第6章 戦後の上富良野 第6節 戦後の教育
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7、社会教育の充実
青年団の再編成にむけて
戦争末期に各地区の青年団を統合して結成された青少年学徒隊は、終戦とともに解散され、その後再び各地区で青年団を結成する気運がおこってきた。もちろん各地区の青年団は、学徒隊への統合後もそれぞれ個々の活動を行っていたが、戦後は国家総動員の下部組織的な色彩から脱却した「郷土色豊カ」な新団体の結成が望まれたのである(「昭和二十年村事務概況報告」『昭和二一年村議会』役場蔵)。たとえば島津では、昭和20年10月15日の常会で既に「島津青年団結成」が議題にのぼっており、おそらく他の地区でも学徒隊解散とともに青年団の再結成に取り組み始めたとみられる。一方「上富良野連合青年団」に関しても、同年10月11日の青少年学徒隊幹部会議において、「青少年学徒隊の解散式」とともに「青年団結成ヲ協議」したと記録にあり(『昭和拾三年度会議録・島津青年団』島津ふれあいセンター蔵)、このころから結成にむけての動きがあったとみられ、21年5月1日には結成式が挙行された(『五十年の歩み』)。初代団長は和田松ヱ門であった。
単位青年団の結成
では各地区の青年団はそれぞれいつごろ結成されたのだろうか。『昭和二二年村議会』には、昭和22年10月1日現在の各地区の青年団の結成年月日、団員数、団長名、副団長名、集会場所、常会日、機関誌名が記されている(表6−28)。それによると、当時上富良野には、青年団、女子青年団合わせて18の団体があり、団員数は1,541名、その内訳は男子793名、女子748名であった。またどの青年団も、昭和20年から22年のうちに結成されている。特に22年に結成された団体は、すべて男女の連合青年団であることから、20年から21年にかけて、各青年団、女子青年団が結成され、21年から22年に男女の連合が進んだとみられる。またその後、昭和24年11月に東中で青年団と女子青年団が合同し、静修青年団と江幌青年団が同37年4月合併して共栄青年団を組織した。里仁、中央、日の出、富原の青年団と女子青年団がいつごろ合同したかは、いまのところ不明である。また戦後は各団とも入退団が個人の自由となり、加入の年齢制限もなくなった。
表6−28 単位青年団一覧表(昭和22年10月1日現在)
団名 |
結成年月日 |
団員数 |
団長 |
副団長 |
集会場所・常会日 |
機関誌名・頻度 |
里仁青年団 |
昭20・10・1 |
32 |
桜木梅平 |
菅野稔 |
青年倶楽部 不定 |
なし |
里仁女子青年団 |
昭20・4・3 |
37 |
長谷川愛子 |
菅野峰子 |
青年倶楽部 不定 |
なし |
清富男女連合青年団 |
昭22・7・20 |
60(男29女31) |
佐藤常雄 |
対馬武 河村春治 前原キサヱ 原田末子 |
小学校 15日 |
なし |
日新青年団 |
昭21・11・3 |
69(男35女34) |
佐川登 |
佐川邦夫 伊藤和子 |
青年会館 5日 |
『団報』・年3回 |
草分連合青年団 |
昭22・6・23 |
155(男77女78) |
広川利之 |
四釜秀次郎 一色光子 |
向上館 15日 |
『若き歩み』・年6回 |
静修青年団 |
昭22・6・30 |
60(男30女30) |
佐藤公 |
海老名庄吉 岡本雪子 |
倶楽部 15日 |
『曙』・月1回 |
江幌青年団 |
昭22・7・30 |
86(男46女40) |
加藤幸助 |
中山繁 佐藤英子 |
青年倶楽部 10日 |
『江幌の友』・月1回 |
中央青年会 |
昭21・11・15 |
85 |
温泉国一 |
鈴木正敏 今井弘 |
公会堂 不定 |
『中央青年』・月1回 |
白菊会 |
昭21・12・15 |
80 |
山口登美子 |
井上ミツ |
公会堂 5日 |
『白菊』・月1回 |
江花男女青年団 |
昭22・7・15 |
126(男71女55) |
中田正 |
新屋敏夫 石川泰子 |
青年倶楽部 5日 |
なし |
島津青年団 |
昭22・4・3 |
139(男86女53) |
北野源次 |
藤沢直幸 野原雪子 |
