郷土をさぐる会トップページ    上富良野百年史目次

6章 戦後の上富良野 第8節 戦後復興と生活

906-915p

2、働く人々の諸相

 

 引揚者の再出発

 上富良野にたどり着いた引揚者は、「海外引揚状況」(昭和25年)によると、一般(民間人)は565名で、満州からの引揚は91名である。引揚者の住宅不足のなかで、4分の1は引揚者収容施設に入居。上富良野にまったく縁のない無縁故者は、1割3分にもなった。当然慣れぬ土地で、折からの品薄物価高に、凶作の20年はどのように冬を越すことができたであろうか。

 21年10月に満州から引き揚げ、旧知の同業仲間などに助けられた菅野豊治(明治27年生まれ)の場合をみたい。上川管内の永山町・剣渕村・富良野町など十町村から鉄工場や農機具製作所、金物店や富良野地方軽車両美瑛鉄工業者一同などの25の個人や団体による、『菅野豊治氏戦災御見舞金奉願帳』(「土の館」蔵)を回して見舞金(合計2万3,350円)を集めて、豊治の再起を援助したのだった。

 ここで、戦争中に、豊治が渡満したことにもどると、日本は、「満州国」の建国以来、昭和恐慌や2、3男対策のため、満州(中国東北部)へ満蒙開拓団を投入。昭和16年に開拓農具、畜力プラウの製造のために道内から19の鍛冶屋を派遣、深耕プラウで優良農具に再三入選(北海道農事試験場主催)していた豊治はその一員となった。馬でプラウを挽き、土を起こす畜力プラウでなければ開拓が遅れることから、同業者を募って上川鐵製品工業組合を設立、畜力プラウ「上川号」を増産し満州へ出荷していた豊治は、骨を埋める覚悟で、菅野農機具製作所の一切を近隣の鍛冶屋仲間に譲り、一家で満州(吉林)へ渡った。100人以上の中国人労働者を雇い、1日150台の畜力プラウを出荷、事業拡張のさなかに敗戦で、工場は閉鎖。

 多くの日本人が「満州人を差別扱い」していたなかで、差別することなく交友していた豊治は、ともかく裸一貫、家族とともに帰郷した(金子全一『菅野豊治を語る』スガノ農機株式会社1992年発行)。豊治がカリエスを病み、終始夫を支えた妻サツが振る舞う一口の酒は「サッチャンの酒」と呼ばれて出入りの人々に潤いを与えていたという。そして復員後、息子へ目標を見失なわぬように『流れ星をつかむなよ、一つの星を見つづけるのだ』と語り残している(菅野祥孝談平7・6・6)。

 

     『菅野豊治氏戦災御見舞金奉願帳』

 菅野豊治氏還る!は既に皆様の御聞済み或は、御逢ひなされた方もある事と存じます。氏は上川鐵製品工業組合設立と共に、之れが運営に粉骨砕身、利己を捨てゝ貢献せり、偶々北海道農具の満州進出の機至るや、吾々組合員の技術向上に努め、尚之れが普及到底に住馴れし郷土を後に移住致し、その後の躍進振り、等々、氏の名を知る限り周知の事と存じます。然るに敗戦は、氏の献身的努力と希望は一瞬にして灰燼と帰し、茲に真裸の氏を迎えるに至りたり、氏の胸中如何許す哉、察するに余りあるものがあります。

 依而、当時氏と親交せる方々相倚り、聊かなりとも御見舞申し上げ厚く発意致しま志た。何卒御賛同の程御願ひ致します

   昭和二十二年三月一日

     渡邊孝一(永山町)、遠藤直吉(剣渕村)、跡部芳平(富良野町)、

     中井之丞(愛別村)、福島達雄(中川村)

 

 また、上富良野女子白菊会では、22年9月上旬に旭川無縁故老収容所へ、引揚者の生活の助けに、野菜や学用品を贈り、11月にはトラックで越冬用野菜と米7俵を贈り、旭川市から表彰状を受けている(『北海道新聞』昭22・11・11)。

 

 写真 旧満洲での菅野農機具工場

  ※ 掲載省略

 

