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6章 戦後の上富良野 第7節 戦後復興と社会

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2、警察と消防

 

 民主警察の誕生と非警察部門の分離

 敗戦と同時に、従来の軍国主義の方策を一変して、「平和復興」のために新しい日本の建設が各分野で始まった(昭和20年上富良野村『事務報告』)。

 従来の警察、消防の役割は、連合国軍総司令部の占領政策の非軍事化、民主化の改革に沿って整理改変され、所管事務の移管が急速に行なわれた。国民の権利と自由を大幅に制限した、と認められる警察法規は21年頃までに廃止された。22年には保健所法・食品衛生法の施行により宿屋・浴場・飲食店の営業許可事務、そして交通、労働、建築などの行政警察の分掌が縮小され、各地方自治体の非警察部門に移った。婦人警官が導入され、犯罪など緊急用の電話(110番)を設置して、警察の新たな出発を図った。

 さらに、22年12月公布の消防組織法が、23年3月7日に警察法と同時に施行された。ここに、警察から分離独立した消防業務が国家消防から自治体消防へ、警察も民主警察への再編を図ることになった。

 警察法による警察制度改革によって、北海道の警察組織は大きく2つに分けられ、自治体警察(人口5,000人以上、ただし中心市街地の連担戸数が全体の35l以上を占めるなどの条件にある都市と町に設置)と管轄区域に含まれる国家地方警察(自治体警察以外の町村)である。自治体警察署は78、国家地方警察署は35(町村では1町196村)となった。国家地方警察の占める割合は人口の38l、面積は67lと広く管轄していた。しかし、新制度が発足した翌24年には警察制度の改正が持ち上がり、主に自治体の財政難から、道内の町村でも自治体警察署の存続問題で四苦八苦する状態となった。29年6月の警察法改正により翌7月1日には、本道の警察体制は、北海道警察本部のもとで自治体警察と国家地方警察は統合されることになった(『北海道警察史』)。

 

 上富良野の警察

 戦後の混乱期に上富良野の治安・警察を担当したのは、上富良野駐在巡査部長1名(市街)、上富良野駐在巡査3名(市街1、東中1、草分1)であった(昭和21年『村勢概要』)。

 23年の新警察体制による道内の警察は、国家地方警察北海道本部の下で旭川など5つの方面本部が設置され、旭川方面本部に富良野地区署など8つの地区が置かれた。旭川管内の自治体署は旭川市警察署など14署である。上富良野は、国家地方警察管轄の富良野地区署区域に入ることになった。上富良野の警察は、富良野地区警察署上富良野巡査部長派出所、富良野地区警察署上富良野巡査駐在所、富良野地区警察署東中巡査駐在所、となった(昭和25年『村勢要覧』)。

 なお、上富良野では新警察体制にあたり、「警察派出所」の増改築のために6万円の予算を23年8月30日の議会で可決して体制を整えた(『昭和23年村議会の発案綴』)。また、上富良野巡査部長派出所に自動二輪車が配備されたのは、29年である。

 やがて、自衛隊が駐屯するようになると、風俗営業などに伴う犯罪が急増し、町の「陳情」などもあって、35年4月1日に上富良野巡査部長派出所と上富良野巡査駐在所を廃して、集合勤務とし、昇格した上富良野警部補派出所が置かれた。そして、同年9月から中富良野巡査部長派出所と巡査駐在所が監督区域に入った。さらに、37年9月から、東中巡査駐在所も上富良野警部派出所に集合勤務となった(『上富良野町史』)。

 

 表6−35 刑法犯の発生件数

件名

32年

33年

34年

35年

36年7月末

窃盗

122

121

153

100

25

詐欺

38

28

13

12

3

横領

6

4

6

1

 

強盗

2

2

1

 

 

強姦

1

3

 

1

 

傷害

10

11

19

2

2

暴行

5

2

5

8

2

恐喝

 

6

8

6

 

住居侵入

2

3

1

1

 

失火

4

3

7

3

2

交通事故

4

6

13

4

 

その他

12

4

2

4

3

合計

206

193

228

142

37

   (1961年版『町勢要覧』)

 

 写真 昭和30年頃の上富良野部長派出所

  ※ 掲載省略

 