青年会館 不定 |
『団報』・年4回 |
日の出青年会 |
昭21 |
65 |
和田末吉 |
岡和田繁 |
青年倶楽部 15日 |
『青雲』・年4回 |
日の出女子青年団 |
昭21・5・1 |
58 |
西山ヨシ子 |
橋本ミツ子 |
青年倶楽部 8日 |
『青雲』・年4回 |
旭野連合青年団 |
昭22・5・3 |
109(男62女47) |
加藤清 |
後藤敬造 道井敬子 |
小学校 10日 |
なし |
富原青年団 |
昭21・4・1 |
45 |
早川寛 |
炭田照蔵 庭田大吉 |
青年倶楽部 上旬 |
『団報』・年2回 |
富原女子青年団 |
昭21・5・1 |
55 |
村上義子 |
佐藤末子 |
青年倶楽部 未定 |
『団報』 |
東中青年団 |
昭21・4・1 |
130 |
小野重雄 |
岡崎栄松 床鍋昭夫 |
青年会館 15日 |
『団報』・年2回 |
東中女子青年団 |
昭21・4・1 |
150 |
北田愛子 |
種田八重子 佐藤武子 |
青年会館 5日 |
『団報』・年2回 |
『昭和22年村議会』より作成
単位青年団の機構と活動
一方各団の機構は、細かい相違はあるものの、おおむね修養部、文化部、体育部、産業部、家政部などからなっている(『上富良野町史』、『五十年の歩み』)。また各種事業も昭和20年代には戦前から行っていたものが復活し、また新しい取り組みも始まった。
具体的には、地域の小学校の運動会参加やグランド造成、祭典の応援、神社清掃などの奉仕活動のほか、夜学会や旭川近辺への社会見学や十勝岳登山、一夜研修会、弁論大会、他の青年団との交歓会などの修養事業、機関誌の発行やレクリエーション大会、演芸会や芸能発表会の開催、団の資金調達をかねた映画会の開催などの文化事業、陸上競技記録会や球技大会の開催などのスポーツ事業、堆肥の増産や作物品種の研究、農事講習会や農業簿記の記入学習、山林管理などの産業事業、料理や美容着付、礼儀作法、生け花などの講習会を開催する家政事業などで、団内で青年文庫の設置や俳句や短歌の同好会、音楽鑑賞など趣味の交流もあった。
特に弁論大会や陸上競技記録会は、連合青年団が結成された昭和21年には始められ、まず各青年団内で開催して優秀なものが選抜され、団の代表として連合青年団が開催する大会に出場することになっていた(『五十年の歩み』)。ちなみに陸上競技記録会は、昭和38年に連合青年団と青少年クラブが合併して青少年団体協議会が結成された後も、毎年実施されている。連合青年団が主催する行事には、ほかに演芸会や相撲大会などがあった(『昭和拾三年度会議録・島津青年団』)が、その他の事業として連合青年団全体で町内の作業に参加する場合もあった。たとえば昭和22年10月26日から31日の間には、上富良野小学校のグランド拡張工事に参加し、それぞれの単位青年団・女子青年団から人員を動員し、連日160〜190名が伐採作業や地ならしに従事した(『昭和二二年村議会』)。
写真 東中青年団の生け花講習会(昭和36年)
※ 掲載省略
酪農学校と青年学級
青年学校は新学制の施行により昭和23年に廃止された。しかしその直前までは基本的に機能していたとみられ、上富良野でも20年には男子546名、女子512名(『昭和二一年村議会』)、21年には男子557名、女子484名といずれも1,000名を超える生徒が在籍していた(『昭和二二年村議会』)。一方青年学校の廃止にともない、新たな勤労青年の学習の場が望まれ、上富良野では23年に富良野高等学校上富良野分校が開校したが、同校が定時制普通科だったことから、上富良野の農業振興、特に酪農振興にかかわる教育の重要性が認識され、27年11月8日上富良野高等酷農学校が開校した。同校は酪農についての通信教育と実地の教育指導を目的に設置され、本校は上富良野町公民館に置かれた。また各地区の小学校や公民館分館に分校が置かれ、それぞれで学習会が行われた(『昭和二十七年度会議録』)。しかし同校は、その後昭和30年に廃校となったという(『開校二十年』)。
