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6章 戦後の上富良野 第6節 戦後の教育

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4、年次計画の変更と校舎整備

 

 5カ年計画の変更

 昭和28年に作成された「上富良野町公立学校々舎整備五カ年計画」は、毎年のように変更されて存在意味がなくなり、31年に見直しがなされた。この結果作成されたのが「財政再建整備計画による五カ年計画」である。この計画では、既に施工された昭和31年度の東中中学校体育館新築工事、創成小学校校舎増築工事を含め、32年度には上富良野中学校体育館工事金償還(150万円)、33年度には上富良野中学校体育館工事(150万円)、東中小学校校舎増改築工事(350万円)の計500万円、34年度には上富良野中学校校舎増築工事825万円、上富良野小学校校舎増築工事306万7,000円の計1,131万7,000円、総計2,892万7,000円の校舎整備が行われることになっていた(『昭和三十、三十一年教育委員会会議録綴』)。

 このうち、昭和32年の上富良野中学校体育館工事金償還とは、29〜30年の上富良野中学校屋内体育館の建築が、第一期予定工事を終えたものの予算上の問題から完成に至らなかったため、昭和30年9月29日上富良野中学校のPTAが町に対して建築資金300万円を醵出し、これを町が返済したことを指している(「陳情書」『昭和三十年度より請願書』役場蔵)。しかし「財政再建整備計画による五カ年計画」にもあるように、上富良野中学校の屋内体育館の仕上げ工事は、結局30年には行われず33年に計画された。

 

 写真 上富良野中学校体育館工事(昭和30年)

  ※ 掲載省略

 

 自衛隊誘致の影響

 ところが「財政再建整備計画による五カ年計画」は、上富良野をとりまく新たな状況の変化により、再び変更を余儀なくされることとなった。すなわち昭和30年の自衛隊の誘致により町の人口が4,000名余りも増加し、特に市街地で戸数が700戸から1,500戸に増え人口が倍増したため、上富良野小学校に在籍する児童が急激に増加したことである。同校では30年4月1日に19学級922名だった学校規模が、同年11月1日には21学級となり、31年4月1日には23学級1,155名となった。

 またその後も児童の増加は続き、34〜5年にかけて1,300名を突破した。そのため「五カ年計画」は根本から見直され、早急に上富良野小学校の校舎整備に取り組むこととなり、昭和33年に作成されたのが「教育施設整備計画」である。この計画では、33年度には東中小学校々舎増築工事、上富良野中学校体育館仕上工事・第二線校舎基礎補修工事、里仁小学校便所改修工事、創成・江幌地区教員住宅新築工事、江花・清富地区教員住宅改修工事、34年度には上富良野小学校々舎新築工事(耐火構造、2階建)、上富良野中学校第三線校舎新築(耐火構造)、上富良野小学校々長住宅新築、35年度には上富良野小学校体育館新築工事(鉄骨構造)、東中小学校危険校舎改築工事(屋内体育館、廊下)、上富良野中学校第一線校舎増築工事、旭野・清富地区住宅新築工事、日新地区住宅新改築工事、36年度には東中中学校第三線校舎増築工事、日新小学校々舎改築工事、上富良野高校々舎新築工事(第1期)、市街地区教員アパート新築工事、上富良野高校長住宅新築工事、上富良野中学校長住宅新築工事が行われ、37年度から次の工事に継続着手することになっていた(『町報かみふらの』第2号、昭33・7)。

 

 計画の実施状況

 では実際にこの計画は実現されたのだろうか。昭和33年度には東中小学校の第一線校舎2教室と玄関増築、上富良野中学校屋内体育館改築、里仁小学校便所改修工事、創成・江幌地区の教員住宅新築が行われたが、早くも実現不能な計画も出てきている。

 また上富良野小学校は、計画を変更して昭和34年度に第一線校舎管理棟と35年度施工予定だった体育館を新築し、35年度に第一線校舎の新築が行われたが、第二線校舎の完成は36年度にずれこんだ。一方教員住宅は、34年度には創成で、35年度には旭野で新築されたが、住宅不足の解決には程遠く、35年度には小学校30戸、中学校24戸、高校7戸の計61戸が不足していた(『昭和三六年会議録』役場蔵)。さらに35年度には、東中小学校でも屋内体育館などの危険校舎の改築が行われるはずであったが、結局竣工したのは昭和37年のことであり、上富良野高校の校舎新築にいたっては昭和30年代には結局実現しなかった。