 警察協力団体

 社会情勢の混乱から各種の犯罪が全国的に増加していたが、上富良野では上富良野村防犯協力会を21年11月に創立し、会長に田中勝次郎など歴代首長が就任、副会長のほか13名の理事と監事1名をおいた。22年10月には「全国凶悪犯罪掃蕩強調の月」が設定されるなど、防犯警戒を強めた。

 防犯協力会の活動では、41年5月8日総会において、「少年の非行化防止」「暴力の排除」の2点に重点をおき、「街を明るくする運動」として防犯灯増設運動、「少年の補導育成運動」を毎月5日に実施、「愛の一声運動」、春夏秋、歳末や祭典などに定期的防犯運動、優良防犯器具の斡旋などを計画し、活動した。

 また、自動車の普及に伴う自動車事故の増加はうなぎ昇りで、28年の全道の発生件数は22年の7倍(約2,500件)で、前年の倍以上に加速した発生状況は全国最悪となっていた(『北海道年鑑』1955年)。

 上富良野においては、自動車の普及と自衛隊関係の車両の増加に対処して、30年11月には上富良野交通安全協会を設立し、支部長(山本逸太郎)・副支部長を置いた。そして、町内の交通安全対策として上富良野町交通安全道民運動推進協議会を組織し、会長に町長が就いた。

 36年の上富良野の車輌は、20人に1台、3戸に1台の割合で普及し、交通安全は、町民みんなの願いであった。同年7月に開催された交通安全講習会で、警部補派出所から、自転車とバイク事故が圧倒的に多いこと、運転者側の注意とともに歩行者や自転車の注意を促した。

 さらに、40年代に入ると、「交通三悪追放」が叫ばれ、スピード違反、無免許運転、酒酔い運転を戒めた。41年10月には、「歩行者事故の絶滅」を統一重点目標に、秋の交通安全道民総ぐるみ運動を展開。翌11月に富良野署管内で交通事故29件・死者4人に達し、富良野署は41年の最大限事故数を60件、死者4人止まりの目標にしていたので、緊急体制に入り、上富良野警部補派出所長警部補(三宮秀義)の呼びかけで、「横断歩道での安全確認、自転車の二人乗りと無灯火、交通事故での被害者保護と事故処理上の加害者保護」を発した。ひきつづく交通災害は「交通戦争」と言われるほど、人命をおびやかすものとなった。

 

 消防組織の改組

 昭和20年8月15日の戦争終結をもって、戦時の防空、災害・消防の警防をになってきた警防団は、21年1月の勅令第62号によって、当面、消防業務を遂行することになった。上富良野警防団は、21年9月19日改組され、消防部のみとなり、消防第一部(東中)、消防第二部(東中以外全部)の組織、装備として自動車ポンプ各1台を有した(昭和21年『村勢要覧』)。

 やがて、22年12月に消防組織法や翌年2月に消防団令が公布されて、警防団は廃止され、消防団が地方自治の精神に則って地方自治体直属の防災機関として位置付けられた。郷土愛護の精神と社会の安全のために、各市町村議会が条例で任意で定めることになった。なお、消防責任の免除を意味するのではなく、自治体の状況に応じた設立を旨とした。

 さらに、23年3月7日に警察法などが施行され、消防業務は警察から分離して、自治体消防が誕生した。

 

 自治体消防の発足

 23年3月以降、自治体消防として各市町村責任で運営管理することになり、道としても各市町村の消防力の強化に務め、26年には、自治体消防の強化促進・予防消防の推進・消防組織の整備強化と士気の高揚・消防教養の向上・災害救助態勢の強化の五項目を重点とした。さらに、消防施設基準を国家消防庁の基準に準じて設定し、3年計画で整備改善することを町村に勧奨した。消防施設のなかでも貯水槽や用水路などの水利施設の不備を増強するために、道費補助が上川管内では7町村(上富良野は12万円)に交付された。そして、消防振興審議会を設置し、北海道消防技能競技大会を開催する一方、予防消防として、火災予防週間には防火ポスターやリーフを配布し、防火写真の懸賞募集なども始まった(昭和26年度『北海道行政年鑑』)。

