選挙は、三選目を目指す現職町長の和田松ヱ門、元助役で町議であった酒匂佑一の2人が立候補し、形成はまったく互角の一騎打ちを演じた。

 当日の有権者数は9,916人、投票総数は9,355票、投票率94.34lで相変わらず高い投票率を示していた。選挙の結果は、和田松ヱ門4,921票、酒匂佑一4,371票を得票し、541票という少差で和田松ヱ門が三選をはたした。とはいえ、52年12月に発生した「資材置場問題」(後述)は、町理事者の責任問題も免れがたく、町政に対する不信が酒匂票に流れたものであり、町内を二分した激しい選挙のしこりも残っており、三期日に入ることになった和田町政の前途にはきびしいものがあった。

 三期日の和田町政にあっては、54年12月に町立病院が新築完成し24日から診療を開始し、55年1月には給食センターが完成していた。また、48年以来事業が続けられていた島津公園が55年に完成し、10月11日に開園式を迎えていた。56年2月8日には東中小学校が改築落成式を挙げている。ただ、地方財政の危機的状況は相変わらずであり、石油・ガソリンが高騰し節電などの省エネが叫ばれ、国民の生活にも深刻な影響を与えていた。政府は「財政非常事態宣言」を出していたが、58年度の町政執行方針でも経費節減と緊縮型予算が示されていた。

 災害では56年8月3日から5日にかけての集中豪雨で、978世帯が浸水の被害を受け農地、農作物、道路、河川、公共施設など総計で21億1,200万円の被害を出していた。町ではすぐに災害対策本部を設置し、災害復旧にとりかっていたが、8月17日に衆議院災害対策特別調査団の8議員(団長木島喜兵衛)、19日に道開発庁中村啓一政務次官が視察していた。この豪雨では石狩川が氾濫するなど、全道で大きな被害を出していた。

 56年10月1日に町花をラベンダー、町木をアカエゾマツに制定告示し、57年7月からラベンダー祭りが開かれるようになり、ラベンダーによる町おこし≠ニ「観光立町」が本格化してくる。

 和田松ヱ門はまたよく短歌をよみ農民歌人らしく耕人と号する文人町長であった。彼は短歌結社である噴煙短歌会を創設し、歌集としては51年に『噴煙絶えず』、62年に『富良野平原』を上梓していた。「蒼穹に孤の夢描き七十年涼[たぎ]るものあり十勝火の岳」は、町長在任中の51年に詠んだ名唱である。和田町長は58年8月24日に任期が切れ、三期12年間にわたる町長の職を退いた。そして、60年12月20日に名誉町民に選ばれ、平成4年7月26日に死去し(享年88歳)、29、30日に町葬で葬儀が執行された。

 

 酒匂町政の開始

 和田町長の後継を競う町長選挙は町議選と同時に58年8月14日に行われた。立候補したのは過去2度の町長選で苦杯をなめ3度目の挑戦となる酒匂佑一、和田松ヱ門の支援を受け商工界の支持をまとめて急速、出馬を決めた金子隆一の2人であった。

 当日の有権者数は9,810人、投票者数は9,262人で投票率94.41lと高かった。選挙の得票数は酒匂佑一が6,185票、金子隆一が2,960票であり、自民党の公認を得て自衛隊OB友の会などの後援を得た酒匂佑一が大差で当選をかち得た。

 6,000票の大台は50年の和田松ヱ門につぎ、町長選史上では2度目であった。

 新たな町長に選ばれた酒匂佑一は大正5年に札幌市に生まれ、昭和10年に北海中学校を卒業後は北京の華北気象台に勤務していたが、21年に町役場に就職する。配給係長、教育部長などを経て27年に教育委員会次長、31年に教育長(公民館長を兼務)、34年に助役というように役場の要職を歴任していた。元町長である海江田武信の義弟に当たっていた。

 42年に道議会議員選挙に立候補のため助役を辞職したが道議選には落選し、46年、54年と2度にわたり町長選に立候補し和田松ヱ門と争うが、いずれも苦杯をなめていた。50年8月から一期のみ町議をつとめる。

 酒匂町長は「健康で明るい豊かな町づくり」をスローガンとし、59年度の町政執行方針で「町財政の健全化」と「対話ある町政」をかかげて酒匂町政をスタートさせた。これ以降、平成4年11月に病でたおれるまでの三期、9年3カ月に及ぶ長期の町政を展開することになる。

 