 緊急開拓にいどむ

 戦後開拓の実施は、戦災者の生活安定と食糧増産とを目的に、20年5月「北海道疎開者戦力化実施要綱」決定による拓北農兵隊(のちの拓北農民団)といわれた集団帰農者を受け入れた緊急開拓に始まった。戦後開拓の政策は経済復興とともに様々な画期があり、冷害が連続した後の33年からは、モデル地区などが設定された開拓営農振興の時期、さらに38年には新振興対策を打ち出して振興農家の認定を開始、43年に開拓保証資金が農業近代化資金の取り扱いを受けるなど、戦後開拓事業を終了して、46年には一般農政に移行することになった。

 開拓用地は、耕作外の土地として放置され、地勢や土質も劣悪で、傾斜地を含んでいる地帯で、公的な対策や投資がなければ営農が難しいところであった。上川地方の定着率は極めて低く、緊急開拓期の離農は50lを超え、入植農家戸数のピークは30年の約4,300戸であった(『上川戦後開拓記念誌』昭45)。戦後間もなく開拓者の要求を集めて、各地域に北海道開拓者連盟がつくられ、22年に、上川開拓者連盟が発足した。北海道開拓農業協同組合が結成され、開拓農協婦人部は保健婦や生活改良普及員の協力をえて、生活改善などに取り組み、交流会も活発であった。

 20年9月3日上富良野へ入植した戦後開拓の第一陣、103名の集団帰農者(団長佐藤大四郎)は19戸で、それぞれ日の出(2)、東中(2)、富原(2)、十人牧場(1)、中の沢(1)、汀花(2)、静修(6)、草分(1)などへ入地した(『郷土をさぐる』第14号)。ただし、前掲書によると、20年入植23戸(エホロカンベツ18戸・江花2戸・地区外4戸)、24年入植1戸(旭野)、合計は24戸であり、ほかに、22年2戸、24年5戸、25年3戸などがみられる。そして、その離農戸数の状況は37年5戸、39年3戸、40年5戸、41年2戸、44年3戸、合計17戸。44年2月1日現在では、開拓農家現存戸数13戸となっており、全体として入植、離農の戸数の誤差がみられる。

 上富良野開拓農業協同組合は22年に静修地区17戸で発足(初代組合長松ヶ枝毅)、26年から理事5名・監事3名を定めた。事務所は役場内に置かれ、38年から上富良野農協に事務委託となり、30戸の「開拓事業」のみを扱い、保健関係などは一般行政として行なわれた(『開拓農協実態報告書』北海道開拓農協編昭39)。また、清富地区の戦後開拓は、「地理的な事情と入植経過」から美瑛開拓農業協同組合に所属した。30年4月1日、静修地区開拓者代表長島音三郎と清富地区開拓者代表金盛市郎とが「上富良野町開拓農業協同組合運営に関する契約書」を交わし、上富良野開拓農業協同組合に清富地区開拓者15戸が吸収されることになった(『上富良野町史』)。

 さて、上富良野で20年に緊急開拓にいどんだ人々の生活の断面を追いたい。東京大空襲によって、家もろとも街は「全滅状態」となり親子3人、北海道行きを決心した田中きよ子は、8月15日敗戦を知る直前の午前中に荷物を北海道へ発送し、台風と重なり半月近くかかって上富良野に着いた(『かみふらの女性史』)。一行は役場の会議室に1泊、静修のエホロカンベツ地区まで12`の道のりを子どもを連れて歩いた。一面の熊笹であったが、食べなければならないし、また、住まねばならなかった。入植面積は平均7町5反歩、そのうち農地にできるのは約4町歩、開墾補助金と営農資金で生活し、カボチャ、いも、いなきびなどを食べた。

 作物が既農地並に取れるようになったのは30年で、35年から土地改良、暗渠事業を実施、36年に電気がついて人並みの生活となり、43年に電話が入った(エホロカンベツ一同「われ等は東京から入植して」『上川戦後開拓記念誌』)。

 戦後開拓農家は、既存農家に近い成功を示す農家も出るようになったが、28年凶作冷害、41年の冷害が襲い、全体として思うような成績はあげられなかった。

 また20年、既墾地の東中に入植した濱巌(大正7年生まれ)でさえ、開拓1年目は玉葱を丸粒のまま食べたり、雪花菜(おから)ばかりで数日過ごしたこともあった。次に農夫になった1年を歌にも託した回想(『郷土をさぐる』第14号)から抜粋する。