 上富良野の消防体制は『上富良野町史』(昭42年刊)によれば、上富良野村消防団設置条例が設定されたのは22年7月7日で、上富良野村消防団員定員条例、上富良野村消防団員給与条例、上富良野村消防団員服務規程も同時に設定したと記載され、上富良野村消防団関連条例については、組合消防設立記念誌『纏』上川南部消防事務組合(昭46年刊)も前書と同様の記述年代である。

 しかし、国の消防団令が23年2月24日公布、3月7日政令により適用され、その後に団員の定員や給与、服務規程などが各町村議会で定められた。上富良野では消防団関連の条例が消防団条例に先立って制定されたことになり、原資料の発掘によって、確認せねばならない事項である。

 『昭和二十三年村議会の発案綴』によると上富良野村消防団は、23年12月22日の村議会に提案、可決、施行された上富良野村消防団条例によって、創設された。同条例には消防団の構成が定められ、消防団は総数300名で、構成は団長1名、副団長2名、部長4名、副部長1名、班長37名、副班長3名、その他の団員252名とした。また、消防団長以下、各団員の労働条件である出場手当、訓練手当、警戒手当、装術手当、被服手当、賄手当、臨時手当、そして旅費や退職手当などが定められた。次は組織表である。

 

 〔23年上富良野村消防団構成人員表〕

 

 

 

 

 

 

班長三名

 

・団員

 

 

 

 

第一消防部長

 

副班長三名

 

・団員

 

 

 

 

(上富良野)

 

 

 

 

 

 

副団長

 

第二消防部長

 

班長二名

 

・団員

団長

 

(上富良野)

 

(東中)

 

 

 

 

 

 

副団長

 

火災予防部長

 

班長三〇名

 

・団員

 

 

(東中)

 

火災予防副部長

 

役場出張所の区域毎に一班

 

・団員

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

庶務部長

 

班長(庶務)一名

 

・団員

 

 

 

 

 

 

班長(救護)一名

 

・団員

   *団員は、班長が各実行細合の区域に組を設け、二名程度おく*(『昭和二十三年村議会の発案綴』)

 

 また、26年1月20日には、東中消防団(副団長松浦義雄)の装備の充実を訴えた「請願書」が、上富良野村議会議長(海江田武信)へ提出された(昭和二十六年『町議会』)。請願書によると、戦前に購入した消防自動車の能力性能は、すでに「一朝事あらば誠に心細き限り」で、東中住民の「信頼は事毎に薄れ」、団員は車の整備をいとわずに「血汗の努力」を傾けていても今後、損失をもたらすことにもなりかねなかった。東中消防団の請願は同年10月24日に実現して、消防ポンプ車(型式「ニッサン」五一型消防車、シャーシ3b20、構造「東京市原式ポンプ最高擬装」価格約190万円)の購入が決定した。

 さらに、東中には中学校、小学校その他の建物が「冷汗三斗の感」がするほどの立て込みで、火防用水の設置が急がれていた。

 水利施設の道費補助12万円が、上富良野へ助成された年である。

 

 上富良野町消防団の充実

 町制施行により上富良野村消防団から改称した上富良野町消防団は、35年4月1日上富良野町消防本部設置条例と上富良野町消防団条例によって機構改革を行い、消防長の下に司令長と団長を置いた(組合消防設立記念誌『纏』)。

 

 〔三十五年上富良野町消防団の機構改革〕

  消防長−司令長−司令−司令補−士長−消防士

     −団長−副団長−第一分団長−部長−班長−団員

            −第二分団長−部長−班長−団員

 

 36年10月28日に上富良野町消防団創設五十周年記念式典が開催された。上富良野を開墾し、明治44年に村民が私財をもって私設消防組を創設して以来、半世紀をむかえた。来賓、消防関係者など400名が、上富良野中学校体育館に集い、各表彰(創設特別功労者、歴代組頭・団長・消防長、消防後援会役員特別功労者、元消防組永年勤続功労者、消防功労者、現消防団員永年勤続者、消防協力団体)を行なった(『上富良野消防のあゆみ』上富良野消防団七〇周年記念誌)。

 消防の任務は、社会生活の変化とともに広がり、交通事故などに対処する救急業務が必須となった。上富良野では傷病者の急増により、日赤北海道支部上川地区から救急車1台の貸与を受けて、救急業務を開始した。これは38年に救急業務を法制化した消防法の改正に先立つものであった。