 写真 酒匂佑一町長

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 カムローズ市と友好都市を提携

 国際化に向けて道内の諸町村でも海外の都市と交流を深めていく状況のさなか、上富良野町も60年にカナダ、アルバータ州のカムローズ市と友好都市を提携した。

 この発端は上富良野高校がアルバータ州エドモントン市のジャスパー高校と姉妹高の関係を結んだことにあり、このことが契機となり、人口、産業とも上富良野町と似ているカムローズ市のルディー・スワンソン市長から友好関係を締結することの申し出が59年2月にあった。上富良野町でもこの申し出を受けて、同年8月に酒匂佑一町長、小野三郎議会議長、友好都市提携準備会の宮崎武雄上富良野高校教諭の3人がカムローズ市を訪問し、提携への準備を進めた。そして、60年9月5日にスワンソン市長夫妻などを迎えて調印式が行われ、そのあとで役場庁舎前に建立された「友好都市提携記念」の記念碑除幕式が行われた。

 友好都市提携は町民の目を広く海外に向けるよい機会となったし、これ以降、カムローズ市とは各種の交流が続けられ、町民の中に「国際人」という意識を促すことにもなった。

 その他にも、酒匂町政の第一期の間には59年4月1日特別養護老人ホーム「ラベンダーハイツ」が開所し、59年8月19日には第1回の町民運動会が始まっていた。一村一品運動が始まるのも、ちょうどこの時期である。

 

 写真 スワンソン市長と酒匂町長

  ※ 掲載省略

 

 二期目の酒匂町政

 昭和62年8月24日で任期切れとなる町長の改選は、8月4日に告示、9日に投票予定であったが、現職の酒匂佑一町長の届け出しかなく34年以来、28年ぶりの無投票で酒匂佑一の再選が決まり、「声なき声を胸に受け」(『広報かみふらの』第340号)て二期目の町政を開始した。

 上富良野町では62年に開基九〇周年を迎え、記念事業の一つとしてスポーツや文化活動の拠点となる社会教育総合センターを建設した。しかし完成が開基日に間に合わないために記念式典を1年間延長し、63年6月11日に同センターのこけら落としを兼ねて開基九〇周年式典が挙行された。また、62年度から8年計画で新農業構造改善事業が始まり、63年9月30日には国道237号線のバイパスが開通し、64年度から第三次上富良野町総合計画がスタートした。

 さらには時代が平成へと変わり、元年に1億円のふるさと創生資金を利用して駅前周辺を再開発し、4月に上富良野町も富良野・大雪リゾート整備地域に指定を受けたことにより、ゴルフ場開発の問題もおきてきた。2年1月8日にセントラルプラザがオープン、また、57年度から10年の歳月をかけた公共下水道事業は2年に完成にこぎつけ、7月1日から使用を開始した。農業構造改善事業にともなう施設としては、平成元年11月に静修農業構造改善センター、2年12月に島津ふれあいセンター(農業構造改善センター)が完成している。

 字名が廃止となったのもこの時期である。上富良野町町内には30の字が存在し字上富良野、字中富良野などと住所表示、あるいは登記簿などに字がながらく用いられてきた。しかし字は地域が特定しずらいこと、字界が複雑であること、住所表示が長く不便であること、字名には上富良野、上富良野原野、富良野原野、上フラヌ、フラヌ原野、富良野原野区画外、上フラノ、フラノなど類似したものが多数あり紛らわしいこと、「行政区画便覧」に記載はあるが地方自治法の規定によらない字、すなわち「存在しない字」があること(字上富良野松井農場、字島津農場、上富良野町など17字)、以上の理由によって2年7月1日より字の区域とすべての字名が廃止された。

 この時期はバブル経済の活況期であり大型の建築・土木工事、大規模な公共事業が目白押しとなっていた。だが、そのような太平の夢を破るような出来事もあった。十勝岳の噴火がそれである。

 

 十勝岳の噴火と避難命令

 十勝岳は63年12月16日以来、小噴火と火山性微動が続き、19日にはとうとう小規模な泥流も発生した。そのため町ではすぐに酒匂町長を本部長とする十勝岳火山噴火対策本部を設置した。十勝岳の噴火は37年以来、26年ぶりであったが、24日には火柱のあがるつよい噴火があり日の出、日新、草分地区の262世帯、928人に対策本部から避難命令が出されることになった。

 ところが火山活動が停滞し日が経つに連れ、避難命令に従う住民は2割程度となり、指定された避難所に避難している人々も100人程度となり、家畜飼養と酪農農家を中心に帰宅と避難命令解除を望む住民の声が強くなってきた。正月を目前に控えた年末の時期であり、「正月を家で」という希望も多かった。そのために避難住民には27日から昼間だけの帰宅許可が出されていた。

 このような状況の中で今度は避難命令の解除時期が問題となってきた。町では監視装置の設置、避難訓練の実施をみて30日にも避難命令の解除を検討していた。ところが道防災会議、道知事が解除に難色を示し、自治省も災害対策基本法の上から一時帰宅を疑問視するなど、本部長の酒匂町長は住民と上級官庁との間に板ばさみとなる苦しい立場に追い込まれていたが、洒匂町長のつよい希望と要請により道知事も遂に同意し、30日午後3時に避難命令は解除となった。また、あわせてJRも運転を再開し、国道237号線など4本の交通規制も解除となった。

