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6章 戦後の上富良野 第6節 戦後の教育

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6、昭和30年代の教育

 

 学校生活の様子

 「もはや戦後ではない」とはいうものの、財政難により校舎整備がままならなかった上富良野では、昭和30年代に小、中学校の設備の充実に取り組んだ。各地区への電気の導入により、校内放送や始業電鈴の設備がなされ、水道施設の充実や電話の設置なども進んだ。またピアノを購入したり鼓笛隊を編成するなど音楽教育の充実がはかられる一方、鉄棒やつり縄、平均台、廻旋塔など児童が休憩時間に遊んだり、体育授業で使われる器具が整えられた。さらにグランドや校庭の整備も進み、スケートリンクが作られたり野球用のバックネットが設置される学校もあった。

 一方学校の行事としては、従来から行われていた運動会や学芸会、修学旅行のほかに、スキー大会や敬老会、江幌中学校の結核予防バレーボール大会などがあった。また町内児童生徒による体育大会や球技大会が毎年開催され、スポーツへの取り組みはこのころから盛んであった。中学生の部活動でも、東中中のバスケットボール部、江幌のバレーボール部、上富良野中の野球部や女子バレーボール部が上川管内や全道大会で好成績をあげた。また都会のように楽しい遊び場や施設に恵まれないへき地の子供たちに情操教育を授けようと、「へき地学校音楽の集い」や「水泳教室」が富良野や旭川で開催され、清富小学校や日新小学校、江花小学校の児童が出席した(『昭和37〜41年度事務報告』役場蔵)。

 

 教育研究と特殊教育のはじまり

 昭和30年代になっても上富良野の教育研究は、盛んに行われた。毎年のように上川管内の総合教育研究大会の会場を提供する一方、町内の教育研究会も盛んに開催された。特に単級複式教育に関して、昭和34年には江幌小学校が上川管内研究指定校並びに単複連盟研究推進指定校となり、研究の一翼を担うことになった。

 一方特殊教育に関しては、地理的条件や学校教育の実態を考慮し、昭和40年9月1日上富良野小学校に1学級が設置され、7名の児童が所属した。また翌41年5月1日には上富良野中学校にも1学級設置され、6名の生徒が所属した。

 

 完全給食の実施

 上富良野では昭和20年代に給食が開始されたものの、その経済負担が大きく、完全給食の開始には至らなかった。その後昭和36年の上富良野小学校第二線校舎の改築により調理室が竣工し、約400万円をかけて必要器材が調達され、昭和38年9月2日完全給食が実施された(『町報かみふらの』第58号、昭38・9)。その計画によると4月1日から翌年3月20日まで、給食費は1食20円、児童1人あたり月額400円を父兄が負担することになっていた。

 一方季節補食は既に昭和37年から実施されている学校もあり、39年には東中小学校と上富良野中学校で生乳とパン、江幌小学校でミルクとクラッカー、江花、里仁、清富の各小学校で温食とみそ汁などを内容とする補食が実施されていた。時期的には東中小と上富良野中が7月20日から翌年の3月20日まで、江幌小、江花小、里仁小が12月10日から翌年3月20日まで、清富小学校で40年1月20日から3月20日までと、主に冬季に実施された(『昭和37〜41年度事務報告』)。

 また当初上富良野では、全小学校での完全給食実現の目標を昭和40年としていたが、結局実施できなかった。しかし各学校とも季節補食の実施期間が長期化し、牛乳とパンを採用する学校が増え、東中小学校では生乳の殺菌処理の機械を設備するなど改善が徐々に行われた。

 また昭和41年には日新小学校と東中中学校でも補食が始まり、へき地四級の清富小学校では、クラッカーやインスタントミルク、パンを内容とするへき地学校給食が開始された(『昭和37〜41年度事務報告』)。

 

 写真 上富良野小学校の給食施設(昭和39年)

  ※ 掲載省略

 

 私学の充実

 昭和20年代に開設された女子の洋裁学校は、30年代にも生徒を集めた。たとえば千葉洋裁専門学院は、30年代に毎年100〜150名を超える生徒が在学している。また34年4月1日には、野口トミ子を学院長とする上富良野文化服装学院が錦町2丁目に新設され、当時の洋裁学校への入校希望者の多きがうかがえる。

 一方千葉洋裁専門学院は、昭和32年に創立五周年をむかえ、3月10日には生徒の作品発表のためのコスチュームショーを開催した。また33年には全生徒による冬季体育大会を開催したり、旭川市マルカツ百貨店で開催された編み物展示会に作品を出品するなど、活発な活動を行った。さらに昭和39〜42年にかけて、中富良野農協に千葉洋裁学院中富良野農協洋裁教室を開設し、昭和40年12月8日には第3回コスチュームショーを開催、その純益金を社会福祉事業に寄付した。また昭和38年には竹谷洋裁学院、翌39年9月には上富良野文化服装学院、昭和41年9月には千葉洋裁専門学院がそれぞれ校舎の新築や全面改築を行い、校舎整備にも取り組んだ。しかし昭和26年に設立された旭川中央洋裁学校東中分校は昭和39年3月31日をもって閉校し、私学の経営においても周辺地区の生徒減少と市街地の生徒増加の影響が現れた。

 ちなみに昭和30年代には女子の洋裁学校以外にも、昭和32年3月に中町2丁目で富山荘平を学院長とする上富良野珠算塾が開校している。

 

 写真 千葉洋裁学院のコスチュームショー(昭和32年)

  ※ 掲載省略

 

 保育所と幼稚園

昭和29年、上富良野で町立保育所に入所する市街地の児童数は100名程度であった。しかし昭和30年の自衛隊移駐や同36年の2つの食品工場の操業開始により、市街地の世帯数は700世帯から2,000世帯に増加し、昭和37年の町立保育所の入所児童数は、農繁期には270名近くにのぼった(『昭和37〜41年度事務報告』)。一方低所得者層や母子世帯も増加傾向にあり、このような状況のなか市街地の住民は常設保育所の設置を要望し、昭和36年以降、陳情を続けた(「上富良野町保育所建設陳情書」『昭和38〜39年請願陳情』)。昭和38年8月5日には専誠寺の社会福祉事業として高田育児園が季節保育所として創設されたが、翌39年2月28日には上富良野高田幼稚園として認可をうけた。そこで町は、町立保育所の聞信寺への委託をやめ、同年12月1日富町1丁目に上富良野町立中央保育所を新築、開所した。

同保育所は、敷地2,000坪、建物98坪強でほふく室、乳児室、保育室、遊戯室、給食室、医務室を有し、60名を収容した。

一方町立保育所が移転したため、聞信寺は昭和39年8月門上幼稚園設立委員会を結成し、保育事業による本堂破損の修復と新たな幼稚園園舎の建築を訴えた(「幼稚園々舎建設趣意書」)。この結果同年11月には新たな園舎が完成し、翌40年4月8日上富良野ふたば幼稚園が開園した。また高田幼稚園でも、41年12月20日には新しい園舎の建設が行われた。

 

 写真 町立保育所の園児たち(昭和36年)

  ※ 掲載省略