 救急車の利用について、41年の『町報かみふらの』は、災害(防災基本法・消防法・水防法による傷病)、交通事故・緊急やむを得ない場合の傷病輸送要請、医師・設備・血液・消防などにかかわる緊急やむを得ない場合の輸送、出動要請に限られ、出動経費は一切無料と報じ、町民の緊急時の利用が増していることをうかがわせる(昭41・9・20)。

 また、無線施設の整備がすすみ、38年11月28日に基地局10h・移動局5h、携帯局1hの各1基を開設し、44年には消防無線網整備の大綱「消防無線増強五カ年計画」をたてた。これにより、山間部での交信も容易になった。

 さらに、41年12月15日には、2.5dの水が入る水槽と簡単な化学消火設備も設置された新鋭タンク消防車が配備され、愛称は上富良野小学校4年1組の生徒一同が考えた「飛龍(ひりゅう)」と命名された。

 

 写真 旧上富良野町消防本部庁舎

  ※ 掲載省略

 

 上富良野町消防の3分団化

 上富良野町消防規則の改正によって、42年1月1日から3分団、定員55名に編成され、町総合庁舎(消防)の完成前に実施された。事務局を上富良野町消防本部内に置いた。第一分団を商工会館内に置き、第二分団を東中、消防本部を直轄分遣所として第三分団とした。この頃、上富良野町山岳救助警備隊や少年消防クラブが結成され、消防の活動範囲が拡大した。

 

 〔42年上富良野町消防の機構改革〕

  第一分団 中央分遣所(中央区五の三)−岡田分団長以下19名

   管轄<中央区・北栄区・新栄町・三光町・江花・江幌・静修・草分・里仁>

  第二分団 東中分遣所(東中8線18号)−柿原分団長以下16名

   管轄<東中・富原・島津の一部>

  第三分団 消防本部直轄分遣所(南区)−松浦分団長以下17名

   管轄<西富区・両区・新日の出・日の出・島津・旭野・日新・清富>

 

 消防の予防活動

 消防の予防活動は、上富良野町議会が26年12月11日可決した火災予防条例と危険物取締条例にもとづいて出発し、次のような内容であった。なお、第2節の「器具及び設備」には、ストーブ、かまど、ボイラー、電気器具類、煙突などの順に、防火の注意事項が細部にわたっている。

 

   二十六年 上富良野の火災予防条例

 第一章 総則

 第二章 火災予防

  第一節 建築物及び物件  第二節 器具及び設備

  第三節 電気設備及び避電設備

  第四節 火気使用上の制限及び防火上の管理

 第三章 消防設備

  第一節 通則  第二節 消火設備  第三節 警報設備  第四節 避難設備

  第五節 消防管理

 第四章 火災の警戒

 第五章 雑則

  付則

 

 さらに、30年に、市街地(一の二)に防火用マンホール・消火栓が設置されていないのは、公共建物、住宅、神社などで、重要なので「遺憾」であるという陳情が提出された。陳情は、「二十三号道路の水田用水溝」が既に減流となり、都市計画に基づく町の発展にとっても必要なことから、11月18日に条件付き採択となった。その後も消防の水利は、充分ではなく、とくに水利確保のため、冬季には道路などの除雪に町民は注意をはらった。41年頃は、消火栓、井戸のほか、自然水利(北25号、通学どおり)が消火に利用された。各家庭には「家庭の消防士、一戸に一消火器を」と呼び掛けられ、1戸に1消火器の設置が望まれた。

 また、大がかりな全国火薬類利用実験大会が41年9月22日から4日間、自衛隊上富良野演習場で開催され、目的は「保安上の実験、軍事目的ではない」、通産省によるロケット推進火薬、雷管類、プロパンガスなどの爆発実験によって、火薬の取締基準、技術基準など、これらの火薬系災害対策資料とするもので、約250人の学者が参加した。

 町民の消防への関心がしだいに増し、42年10月秋の火災予防運動では、「一日婦人消防官」を実施した。消防官の制服着用、勤務交代、特別点検、自衛隊隊舎の消防用設備、町立保育所園児の避難訓練を見学。「一日婦人消防官」の消防座談会も開催した。