 

 四月十日頃・・積雪一尺余り、水田の暗渠掘りに雇われる。泥と水で手足が荒れる・・。

 初めての馬耕・・頼りないが段々と要領会得。真直ぐに耕されてゆく、気持ちの良い事。

 六月・・移植水田の代掻き開始、ぬかる水田を馬と一緒に泥まみれ、風呂が無くつらい。草を背負い帰る・『うばたまの 闇な破りてこだまする 吾としりてか 牛の無くなり』

 七月初旬・・再度、水稲に泥負虫発生、午前三時頃起床、露のあるうちに手綱で掬う。

 初成り胡瓜‥『吾が手にて 初めて作りし この胡瓜 尊くもあり おいしくもあり』

 脱穀の頃・・木炭ガス発生による発動機、ガスによる頭痛寒気、夜業で到頭ブッ倒れる。

 

 南米移住

 生きる新天地を、上富良野に求める人々が定着する一方に、国が勧める過剰人口問題の解決の一つであった海外移住に呼応して、36年に南米へ離町した人々もいた。その頃、道内から南米へ毎年5、600名が渡り、すでに戦前からの移住者も含めて北海道出身の在住者は1万5,000名に達し、日本人会や北海道県人会や北海道人農友会などを組織し、仕事などを援助する受け入れ体制もあった。

 36年8月24日に上富良野を発った十島新吉・宮崎明善・小形義雄の三家族、24名は、上川管内13世帯(57名)の一行として、横浜の移住斡旋所で出国手続きを済ませて9月4日、横浜港から太平洋回りでブラジルのサンパウロへ向かった。また、同年、現地を視察を終えた道の農地開拓部次長は、安易な考え方では成功できないと警告する一方で、旅費の一部助成、営農資金の貸し出し、支度金のほか道出身への新聞などの送付する支援体制を翌37年から実施に移す方針を示している(『広報かみふらの』昭36・9)。

 36年に上川一行より1カ月早く出発した空知管内の一行に、上富良野出身の松藤一家4人がいた。7月28日に上富良野を出発し、8月10日横浜港から西回りで、約2月間の船旅をしてブラジルのサントスへ着いた。松藤良光(昭和5年生まれ)の移住は、戦後の国鉄マンであったが余剰人員対策から、若い労働者首切の対象となり、三菱炭鉱芦別鉱業所へ入り、鉄道部門で仕事をしていたものの三菱の閉山により希望退職を募っていた時期で、海外への飛躍を決意することになった。

 船旅の行程は、横浜港・台湾・香港・シンガポール・マレーのペナン・東インドシナ諸島のモーリシャス・インド洋・アフリカはダーバンなどケープタウンまで4ヵ所を経て、ブラジルでリオデジャネイロ、サントスに着き、落ち着いたのはサンパウロ州、レリストロ市で、紅茶生産を続けている。妻美智子(昭和9年生まれ)は3歳と、2歳の誕生日を船上で迎えた子ども2人をかかえていた。実母(すえの)は、心配はしていたけれども、本人が決めたんだからと、もう会えない気持ちで見送り、兄たちは移住した妹から預かった洋服タンスを見ながら、海を隔てた妹たちを案じていたのだった。2人の息子たちは、先端技術を学ぶために来日し、松藤夫妻は36年振りに帰郷し、肉親らとの再会を果している(聞き取り加藤清宅平9・5・26)

 

 写真 南米移住者の送別風景

  ※ 掲載省略

 

 31年冷害と農業改良普及事業

 戦後の冷害は、20年以後、28年から続き、特に31年は大正2年以来といわれる痛手から、牛馬を手放さざるを得なかったり、とくに畑作地帯では地元の救農事業に参加するより出稼ぎに出て、現実の生活を守っていくのが先決であった。

 31年の気象は全道的に、5月の気温は高く、旱魅も懸念されたが6月後半から9月まで気温が上がらず、病害虫に悩まされ凶作に至った。

 上富良野における凶作の状況は、「昭和三十一年の農作物の冷害を顧みて」(上富良野農業改良相談所)が気象の実態と農作物の生育経過について詳細に、4回にわたって報告した(発行人会田久左ヱ門『あゆみ』第32号昭32・1・15)。