一方昭和28年8月14日には「青年学級振興法」が公布され、青年学級に国庫からの補助が支出されることになった(『新北海道史』第6巻通説5)ことから、上富良野でも同法に基づいて青年学級が開設された。開設当時の各青年学級の開設日時、開設期間、開設場所、学習時間、学生数、申請代表者、青年学級主事は(表6−29)の通りである。また昭和31年には上富良野公民館の青年学級、旭野の青年学級も開設され、36年には一時中断していた里仁でも青年学級が再開された。昭和30年代にはどの青年学級もコンスタントに約30〜70名の生徒を集め、200時間以上にのぼる学習時間をこなしていた。
表6−29 青年学級表
学級名 |
開設月日 |
開設期間 |
開設場所 |
学習 時間 |
学習生 数 人 |
申請代表者 |
青年学級 主事名 |
東中 |
昭29・4・1 |
昭29・4・1〜30・3・31 |
東中小学校 |
108時間 |
40 |
南 俊一 |
矢田部文六 |
草分 |
昭29・1・10 |
昭29・1・10〜30・1・9 |
創成小学校 |
175時間 |
31 |
田中 徹 |
早坂正一 |
江幌 |
昭29・4・2O |
昭29・4・20〜30・4・19 |
江幌小学校 |
120時間 |
50 |
包子義昭 |
奥田房三 |
江花 |
昭29・1・10 |
昭29・1・10〜30・1・9 |
江花小学校 |
120時間 |
50 |
樋口六七男 |
菊地政美 |
里仁 |
昭28・9・1 |
昭28・9・1〜30・3・31 |
里仁小学校 |
171時間 |
38 |
後藤政人 |
田中権吉 |
日新 |
昭29・4・1 |
昭29・4・1〜30・3・31 |
日新小学校 |
200時間 |
41 |
白井広行 |
鈴木 信 |
清富 |
昭29・4・1 |
昭29・4・1〜30・3・31 |
清富小学校 |
120時間 |
50 |
対馬清太郎 |
森崎由次 |
『昭和28年度教育委員会々議録』により作成
婦人会の結成
『昭和二二年村議会』の「昭和二十一年総務事務」によると、昭和21年上富良野において「婦人会は未だ結成を見ず、男女同権婦人参政権を叫ばれてゐる折、早急、会の結成が熱望されてゐる」とあり、青年団に比べて婦人会結成への動きはやや遅かったとみられる。しかし昭和21年1月8日に日新婦人会、23年に旭野婦人会、同年1月20日に江幌婦人会、2月10日に江花婦人会、3月3日に草分婦人会、3月5日に里仁婦人会、翌24年3月5日に清富婦人会が結成されており(『上富良野町史』)、昭和23年の「村役場事務報告」でも、「婦人層の時代認識と、家庭に於ける地位向上に努力を払ひ、現在にては市街を除き各学校単位に結成済み」とある(『昭和二十四年議決報告』)ことから、少なくとも23年頃には各地区で婦人会結成の気運が盛り上がっていたとみられる。またその後も昭和25年8月10日に中央婦人会、27年2月6日に東中婦人会、同年3月25日に富原婦人会、29年4月4日に日の出婦人会、9月10日に島津婦人会が結成され(『上富良野町史』)、事務報告にあった市街地にも婦人会の結成がみられた。ただし中央婦人会はその後一時休会し、昭和30年4月1日再結成された。一方各地区の婦人会が出そろうと、今度はこれを統一する動きがでてきた。昭和32年7月1日には各地区の単位婦人会を統一して上富良野町連合婦人会が創立された。
農村の組織
このように上富良野の各地区で青年団、婦人会の活動が活発化する一方、農村地区では市街地とは一線を画した活動や組織の結成が模索されるようになった。特にその母体となったのが農業協同組合で、これをもとに各地区で農協青年部、農協婦人部が結成された。
昭和26年には東中農協青壮年連盟と上富良野農協青年部が結成され、28年には東中農協婦人部が、翌29年には上富良野農協婦人部がそれぞれ結成された。
一方昭和24年頃から各町内に農業青少年クラブ、後の4Hクラブが発足しはじめ、同年9月24日には東中で農友クラブ、25年5月には日新で農業研究クラブ、27年1月には島津で愛農クラブ、同年3月には東中で新生クラブ、28年1月には富原に富原クラブ、同年には東中にみどりクラブが結成された。
また29年12月には農業改良普及所の指導で「上富良野町青少年クラブ連絡協議会」が設立され、その後も昭和30年には島津に農青クラブ、32年には江花に江花クラブ、江幌に江幌クラブ、33年には東中に愛心クラブ、島津に興農クラブ、草分に農進クラブ、35年9月に東中にみずほクラブが結成された。