 このような計画の変更は、財源の捻出ができないことに最大の原因があったが、計画の作成後に陳情書が出され、それに対応しなければならないことも影響していた。昭和33年11月には、里仁小学校の体育館増改修に関する請願書がだされ、36年の開校五〇周年までに完成するよう希望されていた(『昭和33〜35年請願書綴』役場蔵)。その後昭和35年3月23日には再び同じ内容の陳情がだされ、8月24日の臨時町議会で上富良野小学校を解体した古材料を建築資材として使用することを条件として採択された(『昭和33〜35年請願書綴』)。この結果、希望通り36年度に里仁小学校の体育館が改修されたが、このことに影響を受けたのが清富小学校であった。同校の体育館は、36年度に新築の予定であったが、里仁小学校の開校五〇周年事業を優先させるため、翌37年度に建築年度がずれ、しかも37年にも工事に着手できなかった。そのため38年度こそ体育館の新築を実現すべく、同年5月20日に請願書を提出したのである(「清富小学校体育館新築に関する請願書」『昭和38〜39年度請願陳情』役場蔵)。その結果、6月17日の町議会で採択され、ようやく新体育館(鉄骨造)の建設がなされた。

 

 上富良野中学校の校舎整備

 一方上富良野中学校でも、上富良野小学校と同じように自衛隊誘致の影響を受けた生徒増加があったが、それ以上に懸案となったのは、昭和33年の中学校学習指導要領の改訂により、従来の職業家庭科にかわって「技術家庭科」が設置され、理科や音楽、美術などの教科とともに実習、実験の場となる特別教室が必要となったことであった。「教育施設整備計画」では昭和34、35年度に校舎の新増築が予定されていたが、34年度の計画は頓挫した。

 そのため同年8月12日には「上富良野中学校特別教室建築促進に関する請願書」が出されたが、9月14日の臨時議会で保留の扱いとなった(『昭和33〜35年請願書綴』)。同校の校舎増築に関する請願が漸く採択されたのは、翌35年3月11日の議会で(『昭和33〜35年請願書綴』)、これによりとりあえず普通教室4教室や管理部門など計290坪が増築された。一方特別教室(第三線校舎)が増築されたのは、結局38年のことで、これにより上富良野中学校はひとまず校舎整備を完了した。ちなみに東中中学校でも37年に特別教室が工具室、宿直室などとともに設置された。

 

 学校統合案の浮上

 このように昭和30年代の教育施設の整備は、当初の計画を大きく変更するかたちで進んでいったが、この状況のなかで浮上してきたのは「学校統合」の問題であった。

 この間題が浮上してきた背景には、もちろん周辺地域の生徒・児童減少傾向に対して、自衛隊誘致による市街地の児童・生徒の増加がある。たとえば昭和38年の予測では、上富良野の各学校の学級数は、37年に10学級だった東中小学校が38年には9学級、41年には6学級になり、創成、江花、江幌、日新、清富、里仁などの小学校も38年以降軒並み学級数が1〜2学級は減るのに対し、上富良野小学校は38年に24学級なのが、さらに1学級増えて25学級とならざるを得ないとみられている。また中学校は各校とも減少傾向にあるが、それでも上富良野中学校は、38年度の18学級が41年度に16学級となり、東中6学級、江幌3学級、日新2学級に比べれば、はるかに大きな規模となる(『昭和38年度会議録』役場蔵)。したがって周辺の学校を市街地の学校へ統合し、教育費の削減を図ろうとする考え方が浮上し、上富良野では、30年代後半に、周辺校のどこと上富良野小学校、同中学校を統合するかを検討する動きがでてきた。この動きは、特に上富良野中学校の特別教室増築を決定する際に顕在化し、中学校の統廃合によって増築の促進を図ろうとする意見があった(『昭和三十四年以降教育委員会会議録』教育委員会蔵)。すなわち、各中学校に特別教室を増設する財政的な余裕がないことから、上富良野中学校の特別教室増設と抱き合わせで同校に町内の中学校を統合し、周辺地区の生徒たちにも教育の機会均等をはかろうという意図によるものであった。

 一方上富良野小学校では、昭和34〜36年にかけて第一線、第二線と校舎改築が行われ、第三線校舎の改築を残すのみとなったが、ただちに改築に着手するには財源的に無理なうえに(『昭和37年会議録』役場蔵)、あまりに急激な児童増加により児童数が校舎の収容能力をオーバーし、当初の増築計画が破綻したことから、第三線校舎の改築に着手できなくなった(『昭和43〜45年度請願陳情』役場蔵)。そこで校舎改築を行わずに上富良野小学校の児童を減らす案、すなわち周辺校の統合と上富良野小児童の分割による新設校の設置案が登場することになる。昭和39年6月の創成小学校校舎改築の請願をきっかけにおこった「上富良野西小学校」の新設案はこのようにして浮上したのである。