 同報告によると、気象状況は、5月は最高気温が3度から5度も高く、20数年ぶりの高温、旱害を心配したほどであったが、6月は曇りがちで雨も降った。しかし6月後半に入り、昭和6年来の記録的低温が7月も続き、8月後半でも平均気温より5度も低い、昭和7年以来の低温となった。

 さて、作況では、畑作は一般的に水稲ほど、打撃を受けていない。秋播麦類は3割以上の減収、エンバク、春播麦類では収量は多い方に属し、亜麻は品質こそよくなかったが、増収し冷害年に強みを発揮。低温作物の馬鈴薯は、よく繁ったけれども曇天多雨により病害のため葉が早く枯れて減収。大豆、小豆は生育不振、病害から減収高が高く、なかには皆無に近いものもあった。

 こうした観察をもとに各農家を訪問し、激励し、農業技術を伝えてきたのは、改良普及相談所を本拠にしていた農業改良普及員たちで、反収競争の傾向のなかで、31年の冷害は肥料をやり過ぎたことが低温に打ち負かされた一つの原因で、農民の側、農協の肥料販売や、改良普及員の指導力不足も反省材料の一つと思われた。また、農林省や道農業試験場など関係機関にとっても、寒地農業のあり方や冷害恒久対策に本腰を入れる契機となった。

 なお、32年は上富良野開基六十周年で、町特産の醤油優良品がJISマークの利用品に推奨されたのは、地場産業の振興の成果であった。

 ところで、冷害の29年には、2月の寒波で、上富良野が上川管内でもっとも大きい被害を受けていた。カラマツ人工造林の樹幹の屈折、折損などの損害を出した農家も多かったという(『北海道新聞』昭29・3・11)。

 農業改良相談所は、24年に農業改良普及員として岩田賀平、片井義也、十河竹善の3人体制で発足し、同時に生活改良普及員が農家の生活改善をめざして、全道的には数名配置された。富良野地区へ生活改良普及員1名が着任したのは27年で、上富良野は37年まで不在であった。農業改良普及員の仕事の範囲は、生活改良普及員が配置されていない場合は、農家の生活改善や後継者育成の事業も含まれ、4Hクラブの指導や、生活改善運動を軌道に乗せるために、農家や農協などと協力した。

 

 女性たちの奮闘

 戦争中、女性たちは銃後を守り、男性に替わって生産を担った。町内の幾久屋商店でも、店主、番頭、若い店員は徴用でいなくなり、2人の女店員と子ども、店主の妻、義妹の女世帯であった(『かみふらの女性史』)。しかし、敗戦と同時に失業者が増加し、男性でも就職難となり、女性は仕事からはじき出されることになった。24年には戦死、戦災、引揚げなどによる未亡人は全国で約188万人にも達し、未亡人の窮状を国会で訴えるなど、翌25年に全国未亡人団体協議会が結成された。

 女性の功労は、「節婦」の表彰によって銃後の女性像が作り上げられ、節操の堅固な婦人が女性の鑑であった。上富良野では、27年4月10日の開拓記念行事に、節婦とともに、孝子(孝行な子)を各地区から1、2名、合計20名(孝子3名・節婦17名)を推挙した。節婦のほとんどが戦死戦病死を遂げた夫に代わって、稼業の農業に精を出し、老親の世話と子育ての最中であった。

 たとえば、東中第八から推薦された井上キクは、18年に夫が勇躍出征し、夫に替わって老母と幼児3人を抱えながら馬を追い、野良仕事に懸命であり、戦後も夫が生死不明のなかで、毎年供出の割当てを完納し、民生委員からの公的援助受給の勧めも辞して、地域でも積極的に活動する「男に勝るもの」が評価された。他に節婦として、林下フサ、山崎タケ、村上イワノ、石橋きくの、山岸きく、太田あき子、角波きくよ、健名マツノ、川上キク、伊藤かほる、中沢すげよ、西口トク、芳賀はまえ、細川イト、岡和田ヒロ子、石川チヨ、北村フジノが表彰された。