写真 上川管内青少年クラブ技術交換会(昭和36年)
※ 掲載省略
青少年対策の展開
昭和30年代に入っても青少年団体の活動は衰えず、たとえば昭和31年5月24日には日本ボーイスカウト上川第14団が結成され、上富良野にボーイスカウトの運動がおこった。その後昭和37年には日本ボーイスカウト上富良野第1団に改称し、ライオン、ワシ、ハト、クマ、フクロウの5班があった。
ところで、このように青少年団体を結成して活動の活発化をはかろうとする背景には、青少年の非行およびその低年齢化への危慎があり、それに対応するために昭和36年4月には「青少年問題協議会」が設置され、また38年7月8日には町が「青少年健全育成都市宣言」を行った。一方「全ての児童の福祉」を増進し、その健全な育成を図るため、昭和36年には全町の区に子供会が結成された。子供会は区と密接な連携を保って、小学生、中学生、高校生、勤労青少年を含む青少年全部を会員とするもので、青少年問題協議会とつながる組織である。具体的には、レクリエーションやキャンプ、ハイキングなどの野外活動や奉仕活動、清掃、募金運動や町民行事への協力、他との交歓活動など特別な行事から、普段の子供たちの遊びに関して、児童公園や広場で実技指導や教養指導をする日常的な活動を行い、子供10人に1人の割合でリーダーを決め、指導員などの大人と相談して活動計画を立てることになっていた。ちなみに昭和37年には、若葉子供会(34名)、青空子供会(32名)、やまびこ子供会(14名)、なかよし子供会(61名)、自衛隊地区子供会(80名)、三町内子供会(43名)、すずらん子供会(29名)、大空子供会(37名)、青竹子供会(18名)、日の丸子供会(55名)、若草子供会(37名)、七の五子供会(27名)、若芽子供会(22名)、さくら子供会(36名)、小鳩子供会(18名)、はるかぜ子供会(56名)、白樺子供会(110名)の17の子供会が誕生している(広報『かみふらの』第44号昭37・6)。また38年12月には子供会館も竣工し、校外における子供の学習と憩いの場を提供し、子供会や児童生徒のクラブ活動に利用された。一方37年12月16日には連合青年団と4Hクラブを合併し、青少年団体協議会が設立された。
写真 子供会による神社清掃(昭和37年)
※ 掲載省略
公民館の設置をめぐって
上富良野では、既に昭和23年8月に社会教育委員会が発足し、金子小二郎を会長として社会教育に取り組むための準備作業がなされていた(「昭和二十三年事務報告」『昭和二十四年議決報告』)が、24年の社会教育法の制定により、社会教育委員の定数や任期に関する条例が11月8日の議会で可決され、同法に基づく活動が開始された。またこれにともない公民館運営審議会も設置され、郷土における図書館、博物館、住民の集会所など多様な役割をもつ公民館の設立にむけた準備が始まった。同年3月30日の議会では、「上富良野村議会図書館」を設置して議会参考書や修養図書を設備し、議会に備えるとともに一般村民に公開し、公民館設置の気運を助長するといった提案もなされている(『昭和二四年村議会』)。
ところがこのような気運とはうらはらに、公民館の設置は容易には進まなかった。というのも、公民館を建設する土地の確保に問題を抱えていたからである。最初公民館を建設する場所として島津青年会館敷地が候補にあがり、これを買収するべく村と島津償還組合との間で交渉が行われたが、組合は手放すのを拒否し、このため土地の確保ができなくなった(『昭和二六年町議会』)。一方東中では昭和23年春、青年会館を診療所として使用することとなり、青年団の活動の場が失われたため、公民館建設の気運が高まり、住民自らの労力奉仕や資金調達などにより、25年に木造2階建て、約84坪の公民館を建設した(『東中開基八十年誌』、『町報かみふらの』第2号、昭33・7、『昭和二七年町議会』)。
このため早急に市街地の公民館を建設する動きが高まり、昭和26年8月24日の議会で公民館設置が可決され、11月22日に開館した。ただし土地問題は解決したわけではなく、建物は旧青年学校校舎を転用し、土地は「一応黙認の様な形で」島津償還組合から借用することとなったため、狭い建物の増改築もできず、町民は不便を強いられた。そこで33年には公民館建設促進期成会が結成され、新しい公民館の建設にむけての準備作業が進められたが、結局資金面の折り合いがつかず、建設への着手は難航した(『町報かみふらの』第2号、昭33・7)。