 参加者は広く各界からつのっている。一日消防長岡田妃佐子(上富良野小学校教諭)、一日消防団長前田富子(自衛隊駐屯地消防隊長夫人)、一日消防官丸藤孝子(上富良野郵便局)・佐藤睦子(東中農協)・新井悦美子(拓殖銀行)・有本節子(呉服店)・高橋靖子(東中農協)・黒川由紀子(自衛隊警備幹部夫人)・佐藤尚子(役場)・辻利子(上富良野農協)。

 また、42年には、火災発生の主な原因(タバコの不始末子どもの火あそび)に加えて、一般家庭の天井が低く火災を起こしやすいので、輻射熱を隔てるため天井と煙突の間に遮断板[しゃねつばん]を設置することを義務づけた。プロパンガスによる人身事故も目立ち、取り扱いが注意された。そして、消防用の設備(スプリンクラー、自動火災報知設備、消火器など)の工事や整備は消防整備士の有資格者でなければできなくなり、専門知識を必要とするようになった。

 

 24年の第八町内大火

 戦後北海道の年間火災件数は、戦前の約800件を上回って千数百件に達し、人々の戦時の緊張がゆるむとともに火災が頻発し、学校火災も目立った(『北海道年鑑』1949年版)。また、戦後5年間における、火災件数(6,758件)全体の約36lが、ストーブ類からの出火で、逐年6lずつの増加をみせた。26年11月20日には北海道火気取締条例を公布して、ストーブその他の暖厨房設備による火災発生を防ぐことになった(昭和二十六年度『北海道行政年鑑』北海道)。

 上富良野における24年6月10日の市街地第八町内大火は、同年5月の古平町大火(721戸)や夕張町大火(210戸)に並ぶ、全道的な火災として『北海道の消防』や『新北海道史』(年表第9巻)などにも、記録されてきた。

 第八町内大火は、『昭和二十四年六月十日火災復興対策関係書』(上富良野村)によれば、出火時間は6月10日午後4時15分、消火日時は6月10日午後7時30分、損害額(概算)1億8,500万円であり、消失戸数と世帯数は次のようである。

 

  ◎焼失建物 112棟 2,193坪

   個人住宅 88棟(物置を含む)  858坪

   倉庫工場 24棟      1,335坪

     個人経営  10棟 278坪

     農業協同組合 3棟 723坪

     農機工場   1棟 334坪

  ◎罹災者  48世帯 206名

 

 出火の原因は不明であるが、西南南位の風速15bから20bの強風で、第八町内の大通り北六丁目付近から出火して、火は見る見る広がった。罹災者の大半は商工業者で、農業協同組合の産業施設で営業していたので、さっそくの営業開始がなければ、生活に困窮する状況であった(「陳情書」上富良野村昭24・6・18)。ただし、火元は「陳情書」では民家とあるが、「上富良野村市街地火災要図」や新聞報道によれば「分部木工場付近」(『北海道新聞』昭24・6・11、『毎日新聞』昭24・6・12)となっている。『北海道新聞』には写真が掲載され、町内の空をも焦がす火の勢いを伝えている。

 なお、社会の基盤整備が、まだ不十分な時期であったことから、6月10日は「電休日」のためサイレンを吹鳴できず、警鐘や「口達」で、生業中の全消防団員に連絡した。このことが、『毎日新聞』紙上に「消防不在中」の見出しが出た要因であって、町長名で「新聞掲載記事の取消」を依頼した。さらに、出動車両の燃料を返済するために「火災に依る自動車用石油製品の特配申請」を旭川道路運送監理事務所へ出した。燃料を保有していないので、農業協同組合や守田機械修理工場から石油を借用して消火にあたった。

 出動車両は7台(上富良野村3、中富良野村1、富良野町1、美瑛町1)。

 

 事故防止

 消防の役割には、災害救助体制の強化が重要な一つとなっていた。

 上富良野消防のあゆみ『纏』(昭57)によれば、米軍機が上富良野村基線北27号に不時着したので、21年7月13日に消防員は警備にあたっている。

 また、戦後は若い労働者が戸外でやっと楽しめる時代になり、上富良野消防も遭難事故の救助に遭遇することになった。24年7月1日に十勝岳を登山した芦別三井鉱業所の一行120名のうち7名(男4名・女3名)が、一時は「遭難」と大々的に4日から各新聞に報道されたが、6日には全員無事で新得へ下山した。

