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6章 戦後の上富良野 第9節 戦後の町民文化

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1、戦後の文化復興

 

 噴煙短歌会の発足

 長く暗い戦争が終わると、上富良野では敗戦後の混乱期にもかかわらず、文化の復興がみられた。終戦直後の昭和20年11月には、早くも「噴煙短歌会」が発足している。同会は、終戦直後の混迷のなかで、新しい国づくり、町づくりに邁進する意気を盛り上げようと、和田松ヱ門(耕人)、石川清一、青地繁(紫雲)らが中心となって結成された。また会名の「噴煙」は、絶え間なく情熱の火を燃やし続ける十勝岳の噴煙を心とするよう、名付けられた(『文化のあゆみ』昭48)。発足当時、会員は10名程度だったが、1年後には30名にものぼり、同会は文化に飢えていた戦後の上富良野の人々に、新たな文化の光をもたらした。

 

 このみち俳句会

 昭和31年1月28日には、田浦博(夢泉)、本田茂(不久朗)が発起人となり、『上富良野新聞』の編集発行者であった岩田悌四郎(雨滴)を中心にして「このみち俳句会」が結成された。

 第1回の句会はこの日信用金庫階上で開催され、この時はまだ会の名前は決定しておらず、その後2、3回句会を重ねた後、本田茂の案で会名を「このみち」と決めることにしたという。

 昭和32年5月には田浦夢泉の紹介で『氷下魚』主宰の伊藤凍魚、同夫人雪女を迎えて句会が催された。ちなみに昭和34年6月には、このみち俳句会会員の自衛隊への1日入隊が行われ、この時は伊藤凍魚も参加し、このみち俳句会と自衛隊隊員の合同句会が開催された。その後自衛隊との交流は進み、昭和37年8月5日には自衛隊の駐屯地営庭に伊藤凍魚の句碑「ものの芽の雪降るときも旺んなり」が建立された。

 また会の活動としては、吟行会の開催や昭和36年12月から発行されている「このみち旬報」の編集などがある。

 

 写真 伊藤凍魚の句碑

  ※ 掲載省略

 

 華道・茶道・箏曲

 一方、戦時中は銃後の生活を支えることのみに心を配っていた女性たちも、戦争が終わると女性としての教養を深め、心のゆとりを求めるようになった。上富良野では既に戦前から華道や茶道の教授がなされていたが、戦後は田中喜代子が昭和21年に華道池坊清梁会、茶道表千家宗喜会を結成している。また同年には伊藤しげが上富良野村大雄寺に玉川遠州流の茶道の出張教授を行い、25年には高畠清子や梅田寿も生け花教授を開始した(『上富良野町史』)。

 昭和30年代には、華道や茶道の団体はさらに増え、さまざまな流派がみられた。昭和34年4月には、この年上富良野に移り住んだ水谷小菊(宗菊)が、華道池坊教授の資格を取得して菊窓会を開門した。水谷宗菊はその後茶道においても准教の資格を取得し、昭和40年に宗菊会を開門している。一方昭和39年9月には村上和子(和草)らが、高田幼稚園の一角で生け花の指導を始め、これが草月流研修会となった。ちなみに村上和草はその後上富良野文化服装学院の生け花教室の指導にもあたっている。さらに昭和40年には、38年に資格を取得した三島笑子(春月)が教室を開設し、池坊春月会を開門した。また翌41年には、やはり草月流の酒匂モト(和清)が華道教授を開始し、43年には本間久子(静風)も、池坊の生け花教室を始めた(『文化のあゆみ』)。

 一方、昭和23年には富良野町の阿部照子が穴田裕二宅で箏曲の教授を開始し、20数名の弟子がいたという。また、昭和28年には大雄寺の滝本ミヨ子が生田流正派の教授を開始し、昭和35年まで続いた(『上富良野町史』)。

 

 野球の隆盛

 上富良野では戦前から野球が盛んであったが、その人気は戦後いち早く復活した。昭和22年には杉本正一ら愛好者が集まって町内対抗野球大会を行い、25年9月8日には酒匂佑一、坂田、北畠らが中心となって「上富良野野球倶楽部」を発足し、初代会長には堀内桂治が就任した。同倶楽部には農協、役場、郵便局、学校、北日本木材、山本木材、日通など職場のチームが加盟し、祭典野球大会や町内対抗野球大会に参加した(『体協十年の歩み』昭52)。

 特に役場チームは強豪で、昭和29年には上川管内の町村対抗試合にも出場した(『上富良野町史』)。その後同倶楽部は、昭和30年に「上富良野野球協会」と改称し、自衛隊の駐屯によってさらにチーム数も増え、協会チーム、役場チーム、二特連(二戦車)チーム等が町内の大会はもとより、全道大会にも駒を進めて活躍した(『体協十年の歩み』)。また38年6月には野球愛好者OBが集まって老童クラブを結成し、朝野球が始まり、41年7月には上富良野野球協会に審判部が結成されるなど、幅広い年齢層が野球を楽しむ環境づくりが進んだ。

 

 写真 上富良野野球倶楽部結成記念大会

  ※ 掲載省略

 

 十勝岳スキークラブの設立

 戦争により一時中断した登山は戦後復活し、上富良野では昭和26年に十勝岳山岳会が設立された。またその同じ年、十勝岳山岳会はスキークラブと合併して「十勝岳スキークラブ」を結成し、夏山と冬山の両方に活動の場を広げることとなった。初代会長は西村又一で、具体的活動としては、十勝岳の山開きの際の後援、夏山や冬山の遭難救助活動、スキー技術の向上のため、基礎技術の講習検定会の開催、町民スキー大会の開催などがあった(『体協十年の歩み』)。