 また、母子世帯についての全国調査「母子世帯実態調査」が29年に実施されたが、上富良野の母子世帯は45世帯であった。

 こうした気運を背景に30年に上富良野母子会が結成された。母子会長として31年から運営、母子家庭の相談相手や会員の生活安定を図った植田スミは、42年度の優良母子家庭9人の1人として表彰されている。スミ自身は22年に軍隊での病気を起因に夫を失い、3児の母として、学校に幼い3男を連れて通勤し、雨天には教室に机を置いて居させたり、時にはグランドへ連れ出してくれた校長先生の援助も受けながら、上富良野中学校勤務を振り出しに27年間、教職にあった労働婦人でもあった(『かみふらの女性史』)。

 さらに、失業対策事業(失対事業)に出て働き、子育てをした女性たちもいた。失対事業は31年の冷害救済事業として、農家の冬季間の現金収入確保が目的であったが、翌32年には一般失業者も加わり、いわゆる「ニコヨン」、1日240円で働く日雇労働者であった。就労状況(年間延べ人数)は31年に4千人、31〜34年は9千人、35年には約1万人が、道路や水路の整備、砂利採取についた(36年『町勢要覧』)。

 失対事業が始まったばかりの32年から最後まで就労した吉田ハル(大正10年生まれ)は、夫の死後11歳を頭に5人の子らを抱え、3人の幼児を聞信寺の保育所に預け、他の未亡人仲間とともに働いた。春先の川に腰くらいまで入り、モモまで当たるゴム長をはきスコップで砂利をすくった。シバレルので、交替でカヤ小屋の中の焚火であぶった。1日女280円、男320円。39年に全日自労道地本上富良野支部(男5、女26)が結成されてからは、慣れない町長交渉を重ねて、小屋の暖房、ゴム長や作業衣の支給、子どもの給食費支給などを実現した(聞き取り平10・2・26)。

 失対事業は46年頃から冬季事業(砕石)を実施したが、労働者の高齢化に伴い、安全確保のために、63年3月31日をもって事業を閉じた。

 手職を持つ女性たちは、技術や文化の水準向上の時代の中で、固定観念の女性像に縛られずに自己研鑽に励む機会が広がり、『かみふらの女性史』にはこうした女性たちのあゆみが記されている。

 以下いくつかの職種をみたい。2、30年代は、産婆がベビーブームの出産を支え、病院出産が増えるまでは前節でみたような衛生指導なども果たしてきた。

 さらに、美容師の仕事をみると、髪結いと洋髪に大別された。庵本はつゑ(大正12年生まれ)の修業を振り返ると、師匠は昭和の初めに3人いた「女かみゆい」の一人、庵本タネエであり、母でもあった。はつゑは14歳から髪結い修業に入り、自毛(自分の髪)でマゲを結っていた時代であったので、仕事の手順は、フケ落としに始まり、下すき(すき櫛で)、癖直し(お湯で浸して手でもむ)であった。出髪(客の家に出張)が年末には多く、結婚式には前日から出向いて、夜通しの仕事となった。こうした経験に、洋髪修業もしながら花嫁姿を造り続けた。

 一方、洋髪はパーマネントウエーブを自由に楽しめる時代の到来で、上富良野の女性たちも引きつけた。大倉才子(大正14年生まれ)が、パーマネントを主とした美容室を上富良野で開いた21年には、富良野で2軒、旭川でも8軒くらいのもので、水質が悪いのと電力不足に苦労した。そして、技術を習得するためには、子育てにどうしても、近所の協力が必要であった。

 また、和裁、洋裁の分野も自分で作って着る、着せる時代、やっと自由に衣服でオシャレができる時がやってきた。戦後しばらくは布地の手に入りにくいなかでも、夜間には役場や郵便局、学校、農協などで働く若人、農閑期に農家の娘たちが若佐トミ(大正7年生まれ)や高松廸子(大正12年生まれ)、鈴木弥江子(大正5年生まれ)らを講師として和裁、洋裁の技術を習得した。

 

 写真 失対事業における砕石作業

  ※ 掲載省略

 

 女子農業労働者

 戦後の食糧増産と経済活動の活発化は、若年労働者の流動も生み出した。上富良野においても、近隣の芦別などの炭鉱や、増毛方面の鰊漁へ、田植までの短期就労に若い女性も出かけた。一方に地元、上富良野の農作業の人出不足を補うために、30年代を中心に道外から労働力を集団で受け入れるようになった。