 町では61年5月に「上富良野町地域防災計画書」をまとめていたが、住民の避難命令を発動した今度の十勝岳の噴火は、改めて防災計画、防災対策及びふだんからの避難訓練の重要性を認識させることとなった。また、平成元年3月に活火山対策特別措置法による避難施設緊急整備地域の指定を受け、避難施設の整備が行われるようになる。

 2年12月に泥流危険地域に指定されていた草分に避難施設として草分防災センター、3年12月に泉栄防災センターが完成している。

 

 三期日の酒匂町政と町長の死去

 二期目を終える洒匂佑一町長の任期は、平成3年8月24日であった。後任の町長選は8月6日に告示、11日が投票日となっていたが、2年11月に早くも三選をめざすことを表明していた酒匂町長以外に他候補の届け出がなく、前回に引き続き無投票での酒匂町長の三選が決まった。

 酒匂町長は再度、「声なき声を謙虚に受け止め」(『広報かみふらの』第388号)ながら農業と商工業の振興、自衛隊との「共存共栄」、老人の福祉問題、以上を重要施策として三期日をスタートさせた。しかし、酒匂町長は就任直後に、食道の手術で3年10月から12月までの3カ月間、札幌市内の病院へ入院する。退院後は政務に戻っていたが、翌4年7月に再び体調をくずし旭川医大病院へ入院した。その後、町立病院で療養し、9月16日に札幌市内の病院へ再入院したが、11月24日に死去した(享年76歳)。酒匂町長は25日の臨時議会にて名誉町民に選ばれ、葬儀は27、28日に町葬をもって執行された。

 

 写真 酒匂町長の町葬

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 菅野學町長と町政

 現職町長の突然の死によってにわかに後継の町長選が必要となり、補欠町議選とあわせて平成4年12月22日が選挙告示、27日が投票日となった。歳末のあわただしい中での選挙であった。

 立候補したのは菅野學、尾岸孝雄の2人であり、この選挙戦は農協と商工会の対決といわれ、菅野學はJAかみふらの理事、専務理事、組合長などを26年間つとめた農協のリーダーであった。尾岸孝雄は町議、副議長を9年つとめ、商工会の支持をもとにしていた。

 当日の有権者数は9,757人、投票者数は8,631人、投票率は88.46lであり、三期ぶりの町長選挙であったものの共に酒匂町政の継承を訴え、争点がなかったこともあって90lを割り投票率は低かった。得票数は菅野學が4,913票、尾岸孝雄が3,613票であり、この結果、菅野學が第6代目の町長に就任した。

 新町長に就任した菅野學は大正13年生まれ、上富良野町農業協同組合理事、北海道信用農業協同組合連合会理事、ホクレン農業協同組合連合会理事などの要職をつとめていた。町政に関しては農業振興審議会委員、総合計画十カ年計画策定審議会委員長として関与していたが、町議を経ずに町長に就任したのは彼が初めてであった。

 菅野町長は酒匂町政の継承と共に、@住民参加の町政で豊かな町づくり、A時代を先取りした創造性と活力ある町づくり、B誠実でぬくもりある町づくりを公約とし(『北海道新聞』平4・12・23)、当選をはたしたのである。だが、翌平成5年は異常気象による冷害に見舞われ、町内でも25億9,400万円という被害が見積もられていた。町では10月に冷害対策本部を設置し農家の救済に当たったが、この年は農畜産物の市場開放問題も起きており、農業を基幹とする上富良野町にとっては実に厳しい、深刻な状勢を迎えた年であった。それでもこの時期はラベンダーを中心とした観光は順調であり、町内に観光施設も増えていった。

 5年10月に町長らが三重団体の祖、田中常次郎の郷里である三重県津市を訪問し、津市との交流も始まっている(津市とは9年7月30日に姉妹都市を提携)。

 

 写真 菅野學町長

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 尾岸孝雄の町長就任

 菅野町長の任期は平成8年12月27日に切れるので、12月8日に後継の町長選挙が行われた。

 立候補したのは二期目を目指す菅野學町長、再度、町長選に挑戦する尾岸孝雄の2人であり、前回に続き両者による激しい選挙戦となった。

 当日の有権者数は1万0,044人、投票者数は8,853人で投票率は88.14lであった。

 得票数は尾岸孝雄が4,367票、菅野学が4,357票であり選挙の結果、僅か10票差で尾岸孝雄が当選をはたし、第七代目の町長に就任した。

 

 写真 尾岸孝雄町長

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