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6章 戦後の上富良野 第9節 戦後の町民文化

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3、体育協会と文化連盟の発足

 

 上富良野体育協会の設置

 上富良野では、終戦直後の昭和22年、山本逸太郎を会長とする体育協会が設立されていたが、当時は野球や武道以外のスポーツはそれほど盛んではなく、昭和24年に解散した。しかしその後町民がさまざまなスポーツに取り組み、競技者のすそのが広がり始めると、町民がスポーツを楽しむ、よりよい体制づくりや施設の整備を期待する声が高まった。そこで昭和34年12月5日には「上富良野町体育指導委員会」を設置したが、さらに昭和36年6月16日には、東京オリンピックの開催にむけてスポーツの振興を図ろうと国会で「スポーツ振興法」が可決された。そのため上富良野でも「スポーツ振興審議会」を結成する動きがでてきたが、当時上富良野では、財政難のためスポーツ施設の整備が遅れ、町民プールや総合グランド、町民のための屋内運動場も建設されていなかった。町議会では審議会を作ってもスポーツ振興の実があがらないのではないかという懸念もあったが、現在ある施設を高度に利用して指導者の招聘を行い、さらに将来の施設整備にむけての準備作業を行うために審議会の存在価値が認められ、昭和37年4月1日に設置された(『昭和37年度議事録』)。会長は飛沢尚武であった。

 その後昭和39年に東京オリンピックの開催により、全国的にスポーツへの関心が高まると、上富良野でもその影響からさまざまなスポーツの競技人口が増え、教育委員会や各体育団体が協力して、バレーボールや卓球、スキーなどのスポーツ教室が開催された(『町報かみふらの』第68号、昭39・10)。またスポーツ団体の関係者からは、体育協会の設立を望む声が出てきたため、昭和41年10月設立準備委員会が開催され、山本純雄、田中篤、酒匂佑一、松浦清、高橋新一、中村有秀、西口登、飛沢尚武、小島順士などが参加して協会設立の準備がなされた。同年12月16日には設立総会が開かれ、「上富良野町体育協会」が正式に発足した(『体協十年の歩み』)。会長一色正三で、最初の加盟団体はバレー協会、庭球クラブ、バスケット協会、卓球協会、武道会(柔道、剣道、銃剣道)、スキー連盟、十勝岳山岳会、スケート連盟、野球連盟の9団体であった。

 

 文化連盟の発足

 一方、上富良野では昭和20〜30年にかけて、文芸、華道、茶道、園芸などのさまざまな文化団体が誕生し、それぞれ活動を続けていたが、団体同志の連絡がなく町民全体を巻き込むような文化活動にまで発展していなかった。また毎年文化の日を中心とした11月には、演芸大会や武道大会、菊花展や音楽隊の市中パレード、写真展や生け花展など、さまざまなイベントが計画されていたが、それらは各団体が個々の活動として開催したにすぎなかった。

 そこで昭和39年5月、和田松ヱ門、葛本利八、本田茂、高畠清子、二口正二郎らが発起人となって文化16団体により連合体結成のための懇談会が開催され、11月には文化団体連絡協議会の名称で13団体が参加した第1回文化祭を開催した。同12月には文化連盟結成準備委員会が発足し、委員長に和田松ヱ門を選出した。昭和40年10月6日には第2回文化連盟結成総会が開かれ、文化団体連絡協議会を発展的に解消し、「上富良野町文化連盟」を組織した。加盟団体は34団体で和田松ヱ門が会長となった。

 その後文化連盟は、毎年文化祭や雪まつり文化連盟芸能発表会を開催して加盟団体の発表の場を確保するとともに、劇団の公演、独唱会、軽音楽フェスティバル、陸上自衛隊中央音楽隊演奏会、レコードコンサートなどを開催し、幅広い文化活動を展開した(『文化の歩み』)。