 

 写真 十勝岳山開き

  ※ 掲載省略

 

 上富良野スキー連盟の発足

 その後スキーは上富良野の町民に広く受け入れられ、町内、各職場で愛好会が設置されるなど、競技人口は年々増加した。そのため、独自の連盟を結成して直接北海道スキー連盟に登録し、基礎スキー技術の講習検定会の開催、公認指導員の養成充実、スキー施設の整備普及を図ろうと、昭和40年2月26日上富良野町公民館に十勝岳山岳会や各職場の愛好会代表が集まり、「上富良野スキー連盟結成準備会」が開かれた。そしてこの席上、同年3月4日に連盟を結成すること、同14日にスキー連盟設立結成記念スキー大会を、日の出スキー場で開催することが決定した。連盟の会長には金子全一が就任した。

 また当初連盟は富良野スキー連盟の傘下に入っていたが、41年3月5日には北海道スキー連盟への単独加盟を果たし、同年4月24日には第1回全道十勝岳大回転競技大会が十勝岳温泉コースで開催された。同大会は十勝岳スキー場の開発と紹介、地元スキーヤーの養成を目的に企画され、48年には北海道スキー連盟A級公認大会となった。

 また普段のスキー連盟の活動には、町民へのスキー指導や指導員の養成などがあり、特に毎年町民スキー大会や子供会スキー大会を主管した。会場としては、上富良野の町民が気軽に利用できる施設として、昭和42年7月に設置された町営日の出山スキー場などがあった(『体協十年の歩み』)。

 

 武道の愛好

 敗戦後、武道は一時廃れていたが、昭和27年4月10日に飛沢英壽を会長とする武道会柔道部が結成され、翌28年12月にはやはり飛沢英壽を会長とする「上富良野剣道愛好会」が結成されると、再び愛好者がさかんに稽古を行うようになった。

 柔道の稽古場は、町有志の寄付で調達した改造たたみを公民館の床に敷き、仮の道場として行われた。また4月29日の天皇誕生日には、富良野沿線柔道大会を開催した。一方剣道も公民館で稽古を行い、富良野市の剣道連盟に加入して、富良野警察署の武道館が完成した際の第1回富良野沿線剣道大会に参加した。

 その後柔道も剣道も、自衛隊の駐屯によりさらに愛好者が増え、昭和32年には両者を合同する案が提案され、同年7月武道愛好会に統一された(『体協十年の歩み』)。

 一方昭和35年には北海道銃剣道連盟が発足し、上富良野でも翌36年1月に、富良野支部として「上富良野町銃剣道連盟」が設立された。北海道にある16の支部のなかで、5番目の設置である。会長は宇佐見利治で、加盟団体は上富良野のほか、美瑛、中富良野、富良野、山部、南富良野、占冠などであった。また昭和37年には上富良野駐屯地自衛隊の主力部隊である四特科が北千歳から移駐し、少林寺拳法連盟北海道連合会の所在地である千歳市から部隊が移駐したことにより、上富良野にも少林寺拳法部の支部が誕生した。初代支部長は千歳支部から迎えられた竹中修であった。

 

 写真 旧公民館講堂での柔道の練習(昭和34年)

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 新たなスポーツの流行

 昭和30年代に入ると、これまで上富良野で流行していた野球やスキーのほかに、スケート、バスケットボール、バレーボール、卓球などが流行しはじめた。

 スケートは、昭和30年頃から東中ため池、自衛隊グランド、元馬市場、元青年研修所前、東中小学校グランド、上富良野小学校グランドなどにスケートリンクがつくられ、愛好者たちが競技を楽しんだ。特に昭和31年1月27日、元オリンピック選手の稲田悦子、有坂隆裕が自衛隊営庭特設スケートリンクで上富良野初のフィギュアスケートの模範演技を披露すると、スケート熱は一気に高まり、翌32年2月17日には東中スケートリンク(現東中公園)で、町内青少年スケート大会が開催され、競技の他にスピードスケートやフィギュアスケートの指導も行われた。

 球技においては、昭和36年には「バスケットボール協会」が、酒匂佑一を会長として設立された。設立当初は5団体20名が主力メンバーとなっていたが、昭和41年には各職場チームや個人が加入する「バスケットクラブ」が結成された(『町報かみふらの』第92号、昭41・10)。一方37年には「上富良野町バレーボール協会」が設立された。バレーボールは上富良野高校教諭の村上富雄により広められ、同年招魂祭奉納排球大会が行われた。参加したのは上富良野高生徒や自衛隊、教員、中学生らであった。38年には金子全一を会長とし、翌39年には公民館主催の町民バレーボール大会が開催された。

 昭和38年には、元上富良野町立病院の職員渡辺一彦により卓球が広められ、4月5日には酒匂佑一を会長とする「上富良野町卓球協会」が設立された。この年には全町卓球大会が開催され、参加チームは自衛隊、役場、信金、農協、教員、町立病院など20チームにのぼった(『体協十年の歩み』)。

 

 写真 自衛隊特設リンクでの稲田悦子

  ※ 掲載省略

 

 町民プールの設置

 一方上富良野にはブール施設がなく、汚れた富良野川で泳ぐしかなかった。このため子供が目を傷め、衛生面で問題視されており、学校の体育の授業でも水泳を取り入れることができなかった。

 そこで財政難にもかかわらず、遂に昭和38年7月に上富良野神社の境内に初の「町民プール」を完成させ、13日にはプール開きが行われた。

 

 写真 町民プール開き

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