 28年11月、農業経営に万全を期すために、農業労働者受入協議会(会長田中勝次郎)が上富良野農協と東中農協の窓口を一本化して発足。道外270名(内縁故210名)が公共職業安定所の指導によって、斡旋・賃金・雇用条件・失業保険手続き・慰労激励などを協議し、4月から11月頃まで雇い入れた。12月には協議会として町長らが秋田県、山形県の公共職業安定所へ出かけて、労働者の供給についての挨拶と次年度の要請を行った。

 出かけてくる労働者は、縁故つまり知合いの仲間や親子だったり、受け入れ農家からの信用もあって、上富良野に落ち着く人たちもいた。29年は沿線随一の受入数となった。

 就労者の楽しみは、祭りのほかに農業労働者受入協議会が主催する慰安行事であった。33年7月には、若い女性たち一行168名が、北海道博覧会へ日新・東中・市街の3箇所に待機した貸切バスに分乗して、小樽見学・札幌(道農倶楽部・道あみもの学校・帝国製麻寮に分宿)をめぐり、1泊の慰安旅行へ出かけた。また、34年には「鍬の戦士」と称されながら、層雲峡から赤岳そして旭川の花火大会を楽しんでいる。そして、8、9月頃に出身地山形県などから、公共職業安定所長や町長らが上富良野を訪れて、「娘さんたちの日々の生活状態を聞く懇談会」を開くこともあった(『町報かみふらの』昭33・9・10)。

 また、32年にアスパラガスの試作が上富良野で始まり、37年にデイジー食品株式会社上富良野工場などが操業すると、季節的な雇用をより必要とした。42年、女子工員は西ドイツへ輸出するアスパラ缶詰生産のため、150人にのぼった。

 

 写真 女子農業労働者の慰安行事(昭和33年道博見学旅行)

  ※ 掲載省略

 

 女性の政治参加

 女性の参政権、男女の同一労働同一賃金が保障されるようになった直接的なきっかけは、女性の解放をうたったGHQの五大改革であった。21年に婦人参政権が行使され、同年4月10日衆議院選挙では上富良野の有権者数(5,399名)のうち、女性は2,991名で男性を上回り、北海道からも2名の女性代議士が選出された。また、25年11月に北海道教育委員に選出された水島ヒサ(全国最高42万票、全国で女性19人当選)は、上富良野町の投票結果(総数4,392票)でも木呂子敏彦(1,942票)に次ぐ、1,226票であった。同時に行なわれた参議院選挙の投票率は前年の投票率を約20ポイント上回る83lであった(昭和25年「事務報告」)。

 女性の政治への目覚めは、平和運動や労働運動を通して育ち、女性のエネルギーは婦人運動としての広がりをみせていった。

 26年、日本はGHQ支配を脱してサンフランシスコ平和条約を結び、アメリカとの日米安全保障条約調印に至った。

 そして道民の関心に応えて、27年4月の両条約発効に先立ち、1月15日に『北海日日新聞』主催による「青年模擬国会」が札幌公民館で開催された。独立日本をどのように今後、開拓しようとするのか、既成政党に帰属しない模擬政党をつくり、北海道青年の気塊[きはく]をとらえるのが目的であった。「青年模擬国会」本会議に全道各地から応募して参集した模擬議員は、与党(国民青年党46名)と野党(独立青年党38名)に分かれ、模擬内閣(山口喜久一郎首相ほか)との論戦となった。

 女性はただ一人、上富良野から応募した役場職員の西口千代子が参加。「独立青年党」所属の立場から、模擬労働厚生大臣の正木清が提案した、戦争犠牲者救護に関する法律案に対して「戦争犠牲者への医療の徹底や住宅対策、そして引揚者の補償に在外資産の返還が含まれているのかどうか」の質問に立ち、大臣答弁と、他の議員の賛成意見が出された後に、議案は賛成多数で可決した。10代から60代の傍聴者がおしかけ、ヤジもあって関心が高かった(『北海日日新聞』昭27・1・15、16)。出席した西口千代子は、やがて平成3年、初めての女性町議会議員に選出された。

 

 写真 初めての女性町議・倉本(西口)千代子

  ※ 掲載省略