一方公民館の本館ができたことにより、東中の公民館も上富良野公民館東中分館として町に移管された(『東中開基八十年誌』)。また各地区の公民館分館の設置は、学校統合により進むことになる。
写真 旧上富良野町公民館(昭和26年)
写真 工事中の町公民館東中分館(昭和26年)
※ いずれも掲載省略
社会教育とさまざまな行事
公民館の建物の確保が難航したのに対して、社会教育自体は青年団、婦人会の活動により昭和25年あたりから盛んになっていった。ちなみに昭和26年の主な行事は、@視聴覚教育の一端として16ミリ映写機による巡回映画や青年団夜学会における視聴覚教育、A青年団の女子や婦人会による高速度編物講習会(受講者130名)や料理実習会(受講者70名)、B町制施行記念事業として、富良野沿線青年体育大会(富良野沿線6か町村が参加)や学童体育大会(町内小・中学校の児童生徒が参加)の開催、C青年団、学校教員によるレクリエーション講習会などで、各種講演会や講習、講座が開かれ、青年団、婦人会、一般町民が参加した(「昭和二十六年事務報告」『昭和二七年町議会』)。
昭和30年代になっても、建物に不備はあるにせよ公民館を中心とした社会教育はさらに推進された。町民の教養や文化を高める活動として青年学級や婦人学級、若妻学級や成人講座、各種講習会や講演会、討論会、展示会などが開催される一方、図書館としての機能を発揮し、読書指導や郷土資料の収集展示、視聴覚教材の利用奨励に取り組んだ。また新産業技術の導入や研究、研修会や広報活動を行い、新生活改善運動として衣食住の改善や貯蓄運動を指導した。さらに各種の体育大会や技術指導の講習会などを主催した。
具体的な行事としては、春季や秋季の移動公民館が実施され、全町の各地区を回り、町行政等の指導連絡、生活改善や新生活運動普及指導、巡回映画会などを行った。また町内青年体育大会や球技大会、サマーキャンプや弁論大会、自衛隊との親睦カルタ会などが企画され、婦人向けの料理講習会や民謡舞踊講習会、手芸教室が開催された。特に三十年後半に推進された青少年対策に呼応して、青少年向有料映画普及事業や子供の日の集い、子供会ソフトボール大会や七夕祭、クリスマス会など子供向けの事業も盛んに行われた。また町民全般にむけて町民体育デー、スケート大会、十勝岳登山会、町民ラジオ体操の会、総合文化祭、レコードコンサート、一般スキー技術検定講習会、町民すべろう会なども開催された(『昭和三十五年会議録』、『昭和37〜41年度事務報告』)。
写真 移動公民館(昭和32年)
※ 掲載省略
農業学園の設置
昭和四十年、道は農業後継者の確保とその資質向上のため北海道農業学園を設置した。
農業学園は農業を経営していくための高度な農業技術と経営知識、農業を愛し、農業に取り組む不屈の精神を養うための学習機会や訓練の場を提供することを目的に設置され、道内四〇市町村に設置の認可を与えて開園され、上富良野でも八月一日普通科課程の第一回開園入学式が挙行された。入園資格は中学校を卒業して農業に従事する一八歳未満の男女で、定員は各学年三〇名を原則としていた。ちなみに初年度の入園者は男子四二名、女子三四名であった。
教育期間は普通科の場合二カ年で、通信教育と年三〇日以上の冬季合宿教育を行い、学習時間数は五二〇時間、また授業料は徴収せず、冬季合宿教育や面接指導に必要な経費のみ学園生が負担した。
教育内容は、農業経営や農家生活の近代化に必要な基礎的実用的知識技術で、具体的には、男女必修の教養科目が「青年倫理や家庭社会、郷土史、農政時事、文章実務、計算実務、保健体育」、主として男子が履修する農業科目は「水稲、畑作物、飼料作物、野菜、果樹、乳牛、中小家畜、土壌肥料、作物保護、農業機械、農業経営、農業一般」、女子が必修の家庭科目は「家庭管理、食物、被服、保育、住まい」となっていた(『町報かみふらの』第七九号、昭40・9、同第八五号、昭41・2)。
写真 農業学園の始業式(昭和41年)
※ 掲載省略