 上富良野では遭難救助のために、消防団、村役場吏員ら25名の救助隊を編成して、3日午前3時からガスによる濃霧で困難をきわめるなか、三井登山隊救助隊と一緒になって捜査した(『北海道新聞』昭24・7・4)。

 なお、十勝岳遭難防止の指導標の設置は関連機関の協力によって、行なわれてきたが、36年度には、7月21日早朝から十勝岳に登山して、指導標設置の作業を開始し、町内の単位青年団から1名、富良野署および派出所、営林署、自衛隊、山岳会、観光協会、消防団、町役場などから参加した約60名で行なわれた。

 

 主な災害

36年7月の集中豪雨災害

 36年の豪雨や台風災害は、道災害消防課調べによると、4件あり、なかでも7月集中豪雨災害は10月豪雨災害とともに災害救助法が発動されるほどの被害を続出した災害であった。

 7月24日午前10時過ぎから降り出した雨は、25日午後からしだいに雨勢を増加。上川管内では富良野沿線3ヵ町村がもっとも甚大の被害で集中豪雨被災地となった。有線放送は不通、ベベルイ川・ヌッカクシフラヌイ川・富良野川・テボツナイ川そしてエホロカンべツ川に橋梁被害が集中。上富良野と中富良野間の富良野川鉄橋流失、列車のマヒ運行は26日朝一番列車から翌朝9時まで続き「十勝岳爆発以来」といわれた。上富良野変電所浸水の水かさが増し、26日午前4時頃から正午過ぎまで送電不能であった。緊急避難した200名に中央婦人会・東中婦人会などが炊き出しをした。

 被害は、住宅(全半壊5戸、床上浸水261戸、床下浸水713戸)、田(流失埋没74町・冠水920町)、畑(流失埋没240町・冠水1,510町)、公共施設(道路決壊46カ所・橋梁流失16カ所・橋梁大破13カ所・農道橋梁流失10カ所・堤防決壊18カ所)。総被害額は約2億6,500万円(『町報かみふらの』第35号昭36・7・28)。

 町は水防対策会議をひらき、警戒態勢に入り、26日緊急町議会を開催。28日上富良野町水害対策本部を設置、本部長、副本部長以下調査広報班、救助衛生班、建設復旧班、農政班、対策会議に分担復旧にあたった。郵便ハガキを無料交付して、被災者の音信の伝達を助け、被災地に伝染病の発生を防ぐ薬剤散布、8月には無料診療を実施した。

 

 写真 昭和36年の集中豪雨災害

  ※ 掲載省略

 

41年8月の集中豪雨

 41年8月17日から20日まで、「天が裂けた」かのような集中豪雨であった。降雨量は上富良野で20日114_に達した。

 町は洪水警報のサイレンを吹鳴、災害対策本部設置。堤防決壊により、日の出地区や市街地(あかしや町・公園町)の住宅が水没、被災者は救命ボートに助けを求めたり、氾濫した泥水に浸かりながら脱出した。

 その被害は、浸水(床上340戸・床下1,200戸)、田(流失埋没61f・冠水333f)、畑(流失埋没341f・冠水333f)、農業用施設(76カ所)、道路(36カ所)、橋梁(18カ所)、水道(簡易水道)破壊、山くずれ(10カ所)。被害額は約6億円と、36年の2倍以上の額となった。

 緊急支援が寄せられ、日赤からは救援物資(毛布40枚・塩340個・日用品セット34個・酢450ケ)が到着。緊急災害支援に自衛隊員1,532人、支援ジープ・トラック86台、給水車14台と100台の車輌が出動した。

 復旧工事は、10月早々から始まった。道路災害復旧工事(10ヵ所966万1,000円)、橋梁災害復旧工事(7ヵ所2,116万9,000円)、河川災害復旧工事(18ヵ所2,519万9,000円)、合計(35ヵ所)の金額は5,602万7,000円となった。

 また、霜害予防予報通報として、41年9月から、サイレンを1分間吹鳴、警鐘は●−●−●をくりかえすなど取り決め、役場、農協、土地改良区、普及所などの職員全員がサイレンと同時に、くん煙と予防督励の体制に入った。

 

 写真 昭和41年の集中豪雨災害

  ※ 掲載省略